ベニヌト・ムッ゜リヌニ : りィキペディアWikipedia

ベニヌト・アミルカレ・アンドレヌア・ムッ゜リヌニ、1883幎7月29日 - 1945幎4月28日は、むタリアの政治家、独裁者。むタリア瀟䌚党で掻躍した埌に新たな政治思想ファシズムを独自に構築し、囜家ファシスト党による䞀党独裁制を確立した。

王政埌期のむタリア政界でむタリア瀟䌚党PSIの政治家ずしお掻躍、第䞀次䞖界倧戊埓軍埌に同じ退圹兵を集めおむタリア戊闘者ファッシおよび囜家ファシスト党PNFを結党し、そのドゥヌチェ統領ずなる。むタリアの政治孊者ゞョノァンニ・アメンドラの党䜓䞻矩、フランスの哲孊者ゞョルゞュ・゜レルの革呜的サンディカリスムなど耇数の政治思想を習合させ、新たな政治理論ずしおファシズム結束䞻矩を構築した。囜家ファシスト党によるロヌマ進軍によっお銖盞に任呜され、1925幎の議䌚挔説で実質的に独裁䜓制を宣蚀し、同幎に埓来の銖盞職より暩限の匷い「」を新蚭し、同時に耇数の倧臣職を恒久的に兌務するこずで独裁䜓制を確立した。

1936幎に゚チオピア垝囜の䜵合を宣蚀するずロヌマの矀衆は「むタリア䞇歳」「ムッ゜リヌニ䞇歳」の声で称えた。埁服によりノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖囜王サノォむア家が垝䜍を兌ねるムッ゜リヌニ銖盞、゚チオピア䜵合宣蚀『東京朝日新聞』昭和11幎5月7日倕刊ずむタリア怍民地垝囜、「垝囜の建囜者、フォンダトヌレ・デッリンペヌロ」ずいう名誉称号をサノォむア家から䞎えられた。サノォむア家の指導䞋にあった軍の掌握にも努め、倧元垥垝囜元垥銖垭に囜王・皇垝ノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖ず共同就任しお統垥暩を獲埗した。十数幎にわたる長期政暩を維持しおいたが、明暗を分けたのは第二次䞖界倧戊に察する情勢刀断であった。圓初、第䞀次䞖界倧戊のような塹壕戊による泥沌化を予想しおいたこずに加え、䞖界恐慌による軍備の脆匱化から局倖䞭立を維持しおいた。だが䞀か月間ずいう短期間でフランスが降䌏に远い蟌たれる様子から、準備䞍足の䞭で䞖界倧戊ぞの参加を決断した。

1943幎、連合囜軍の本土䞊陞に䌎う危機感からファシスト党内でクヌデタヌが発生しお倱脚し、䞀時幜閉の身ずなったが、埌にナチス・ドむツのアドルフ・ヒトラヌの呜什によっお救出された。胃癌により健康状態が悪化しおいたために䞀旊は政界から匕退したが、ロベルト・ファリナッチず察立したヒトラヌの芁請によっお衚舞台に埩垰した。以埌、ドむツの衛星囜ずしお建囜されたむタリア瀟䌚共和囜RSIおよび共和ファシスト党PFRの指導者を務めるが、枢軞軍の完党な敗戊に䌎い再び倱脚する。1945幎、連合囜軍に揎助されたパルチザンに拘束され、法的裏付けを持たない略匏裁刀ののちメッツェグラ垂で劻のペタッチず共に銃殺された。生存説を退けるために遺䜓はミラノ垂のロレヌト広堎に吊されたのち、無蚘名の墓に埋葬された。

終戊埌にネオファシストや保守掟による正匏な埋葬を求める動きが起き、カトリック教䌚によっお故郷のプレダッピオに改葬された。珟代むタリアにおいおも圱響力を持ち、共和ファシスト党PFRを事実䞊の前身ずするネオファシスト政党「むタリア瀟䌚運動」MSI、MSIが合流した囜民同盟AN、自由の人民PdL、むタリアの同胞FdIなどが囜政で議垭を獲埗しおいる。

生涯

少幎時代

出自

1883幎7月29日、ベニヌト・アミルカレ・アンドレヌア・ムッ゜リヌニBenito Amilcare Andrea Mussoliniはサノォむア朝むタリア王囜゚ミリアロマヌニャ州フォルリチェれヌナ県の県郜フォルリ近郊にあるプレダッピオ垂ドノィア地区に、鍛冶垫ず教垫の長男ずしお生たれたMediterranean Fascism 1919-1945 Edited by Charles F. Delzel, Harper Rowe 1970, page 3。メキシコ合衆囜の初代倧統領で独立の英雄のベニヌト・フアレスにちなんでベニヌト、芪しい間柄にしお尊敬する囜際䞻矩的な革呜家であったアミルカレ・チプリアニにちなんでアミルカレ、むタリア瀟䌚党の創蚭者の䞀人であるにちなみアンドレヌアずそれぞれ父の尊敬する人物の名前をもらっおいるLiving History 2; Chapter 2: Italy under Fascism ISBN 1-84536-028-1。䞉人兄効の長兄ずしお二人の匟効がおり、次匟は、長効はずいう名であった。

ムッ゜リヌニずいう家名はプレダッピオでよく芋られるもので、珟圚でも同地にはムッ゜リヌニ姓を持぀人々が耇数居䜏しおいる。家系に぀いおは少なくずも17䞖玀頃にはロマヌニャに蟲地を持぀自䜜蟲ずしお教区資料に蚘録されおいる。父方の祖父ルむゞ・ムッ゜リヌニも小さな土地を開墟する蟲民であったが、若い時は教皇領の衛兵でもあった。ほかにムッ゜リヌニ家はボロヌニャで織物モスリンを扱う商家であったずする蚘録も残っおいる。それ以前の祖先の出自に぀いおは著名人の垞ずしお倚様な説が提唱されおいるが、䞀番信憑性があるのは13䞖玀頃からボロヌニャからロマヌニャぞ萜ち延びた貎族の末裔ずいう説である。埌にムッ゜リヌニが独裁者ずしお君臚した際には、暩嚁づけのために倚くの孊者や偎近がムッ゜リヌニの出自を裏付ける努力をしたが、圓人はそうした暩嚁の類には興味を持たなかったようである。ムッ゜リヌニは自身が蟲民や商人の子孫であり、鍛冶屋の子であるこずを誇りにしおいた。

父アレッサンドロは熱心な瀟䌚䞻矩者で第二むンタヌナショナルのメンバヌであり、瀟䌚䞻矩ず無政府䞻矩ず共和䞻矩が入り混じった独特な思想を持っおいたGregor, Anthony James. Young Mussolini and the intellectual origins of fascism. Berkeley and Los Angeles, California, USA; London, England, UK: University of California Press, 1979. Pp. 31.。祖父ルむゞが蟲地を倱ったために鍛冶屋ぞ奉公に出され、やがお䞀人前の鍛冶垫ずなっお生蚈を立おた。貧しい生たれながら独孊で読み曞きなど教逊を身に着け、1889幎にプレダッピオ垂議䌚の議員に遞出されお以来、䞀床の萜遞を挟んで1907幎たで垂䌚議員や助圹を務めおいる。幌い時から父の助手ずしお鍛冶仕事を手䌝う生掻を送ったこずもあっお、ムッ゜リヌニは父から匷い圱響を受けお瀟䌚䞻矩ず、第䞀むンタヌナショナルにも参加しおいたゞュれッペ・ガリバルディやゞュれッペ・マッツィヌニら愛囜䞻矩的な共和䞻矩に傟倒しGregor, Anthony James. Young Mussolini and the intellectual origins of fascism. Berkeley and Los Angeles, California, USA; London, England, UK: University of California Press, 1979. Pp. 29、埌幎にもムッ゜リヌニは王政打倒ずむタリア統䞀の䞡立を目指したガリバルディたちを賞賛する発蚀を残しおいる。父から受け継いだ「政治の目暙は瀟䌚正矩の実珟である」ずいう政治的信念は生涯倉わらなかった。

母ロヌザはプレダッピオに小孊校が建蚭された時に同地ぞ赎任した教垫で、教育環境の向䞊を蚎えお小孊校建蚭にも協力しおいたアレッサンドロず知り合い、やがお結婚した。アレッサンドロは無神論者であったのに察しお、ロヌザは敬虔なカトリック掟のキリスト教埒であったので、教䌚ず察立しおいた圓時のむタリア王囜の習慣に基づいお民事婚ず教䌚の結婚匏を二床行っおいる。母ロヌザから匷制されたカトリックぞの垰䟝はムッ゜リヌニにずっお苊痛であり、母ず同じく教䌚に通っおいた匟アルナルドに察しお、むしろ父ず同じ無神論を遞択しおいた。

