モハメド・アリ : ウィキペディア(Wikipedia)

モハメド・アリ( 、1942年1月17日 - 2016年6月3日)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。ケンタッキー州ルイビル出身。アフリカ系アメリカ人だが、イングランドとアイルランドの血も引く。元WBA・WBC統一世界ヘビー級チャンピオン。

概要

イスラム教改宗前の本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア ( )。1964年にネーション・オブ・イスラムへの加入を機に、リングネームをカシアス・クレイからモハメド・アリに改めた(ムハマド・アリという日本語表記もありムハマド・アリ氏死去 メイウェザー氏、レブロン、タイソン氏ら悼む伝説の猪木VSアリ戦に決着はない 40年の節目に「世界格闘技の日」)。

1960年ローマオリンピックボクシングライトヘビー級で金メダルを獲得。その後プロに転向し、1964年にはソニー・リストンを倒して世界ヘビー級王座を獲得した。ジョージ・フォアマンとザイールで対戦し、8Rでの一発大逆転を演じたタイトルマッチや、ジョー・フレージャーとの死闘など、ボクシング史上に残る数々な名勝負を行っている。最終的には、通算3度のチャンピオン奪取成功と19度の防衛に輝いた。

マルコム・Xと出会いその思想に共鳴。イスラム教にも改宗。ベトナム戦争への徴兵を拒否したことにより米国政府と長期にわたって争ったが、最終的には無罪を勝ち取ったことでも知られる(#リング外での闘い)。その発言と行動は当時の米国政府や保守派との深刻な対立をもたらし、世界タイトル剥奪や長期の試合禁止など様々な圧力が加えられた。

引退から3年が経った42歳のとき、現役時代に受けた頭部へのダメージが原因とされるパーキンソン病と診断され闘病生活を送っており、2016年6月3日に74歳で死去した。死因は敗血症ショックアリさん死因、敗血症ショック - asahi.comモハメド・アリ氏死去 死因は敗血症と遺族明かす 2016年06月6日 - bbc.com。

総合格闘家のケビン・ケーシーは義理の息子アリ氏の娘婿ケビンがUFC大会で悲しみのドロー 日刊スポーツ 2016年6月6日。

ボクシングスタイル

蝶のように舞い、蜂のように刺す (Float like a butterfly, sting like a bee)
鈍重な大男の力任せな殴り合いだったヘビー級ボクシングに、アリは蝶のように華麗なフットワークと、蜂のように鋭い左ジャブを活用するアウトボクシングを持ち込んだ。この著名なフレーズは、アリのトレーナーのドゥルー・バンディーニ・ブラウンによるもので、試合前によく肩を組んで「蝶のように舞い、蜂のように刺す!」と一緒に叫ぶパフォーマンスを見せていた。ノートン戦の敗北後に、ノートンのファンから「蝶は羽を失い、蜂は針を失った」という投書が届き、これを気に入ったアリはジムの壁にこれをテープで貼りつけて毎日眺め、「羽」と「針」を取り戻す決意を新たにしていた。
ヘビー級史上最速の一人
リングを縦横無尽に動き回れる体のこなしだけでなく、ジャブに右ストレートでカウンターを合わせる離れ業をやってのけるパンチのスピードも持っていた。マイク・タイソンが出現した現代においてもなお、ヘビー級史上最速と評価された。
シュガー・レイ・ロビンソンの影響
シュガー・レイ・ロビンソンを尊敬しており実際に影響をうけたと指摘する声も存在した。レオン・スピンクスとの再戦を前に「俺は三度ヘビー級チャンピオンを獲得する最初の男になる。ヘビー級のシュガー・レイ・ロビンソンになるんだ」と語っている。後にはシュガー・レイ・レナードを育てた名トレーナー、アンジェロ・ダンディーと常にコンビを組んでいた。
プロボクサーの娘
娘のレイラ・アリはプロボクサーとして活躍した。WBC女子スーパーミドル級の初代チャンピオン。ジョー・フレージャーの娘であるジャッキー・フレージャー・ライドと2001年6月に対戦した。
トラッシュトーク
アリは、注目を集めるための自己宣伝が非常に派手で巧みだった。「俺が最強だ」「俺が最も偉大だ」と公言し、わざと物議をかもす言動をし、試合の相手をからかった詩を発表し、KOラウンド数を予告してリングにあがった。この態度はむろん顰蹙を買い、徴兵拒否やムスリムとの関係もあいまって、非常に多数のアンチを生み出した。
本人はこの言動の理由を「むろん、厚顔な大ぼら吹きが好きな者はいない。しかしこう言えば、みんなは俺の試合を見にくるし、プロモーター達には、俺の試合の企画が、金になることが判るんだ。野次や怒号の中をリングにあがるのは、いい気分だ。最後は、俺の予告どおりになるんだからね」としている。

