ノルウェイの森

劇場公開日:

解説

「青いパパイヤの香り」「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」のトラン・アン・ユン監督が、村上春樹の世界的ベストセラー小説を映画化。37歳のワタナベトオルは、ドイツ行きの機内でビートルズの「ノルウェイの森」を聴き、18年前の青春を思い出す。当時ワタナベは、親友キズキの恋人・直子に恋をしていたが、ある日突然、キズキは自殺してしまった。キズキを失った喪失感から逃れるように東京の大学に進学したワタナベは、ある日東京で直子に再会するが……。出演は松山ケンイチ、菊地凛子、水原希子。

2010年製作/133分/PG12/日本
配給:東宝
劇場公開日:2010年12月11日

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(C)2010「ノルウェイの森」村上春樹/アスミック・エース、フジテレビジョン

映画レビュー

5.02016年の夏、村上春樹ワールドに出会っています。そして、

2024年1月8日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

泣ける

2016年のな夏、村上春樹ワールドに出会っています。『ノルウェイの森』でデビューしました。

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ピエロの涙

4.0原作未読。雰囲気が好き。

2023年7月28日
スマートフォンから投稿

色々と起こる中ゆっくりと時が進む感じが良い

原作未読というのもあるかもしれないが正直何を伝えたいかも良く分からず「あ、これで終わりか…」という感じだった。
原作を読んだ方の良いレビューも多くあるので、買ったばかりの小説をこれから読み進めようと思う。

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ミサ

1.0政治の季節を否定し性の季節へ踏み出した原作の残念な映画化

2022年12月29日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

1) 原作の基底に流れる政治の季節への嫌悪感
日本文学は第二次大戦後、長らく政治の季節に突入する。60~70年代には安保反対の学生運動が盛り上がり、それを反映した作品が数多く書かれた。例えば、高橋和巳、例えば『されどわれらが日々』…。村上春樹が『風の音を聴け』でデビューしたのは、70年安保の余燼がようやく治まった79年のことである。注目されたのは、その政治性の欠如、徹底したノンポリぶりで、吉本隆明は「テーマの欠如自体がテーマ」と評していた。

村上がこうした政治の季節に大いなる違和感を抱いていたことは、82年の『羊をめぐる冒険』で登場人物が語る「搾取? そんなものは存在しない」のひと言に示されていたと思う。そして87年の『ノルウェイの森』は、彼の政治の季節への嫌悪を全面的に表明したものだったのである。

小説は68~70年の日本の学生生活を背景にしているが、主人公のワタナベは大学をバリケード封鎖した学生たちを、内心で「下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ」と罵倒したり、「1969年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽりと脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ」と、この時代への違和感を記す。
政治少年たちの愛読書が大江健三郎、ドストエフスキーだとしたら、ワタナベはフィッツジェラルドにアップダイク、寮の先輩・永沢はバルザック、コンラッド、ディッケンズ…よりによって政治的問題意識を排除した作家たち。そして、政治の季節の終焉を告げるように、性の季節とでもいうべきものを対置させるのである。

2) 政治の季節から性の季節へ
文学における性とは、それまでは政治的な性であり、反権力としての性だった。性的なものを隠そうとする権力を攻撃するための性、例えば「サド裁判」であり、『ボヴァリー夫人』であり、D・H・ローレンスであり、河出書房『人間の文学』全集だった。また愛とは堀辰雄のような理念であり、志賀直哉のような妄想であった。

しかし村上は本作で、ごく普通の学生の日常的な性愛を現実的に表現したのだった。そこでは従来、権力論や理念や妄想で語られていた男女の関係が、性や欲望、好き嫌いを中核とするものとして語り直されている。昔からポルノには事欠かなかったが、ここにあるのは読者が普通に行っていることをそのまま現実的に描写した純文学作品なのだ。
政治の季節を嫌悪し、政治的表現の一形態だった性愛を非政治的なものに置き換えた、「政治的なものに対する否定という政治的メッセージを含む小説」が本作だったと言えるのではないかw

死と性を大きな要素としたワタナベの非政治的青春は、「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛みは緑さんとは関係ないものなのよ」というレイコの言葉で一つの帰結を迎えるのである。

日常的・現実的な性という意味では本作は文学作品としては新しいものだったろう。その自覚があるからこそ、村上はここから文学的に再出発を果たしたのではないか。(その後の作品は未読なのであくまで推測ですw)
作品末尾の「僕は今どこにいるのだ? でもそこがどこなのか僕にはわからなかった」という唐突な表白は、政治の季節から自分を解放して性の季節に到達し、これからどのような表現をしていけばいいのかという文学的な当惑を表していた気がする。

3) サブカルチャーにおける性の先取りと本作の映画化の失敗
ところで映画や流行音楽といったサブカルチャーは一足早く、そうした現実の性的関係を描いていた。米国映画では1968年頃までに自主規制が無効化されたから、大胆な性的表現も当たり前のことだし、日本でも警察の猥褻罪関係の規制は徐々に緩んできていた。
性的表現では文学などより映画、音楽といったサブカルチャーのほうが先に進んでいたとするなら、87年時点で村上が文学表現において新しかったとしても、サブカルチャー的にはとくに斬新でも革新的でもなかったはずである。