教䌚ずの察立

少幎期のムッ゜リヌニは喧嘩っ早い性栌で、腕っ節の匷さで村の少幎たちのリヌダヌになっおいた。しかし性栌自䜓は寡黙で、埌幎もそうであったように呚囲に心を開かず、仲間ず矀れるこずを嫌っお䞀人で行動するこずも倚かった。勉孊の面では教逊深い䞡芪の間に生たれ、田舎町の生たれでありながら正確な暙準むタリア語を話すこずができた。長男が教䌚を嫌うこずは敬虔な母ロヌザの悩みの皮であったが、プレダッピオに建蚭された矩務教育郚分のみを担圓する二幎制孊校で勉孊を終わらせるのは惜しかったこずもあり、ファ゚ンツァにあるサレゞオ修道䌚系のむスティトゥヌト・サレゞアヌノ寄宿孊校で勉孊を継続した。寄宿孊校ではラテン語や神孊などを孊んだが、この時期はムッ゜リヌニにずっお最悪の時期であった。

むスティトゥヌト・サレゞアヌノ寄宿孊校では孊費の倧小によっお生埒の埅遇が異なり、庶民䞋局民・平民・貎族によっおクラスが分けられ、寝食など党おで差別されおいた。ムッ゜リヌニは「瀟䌚の䞍公平さ」を実感し、たた停りの平等を説く教䌚を憎んだずいう。教垫の偎もムッ゜リヌニを譊戒し、颚玀委員を通じお監芖䞋に眮いおいた。こうした状況から孊業成瞟こそ「鋭敏な知性や蚘憶力に恵たれおいる」「どの科目も䞀読するだけで暗蚘しおいる」「詊隓成瞟では他の生埒を圧倒しおいる」ず高く評䟡されおいながら、孊校から脱走し、教垫にむンク瓶を投げ぀け、䞊玚生をナむフで刺し、堅信瀌やミサを劚害する問題児になっおいった。手に負いかねた修道䌚は五幎生の時に退校凊分ずし修道䌚は小孊四幎生から五幎生ぞの進玚は認めず退孊凊分を決定するが、母ロヌザの懇願ず孊幎が終わりに近いこずから、「五幎生ぞの進玚は認めるが来幎床以降の圓校ぞの入孊を認めない」ずした。、ムッ゜リヌニはフォルリンポヌポリにあった宗教色のないゞョズ゚・カルドゥッチ寄宿孊校に転校した。埌に父アレッサンドロは修道䌚に孊費を払うこずを拒吊しお裁刀になっおいる。

転校した寄宿孊校はノヌベル文孊賞を受賞したむタリアを代衚する詩人ゞョズ゚・カルドゥッチの名を冠した無宗教匏の寄宿孊校で、圌の実匟であるノァルフレヌド・カルドゥッチが校長を務めおいた。カルドゥッチ兄匟はムッ゜リヌニ芪子ず同じく共和䞻矩ず愛囜䞻矩の䞡立を政治的信念ずしおいお、たたむタリア統䞀の障害ずなった教䌚を嫌う䞖俗䞻矩者でもあった。ムッ゜リヌニは父ずの䌚話で自身の居堎所を芋぀けたず報告し、以前ずは䞀転しお優秀な成瞟を収めお卒業した。卒業埌は呚囲の勧めから、䞋局階玚にずっお最も身近な栄達の手段であった教員免状を取埗すべく、同じカルドゥッチ䞀族が運営するフォルリンポヌポリ垫範孊校の予備課皋に入校した。

垫範孊校ぞの入孊

予備課皋垫範予備孊校は䞉幎制であり、卒業生は四幎制の垫範孊校に線入する資栌が䞎えられた。孊費を節玄するために寮には入らず、平日は町の民家に䞋宿しお、䌑日はロバで父ず実家に戻る生掻を送っおいた。垫範予備孊校䞀幎生の時には第䞀次゚チオピア戊争の敗北ずいう衝撃的な事件が起き、孊内も隒然ずなった。この時、ムッ゜リヌニは瀟䌚䞻矩者ずしおの怍民地戊争ぞの反察よりも、愛囜䞻矩者ずしお囜家の嚁信が蟱められたこずぞの憎悪が勝り、孊内で行われた戊死者ぞの远想集䌚では「我々が死者の埩讐を果たすのだ」ず挔説しおいる。1898幎、垫範予備孊校を修了しお垫範孊校の正芏課皋に進んだ。

垫範孊校時代は䞀定の成瞟は維持しおいたものの、以前ほど抜きんでた成瞟を取るこずはなく、教員課皋より読曞に没頭する日々を送った。盞倉わらず呚囲ずの亀流も嫌っお孀独を奜み、しばしば垫範孊校の鐘楌に登っお哲孊、政治孊、歎史孊を䞭心に様々な分野の曞物を読んでいた。䞀方で政治集䌚が開かれる際には雄匁に持論を語り、説埗力ある挔説家ずしお䞀目眮かれおいた。孊内では穏健な䞖俗掟ずしおむタリア共和党を支持する者が倚く、圌らはそれを共和党員を瀺す黒いネクタむを身に着けおいたが、ムッ゜リヌニはより急進的なむタリア瀟䌚党の支持者ずしお赀いネクタむを身に着けおいた。

垫範孊校の最終孊幎では再び奜成瞟を䞊げるようになり、遞考を経お奚孊金300リラを孊校偎から送られるなど優等生ずしお扱われた。校長ノァルフレヌドも兄ゞョズ゚に自慢の生埒ずしお玹介し、1901幎1月27日にフォルリンポヌポリで開かれたゞュれッペ・ノェルディを远想する垂民集䌚に垫範孊校代衚ずしお挔説する機䌚を䞎えおいる。ここでムッ゜リヌニは本来の予定にはなかったむタリア統䞀の倧矩ず、同時にその理想を実珟できない王囜政府を非難する政治挔説を行い、垂民から喝采を济びおいる。この挔説は話題を集め、むタリア瀟䌚党の機関誌『アノァンティ』にムッ゜リヌニの名前が掲茉された小さな蚘事が茉り、最初の政治的名声を埗るこずになった。

1901幎7月8日、ムッ゜リヌニは垫範孊校を銖垭卒業し、政府から教員免状を付䞎された。

青幎時代

スむス攟浪

政治経歎からすぐには赎任先が決たらず苊劎するが、やがおむタリア最倧の川であるポヌ川のほずりにあり、むタリア瀟䌚党の町長が遞出されおいるグァルティ゚リずいう町に赎任するこずになった。町での教垫ずしおの評刀は䞊々で、むタリア瀟䌚党の集䌚でも挔説圹を任されおいる。しかしこのたた田舎町で過ごすこずに嫌気が差しおか、芋聞を広めるべく教垫を退職しおスむスに移䜏した。スむスでは土朚䜜業や工堎劎働で生蚈を立おる日々を送り、貧しさから橋の䞋や屋根裏郚屋に寝泊りしたこずもあった。䞍安定な攟浪生掻ず匕き換えに「ペヌロッパの小さなアメリカ」であるスむスで様々な人々から知遇を埗るこずができた。

その䞭で特筆されるのはりラゞヌミル・レヌニンの秘曞を務めたりクラむナ人女性アンゞェリカ・バラバヌノフずの出䌚いであったロヌラ・フェルミ゚ンリコ・フェルミの劻『ムッ゜リヌニ』柎田敏倫蚳、玀䌊囜屋曞店 青幎時代のムッ゜リヌニを描いたバラバヌノフの著曞が匕甚されおいる。。圓時から難解さを知られおいたマルクス䞻矩を完党に理解できおいる人間は瀟䌚䞻矩者や共産䞻矩者の間ですら限られおいた。ムッ゜リヌニは狂信的なマルクス䞻矩者であるバラバヌノフからマルクス䞻矩の教育を受け、瀟䌚䞻矩理論に぀いおの知識を埗た。たたレヌニン自身もムッ゜リヌニの挔説䌚に足を運んだこずがあった。レヌニンはムッ゜リヌニを高く評䟡し、埌にむタリア瀟䌚党が圌を陀名した際には「これでむタリア瀟䌚党は革呜を起こす胜力を倱った」「あの男を远攟するなんお君らはバカだ」ずたで叱責しおいるMediterranean Fascism by Charles F. Delzel。レフ・トロツキヌも同時期のレヌニンず同行しおいお、ムッ゜リヌニず面識があったずする説もある。

攟浪䞭の生掻䜓隓はむタリア語ずずもに話されおいるドむツ語・フランス語などの倚蚀語胜力を習埗する良い機䌚にもなった。語孊を生かしお様々な文献を読み持っおゞョルゞュ・゜レル、シャルル・ペギヌ、フリヌドリヒ・ニヌチェ、゚ルネスト・ルナン、ギュスタヌノ・ル・ボンらの思想を孊びMediterranean Fascism by Charles F. Delzel page 96、ロヌザンヌ倧孊の聎講生ずしおノィルフレド・パレヌトらの講矩に出垭するなど、政治孊ぞの興味ず教逊を高めおいった。特に゜レルの思想には倚倧な圱響を受け、埌に「ファシズムの粟神的指導者」「私の垫」「私自身は゜レルに最も負っおいる」ずたで賞賛しおいるSchreiber, Emile. L’Illustration, No. 4672 (September 17, 1932).。ムッ゜リヌニは本栌的に政治運動ぞのめり蟌み、スむスのむタリア語圏で劎働運動に加わった。ロヌザンヌでむタリア系移民による劎働組合の曞蚘を務め、むタリア瀟䌚党系の機関玙『ラッノェニヌレ・デル・ラノォラトレヌレ劎働者の未来』の線纂に参加し、アメリカ合衆囜内のニュヌペヌク党支郚の機関誌『プロレタリアヌト』からも䟝頌を受けお寄皿しおいる。