来歴

幼年期

1942年1月17日にアメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルのルイビル総合病院で、父カシアスと母オデッサの間に、カシアス・マーセラス・クレイとして生まれた。父親と同じ名前であるため、ジュニアが名前の最後についていた。彼は小学生の頃、父親から誕生日にプレゼントにもらった自転車を宝物にしており、それに乗ってよく近所にポップコーンとアイスクリームをもらいに行っていた。ところが、ある日、誰かに自転車を盗まれ、警察に行った際に対応した警官がボクシングジムのトレーナーもしており、彼に犯人に鉄拳制裁を加えるという意味でボクシングを勧め、その警官のボクシングジムに入った。これが、モハメド・アリがボクシングを始めたきっかけになった。

アマチュア時代

ジムに入門後、アリは8週間でアマチュアボクサーとしてデビューした。対戦相手は、アリ同様にデビューしたてのロニー・オキーフだった。試合は3分3Rで行われ、スプリットデシジョンで判定勝ちした。アリが通っていたジムには、後にWBA 世界ヘビー級王者になるジミー・エリスも通っており、アリはアマチュア時代にエリスと2度対戦し、1勝1敗の戦績を残した。この間に、アリはヴァージニア大通り小学校とデゥヴァル中学校を卒業。セントラル高校に進学している。

その後、ケンタッキー州ゴールデングローブで6度優勝し、1959年には全米ゴールデングローブのミドル級で2年連続優勝した。さらに、AAU ボクシング競技のライトヘビー級でも1959年から2年連続優勝を果たした。

1960年9月に開催されたローマオリンピックボクシング競技(ライトヘビー級)に出場。前年度ヨーロッパチャンピオンのポーランドのズビグニェフ・ピトロシュコスキを判定で破って、金メダルを獲得する。しかし帰国後、オリンピックのインタビューにおけるアメリカの体制寄りの発言を批判され、金メダルを自ら川に投げ捨てる事件を起こす。当時のアメリカの体制とは、つまり白人側を意味したからである。このエピソードは1975年に出版した自伝の中で書かれたものであるが、アリの友人数人がこのエピソードを否定しており、後に出版された伝記でも、エピソードは創作されたもので、実際にはメダルは単にアリが紛失したのだとの説も存在する。

プロ転向と改名

1960年10月29日にプロデビュー。タニー・ハンセイカーと対戦し、6R判定勝ちを収めて、プロデビュー戦を勝利で飾る。また、プロ転向直後にネーション・オブ・イスラムの信徒であると公表し、リングネームを現在の本名である、ムスリム(イスラム教徒)名モハメド・アリ(ムハンマド・アリー)に改めた。この名前は、預言者ムハンマドと指導者(イマーム)アリーに由来する。なお、1975年にはイスラム教スンナ派に改宗した。

1962年11月15日に元世界ライトヘビー級王者のアーチー・ムーアと対戦。試合前に、控え室の黒板に「ムーアを4ラウンドにKOする」という予言を書いてリングに向かい、その予言の通り4ラウンド目に3度ダウンを奪ってKO勝ちした。

1963年3月13日に、元世界ライトヘビー級王座挑戦者のダグ・ジョーンズと対戦。アリが10R判定で勝利。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤー(年間最高試合賞)に選出されたが、アリは試合前にジョーンズを6RでKOすると公言していたため、試合後に新聞からバッシングを浴びた。

1964年2月25日、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンに挑戦。当時史上最強のハードパンチャーと評価されたリストンに対しアリは絶対不利と言われ、賭け率は7対1でリストンが優位だった。しかしアリは臆せず「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と公言。試合は一方的なものとなり、6R終了時にTKO勝ちとなった。アリは試合終了後のインタビューで「I must be 'The Greatest'!」と興奮冷めやらぬ様子で叫んだ。試合後アリは正式に本名をカシアス・クレイからモハメド・アリへと改名した『ボクシングヘビー級最強伝説 ◎世界を制覇した男たち』ベースボール・マガジン社、2009年、39ページ。『スポーツ20世紀8 カリスマの系譜 スーパースター最強列伝』ベースボール・マガジン社、2001年、32ページ。。

