吉川大介 : ウィキペディア(Wikipedia)
吉川 大介(よしかわ だいすけ、1892年(明治25年)9月21日衆議院『第八十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1942年、8頁。 - 1954年(昭和29年)7月1日『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』705頁。)は、大正から昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・竹田。
経歴
新潟県『翼賛議員銘鑑』454頁。新潟市で竹田三代吉の息子として生まれ、吉川フジの養子となる『越・佐傑人譜 昭和14年度版』よ5頁。『人事興信録 第14版 下』ヨ29頁。『越佐人物誌 中巻』1023頁。。1914年(大正3年)家督を相続した。旧制中学校を経て、早稲田大学で学んだ。
新潟日曜新聞社長、新潟毎夕新聞社長、新潟労務供給専務取締役、新潟労務協会常務理事、新潟市燃料小売商業組合理事長、新潟県労務報国会長、同野球連盟会長などを務めた。
政界では、新潟市会議員、同参事会員、同副議長、新潟県会議員、同参事会員を務めた。1942年(昭和17年)4月、第21回衆議院議員総選挙に新潟県第1区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選した。この間、商工省委員、農商省委員、翼政会政調文部・逓信兼務委員などを務めた。戦後に公職追放となった総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿771頁。公職追放の該当事項は「新潟東亜連盟協会理事推薦議員」。。
追放解除後、1952年(昭和27年)10月、第25回総選挙に新潟県第1区から改進党公認で出馬して再選『国政選挙総覧 1947-2016』169頁。。第26回総選挙では落選し『国政選挙総覧 1947-2016』170頁。、衆議院議員に通算2期在任した。
注釈
出典
参考文献
- 日本風土民族協会編『越・佐傑人譜 昭和14年度版』日本風土民族協会、1938年。
- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 牧田利平編『越佐人物誌 中巻』野島出版、1972年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/06/01 05:49 UTC (変更履歴)
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