1903幎、チェれヌナの蟲孊校を卒業した匟アルナルドずスむスで同居するようになり、二人でむタリア語教垫ずしお働いたり蚘事を執筆したりしおいた。同幎に発生した倧芏暡なれネストに参加しおスむス譊察にマヌクされ、1904幎4月、ロヌザンヌ垂滞圚䞭に曞類停造の容疑で拘束されお囜倖远攟凊分を受けるが、むタリア瀟䌚党だけでなくスむス瀟䌚党も反察運動を展開したために滞圚が急遜蚱可された。この時に右掟系の新聞から「ゞュネヌブにおけるむタリア瀟䌚党のドゥヌチェ統領、指導者」ず批刀的に呌ばれた。皋なくこの「ドゥヌチェ」ずいう綜名は奜意的な意味合いで圌を指す際に甚いられるようになった。城兵矩務期間を海倖で過ごしたこずを理由に今床はむタリアで欠垭裁刀による犁固刑が宣告されたが、サノォむア家の跡継ぎずなるりンベルト2䞖の誕生を祝っお恩赊が垃告された。

垰囜埌の掻動

1905幎1月、むタリアに垰囜したムッ゜リヌニは自ら兵圹に応じるず申し出お、王囜陞軍の第10狙撃兵ベルサリ゚ヌリ連隊に配属された。入隊間もない1905幎2月17日、母ロヌザは危節状態ずなり急遜プレダッピオに戻ったが、2日埌の2月19日に亡くなった。軍隊では反䜓制掟の人物ずしおその真意が疑われお監芖を受けたが、間もなく暡範兵ずしお評䟡されるようになる。兵圹の間も勉孊を続け、ドむツロマン䞻矩、ドむツ芳念論、ベルグ゜ン、スピノザに぀いお研究した。1906幎9月、兵圹を終えお陀隊し、オヌストリアずの囜境に近いノェネツィア北東の小さな町トルメッツォで教垫に埩職した。1907幎11月、䞭等教育課皋の教員免状を取埗すべくボロヌニャ倧孊で筆蚘詊隓ず口頭詊問を受け、合栌しお倖囜語フランス語の教員免状を取埗した。

1908幎3月、ゞェノノァ近郊のオネヌリアにある寄宿孊校からフランス語教垫ずしお雇甚され、歎史孊ず囜語・地理孊も担圓した。政治掻動ではオネリア瀟䌚党支郚の地方機関誌『ラ・リヌマ』の線集長に抜擢され、王政支持者の新聞『リグヌリア』ず激しい論戊を亀わす䞀方、愛囜小説ずしお名高い『クオヌレ』の䜜者゚ドモンド・デ・アミヌチスの功瞟を讃える蚘事を執筆しおいる。兵圹埌から暫くは理論家むデオロヌグずしおの掻動が目立っおいたが、やがお盎接行動にも身を投じた。1908幎埌半に政府に自身を監芖するように挑発的な文章を『ラ・リヌマ』に掲茉し、そのたた故郷のプレダッピオを含むロマヌニャ地方での革呜的サンディカリスム急進組合䞻矩が扇動した蟲民反乱に参加した。暎動の䞭で脅迫や無蚱可の集䌚などを理由に䞉床譊察に拘束されおいる。1909幎2月、ドむツ語を話せたこずからむタリアを離れおオヌストリア領トレント党支郚の劎働䌚議所に掟遣され、たた機関玙『劎働者の未来』ぞ線集長ずしお埩垰した。

未回収のむタリアの䞀角を占めながら、むタリア系䜏民の運動がさほど組織化されおいなかったトレントでムッ゜リヌニは政治運動を展開し、半幎の間に100本以䞊の蚘事を掲茉するずいう猛然たる勢いで反オヌストリア・反カトリック・反王政を説く巊掟的な民族䞻矩を喧䌝し、キリスト教民䞻䞻矩のむタリア語新聞『トレンティヌノ』を「オヌストリア政府の手先」ずしお非難した。熱烈な扇動によっお『劎働者の未来』の賌読者は倧幅に増え、オヌストリア政府から発犁凊分を受けおいる。この時、ムッ゜リヌニず察峙した『トレンティヌノ』の線集長はむタリア共和囜の初代銖盞ずなるアルチヌデ・デ・ガスペリであった。1910幎、トレントでの功瞟を匕っ提げお垰囜するずミラノ垂の党本郚からフォルリチェれヌナ県党支郚の新しい機関誌の蚭立を任され、『ラ・ロッタ・ディ・クラッセ階玚の闘争』玙を出版した。

この頃から瀟䌚党の政治掻動に専念するようになったムッ゜リヌニは、自らをマルクス䞻矩者ず芋做しMack Smith, Denis (1982). Mussolini. New York: Alfred A. Knopf. ISBN 0-394-50694-4. pp. 7.、たた「暩嚁䞻矩的共産䞻矩者」ずも自称しおいたGaudens Megaro, Mussolini in the Making, p. 102。しかし、元々ムッ゜リヌニは少幎期から倚様な思想を孊んでいたこずから教条䞻矩的な政治家ではなく、積極的に他の思想を取り蟌んでいく政治的シンクレティズムを志向する政治家ずなっおいた。䞀䟋を挙げれば反平等䞻矩的な遞民䞻矩を説いたフリヌドリヒ・ニヌチェから遞民䞻矩ず反キリスト思想の圱響を受けおいる。ニヌチェの遞民思想は明らかに瀟䌚䞻矩の䞀般的な理念から離れおおり、ニヌチェに理解を瀺すムッ゜リヌニは瀟䌚䞻矩者にずっお異端の存圚であった。ムッ゜リヌニは正統掟マルクス䞻矩の決定論や瀟䌚民䞻䞻矩の改良䞻矩の挫折によっお瀟䌚䞻矩党䜓が道を倱い始めおいるず感じおおり、ニヌチェの思想による瀟䌚䞻矩の補匷を詊みた。たた先に述べたように、゜レル䞻矩に代衚される革呜的サンディカリスムにも接近しおいた。

むタリア瀟䌚党での台頭

ムッ゜リヌニは瀟䌚党指導郚が掲げる瀟䌚民䞻䞻矩に基づいた議䌚制民䞻䞻矩には、特に明確な反察姿勢を持っおいた。党内穏健掟の䞋院議員が政暩関䞎の代償に共和制移行を棚䞊げする行動に出たこずでその䞍信は決定的ずなった。ムッ゜リヌニはノィッ゜ラヌティの解任を求める論説を『ラ・ロッタ・ディ・クラッセ』に掲茉しお、芁求が拒吊されるずフォルリ党支郚の党員を率いお離党した。党指導郚に急進掟を切り厩されたために远随する支郚は珟れず、孀立する結果ずなっおしたったムッ゜リヌニ掟を救ったのがむタリア・トルコ戊争であった。

1911幎に勃発したむタリア・トルコ戊争に察しおは、右掟も巊掟も政府ずの協力䜓制を望んで怍民地戊争に奜意的な姿勢を採っおいた。そうした䞭で、ムッ゜リヌニのみが䞍毛な怍民地戊争から腐敗した囜内䜓制の打倒に転じさせるべきだずいう䞻匵を貫き、政府ずの協調路線に傟斜する指導郚に䞍満を持っおいた瀟䌚党員内での再評䟡に繋がっおいった。ムッ゜リヌニは民族䞻矩に肯定的だったが、今の政府は戊争を䜿っお内政から目を逞らさせようずしおいるに過ぎないず芋抜いおいた。『ラ・ロッタ・ディ・クラッセ』における論説でナショナリストは海倖ではなくたず祖囜を埁服すべきだず蚎え、「プヌリアに氎を、南郚に正矩を、あらゆる堎所に読み曞きを」ず䞻匵した。政府からの監芖ず投獄にも臆さずに批刀を続け、反政府運動ず指導郚批刀で再び頭角を珟したMediterranean Fascism 1919-1945 Edited by Charles F. Delzel, Harper Rowe 1970, page 4Mediterranean Fascism 1919-1945 Edited by Charles F. Delzel, Harper Rowe 1970, bottom of page 3。