リング外での闘い

1960年に勃発し、のちにアメリカが本格参戦したベトナム戦争への徴兵を拒否したことから、彼は無敗のままWBAWBC統一世界ヘビー級王座を剥奪され、3年7か月間ブランクを作ったが、復帰後、実力で王座奪還を果たした。また露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返した。その後公民権運動などの貢献が称えられ、ドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞。

キンシャサの奇跡

王座剥奪後の1971年3月8日、ジョー・フレージャーに挑戦する。初めての敗北を喫したが、3年後の1974年10月30日、フレージャーに代わり新王者となっていたジョージ・フォアマンを八回KO勝ちで破り、王座に返り咲いた。

この挑戦試合はアフリカのザイール(現・コンゴ民主共和国)で行われ、"Rumble in the jungle"というタイトルがつけられていた。当時、一般には全盛を過ぎたと見られていたアリが史上最高のハードパンチャーと目されたフォアマンを破ったため、「キンシャサの奇跡」とも呼ばれる。

この試合でアリは、ロープにもたれながら相手のパンチを腕でブロックし、自分では打ち返さずに、防戦一方になっていたが、一見劣勢に見えながらも、フォアマンの体力を消耗させて、最後の一発で逆転するというクレバーな作戦をとり、見事な勝利を収めた。アリはこの戦法を"rope a dope"と名づけた。

ただし、以降の防衛戦でこの戦法を多用する一方、対戦相手のパンチを被弾することも増加していったため、後年のパーキンソン病の遠因ではないかとする説が上がった。

引退後、病との闘い

引退後にパーキンソン病にかかり、長い闘病生活に入った。公の場に出る機会は大きく減ったが、難病の中でも社会に対してメッセージを発し続けた。

1990年に湾岸危機に際し、イラク大統領との直接対話のため、病をおしてバグダードに赴き、アメリカ人の人質解放に成功する。解放された人のうち6人が、早く帰れる飛行機には乗らず、アリと同じ飛行機に乗って帰国したトマス・ハウザー「モハメド・アリ(下)」岩波現代文庫377頁。

1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火。この開会式では聖火台の点火者は当日まで秘密にされていたが、女子水泳選手のジャネット・エバンスが点火台まで聖火のトーチを運び上げた際、アリは彼女からトーチを受け取り、病気のため震える手で点火用のトーチに火を点けた(点火用トーチに着火するとそのトーチは上昇し、上にある聖火台に飛び込んで点火される仕掛けになっていた)。この時、自ら川に投げ捨てたローマオリンピックの金メダルが再授与された。

2003年のMLBオールスターゲームで始球式を務めた。

2005年11月9日、アメリカ合衆国のホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。

2009年、アイルランド クレア県エニスの名誉市民に選出され、9月1日に記念式典が行われたモハメド・アリ、曾祖父の故郷アイルランドで名誉市民に AFPBB News 2009年9月2日閲覧。

2012年ロンドンオリンピックの開会式に参加、オリンピック旗掲揚の場面で姿を現した。

2016年6月3日死去元世界ヘビー級チャンピオン モハメド・アリ氏 死去 NHKニュース 2016年6月4日閲覧。74歳没。死因は敗血症ショック。

Vs.アントニオ猪木

1972年に初来日。この年の4月1日に東京・日本武道館でマック・フォスターと対戦し、15回判定勝ちを収めた。

1976年の来日では6月26日に日本武道館でプロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を行う。特別ルールで戦い、3分15回を戦って時間切れ引き分け(詳細はアントニオ猪木対モハメド・アリ)に終わる。アリのテーマソングである「炎のファイター」(通称「アリ・ボマイエ(ボンバイエ)」、作曲: マイケル・マッサー)は、76年に格闘技世界一決定戦を戦った猪木に記念品として寄贈されたということになっており、「イノキ・ボンバイエ」として歌われている。この歌は、翌年公開の映画『』のエンディング・テーマ「I Always Knew I Had It In Me」(作詞: ジェリー・ゴフィン)としてジョージ・ベンソンが全く別アレンジのバラードとなって流れる。ちなみにオープニング・タイトルの「The Greatest Love of All」は後にホイットニー・ヒューストンがカバーして大ヒットとなった。

