ジョン・ハリントン : ウィキペディア(Wikipedia)

初代バリントン子爵ジョン・バリントン(、出生名ジョン・シュート()、1678年 – 1734年12月14日)は、イギリスの貴族、政治家。1715年より庶民院議員を務めたが、により1723年に庶民院から追放されたことで知られる。

生涯

ベンジャミン・シュート()とエリザベス・カリル(、ジョセフ・カリルの娘)の三男として、1678年に生まれた。1694年頃から1698年までユトレヒト大学で教育を受けたほか、1695年にインナー・テンプルに入学した。

1710年にの息子ジョンからとバークシャーの領地を継承、1711年に商人のフランシス・バリントン()からトフス()を継承した。継承の代償として1711年に姓をシュートからバリントンに改め、1716年に庶民院の議決を得てバリントン家の紋章を使用した。

非国教徒であり、1715年イギリス総選挙ではで非国教徒の支持を受けて当選した。議会では便宜的国教徒禁止法の廃止を主張、1722年イギリス総選挙でも再選した。1720年7月1日、ニューカッスルのバリントン男爵とアルドグラスのバリントン子爵(いずれもアイルランド貴族)に叙された。

しかし、バリントン子爵はに関与した廉で1723年2月に庶民院から追放された。1720年、ジョージ1世はハノーファー選帝侯としてハーブルク会社()に勅許を与え、その勅許状には宝くじ興行権も含まれていたが、ロンドンで宝くじを販売するにはイギリスでの勅許も必要だった。バリントン子爵は1720年8月にイギリスでの勅許状についてロバート・ウォルポール、タウンゼンド子爵、カートレット男爵ら政界の有力者に打診し、宝くじの計画が違法であるとして断られたが、ハーブルク会社がかまわず1722年12月4日にプレスリリースを出して、宝くじ売り場の場所を宣伝したため、庶民院はその1週間後に調査委員会を設立、委員会は1723年2月1日に報告を提出した。庶民院は14日に報告とバリントン子爵の処遇について審議し、バリントン子爵を追放する決定を下したのであった。

その後、バリントン子爵は1725年に『』という作品を出版した。1727年イギリス総選挙で再びベリック=アポン=ツイード選挙区から出馬して落選した後、1732年に審査法廃止を求める運動に参加、1734年イギリス総選挙でも再び出馬したが4票差で落選した。

1734年12月14日に死去、27日に埋葬された。長男ウィリアム・ワイルドマン・シュートが爵位を継承した。

家族

1713年6月23日、アン・デインズ(、1763年2月8日没、サー・ウィリアム・デインズの娘)と結婚、5男3女を儲けた。

  • ウィリアム・ワイルドマン・シュート(1717年 – 1793年) - 第2代バリントン子爵
  • (1764年没) - 陸軍軍人、子供あり
  • (1727年/1728年 – 1800年) - 法律家、生涯未婚
  • (1729年 – 1800年) - 海軍軍人、生涯未婚
  • (1734年 – 1826年) - 聖職者
  • サラ - 1746年6月6日、ロバート・プライス()と結婚
  • アン - トマス・クラージス(、1721年頃 – 1753年11月27日)と結婚。そのあと、サー・ロジャー・ギルバート()と再婚
  • メアリー - 生涯未婚

出典

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