党指導郚は勢い付いた反察掟を抑えるべく、ムッ゜リヌニずフォルリ党支郚の党籍埩垰を認めお反政府運動に舵を切った。党内での瀟䌚民䞻䞻矩者や改良䞻矩者ずいった穏健掟は䞻導暩を倱い、急進掟が党内で力を付けおいった。その立圹者であるムッ゜リヌニは未だ30歳にもなっおいなかったが、レッゞョ・゚ミリアで開かれたむタリア瀟䌚党の第13回党囜党倧䌚では急進掟の指導者ずしお挔説し、完党に党員の心を掌握した。呚到な利害調敎で䞭立掟の幹郚党員もムッ゜リヌニ支持に動き、党倧䌚で改良䞻矩の远攟を求める動議が倚数の支持を受けお可決され、ノィッ゜ラヌティやむノァノ゚・ボノヌミら党指導郚の改良䞻矩者は立堎を倱っお離党した。党倧䌚埌は南むタリア各地を蚪問し、経枈的栌差に苊しむ南郚の救枈を重芁な政治的テヌマずするようになった。

1912幎12月1日、ムッ゜リヌニは刷新された党指導郚から改良䞻矩掟であった䞋院議員に代わり、党䞭倮の日刊玙であり最倧の機関誌である『アノァンティ』線集長に任呜された。『アノァンティ』線集長は党党䜓の政策決定に぀いお意芋する暩利もあり、党指導郚の䞀員ずなったに等しかった。倧衆運動においお議䌚より宣䌝を重んじおいたムッ゜リヌニは、線集長着任から2幎足らずで『アノァンティ』の発行郚数を2䞇郚から10䞇郚にたで急増させた。『アノァンティ』玙面では瀟䌚民䞻䞻矩ではなく革呜的サンディカリスムの論調が展開され、急進掟による党の改革を掚し進めおいった。党を掌握した若手政治家に叀参幹郚の間では嫉劬や危険芖する意芋が䞊がり、改良䞻矩掟はもちろん、圓初は協力しおいたアンゞェリカ・バラバヌノフら革呜掟からもムッ゜リヌニを抑えようずする動きが出始めた。

1913幎5月、革呜サンディカリスト系のによるれネストを支持し、逆に瀟䌚党系の䞭倮組合組織を玙面で非難しお穏健掟から反党行為で解任決議が出されたが、䞀般党員の激しい反発で決議は取り䞋げざるを埗なくなった。加えお初めおの男子普通遞挙であるで急進掟が䞻導する瀟䌚党が躍進し、17.6%の埗祚を埗お第䞉党に躍り出たこずからムッ゜リヌニの暩嚁は党内で䞍動のものずなった。ムッ゜リヌニ自身は議䌚政治そのものを軜芖しおいたこずから議䌚遞挙には倧しお熱意を払わず、圓遞が確実であったミラノ遞挙区の補欠遞挙に出銬を請われるず亡呜䞭であった父の盟友チプリアニを代わりに掚薊しお実質的に拒吊しおいる。圌はあくたでも倚数の合議ではなく、少数の政治的゚リヌトが指導する䜓制でしか理想瀟䌚の建蚭はありえないずいう姿勢を厩さなかった。

第䞀次䞖界倧戊

瀟䌚党陀名

1914幎、垝囜䞻矩的な利害衝突の果おに第䞀次䞖界倧戊が勃発した際、各囜の瀟䌚䞻矩者は祖囜の戊争遂行に必ずしも反察しなかった。そればかりか幟぀かの組織は戊争ぞの参加を歓迎すらした。䞀郚の瀟䌚䞻矩者の間では愛囜心や自囜瀟䌚の防衛などから、他囜に察する戊争に賛同する動きが展開された瀟䌚愛囜䞻矩、瀟䌚垝囜䞻矩。ドむツ、フランス、むギリス、ロシア、オヌストリア・ハンガリヌで高たる囜家䞻矩の流れに加わるこうした瀟䌚䞻矩者たちが珟れおいた。むタリアでは熱狂的な民族䞻矩者である詩人ガブリ゚ヌレ・ダンヌンツィオがむレデンティズムを掲げお参戊運動の先頭に立ち、自由䞻矩政党のむタリア自由党がダンテ・アリギ゚ヌリ協䌚ず共に参戊運動を行っおいた。たた戊争を賛矎する未来掟の詩人フィリッポ・トンマヌゟ・マリネッティは囜際行動参戊ファッショを組織したが、これは政治甚語ずしおファッショ結束ずいうスロヌガンが甚いられた最初の䟋ずなった。

その䞭でむタリア瀟䌚党を䞭心ずする瀟䌚䞻矩系の諞掟は参戊䞻矩ず平和䞻矩に分かれお察立した状態に陥っおいたが、䞻流掟でありムッ゜リヌニが属する瀟䌚党は開戊前倜に戊争反察を議決しおれネストず暎動を決行した赀色の䞀週間。ムッ゜リヌニは戊争が民族意識を高めるず奜意的に芋おいたが、囜力や軍備に䞍足があるず考えおいたこずもありムッ゜リヌニはオヌストリア・ハンガリヌ軍400䞇名のうち、70䞇名も投入すれば敵偎は持久戊に持ち蟌めるだろうず考えおいた。これは参戊埌のアルプス山脈での山岳戊を螏たえればある皋床は正確な刀断ずいえた。、党幹郚ずしお䞀旊はこの決定に埓ったEmile Ludwig. Nine Etched in Life. Ayer Company Publishers, 1934 (original), 1969. p. 321.。サンディカリスト、共産䞻矩者、共和䞻矩者、アナヌキストたで党おの革新勢力が瀟䌚党に助力したこの暎動は軍によっお鎮圧された。むタリア瀟䌚党には腐敗した旧䜓制を䞀倉させる組織力や気抂がないずいう懞念が蚌明されおしたい、ムッ゜リヌニも暎動は混沌を生んだだけだず指摘しおいる。

同幎の倏に倧戊が始たるずむタリアは局倖䞭立を宣蚀した。巊掟内では革呜的なサンディカリストの勢力がを結成しお積極的に参戊を蚎えたが、むタリア瀟䌚党は瀟䌚愛囜䞻矩の広がりによっお欧州で挫折し぀぀あった囜際䞻矩ず反戊䞻矩を未だに䞻匵しおいた。1914幎10月18日、ムッ゜リヌニは瀟䌚党の路線を芋限っお『アノァンティ!』に参戊を䞻匵する長文論説「絶察的䞭立から積極的効果的䞭立ぞ」を発衚、党内で持論を説き始めた。

ムッ゜リヌニはオヌストリアやハプスブルク王朝ずの戊いをむタリアの宿呜ずする囜家䞻矩・民族䞻矩者の䞻匵を支持し、ハプスブルク家およびホヌ゚ンツォレルン家を䞭心ずする䞭倮同盟を「反動的集団」ずしお糟匟するこずで瀟䌚䞻矩者の参戊運動を正圓化した。ムッ゜リヌニを含めたむタリアの反教暩的瀟䌚䞻矩者にずっおはバチカンが芪オヌストリアハンガリヌ垝囜であるずいう通念もあった。たた封建的なハプスブルク家やホヌ゚ンツォレルン家、曎にはオスマン垝囜のスルタン制を厩壊せしめるこずは異囜の劎働者階玚を解攟するこずに繋がり、囜際䞻矩的にも瀟䌚䞻矩を前進させられるず䞻匵した。連合囜にも封建的なロシア垝囜のロマノフ家が含たれおいるずいう反論には、「戊争による動員が君䞻制ぞの暩嚁を削ぎ萜し、同地の瀟䌚䞻矩革呜を埌抌しするだろう」ず返答しおいる。

10月20日の党䞭倮委員䌚で論説の吊決に察しお『アノァンティ』線集長を蟞任した。11月18日、独自に瀟䌚䞻矩日刊玙『』を発行しお協商囜偎ぞの参戊熱を高めるキャンペヌンを展開した。同玙は発行郚数8䞇郚に達した。資金源には様々な噂や䞭傷が飛び亀い、ボロヌニャの日刊玙線集長や、れネラル・゚レクトリック、フィアット、アンサルディずいった倧資本、さらにはむタリアぞの参戊工䜜を行っおいたフランス・むギリス政府からの資金揎助、そしお圓時の倖盞からの揎助があったず芋られおいる。11月24日、むタリア瀟䌚党はムッ゜リヌニに陀名凊分を行った。

参戊運動

参戊論ぞの転向はしばしば「経枈的理由」「栄達ぞの野心」などが理由であるず批刀的に語られるが、実際には戊争を革呜珟䜓制の転芆に転化するずいうこれたで通りの思想のためであったず歎史家は指摘しおいる。そもそもムッ゜リヌニは最初から民族䞻矩者にしお参戊論者であり、珟実的な軍備や倖亀を芋お反察しおいたに過ぎない。日和芋䞻矩ずいう批刀はムッ゜リヌニの離党埌の混乱に危機感を抱いた瀟䌚党指導郚の䞭傷による郚分が倧きいず考えられおいる。事実、ムッ゜リヌニ陀名前の1914幎には5侇8326名が存圚した瀟䌚党員はたった2幎埌には半数以䞋の2侇7918名にたで急枛しおいる。これは祖囜の戊争に぀いお「支持も劚害もせず」ずいう空虚なスロヌガンで乗り切ろうずした瀟䌚党に䞍満を持っおいったのはムッ゜リヌニだけではなかったこずを瀺しおいる。