1998年の来日の際には4月4日に東京ドームで挙行されたアントニオ猪木のプロレスラー現役引退試合のスペシャルゲストとしてリングに上がり、猪木を労った。

ベトナム戦争

1966年3月、アメリカ軍はベトナムとの戦いを本格化させていた。軍は徴兵の基準を大幅に下げ始め、より多くの兵隊を召集した。アリがこの情報を聞いたのは報道陣に囲まれているときだった。そして「俺はあいつらベトコンたちに何の恨みもないんだよ」という、とっさに返した答えによって、彼は何年も続く、アメリカに変化をもたらす革命を引き起こした。有名なアスリートが公然とベトナム戦争を非難することは、当時は冒涜に値した。彼がベトコンに対する無関心を公表したとき、国民のベトナム戦争に対する支持はピークを迎えていた。調査会社ギャラップによると1966年の最初の3カ月で、戦争に対する支持率は50%を超えていた。アリは、アメリカの黒人イスラム組織「ネイション・オブ・イスラム」への忠誠、そしてその一員であるという理由から兵役を拒否し、自身が良心的兵役拒否者だと述べた。

イスラム教に改宗し、カシアス・クレイという名前を捨てたアリは、すでに議論を巻き起こしていた。加えて徴兵拒否という行為によってアリは、瞬く間にアメリカで最も嫌われている有名人へと仕立てられた。アリほどの著名な人物で、他に徴兵を拒否したものは誰一人いなかった。アリの一見ふざけたような戦争反対の姿勢は、国民、政府、そしてボクシング界から嘲笑された。デイブ・ザイリンが著した『アメリカ民衆のスポーツ史』によると、彼にモハメド・アリの名前を与えたネイション・オブ・イスラムは、攻撃的な抵抗を繰り返す彼との関与を否定した。黒人初のメジャーリーガーであり、現役中、引退後も活動家であったジャッキー・ロビンソンは、黒人の兵役軍人を失望させたとして、アリを批判した。そして大多数の黒人兵士たちもロビンソンの意見に賛成した。

以降4年にわたって、アリはリングではなく法廷で自分の信念のために戦い続けた。そして1967年、徴兵を回避した罪で有罪判決を受けた後、州のボクシング・ライセンスを剥奪された。プロアスリートの全盛期である25〜27歳の間、アリはつまはじきにされ、彼のボクシング・キャリアは事実上の終わりを迎えた。

白人上流階級のために貧しい黒人アメリカ人が戦争に行かされている状況にすぎなかった。「金持ちの息子は大学に行き、貧乏人の息子は戦争に行く。そんなシステムを政府が作っている」と、彼は言った。アリを擁護した人はみな、身の危険を感じることになった。スポーツジャーナリストのジェリー・アイゼンバーグは、兵役拒否をしたばかりのアリの話を聞こうとしたところ、爆破予告や苦情の手紙を大量に受け取ったという。その一方で、メディアの大多数は悪意のある報道を繰り返した。

転換

しかし、反戦派のアリの孤独はそう長くは続かなかった。裁判が続いていた中でも、アリは反戦的な発言を止めなかった。アリの発言は、1960年代の公民権運動と同じく、構造的な階級差別と人種差別を非難するという主張に基づいていた。アリの「俺は何の恨みもない」発言の直後、ベトナム戦争を支持する声は下火になった。そのセリフが報道陣に伝わってから1カ月後には、戦争支持率が50%を初めて下回った。アリが兵役拒否したことで投獄された1967年6月の2カ月後、戦争を支持するアメリカ人はたった27%になっていた。これはリンドン・ジョンソン政権下で最も低い数字だった。1967年の夏頃には、多くの、特に黒人のアメリカ人がアリの味方となった。公民権運動の前進、そして戦争の支持率の低下へと導いた。

アリは上訴していた1968年ごろ、大きな経済的負債を抱えていた。そのため、ボクシングをしていたら稼げていたであろう何百万ドルの代わりに、お金を稼ぐため大学のキャンパスで何百もの講演をはじめた。

何年も続いた上訴の後、連邦最高裁は1971年6月、アリの有罪判決を破棄した。その頃には、州が彼のボクシングライセンスを回復させる手続きを始めていた。彼の戦争に対する見解が、アメリカ全体の戦争に対する見解となり、人々は、自分たちの英雄がボクシングに復帰する準備を整えた。そして3年半後、アリはリングに戻った。1970年10月、アリはアトランタでジェリー・クゥオーリーを倒した。