表題のビートルズ楽曲だってセックス目的で女性についていったら、安物のノルウエー松材の内装を自慢された挙句、はぐらかされて苦笑いしている歌。つまりサブカルチャーは性的コミュニケーションを先取りし、それが日常化していた例証である。
とすると本作を映画化するにあたって性的表現を重視すると、ろくなことになりそうもない。むしろ政治的表現との対比から語りだすべきだった。それは誰にでもわかりそうな話なのだが、いかんせんこの映画はセックスを強調するかのように組み立てられた。

したがって構想の時点で失敗が決まっていたような話であるうえ、女性キャストが菊地に水原では如何ともしがたいだろう。しかも人物もストーリーも原作を単になぞっただけ…二重三重に失敗が決定されていた映画としか言いようがない。映像に素晴らしいものがあるだけに、何とも残念だ。
そういえば映画版『風の歌を聴け』も、日本の港のどんよりとした曇り空のシーンにビーチボーイズ『カリフォルニア・ガールズ』が流れる凄まじいものだったっけな。あのような愚挙を「政治性」と呼ぶのであるw

補足)
上記のレビューで「表題のビートルズ楽曲だってセックス目的で女性についていったら、安物のノルウエー松材の内装を自慢された挙句、はぐらかされて苦笑いしている歌」と書いたが、それと関連する本を最近読んだので、参考までにご紹介しておこう。

小関隆著『イギリス1960年代~ビートルズからサッチャーへ』には次のような記述がある。

「『ノーウェジアン・ウッド』を例にとれば、この曲が描くのは、1960年代に進展した性的モラルの変容を背景とした、どこか虚無的な男女の駆け引きである」

ビートルズ1963年のヒット曲「アイ・ウオント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」は何故、「手を握りしめたい」と歌ったのか。米国に比してイギリス社会はきわめて奥手だったから、ファンの少女たちに受け入れ可能なのはこの程度だったというのである。

しかし、この時期のイギリスは豊かな社会の到来と教会の権威・影響力の低下に伴い、文化革命が進展しつつあり、その一環として性的モラルも急速に変容していく。
ピルの普及により婚前・婚外セックスが広がり、公共放送BBCの教養番組では心理学者が「大切なのは純潔より愛だ」と講演した。国教会の偉い聖職者も「セックスは徹頭徹尾よきもの、神が与えたもの」と明言する時代であった。
『ノーウェジアン・ウッド』のような性的な駆け引きの歌が登場した背景には、このようなスインギング・ロンドンの時代における性的革命があったわけだ。

小関は「性に無知で、性行為に罪悪感を覚えていた若者たちが、性を語り、性の知識を獲得し、人生を充実させるものとして性行為を捉え直していったことは、たしかに革命と呼んでも過言ではない」と説明する。これは村上の小説のレビューに転用してもおかしくない。

『ノーウェジアン・ウッド』の発表は1965年、村上春樹『ノルウェイの森』の舞台となるのはそれからほぼ5年遅れの日本である。
当時、日本国内でビートルズの曲が性的な曲として理解されることはなかったに違いないが、流行歌のメインストリームである演歌は、ビートルズなどより遥かにキワドイ男女の関係を内容としていた。それは宇多田ヒカルの母親の代表曲を持ち出すまでもない。
したがってサブカルチャーが性的コミュニケーションを先取りしていた事実は動かないのだが、それをメインカルチャーである"純文学"化するには、さらに20年近くの時とバブル経済が必要だったのだろう。

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徒然草枕

3.5村上春樹と「喪失」

2022年7月11日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

ストーリーにいくら忠実でも感動に至らないのだと思います。
2010年。監督は「青いパパイヤの香り」のトラン・アン・ユン(ベトナム人)
村上春樹の「ノルウェーの森」は、
1000万部以上売れたそうです。
村上春樹の作品(エッセイを含む)の魅力は、引用にあると思います。
フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」やサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」
を知ったのは村上春樹の著作からです。
そしてその本を読み、ギャツビーはレッドフォードの映画を観た。
音楽もそう。本に出てくる音楽は探して聴いた。
jazzバー(昼はjazz喫茶)を20歳から30歳まで彼が経営してた話しは有名。
伝説のjazzバーと、言われている。
毎朝、ランチのコロッケを100個以上手作りしていた、キャベツの千切りも山ほど。
音楽・・・彼はjazzのみならずクラシックにも造詣が深く、オペラにも詳しい。
ギリシャやイタリアに転々と暮らしてた頃のエッセイでは、町のオペラハウスに
ふらっと入る記述が多かった。
彼の本には村上春樹の芸術への理解と造詣が深く投影されている。
そこを映像化するのは、まず不可能でしょう。

映画は、確かにこんな粗筋でした。
私は本を読んだ時、直子さんが、なんとも厄介な女性に思えました。
精神を病んだ直子は自分で自分をコントロールできない。
彼女の我儘を「もちろん!!」
と、即答して叶えるワタナベ。
病的なキズキや直子に較べてワタナベは健康すぎる肉体と精神を備えている。
しかし周囲の人間(カジュアリティーズ=犠牲者たち)は、死を選ぶのです。
村上の著作は死の影がいつも慣用句のようにつきまとう。

映画は美しい自然描写・・・緑が目に眩しく。
ワタナベが直子の死から受けたショックから立ち直るべく、彷徨う冬の海辺の岩場。
とても詩的で秀逸です。

この映画の収穫は松山ケンイチの美しさでした。
演技も、ワタナベの捉え方も良かったと思います。
彼の精神の強さ、それは同じくワタナベの強さで、
だからこの映画は観るべき映画になった。
そう思います。

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琥珀糖
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