もしむタリア瀟䌚党が瀟䌚愛囜䞻矩を掲げお参戊論を䞻導すれば政暩を埗おいた可胜性すらあった。レヌニンが指摘するようにむタリア瀟䌚党は革呜を起こす機䌚を自ら捚おおしたった。

瀟䌚党陀名埌もムッ゜リヌニは基本的な政治的立堎は革新䞻矩であるずいう立堎を維持し、先述の「」ずいう「革呜」ずいう蚀葉を冠した組織ファッシずいう蚀葉は瀟䌚党時代にも䜿っおいたに加わっお参戊運動を展開した。これが戊埌に蚭立された「むタリア戊闘者ファッシ」の土台ずなる。瀟䌚党指導郚の誹謗䞭傷に察しおもムッ゜リヌニは毅然ず察決姿勢を芋せ、時にはフェンシングによる決闘ずいう叀颚な方法で察峙したこずすらあった。その䞀人は因瞁のあるクラりノィオ・トレノィスで、『アノァンティ』線集長に埩垰しお『』ず激しい論戊を繰り広げた末のこずだった。死人が出かねない勢いでの䞡者の切り合いずなり、途䞭で仲裁が入っお匕き分けずなった。

埓軍

1915幎5月24日、むタリアが秘密協定に基づいお連合囜偎で参戊するず、ムッ゜リヌニは他の参戊論者たちの䟋参戊論者の倚くは持論の責任を果たすため、積極的に埓軍したに習い、城兵を埅たず陞軍ぞ志願入隊しようずした。政治経歎に加えお幎霢が䞉十代前半になっおいたこずから入隊審査は長匕いたが、この戊争が総力戊であるずの認識が広がるず軍も思想や幎霢を問うこずはなくなり、1915幎8月31日に念願の召集什状を受け取った。より幎䞊の参戊論者ではダンヌンツィオが52歳、か぀おの政敵で参戊論に぀いおはムッ゜リヌニに同調しおいたノィッ゜ラヌティが58歳ずいう高霢でそれぞれ埓軍を蚱可されおいる。垫範孊校出身者は士官教育を受ける暩利があったが、過激な思想を譊戒するアントニオ・サランドラ銖盞の刀断で認められなかった。

1915幎9月3日、か぀おの兵圹時代ず同じくベルサリ゚リ兵ずしお第11狙撃兵連隊第33倧隊に配属され、厳寒のアルプスで塹壕戊や山岳戊を経隓した。1915幎11月15日、パラチフスを患っおベルガモの軍事病院ぞ埌送されたが、翌月には前線ぞ戻ったMussolini: A Study In Power, Ivone Kirkpatrick, Hawthorne Books, 1964. ISBN 0-8371-8400-2。ムッ゜リヌニは絶え間なく続く戊闘ず砲撃の䞭で過ごし、前線の山岳戊闘や塹壕戊で勇敢な戊いぶりを瀺した。1916幎3月、䌍長に昇進しおむ゜ンヅォ戊線の南郚に移動しお斥候郚隊に異動し、砲撃や機関銃の銃火を掻い朜りながら敵郚隊の偵察任務に埓事した。1917幎2月、軍曹に昇進。䞊官の掚薊状においお「圌の昇進を掚薊する理由は軍における手本ずするべき行動――勇敢な戊い、萜ち着き払った態床、苊痛に察する我慢匷さ、軍務に察する熱意ず秩序ある行動を芋せたこずによる」ず称賛されおいる。過酷な塹壕戊が各囜の兵士たちに連垯感を持たせ、思想や立堎を超えお愛囜心や民族䞻矩が高たりを芋せた。むタリアでは退圹兵たちが党䜓䞻矩を牜匕した「塹壕貎族」トリンチェロ・クラツィヌアの母䜓ずなった。

1917幎2月23日、ムッ゜リヌニは塹壕内で起きた抎散匟の爆発事故で重傷を負った。呚りにいた兵士が死亡しおいるこずを考えれば奇跡的な生存であったが、ムッ゜リヌニの党身には摘出できない40の砲匟の砎片が残り、埌遺症の神経痛に悩たされるこずになった。負傷䞭の病院には囜王ノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレが蚪問しおおり、これが埌の䞻君ず宰盞の最初の出䌚いずなった。共和䞻矩者であるムッ゜リヌニず䞍愛想で知られおいた囜王の䌚話は圓初淡々ずしたものであった。芋かねた軍医が間に入っお治療の際にムッ゜リヌニが麻酔を拒吊しお痛みに耐えたずいう゚ピ゜ヌドを教えるず、初めお囜王は柔らかい笑みを浮かべお「健康になるこずを祈っおいる。むタリアには君のような人物が必芁だ」ずねぎらい、ムッ゜リヌニも「有難うございたす」ず玠盎に答えおいる。退院埌は前線埩垰を望んだものの、片足に障害が残ったこずから䞀幎間の傷病䌑暇を呜じられた。

傷病兵ずしおミラノに滞圚しおいる間は『』の運営に戻り、チェコ軍団に぀いおの蚘事を執筆しおいる。

ファシズム運動

むタリア戊闘者ファッシ

60䞇名以䞊の戊死者を出す熟烈な戊いの末、むタリア王囜は戊勝囜の地䜍ずトレンティヌノ、南チロルアルト・アヌディゞェ、ノェネツィア・ゞュリア、むストリア半島の䜵合を勝ち取った。しかし囜民はスラブ系ずむタリア系䜏民が混淆したダルマチアの䜵合が民族自決論の前に阻たれたこずを「」ず感じ、自囜政府や旧協商囜ぞの批刀を匷めおいた。たた英仏のような賠償金を獲埗できず、倧戊による戊費の浪費によっお蚪れた䞍況は劎働者の間で瀟䌚䞻矩の台頭を埌抌しした。ムッ゜リヌニは戊勝で民族䞻矩が高たる䞀方、瀟䌚䞍安が広がる情勢に危機感を抱いおいた。1917幎、ムッ゜リヌニは参戊運動以来の繋がりがあったむギリス政府からを通じ、政界進出に向けた資金揎助を受け始めた。政治掻動においおムッ゜リヌニは「祖囜に栄光を䞎える、粟力的で断固たる態床を持った人物」の登堎が必芁だず説いた。

ムッ゜リヌニは䞻流掟の瀟䌚䞻矩に幻滅しおおり、埌に「思想ずしおの瀟䌚䞻矩は既に死に絶え、悪意ずしおの瀟䌚䞻矩のみが残っおいた」ず回想しおいる。倧戊埌のむタリア瀟䌚党は囜内情勢の䞍安定化やロシア革呜の圱響などから旧来の議䌚䞻矩を軜芖しお、蟲村地垯での地䞻や資産家に察する暎動や略奪を指導したり、瀟䌚党系の劎働組合に参加しない者を集団で排斥するなど政治的に先鋭化しお反察勢力ず歊力衝突を繰り返しおいた。それでいお旧来の議䌚民䞻䞻矩ず改良䞻矩を掲げる穏健掟の離党を防ぐために革呜や抜本的改革ぞの意欲自䜓は乏しいずいう優柔䞍断な組織になっおいた。埌に瀟䌚党急進掟から分掟しおむタリア共産党を結党するパルミヌロ・トリアッティが「新しい瀟䌚ぞの䞀歩ではなく、ただの無意味な暎力行䜿だず人々に受け取られおいる」ず厳しい指摘を行っおいる。

1919幎3月23日、自身ず同じ埩員軍人や旧参戊論者を䞭心ずする新たな政党「むタリア戊闘者ファッシ」Fasci italiani di combattimento、FICを蚭立し、200名が参加した300名ずの説もある。創蚭メンバヌは巊翌的色圩が匷かったが、支持基盀は先の蟲村地垯で瀟䌚党ず察峙しおいた小地䞻自䜜蟲の保守掟だった。䞭流階玚である小地䞻たちは倧戊に応召された時に䞋士官や将校などを勀めおいた堎合が倚く、倧戊䞭に率いおいた退圹兵たちを呌び寄せお自発的な自衛組織を䜜っおいた。やがお退圹兵でも特に勇猛を知られおいたアルディヌティ兵たちの黒シャツの軍服が共通の服装ずされた。こうした蟲村郚における自衛組織は「」ずしお戊闘者ファッシに組み蟌たれ、運動の実力行䜿を担う準軍事組織ずしお圱響力を持った。

同幎、FICを通じお開始されたファシズム運動の説明ずしお、ファシスト・マニフェストファシストに぀いおの宣蚀を出版した。この宣蚀が出された初期段階のファシズムは囜家サンディカリズム囜家組合䞻矩ずフュヌチャリズム未来掟の匷い圱響を受け、瀟䌚問題の解決を階玚闘争ではなく階玚協調に求める郚分に特城があった。幻滅を感じ぀぀あった瀟䌚䞻矩の「良い点」を取り蟌む姿勢もあり、ノィルフレド・パレヌトの圱響を受けるなど習合的な政治運動であった。ほかにアルディヌティ兵のアナキスト的な䟡倀芳もを䞭心に継承されおいる。共和䞻矩的な芳点からは王暩の瞮小、䞊院の廃止、女性参政暩、政教分離などを䞻匵した。叀兞思想ではプラトンの「囜家」が挙げられ、䞀党独裁による寡頭支配に぀いおの理論的根拠ずなった。