やがてアメリカ中に、アリがキャリアを犠牲にしてまで貫いた信念と、彼への支持の輪が広がった。以来、これほどの社会的インパクトを残したアスリートはいない。アリが「ベトコンには恨みがない」と言ってから50年後、プロアスリートたちは社会問題について立派に意見を述べるようになった。自らの選手生命を賭けたアリはアメリカに国の歴史上最も多くの犠牲者が出た戦争に関わる、階級問題と人種問題に抗議する「声」をもたらした。

戦績

アリ、フレージャー、フォアマンはいずれもオリンピックの金メダリスト(アリはライトヘビー級、フレージャーとフォアマンはヘビー級の金メダリスト)であり、オリンピックチャンピオンがプロでも活躍するという流れがこの当時続いていた。アリと同様、ライトヘビー級で金メダルを獲得したスピンクスがアリに挑戦し、番狂わせで王座を獲得したが、アリは再戦で王座に返り咲き、史上初めて、3度王座を獲得したヘビー級ボクサーとなった。

1960年ローマオリンピックで金メダルを獲得。同年10月29日にプロデビュー。

1962年12月15日、老雄アーチー・ムーアに4回TKO勝ち。

1964年2月25日、ソニー・リストンに7回TKO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(2度目)。

1965年5月25日、初防衛戦でリストンとのリターンマッチに臨み、初回の2分12秒で返り討ちにした。

1965年11月22日、2度目の防衛戦でかつての名王者フロイド・パターソンの挑戦を受け、12回TKO勝ち。当時アリはネーション・オブ・イスラム入信を公表しアメリカ社会を激しく批判していた「白人の意のままにならない黒人」だった。パターソンはそれを止めるベビーフェイスとして担ぎ出された。彼もこの報道攻勢に乗せられる形で「タイトルをアメリカに戻す」と発言。それを聞いたアリは失望し、憧れでもあった彼に対して「アンクルトム」と罵り、試合中もレフェリーが止めるまで決定的な強打を打たずパターソンを痛めつけ続けた。

1966年3月29日、3度目の防衛戦でカナダの強豪ジョージ・シュバロと対戦。先の試合で見せた圧倒的な強さから前評判ではアリの圧倒的有利の予想であった。しかしシュバロの徹底したインファイトと執拗なボディ攻撃に苦しんだが、要所で有効打をヒットさせて15回判定勝ち。アリにとってみれば初の大苦戦ともいえる試合であった。

1966年5月21日、4度目の防衛戦でヘンリー・クーパーと対戦。クーパーは王者になる前のアリからノックダウンを奪うほどの実力者であった。試合はお互いの実力が拮抗したハイレベルな打撃戦となったが、クーパーが6回終了後に左瞼からの大出血のためドクターストップで辛くも勝利した。

1966年8月6日、5度目の防衛戦でブライアン・ロンドンに3回KO勝ち。勝負を決めたラッシュはカメラが捕らえきれないほどの高速でありながら、全てがクリーンヒットするという驚異的なものだった。

1966年9月10日、6度目の防衛戦でドイツのカール・ミルデンバーガーの挑戦を受ける。アリは終始パワフルな攻撃を見せるが、ミルデンバーガーは打たれても打たれても強靭な精神力で耐え続けアリが休むと怒涛の反撃を見せる。しかしワンサイドで打たれまくったミルデンバーガーの危険を察したレフェリーが12回に遂にストップを宣告するという壮絶な試合となった。

1967年2月6日、WBA世界ヘビー級王者アーニー・テレルと対戦。試合前アーニーはわざとアリの旧名であるカシアス・クレイと呼んで挑発し、これに怒ったアリは試合を完全にコントロールしたどころかわざと決定打を打たず「俺の名前を言ってみろ!」と叫び続けて完全に打ちのめし判定勝利した。試合後アリは「やつは早く楽になりたかったろうな。奴隷の名前で俺を呼んだ罰だ(当時アリが入信していたネーション・オブ・イスラムではほとんどのアフリカ系アメリカ人が持つ名前を、奴隷主に付けられた名として否定的に見る面がある)」

1967年3月22日、9度目の防衛戦でゾラ・フォーリーを7回TKOで沈めた。この年良心的兵役拒否のため、禁固5年と罰金1万ドルを科せられ(1971年7月に合衆国最高裁で無罪となった)デイビッド・レムニック 『モハメド・アリ―その闘いのすべて』 佐々木純子訳、阪急コミュニケーションズ、2001年9月、WBA世界ヘビー級王座も剥奪された。ボクサーライセンスも剥奪され、3年7か月間のブランクを作った。

