フセボロド・プドフキン : ウィキペディア(Wikipedia)
フセヴォロド・イラリオーノヴィチ・プドフキン(, , 1893年2月16日 - 1953年6月20日)は、ソビエト連邦の映画監督、俳優である。セルゲイ・エイゼンシュテイン、アレクサンドル・ドヴジェンコと並び、創成期のソ連映画界で活躍した巨匠である。主に無声映画時代において代表作を発表している。
経歴
ロシア・ボルガ地方ペンザ生まれ。4歳の頃にモスクワに移り、モスクワ大学では物理の勉強をする。卒業後は化学者として工場に就職するが、D・W・グリフィスの『イントレランス』を見て感激し、1919年に国立映画専門学校に第1期生として就学し、映画監督のレフ・クレショフの下につく。
1925年、俳優や助監督を経て、短編喜劇『チェス狂』で監督デビュー。1926年にはゴーリキー原作の『母』を発表、卓越したモンタージュ手法で描いた本作によって一躍世界にその名を知らしめた。1929年には、俳優としてフョードル・オツェプ監督の『生ける屍』に主演もしている。
セルゲイ・エイゼンシュテインが、キャストにあえて素人を起用したのとは対照的に、プドフキンは演技性を重視し、プロの俳優を配役し続けた。
1941年にスターリン賞受章。大祖国戦争時は戦争映画の撮影を手掛ける。終戦後も晩年まで映画の撮影を続けた。
フィルモグラフィー
映画
- 飢え、飢え、飢え (1921年) - 監督
- チェス狂 (1925年) - 監督
- (1926年) - 監督
- 母 (1926年) - 監督
- 聖ペテルブルグの最後 (1927年) - 監督
- アジアの嵐 (1928年) - 監督
- 生ける屍 (1929年) - 出演
- (1932年) - 監督
- (1933年) - 監督
- (1938年) - 監督
- ミーニンとポジャルスキー (1938年) - 監督
- (1940年) - 監督
- (1941年) - 監督
- (1941年) - 監督
- (1942年) - 監督
- 祖国の名において (1943年) - 監督・脚本
- (1946年) - 監督
- 三つの邂逅 (1948年) - 監督
- (1950年) - 監督
- (1952年) - 監督
著書
- Film Technique
- Film Acting
注釈
外部リンク
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/03/22 11:19 UTC (変更履歴)
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike and/or GNU Free Documentation License.