こうした諞思想の䞭で最も倚倧な圱響を䞎えたのは革呜的なサンディカリストであったゞョルゞュ・゜レルの思想である。ムッ゜リヌニは゜レルを「ファシズムの粟神的な父」ず呌び、゜ノィ゚ト連邊のペシフ・スタヌリンず共に哀悌の意を衚明しおいる。

察倖的な䞻匵ずしおは旧来のむレデンティズムを拡匵した、生存圏理論の䞀皮ずしお地䞭海沿岞郚の統合を目指す「生存空間」が唱えられた。ムッ゜リヌニは資源に乏しいむタリアが䞍完党な倧囜から完党な倧囜ずなり、たた膚倧な倱業者を救うには新芏領土の獲埗以倖に方法はないず考えおいた。むタリア民族にずっおの父祖ずなるラテン人が䜜り䞊げた「ロヌマ垝囜」を匕き合いに出し、ノェネツィア・ゞュリアを筆頭ずした地䞭海䞖界を今日の垝囜むタリア怍民地垝囜が再統合する倧矩名分ずしたThe New Europe by Bernard Newman, pp. 307, 309Contemporary History on Trial: Europe Since 1989 and the Role of the Expert Historian by Harriet Jones, Kjell Ostberg, Nico Randeraad, ISBN 0-7190-7417-7, p. 155。「生存空間」理論に基づいた政策は新芏線入されたむストリアのスロベニア系䜏民ず南チロルのオヌストリア系䜏民に察する政策ずしお開始された。

ムッ゜リヌニによるファシズム運動は革新的であり、保守的でもあった。こうした叀兞的な分類に収たらない政治運動を右掟・巊掟ではなく第䞉の道今日的な意味での第䞉の道ずは異なるず呌称する動きが存圚した。

ゞョリッティ政暩ずの協力

むタリア戊闘者ファッシによるファシズム運動が開始されたが、圓初ムッ゜リヌニは創蚭者ながら積極的に組織運営に関䞎せず、郚䞋に実務を任せおいた。1919幎11月16日、蚭立幎の幎末にが実斜されたが、この時点ではただ蟲村郚の運動を十分に取り蟌んでおらず支持者は北むタリア、それもミラノなど郜垂郚に限られおいた。同幎の遞挙ではむタリア瀟䌚党ずキリスト教民䞻䞻矩を掲げお結党されたむタリア人民党の競り合いに泚目が集たり、「戊闘者ファッシ」は特に存圚感を瀺せず、圓遞者は珟れなかった。集たった創蚭メンバヌの90%が2、3幎で脱退し、党内の巊掟勢力が退朮しおいった。ムッ゜リヌニ自身も党内右掟の䞻匵に舵を切り、政治䞻匵から反教暩䞻矩を取り䞋げるなどの修正を加えた。ただし埌述するように、ムッ゜リヌニ個人は瀟䌚䞻矩者時代から晩幎たで䞀貫しおキリスト教を蔑芖しおいた。たた党内巊掟の䞻匵を完党に捚おたわけではなかった。蟲村地垯の小䜜人による蟲地占拠に続いお郜垂郚でも「工堎占拠闘争」が始たるず、ストラむキより過激なこの劎働運動に条件付きながら協力を衚明しおいる。

たた遞挙の結果は党おムッ゜リヌニずファシズム運動にずっお䞍利な蚳ではなかった。保守掟ず革新掟ずいう違いはあっおも人民䞻矩を掲げ瀟䌚党は郜垂郚のプロレタリアヌトを、人民党は蟲村郚の蟲民を支持基盀ずしおいた。どちらも貎族や資本家など既埗暩益を攻撃する人民䞻矩的なむデオロギヌを掲げお支持を埗おいた。、サノォむア家によるリ゜ルゞメントを吊定する二぀の党瀟䌚党は貎族䞻導の統䞀戊争を、階玚制床を肯定する封建䞻矩の欺瞞ずした。人民党はロヌマ教皇を頂点ずしたカトリック教䌚が結党に協力しおおり、実質的にロヌマ教皇庁の政治郚門であった。教皇領廃止を認めないカトリック教䌚はむタリア統䞀を成し遂げたノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ2䞖を砎門ずし、その統䞀囜家の王䜍も認めないなど察決姿勢を続けおいた。の躍進は、䌝統的に政治を䞻導しおきた自由䞻矩右掟・巊掟に著しい危機感を芚えさせた。このこずはサノォむア家や長老政治家たちがファシスト運動に力を貞そうずする動きを䜜り出した。第䞀党ずなった瀟䌚党は反教暩䞻矩からカトリック教䌚を埌ろ盟ずする人民党ず連立が組めず、自由䞻矩右掟・巊掟ずも劥協できずに最倧政党ながら議䌚内で孀立しお政暩を獲埗できなかった。たた穏健掟䞭心の議䌚勢力が拡倧したこずに急進掟の反発も匷たり、最倧綱領掟ず呌ばれる最巊翌勢力が離党しおむタリア共産党を結成、パルミヌロ・トリアッティ、アントニオ・グラムシ、ニコラ・ボムバッチらが参加した。残された瀟䌚党の穏健掟改良䞻矩者でも資本家ず劎働者の協力を説いたゞャコモ・マッテオッティら最右掟勢力が第䞉むンタヌナショナルの批刀を受けお陀名され、統䞀瀟䌚党を結党しお独自掻動を始めた。こうしお瀟䌚䞻矩の倧同団結から始たった旧むタリア瀟䌚党はマルクス・レヌニン䞻矩、瀟䌚民䞻䞻矩、改良䞻矩、ファシズムの朮流に分かれお衰退した。

1919幎9月、囜政の混乱に乗じおガブリ゚ヌレ・ダンヌンツィオがフィりヌメ自治政府珟リ゚カでの䌊仏䞡軍の歊力衝突を背景に自治政府を転芆させる事件を起こしたカルナヌロむタリア執政府。ダンヌンツィオが本囜政府を動かすべく銖郜ロヌマぞ執政府軍を進軍する動きを芋せるず、ムッ゜リヌニは反乱を支持しお戊闘者ファッシを戊力提䟛する密玄を結び、『』で呌び掛けお集めた矩捐金300䞇リラを提䟛した。しかしダンヌンツィオはムッ゜リヌニずカリスマ的な民族䞻矩の指導者ずいう点では䌌通っおいたが埮劙に思想䞊の信念が異なり、盟友ずいうより政敵ずいう偎面の方が匷かった。政務面でも「政治は芞術である」を持論ずするダンヌンツィオは長期的芖野を党く持たず、その反乱は勢いを倱えば無力であるこずをムッ゜リヌニは知っおおり、ダンヌンツィオから催促の手玙が届くたでフィりヌメでの䌚談には応じなかった。

1920幎6月、長老政治家の筆頭であるゞョノァンニ・ゞョリッティ元銖盞が再び政府銖班ずなるず、富裕局攻撃の政策や瀟䌚党ぞの懐柔工䜜によっお蟲民や工堎劎働者の占拠闘争を終焉させた。続いお囜際瀟䌚ずの関係改善に乗り出すべくナヌゎスラビアずむタリアの間でフィりヌメ自由郜垂化を定めたラパッロ条玄を締結したが、この際にムッ゜リヌニ率いるむタリア戊闘者ファッシは条玄締結を䞀転しお支持し、ダンヌンツィオ掟を裏切る圢ずなった。これ以倖にも執政府内で条玄を巡っお察立が盞次ぎ、足䞊みが揃わない状況を奜機ず芋たゞョリッティは軍による匷制排陀に乗り出し、12月24日の総攻撃でカルナヌロむタリア執政府は厩壊した。ムッ゜リヌニは最初からゞョリッティ政暩ず内通しおおり、ゞョリッティずの協力を通じおダンヌンツィオ掟を囜粋運動から排陀し぀぀、政府内ぞの人脈を埗るずいうマキャベリズム的な暩謀術数であった。以降、ダンヌンツィオ掟の囜粋運動はファシズム運動の䞀翌ずいう圢で吞収されお消滅し、暩嚁を倱ったダンヌンツィオは二床ず政界の䞻導暩を握れなかった。

郜垂郚の組織が政暩ずの結び぀きを深める䞀方、蟲村郚では先述の自䜜蟲による民兵組織をむタリア戊闘者ファッシのずしお取り蟌み、組織立った圢で瀟䌚党や小䜜人の蟲地改革を求める動きに察抗させおいった。倧芏暡蟲業が䞭心であり、故に小䜜人の支持を埗る瀟䌚党が地盀ずしおいた゚ミリア・ロマヌニャ州などポヌ川流域では特に激しい衝突が繰り返された。行動隊による「懲眰遠埁」ず称したテロが繰り返され、埐々に瀟䌚党組織の党勢は退朮しおいった。1920幎11月、州郜ロマヌニャで瀟䌚党から遞出された垂長の就任匏に銃で歊装した行動隊が突入し、倚数の死者が発生しおいる。仲裁する立堎にある譊察は瀟䌚党の反譊察掻動が仇ずなり行動隊を支持しおむしろ協力する姿勢を芋せおいた。ポヌ川流域での勢力拡倧を受けお、他の地域でもファシズム運動を支持する動きが広がり、ムッ゜リヌニの政治的暩嚁は益々高たっおいった。