1969年3月11日、WBC世界ヘビー級王座を剥奪された。

1970年10月26日、世界ヘビー級1位、ジェリー・クォーリーと3年ぶりの試合を行い、3回TKO勝ちして再起を果たした。

1970年12月7日、ジョー・フレージャーの持つ世界ヘビー級タイトルへ挑戦する前の前哨戦で、フレージャーを相手に健闘したオスカー・ボナベナと対戦する。試合前は楽観視されていたが、大苦戦の末に最終回にボナベナから3度のダウンを奪って勝利した。

1971年3月8日、ジョー・フレージャーの持つWBA・WBC統一世界ヘビー級王座に挑戦するが、15回に左フックでダウンを奪われるなどして判定負け。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(3度目)。

1971年7月26日、NABF北米ヘビー級王座決定戦でジミー・エリスを12回TKO勝ちで北米ヘビー級チャンピオンとなる。

1972年4月1日、東京・日本武道館でマック・フォスターとのノンタイトル15回戦を行う。15回判定勝ち。

1973年3月31日、ケン・ノートンに判定負け、生涯2度目の敗北。さらに試合後、顎を骨折していたことが分かる。

1973年9月10日、ケン・ノートンに判定勝ちし、雪辱。

1974年1月28日、前王者ジョー・フレージャーと3年越しの再戦を行い、12回判定勝ち。雪辱を果たすとともに王者ジョージ・フォアマンへの挑戦権を得る。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(4度目)。

1974年10月30日、ジョージ・フォアマンに8回KO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得(キンシャサの奇跡)。その後、10度防衛。

1975年3月24日、無名のチャック・ウェプナーと初防衛戦を行い、15回KO勝ちするが、ダウン(実はウェプナーがアリの足を踏んだため)を喫するなど、ウェプナーが善戦する。この試合を見たシルヴェスター・スタローンは、映画「ロッキー」のストーリーを思い付いた。

1975年10月1日、フィリピンのアラネタ・コロシアムで行われた4度目の防衛戦でジョー・フレージャーと対戦し、14回TKO勝利を収めた。終生のライバルとなったフレージャーとは3度対戦して、2勝1敗であった。興行名を "The Thrilla in Manila" としたこの対戦は両者死力を尽くして形勢が何度も逆転した名試合であり、この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(5度目)。

1976年6月26日、武道館で猪木戦を行う。結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け。

1978年2月15日、レオン・スピンクスにニューヨークのヒルトンスポーツパビリオンでの試合で判定負けして王座を失った。この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(6度目)。この後、スピンクスはWBCから王座を剥奪され、WBA王座のみとなった。WBC世界ヘビー級王座には、ケン・ノートンが認定された。

1978年9月15日、レオン・スピンクスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級王座を奪回(3度目の返り咲き・この後王座返上)。

1980年10月2日、カムバックし、かつてスパーリング・パートナーだったラリー・ホームズのWBC世界ヘビー級王座に挑戦するが、11ラウンドTKOで敗れ、奪取ならず。

1981年12月11日、トレバー・バービックに判定負けし、遂に引退。

通算成績は56勝5敗で、このうち37勝がノックアウト勝ちだったモハメド・アリ氏 死去 NHKニュース(2016年6月4日)

語録

獲得タイトル

アマチュアボクシング

  • ケンタッキー州ゴールデングローブ 優勝
  • 全米ゴールデングローブ ミドル級 優勝
  • AAUボクシング競技 ライトヘビー級 優勝
  • ローマオリンピックボクシング ライトヘビー級 金メダル

