コラム:佐藤久理子 Paris, je t'aime - 第71回
2019年5月31日更新
第72回カンヌ映画祭総括 新世代の台頭、続くNetflix問題、性的描写で論争の作品も
第72回カンヌ国際映画祭が、5月25日に閉幕し、下馬評の高かったポン・ジュノがみごとパルムドールを受賞した。韓国映画のパルムドールは初めてであるとともに、今年は韓国映画100周年に当たるだけに、監督自身、喜びもひとしおだったようだ。受賞後、韓国のマスコミの取材で彼は、「カンヌで今回初めて賞を受けましたが、それがパルムドールで、あまりの陶酔に実感が沸きません」と語った。
あらためて振り返るなら、今年はフランス映画が多く、若手の活躍が目立った。コンペティションには6本が入選し、そのうち3本が賞に絡んだが、グランプリを受賞した「Atlantique」のマティ・ディオップと審査員賞作「Les Miserables」のラジ・リは、これが初長編だ。また脚本賞に輝いた「Portrait of Lady on Fire」のセリーヌ・シアマは、フランスで注目される若手監督だが、コンペは初参加。賞には絡まなかったが「Sybil」の女性監督ジュスティーヌ・トリエもシアマと同世代で、やはりコンペ初参加であり、新世代の台頭を感じさせた。
常連ではアルノー・デプレシャンとアブデラティフ・ケシシュが並んだが、論争を巻き起こして注目を浴びたのはケシシュだ。前作「Mektoub, My Love: Canto Uno」の続編となる新作「Mektoub, My Love: Intermezzo」は、およそ3時間半の長尺のなか、ほとんどビーチとナイトクラブのシーンだけで終わる。露出度の高い女の子たちが他愛のないおしゃべりをしながら日焼けをしたり、お立ち台で踊るボディをひたすら撮り続けるという“肉体描写”映画。その上トイレのシーンでは男女の激しい絡みのシーンがあるため、プレス試写ではうんざりした観客がどんどん途中退場していった。この監督にとって女性の魅力、あるいは女性への興味は肉体の性的なものにしかないのだというのがよくわかる。たとえば女性同士の恋愛を描いたシアマの作品とはエロティシズムの表現に対するアプローチが対極的、というのが興味深かった。
相変わらず状況の変わらないNetflix問題の一方で、今年は映画祭と同時期にフランスで劇場リリースをする作品が一段と増えた。カンヌで話題になればすぐに見たいと思うのが大衆の心理だろうし、メディアでも取り上げられるので、配給会社にとっては宣伝に手間を掛ける労力も省かれる。たしかに絶好のタイミングだろう。ちなみに今回オープニングを飾ったジム・ジャームッシュの「The Dead Don't Die(原題)」は、フランス全土で同日に封切られ、大衆とともにカンヌのオープニングを祝う形となった。
また、珍しくもテレビシリーズとして、ニコラス・ウィンディング・レフンがAmazonで制作した「Too Old To Die Young」のエピソード4と5が上映され、レフンがマスタークラスを開催した。こちらは日本も含めてAmazonのプラットホームで6月14日から配信開始なので、やはり宣伝効果は抜群。レフンがカンヌのお気に入りの監督であり、作品のクオリティが優れているということもあるが、Netflixに当てつけの意味を込めた、カンヌなりの対抗処置なのかもしれない。
さらに今年のカンヌで象徴的だったのは、ぎりぎり間に合ったクエンティン・タランティーノのコンペ追加だ。タランティーノといえばカンヌ、特に今年は「パルプ・フィクション」のパルムドールから25周年であり、なおかつ新作「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」はレオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、マーゴット・ロビーら、レッドカーペットを賑わせるスターが勢揃いとあって、カンヌとしては是が非でもエントリーさせたかったのだろう。多くの作品が、仕上がりが間に合わないことを理由に4月半ばの時点で断られるのに引き換え、彼のような限られた監督だけが、締め切りを延ばしてでもエントリーさせる(今回はケシシュも同様)特別待遇を受けることは、いかにもカンヌらしい側面と言える(当然、仕上がった作品をセレクション側が見ている時間はない)。世界一華やかで権威ある映画祭も、そのバリューを保つためにはさまざまな画策が必要なのだ、ということを感じさせる一幕だった。(佐藤久理子)
筆者紹介
佐藤久理子(さとう・くりこ)。パリ在住。編集者を経て、現在フリージャーナリスト。映画だけでなく、ファッション、アート等の分野でも筆を振るう。「CUT」「キネマ旬報」「ふらんす」などでその活躍を披露している。著書に「映画で歩くパリ」(スペースシャワーネットワーク)。
Twitter:@KurikoSato