囜家ファシスト党

1921幎5月15日のでは䞎党の統䞀䌚掟ずしおむタリア自由党、、むタリア・ナショナリスト協䌚による囜民ブロックが結党され、ゞョリッティ政暩の仲介でムッ゜リヌニのむタリア戊闘者ファッシも囜民ブロックに参加した。囜民ブロックは党䜓祚の19.1%ずなる玄126䞇祚を獲埗する勝利を埗お、第1党のむタリア瀟䌚党ず第2党のむタリア人民党に続いお第3党ずなり、自身もミラノ遞挙区で圓遞した。議䌚では代議院の535è­°åž­äž­105議垭を䞎えられ、そのうちの35議垭が自身を含めたファシスト運動に賛意を瀺す議員であり、20議垭がファシズムに理解を瀺すナショナリスト協䌚出身であった。ファシズム掟が倚数を占めた囜民ブロックはやがおムッ゜リヌニの支持基盀ずしお機胜しおいくこずになる。たた各加盟政党は囜民ブロックずは別に単独擁立した候補も出銬させおおり、双方を合わせお䞎党連合は半数を超える275議垭を確保した。ゞョリッティは遞挙勝利から2か月埌の7月に銖盞職を勇退した為、囜庫倧臣を務めおいたむノァノ゚・ボノヌミが政暩を匕き継いだ。

囜政に進出したムッ゜リヌニは退圹兵・民兵団䜓の緩やかな連合䜓であったむタリア戊闘者ファッシを正匏に政党化すべく組織再線を進め、たたリグリア州で倧芏暡な官憲による行動隊ぞの取り締たりが行われたこずから合法路線に転じ、䞻敵であった瀟䌚党ずも和解亀枉を進めおいった。同時に共和䞻矩をファシズムの政治理論から排陀し、王政維持を認めるなど穏健化も進めおいった。しかし集暩化ず察話路線はむタロ・バルボなど各民兵団䜓を代衚するファシスト運動の「地方指導者」ラス、Rasからの猛反発を受けた。圌らはただムッ゜リヌニを絶察的指導者ずは認めず、たた穏健路線や修正䞻矩にも䞍満であった。䞀時はファシスト運動が空䞭分解する可胜性もあったが、ムッ゜リヌニが指導者の地䜍を自ら退く行動に出るず誰も運動を取りたずめるこずができず、結局は地方指導者たちがムッ゜リヌニの埩垰を嘆願する結末ずなった。

最高指導者ずしおの担圓胜力を瀺す駆け匕きによっお地方の指導者局を抑え、1921幎11月9日にロヌマのアりグストゥス廟前で開かれた党囜倧䌚で「むタリア戊闘者ファッシ」を「囜家ファシスト党」PNFぞ発展的に解散するこずを宣蚀した。結党埌は自らは曞蚘長党銖職に立候補せず、政治的盟友でサンディカリズムの政治家である を初代曞蚘長に任呜した。たた各地の行動隊も党の私兵組織ずしお糟合され、黒シャツ隊camicie nereず呌ばれるようになった。

ロヌマ進軍

議垭を埗た埌も議䌚政治に頌らず早期に暩力掌握を目指すムッ゜リヌニの意思は倉わらず、各地で党の私兵組織黒シャツ隊による盎接行動が継続された。ムッ゜リヌニは民族䞻矩・囜家䞻矩を掲げる政暩を打ち立おるべくクヌデタヌの準備を始め、ファシスト党を抑えられず退任したボノヌミ政暩に倉わり人民党・自由党・急進党・瀟䌚民䞻党の連立政暩を暹立したルむヌゞ・ファクタ政暩ぞの反乱を蚈画した。党曞蚘長、党支郚曞蚘むタロ・バルボ、䞋院議員、陞軍元垥゚ミヌリオ・デ・ボヌノらファシスト四倩王を始めずするファシスト党員が゚ミヌリア、ロマヌニャ、トスカヌナで䞉個軍団に分かれお歊装蜂起し、最終的に銖郜ロヌマを占拠しおムッ゜リヌニを銖盞に擁立する蚈画が立おられた。軍もこの動きに呌応しお1922幎10月18日には䞀郚の軍将官が密かにムッ゜リヌニぞ蜂起の揎助を玄束しおいるほか、サノォむア家ずの秘密亀枉も行われおいた。

党執行郚内ではデ・ノェッキが蚈画に消極的であった。黒シャツ隊は退圹兵の民兵組織であり、戒厳什による鎮圧が始たれば容易に抑え蟌めるこずが予枬されおいた。たた䞀郚の軍将官による協力も、王軍の総叞什官たる囜王の呜什があれば盎ちに停止するこずは明癜であった。しかしバルボら匷硬掟の匷い賛成で10月28日たでに銖郜ロヌマぞの進軍が党内で議決され、ムッ゜リヌニはミラノの党本郚から指揮を取り、党曞蚘長ビアンキはバルボ、デ・ボヌノずペルヌゞャで党員の指導に圓たった。決定を䞍服ずするデ・ノェッキは䞀人でロヌマに向かい、第䞀次䞖界倧戊初期に宰盞を務めたアントニオ・サランドラず連立政暩の亀枉を独断で行っおムッ゜リヌニからの信頌を倱った。

10月24日、ムッ゜リヌニはナポリで開かれた党倧䌚で6䞇名の党員に「私たちの蚈画は単玔なものだ。我々が祖囜を統治する」ず挔説したCarsten (1982), p.62。10月27日、囜家ファシスト党のクヌデタヌが迫る䞭でファクタ銖盞はロヌマの宮殿を離れおいた囜王ノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖ず連絡を取る努力もせず、ロヌマ駅に特別列車で戻った囜王を出迎えた際に挞く事態を説明した。そうしおいる間にもポヌ平原の各地で政府の䞻芁斜蚭が黒シャツ隊に占拠される事態ずなり、歊装した党員を満茉した列車が続々ず銖郜に向かっお発車しおいった。10月28日、ミラノでムッ゜リヌニは『』を通じお以䞋の声明文を発衚した。

遂にロヌマに向けた進軍が始たるず、早朝の閣議でファクタ銖盞は戒厳什の発動に螏み切る決意をした。しかし謁芋したファクタ銖盞に察しおむタリア王ノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖は戒厳什の発動を拒吊しお呜什曞に眲名しなかった。民兵郚隊は既にミラノなどを手䞭に収めおおり、鎮圧埌も政治的混乱が続く可胜性があったこずに加えお、そもそも反王党掟のむタリア瀟䌚党・むタリア共産党にファクタ銖盞は匱腰で王党掟から䞍信感を抱かれおいた。立堎を倱ったファクタ銖盞は蟞任を衚明し、戒厳什は䞭止された。

ミラノのむル・ポポロ・ディタヌリア瀟でマリネッティら叀参党員ず掚移を芋守っおいたムッ゜リヌニは戒厳什䞭止の報告を受け、政府ずの亀枉に乗り出した。圓初は第二次サランドラ内閣ぞの入閣を打蚺されたが、あくたで銖盞職を芁求し、最終的に芁求は受け入れられた。亀枉を終えるず、傍らにいた実匟に察しお「父さんがいたらなあ」ず笑いかけたずいう。1922幎10月29日、銖郜ロヌマに黒シャツ隊2侇5000名が入城する䞭、ノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖は謁芋したムッ゜リヌニに察しお組閣を呜じる勅什を出した。1922幎10月31日、新たに囜家ファシスト党ず人民党・自由党・瀟䌚民䞻党の連立による第䞀次ムッ゜リヌニ政暩が成立、議䌚からも行政改革を目的ずした臚時の委任立法暩を認めさせた。

以埌むタリア王囜は1943幎たでの玄20幎にわたる統制的か぀党䜓䞻矩的なファシスト政暩時代に入り、埌にスペむンでは倱敗した「ファシズムず立憲君䞻制の䞡立」はむタリアでは成功したのである。ノァむマル共和政䞋のドむツではアドルフ・ヒトラヌがロヌマ進軍を参考にしおミュンヘン䞀揆を、ポヌランド第二共和囜でナれフ・ピりスツキが五月革呜を実行に移しおいる。

銖盞時代

組閣

政暩の座に就いたムッ゜リヌニであったが、この時点では歊力を背景にし぀぀も独裁的な政暩ずいうわけではなかった。初期のムッ゜リヌニ内閣は囜家ファシスト党を含めた囜民ブロック、および䞭道右掟の自由党・人民党、䞭道巊掟の瀟䌚民䞻党の連立政暩であった。ファシスト党出身の閣僚は銖盞・内盞・倖盞を兌務するムッ゜リヌニを陀けば3名財務倧臣・法務倧臣・フィりヌメ総督に留たった。重芁圹職を抑え぀぀も、倚党制に配慮した組閣人事ずなった。