プロボクシング

  • NABF北米ヘビー級王座
  • WBA世界ヘビー級王座
  • WBC世界ヘビー級王座

対戦記録

|- | style="text-align:center;" colspan=10|56勝 (37KO, 19判定), 5敗 (4判定, 1KO) |- style="text-align:center; background:#e3e3e3;" | style="border-style:none none solid solid; "| | style="border-style:none none solid solid; "|結果 | style="border-style:none none solid solid; "|勝敗 | style="border-style:none none solid solid; "|相手 | style="border-style:none none solid solid; "|タイプ | style="border-style:none none solid solid; "|Rd., Time | style="border-style:none none solid solid; "|日付 | style="border-style:none none solid solid; "| | style="border-style:none none solid solid; "|開催地 | style="border-style:none none solid solid; "|メモ |- style="text-align:center;" |61 | 負 | 56–5 |align=left|Canada トレバー・バービック | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |60 | 負 | 56–4 |align=left|USA ラリー・ホームズ | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |59 | 勝 | 56–3 |align=left|USA レオン・スピンクス | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |58 | 負 | 55–3 |align=left|USA レオン・スピンクス | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |57 | 勝 | 55–2 |align=left|USA Earnie Shavers | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |56 | 勝 | 54–2 |align=left|Uruguay Alfredo Evangelista | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |55 | 勝 | 53–2 |align=left|USA ケン・ノートン | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |54 | 勝 | 52–2 |align=left|UK Richard Dunn | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |53 | 勝 | 51–2 |align=left|USA Jimmy Young | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |52 | 勝 | 50–2 |align=left|Belgium Jean-Pierre Coopman | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |51 | 勝 | 49–2 |align=left|USA ジョー・フレージャー | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |50 | 勝 | 48–2 |align=left|UK Joe Bugner | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |49 | 勝 | 47–2 |align=left|USA Ron Lyle | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |48 | 勝 | 46–2 |align=left|USA チャック・ウェプナー | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |47 | 勝 | 45–2 |align=left|USA ジョージ・フォアマン | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |46 | 勝 | 44–2 |align=left|USA ジョー・フレージャー | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |45 | 勝 | 43–2 |align=left|Netherlands Rudie Lubbers | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |44 | 勝 | 42–2 |align=left|USA ケン・ノートン | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |43 | 負 | 41–2 |align=left|USA ケン・ノートン | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |42 | 勝 | 41–1 |align=left|UK Joe Bugner | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |41 | 勝 | 40–1 |align=left|USA ボブ・フォスター | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |40 | 勝 | 39–1 |align=left|USA フロイド・パターソン | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |39 | 勝 | 38–1 |align=left|USA Alvin Lewis | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |38 | 勝 | 37–1 |align=left|USA ジェリー・クォーリー | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |37 | 勝 | 36–1 |align=left|Canada ジョージ・シュバロ | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |36 | 勝 | 35–1 |align=left|USA マック・フォスター | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |35 | 勝 | 34–1 |align=left|West Germany Jürgen Blin | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |34 | 勝 | 33–1 |align=left|USA Buster Mathis | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |33 | 勝 | 32–1 |align=left|USA ジミー・エリス | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |32 | 負 | 31–1 |align=left|USA ジョー・フレージャー | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |31 | 勝 | 31–0 |align=left|Argentina オスカー・ボナベナ | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |30 | 勝 | 30–0 |align=left|USA ジェリー・クォーリー | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="background:#FFEBAD" | colspan=10 style="text-align:center;"|ライセンス停止 |- style="text-align:center;" |29 | 勝 | 29–0 |align=left|USA Zora Folley | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |28 | 勝 | 28–0 |align=left|USA アーニー・テレル | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |27 | 勝 | 27–0 |align=left|USA Cleveland Williams | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |26 | 勝 | 26–0 |align=left|West Germany カール・ミルデンバーガー | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |25 | 勝 | 25–0 |align=left|UK Brian London | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |24 | 勝 | 24–0 |align=left|UK Henry Cooper | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |23 | 勝 | 23–0 |align=left|Canada ジョージ・シュバロ | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |22 | 勝 | 22–0 |align=left|USA フロイド・パターソン | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |21 | 勝 | 21–0 |align=left|USA ソニー・リストン | | || |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |20 | 勝 | 20–0 |align=left|USA ソニー・リストン | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |19 | 勝 | 19–0 |align=left|UK Henry Cooper | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |18 | 勝 | 18–0 |align=left|USA Doug Jones | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |17 | 勝 | 17–0 |align=left|USA Charlie Powell | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |16 | 勝 | 16–0 |align=left|USA アーチー・ムーア | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |15 | 勝 | 15–0 |align=left|Argentina Alejandro Lavorante | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |14 | 勝 | 14–0 |align=left|USA Billy Daniels | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |13 | 勝 | 13–0 |align=left|USA George Logan | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |12 | 勝 | 12–0 |align=left|USA Don Warner | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |11 | 勝 | 11–0 |align=left|USA Sonny Banks | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |10 | 勝 | 10–0 |align=left|West Germany Willi Besmanoff | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |9 | 勝 | 9–0 |align=left|Argentina Alex Miteff | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |8 | 勝 | 8–0 |align=left|USA Alonzo Johnson | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |7 | 勝 | 7–0 |align=left|USA Duke Sabedong | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |6 | 勝 | 6–0 |align=left|USA LaMar Clark | | || |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |5 | 勝 | 5–0 |align=left|USA Donnie Fleeman | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |4 | 勝 | 4–0 |align=left|USA Jim Robinson | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |3 | 勝 | 3–0 |align=left|USA Tony Esperti | | | |align=left| |align=left| | Align=left| |- style="text-align:center;" |2 | 勝 | 2–0 |align=left|USA Herb Siler | | | |align=left| |align=left| | |- style="text-align:center;" |1 | 勝 | 1–0 |align=left|USA Tunney Hunsaker | | | |align=left| |align=left| |

