コラム:編集長コラム 映画って何だ? - 第38回
2021年1月26日更新
カメラを一度も回さずに、長編映画は作れるか? 答は「イエス!」
「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」が間もなく公開されますが、これは、つい先頃亡くなったマラドーナのサッカー人生、とりわけ、1984年にイタリア・セリエAのナポリに移籍してからの7年間にスポットライトを当てたドキュメンタリーです。
500時間にも及ぶフッテージから選りすぐって編集したという映画本編は、マラドーナのファンならずとも垂涎の内容で、日本ではこれまで放映されたことがないものばかり。ナポリ時代のマラドーナのスーパープレイ、そしてリーグ優勝の栄光を勝ち取るまで。さらには、マフィアとの関係やコカイン常習による没落への軌跡。本編に使われている映像には、テレビ局のアーカイブが中心ですが、ホームビデオ由来のものも数多くあり、「よくぞこんなレアなものまで集めたもんだ」と感心するしかありません。
しかも、マラドーナ本人がナレーションを行っています。過去の映像にボイスオーバーする形で本人の声がかぶって映画が進んで行きます。
「知らなかった。こんなことあったんだ!」「うおお、何だこれ。凄いスルーパス!」ってな感じで口開きっぱなしで本編を見ていて数十分が経過した時、私は、あることに気づき、思わず声を上げてしまいました。
「この監督、カメラを一度も回してないよ」って。
この映画の監督は、過去に他人が撮影したフッテージをつなぎ合わせることで、一本の長編映画を作っているのです。関係者へのインタビューは後から収録していますが、人物の映像(トーキングヘッド)は映さずに、過去フッテージに音でかぶせるだけ。そんな独特で斬新な製作方法を選んだ監督は、アシフ・カパディアというインド系イギリス人です。
「こんな映画の作り方があるのか」と驚きました。ある種の「デスクトップムービー」ということでもある。このやり方なら、確かにカメラは必要ない。まあ、「アニメ作品はみんなそうだよ」って突っこみもあるでしょうが、実写でこの発想はないんじゃないかと。
一般的に、過去の人物や事件を描くドキュメンタリーは、現存している過去フッテージと、当時の様子を知る家族や関係者などに、映画化の際に取材して録画したインタビューのフッテージで構成されるのが普通です。例えば「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」なら、TBSが収録していた東大キャンパスでの三島由紀夫vs全共闘の討論会のフッテージに、全共闘のメンバーだった芥正彦らや小説家の平野啓一郎などの、最近の取材インタビュー映像が挿入されて構成されています。
私も、恐らく多くの人も、そういう作り方が当たり前だと思っている。映画監督だから、人物などの対象にカメラ向けて撮影するのが当たり前ですよねって。だけどカパディア監督のやり方なら、撮影をしなくても、もっと言えば撮影の知識など一切知らなくても、映画監督になることができるという理屈になります。こりゃ凄え。目からウロコです。
気になったので、カパディア監督の過去作も見てみることにしました。まずは「アイルトン・セナ 音速の彼方へ」。ネット配信で見ることができます。
やはり同じやり方です。映画が製作されたのが2010年、セナが亡くなった1994年より後に収録されたインタビュー音声も使われているようですが、映像は当時のものだけで、新たに撮り下ろされたフッテージは見あたりません。
日本人にとって興味深いのは、この映画にはフジテレビで放映されたフッテージがいくつも出てくること。
三宅アナ、今宮純さん(故人)、川井ちゃんによる、サーキットからのセナの訃報を伝える映像は、当時私もテレビで見ていましたが、よくぞこんなフッテージ(しかも日本語)をカパディア監督は見つけたもんだと。
「セナの映像は、YouTubeにいくらでもあるからね。全部タダで見ることができるしね」と、あるインタビューで監督が語っていました。なるほど、頭いい! リサーチとシナリオハンティングはYouTubeをフル活用。使う映像を絞り込んだら、権利処理に進む。これが、21世紀のドキュメンタリー監督の合理的な方法論です。
もう一本、アカデミー長編ドキュメンタリー賞を受賞した「AMY エイミー」も基本的には同じ構造です。全部が過去に撮影されたフッテージ。後から取材した関係者インタビューは、音声のみ活用。
しかし「AMY エイミー」では、歌詞をスクリーンに切り貼りしたり、スチル写真にズームしたりパンしたりという、単なる継ぎはぎではない演出も多用されています。
カパディア監督は、自身のドキュメンタリー製作の手法を「トゥルー・フィクション」と名付けています。「関係者にインタビューしたり、撮影したりすること、また、ナレーションをかぶせること、つまりドキュメンタリー製作者の経験が、映画の主人公から物語を遠ざけることがしばしばある。私は、(題材を)映画のように扱い、観客が自分の考えを形成できるように提示する方法を見つけたかったのです」と語っています。
ちゃんと理由があった。当たり前ですが。
確かに、後日収録のインタビュー映像を差し込むのをやめて、音声のみかぶせる処理にすれば、映画のトーン&マナーをキープすることができる。関係者インタビューって、大体がその人の自宅とか事務所など、ちょっと雑然とした雰囲気の場所で行われるし、着ている洋服なども一体感に欠けるので、ややもするとチープな印象を映画にもたらしてしまう。
監督によれば、「セナ 音速の彼方へ」「AMY エイミー」そして「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」は、自身による「トゥルー・フィクション3部作」なのでした。10代から20代にかけて世界的な名声を築き、その後夭折した(マラドーナは映画製作時には存命でしたが)、天才たちを描く3部作。
しかしカメラを回さないからと言って、短時間でサクッと映画が出来上がるというわけでは全然ありません。
「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」のエンドロールには、引用されているアーカイブフッテージの提供元のクレジットが延々と表示されます。500時間にもおよぶ過去フッテージを次々に見ていくのに2年以上を費やしたと監督は語っています。これなら、普通にカメラ回して映画撮った方が楽かも知れない。
カパディア監督は、実写映画の監督経験もちゃんとあります。デスクトップ専門の映画監督というわけではありません。また、IMDbを見ると、各作品には「Cinematographer(撮影監督)」としてクレジットされているスタッフもちゃんといます。
これら3作品は「カメラを回さない潔さ」「リサーチとデスクトップ作業で勝負する」という、ドキュメンタリー映画の新たなカテゴリーを提示する意欲作であることは間違いない。すでに「AMY エイミー」でオスカーも受賞しています。映画の可能性を拡張する製作スタイルだと感じました。
カパディア監督は、マイク・タイソンのドキュメンタリーを準備中という噂もあります。とても楽しみです。
筆者紹介
駒井尚文(こまいなおふみ)。1962年青森県生まれ。東京外国語大学ロシヤ語学科中退。映画宣伝マンを経て、97年にガイエ(旧デジタルプラス)を設立。以後映画関連のWebサイトを製作したり、映画情報を発信したりが生業となる。98年に映画.comを立ち上げ、後に法人化。現在まで編集長を務める。
Twitter:@komainaofumi