受賞歴

  • 金メダル再授与(1996年)
  • オットー・ハーン平和メダル(2005年)
  • 大統領自由勲章(2005年)

関連映画

  • アリ/ザ・グレーテスト(トム・グライス監督)
  • モハメド・アリ かけがえのない日々(レオン・ギャスト監督)
  • モハメド・アリ/チャンピオンへの道(ジム・ジェーコブス監督)
  • モハメド・アリ 世界が見た王者(フィル・グラブスキー監督)
  • ALI アリ(マイケル・マン監督、ウィル・スミス主演)

関連書籍

  • モハメド・アリ自伝 わが魂の戦歴 鈴木主税訳 早川書房
  • ホセ・トレス 『カシアス・クレイ』 和田俊訳 朝日新聞出版 1972年
  • 田原八郎 『モハメド・アリ―合衆国と闘った輝ける魂』 燃焼社、2003年8月
  • ハワード・L. ビンガム 『モハメド・アリ 聖者』 岩本正恵訳、リトルモア、1997年11月
  • マイク・マークシー 『モハメド・アリとその時代―グローバル・ヒーローの肖像』 藤永康政訳、未來社、2001年10月
  • デイビッド・レムニック 『モハメド・アリ―その闘いのすべて』 佐々木純子訳、阪急コミュニケーションズ、2001年9月
  • デイヴィス・ミラー 『モハメド・アリの道』 田栗美奈子訳、青山出版社、1997年9月
  • 田中茂朗 『モハメド・アリ 〜リングを降りた黒い戦士』 メディアファクトリー、1992年6月20日
  • トマス・ハウザー 『シリーズ・ザ・スポーツノンフィクション14 モハメド・アリ -その生と時代』小林勇次訳、東京書籍、1993年7月2日
  • ハナ・アリ 『私の父モハメド・アリ』 北沢あかね訳、愛育社、2001年9月
  • 『月刊スーパーマン増刊 スーパーマン対モハメド・アリ』月刊スーパーマン1978年9月号増刊号、マーベリック出版
    雑誌は既に廃刊・絶版済み。スーパーマンのストーリーにアリを絡ませたコミック作品である。アリを取材にクラーク・ケントたちがやってきた際、地球に強大な宇宙艦隊が飛来する。その宇宙艦隊の要求により、アリが地球チャンピオンとして、宇宙の格闘技王者ハンニャと地球の運命をかけて対戦することになる。地球人を奴隷にするという宇宙人の言葉に怒ったアリはハンニャにKO勝ち、宇宙艦隊もスーパーマンの前に全滅し、アリとスーパーマンの共同戦線により地球の平和は守られるという奇想天外なストーリー。 タイトルのとおり、アリとスーパーマンもリングで対決。クリプトナイトの影響下で戦ったスーパーマンは意識を失いながらも立ち続け、アリは止めの一撃を打たない。

関連項目

  • 男子ボクサー一覧
  • オリンピックボクシング競技メダリスト一覧
  • ボクシング世界ヘビー級王者一覧
  • 世界ボクシング協会(WBA)世界王者一覧
  • 世界ボクシング評議会(WBC)世界王者一覧
  • 統一世界王者
  • 国際ボクシング名誉の殿堂博物館
  • 世界ボクシング殿堂
  • リングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤー - 5度選出(1963年、1972年、1974年、1975年、1978年)
  • ジャビール・ハーバート・ムハンマド - 1966年から1981年までモハメド・アリのチームマネージャーを務めた人物
  • キンシャサノキセキ - 「キンシャサの奇跡」から命名された競走馬
  • カシアス内藤 - リングネームは彼の改名前の本名「カシアス・クレイ」からとったもの。

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2020/11/17 05:03 UTC (変更履歴
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