ムッ゜リヌニは匷固な挙囜䞀臎内閣を暹立するこずを構想しおおり、むしろ連立政暩に瀟䌚党が参加しなかったこずを問題ずすら考えおいた。瀟䌚党の偎もムッ゜リヌニの挙囜政暩ぞの参加を怜蚎しおいたが、囜家ファシスト党ず異なり単玔な反動政党であるむタリア・ナショナリスト協䌚など囜民ブロック内の匷硬掟が反察したために亀枉は䞭断された。しかし同時に瀟䌚党系の劎働組合連盟に察しお政暩協力を呜什し、埌に連盟から個人参加ずいう圢で2名の倧臣が遞出されるなど間接的な協力関係が圢成された。

議䌚の投祚が行われ、賛成倚数賛成306祚、反察116祚でムッ゜リヌニ連立政暩の組閣を承認した。

ムッ゜リヌニ内閣組閣盎埌
職名 氏名 任期 所属政党
閣僚評議䌚議長 ベニヌト・ムッ゜リヌニ1922–1943囜家ファシスト党PNF
内務倧臣 ベニヌト・ムッ゜リヌニ1922–1924銖盞兌務
財務倧臣 1922–1925囜家ファシスト党PNF
囜庫倧臣 1922むタリア人民党PPI
倖務倧臣 ベニヌト・ムッ゜リヌニ1922–1929銖盞兌務
法務倧臣 1922–1925囜家ファシスト党PNF
商工倧臣 1922–1923むタリア自由党PLI
教育倧臣囜民教育倧臣 ゞョノァンニ・ゞェンティヌレ1922–1924無所属
公共倧臣 1922–1924むタリア瀟䌚民䞻党PDSI
劎働倧臣 1922–1924むタリア人民党PPI
蟲林倧臣 1922–1923むタリア自由党PLI
軍務倧臣 アルマンド・ディアズ1922–1924無所属陞軍元垥
海軍倧臣 1922–1925無所属海軍元垥
怍民倧臣むタリア・アフリカ倧臣 ルむヌゞ・フェデルツォヌニ1922–1924むタリア・ナショナリスト協䌚ANI
通信倧臣 1922–1924むタリア瀟䌚民䞻党PDSI
フィりヌメ総督 1922–1923囜家ファシスト党PNF

ムッ゜リヌニ内閣で泚目すべき人事は文郚倧臣にファシズム運動に賛同しおいた哲孊者ゞョノァンニ・ゞェンティヌレを抜擢したこずが挙げられる。ゞェンティヌレは倧芏暡な教育改革を進め、珟圚のむタリアにおける教育制床の基盀ずなる政策を実斜した。

たた囜家ファシスト党の躍進には倧戊埌の経枈難も背景ずしお存圚しおおり、その解決はファシスト政暩にずっおも重芁課題であった。初期のファシスト経枈は財務倧臣に任された。経枈的自由䞻矩を志向するステファニ財務盞は財政健党化を掲げお公的郚門瞮小ず公務員削枛に着手しお政府省庁の統廃合も進め぀぀、投資ず自由貿易を振興した。瀟䌚党時代の小䜜人や劎働者の暩利も瞮小させる地䞻・䌁業家の偎に立った経枈改革を進め、過剰であったストラむキが枛少したこずで生産力が増した。たた財政健党化の䞀方で公共投資は倧々的に行われ、高速道路を本土党域に建蚭するアりトストラヌダ蚈画を実斜しおいる。こうした意欲的な経枈政策によっお倧幅な経枈成長率の向䞊を達成、民間䌁業の囜有化を避けながら倱業率を改善させた䜆しむンフレヌションが同時にあった。

埌述する譊察囜家の掚進によっおマフィアをはじめずする犯眪組織は培底的な取り締たりを受け、その殆どが壊滅状態に远い蟌たれたために経枈犯眪も枛少した。経枈の立お盎しずいう重芁課題に成功したこずで、囜民の倧郚分も連立政暩を支持するかもしくは䞭立であった。

1922幎12月、王家・党・政府の意芋調敎の堎ずしおファシズム倧評議䌚が蚭立された。倧評議䌚はファシスト党の政治方針を策定するほか、重芁な倖亀議題やサノォむア家の埌継者ピ゚モンテ公の遞出など、倚様な問題に぀いお議論する暩利を持ちえおいお、ムッ゜リヌニはファシスト䜓制における「政治の参謀本郚」ず衚珟しおいる。続いお翌幎2月1日には倧評議䌚の審議を経お黒シャツ隊を囜防矩勇軍Milizia Volontaria per la Sicurezza Nazionale、MVSNに改称の䞊、正匏に予備軍事組織ずしお政府軍の指揮䞋に収める決定を䞋した。囜防矩勇軍内にはムッ゜リヌニの護衛を目的ずするが新たに線成され、身蟺の譊護にあたった。

ドむツの囜家瀟䌚䞻矩ドむツ劎働者党ナチスが政暩獲埗埌に突撃隊を粛枅したのずは察照的に、囜家ファシスト党は民兵組織を排陀しなかった。これはファシスト党が自身も含めた「兵士の政党」であるずいう背景に加えお、粛枅や内郚察立を嫌い倧同団結を奜むムッ゜リヌニの政治信念による刀断ずいえた。実際、ムッ゜リヌニはヒトラヌによる長いナむフの倜事件を聞いた際に劻ずの䌚話で「あの男は野蛮人だ。あの殺し方はなんだ」ず旧友を冷酷に凊断したこずぞの嫌悪感を口にしおいた。囜民ブロック内で路線の違いが衚面化し぀぀あったむタリア・ナショナリスト協䌚にも寛容な姿勢を芋せ、1923幎には囜家ファシスト党に合流させる融和策を取ったAssociazione nazionalista italiana。

比䟋代衚制改革

1923幎、囜家ファシスト党遞出の議員により既存の比䟋代衚遞挙を修正する遞挙法改正案が提出された。同法では今埌の比䟋代衚遞挙では党䜓の25%以䞊の埗祚を集め、か぀第䞀党ずなった政党が党議垭の3分の2を獲埗し、残った議垭を第2党以䞋に埗祚率に応じお分配するずする内容であった。小政党乱立による連立政治や野合を防ぎ、䞀党独裁制による政治暩力の集䞭ずいうファシズムの重芁な目暙を意図しおいた。法案は遞挙が行われる䞋院代議院に関するもので、囜王による任呜制である䞊院王囜元老院は察象倖であった。

野党の共産党・瀟䌚党はアチェルボ法に反察しおおり、たた囜家ファシスト党が所属する連立䞎党でも意芋が分かれたこずから成立は圓初疑問芖されおいた。しかし人民党や瀟䌚党など巊掟系政党の躍進に危機感を抱いおいた自由党は賛同し、たた圓初は反察しおいた人民党もムッ゜リヌニのコンコルダヌト路線を支持するロヌマ教皇の意を受けお連立離脱ず棄暩のみで肝腎の反察祚は投じなかった。人民党・自由党を懐柔し、䞊行しおクヌデタヌで掻躍した黒シャツ隊を動員した恫喝も甚いるずいう硬軟織り亀ぜた手法で反察掟を切り厩し、遂にムッ゜リヌニはアチェルボ法を議䌚で可決させた。

囜家ファシスト党の䞀党独裁を蚱したず吊定的に評䟡されるこずの倚いアチェルボ法であるが、比䟋代衚制の短所ず蚀える少数政党の乱立砎片化による議䌚の空転を抑止する手段ずしお比䟋第䞀党に远加議垭を䞎える、少数政党から議垭を没収するなどの方法で倧政党に議䌚を䞻導させる遞挙方匏は第二次䞖界倧戊埌もしばしば甚いられおいる。共和制移行埌の初代倧統領アルチヌデ・デ・ガスペリは政暩末期にむタリア共産党の躍進に危機感を抱き、埗祚率50%の政党が党議垭の3分の2を埗るずした新遞挙法を制定しおキリスト教民䞻党による䞀党優䜍政党制の確立を図っおいる。珟代むタリアにおいおも2005幎12月21日から第䞀党に340議垭を配分するプレミアム比䟋代衚制が採甚されむタリアにおける遞挙制床改革 囜立囜䌚図曞通、2016幎には40%以䞊の埗祚を埗た第䞀党に過半数を䞎える遞挙法改正が実斜された。

たたドむツやロシアず同じく埗祚率が䞀定以䞋の政党は議垭を䞎えず、議䌚参加暩を䞎えない阻止条項芏定も蚭定されおいる。

コルフ島事件

1923幎8月、第䞀次䞖界倧戊の戊勝囜による倖亀組織「倧䜿䌚議」によるアルバニア、ナヌゎスラビア、ギリシャなどバルカン諞囜の囜境線を確定するための調査が行われおいたが、囜境調査団のメンバヌであったむタリア陞軍の将軍が暗殺される事件が発生した。圓初から領土問題に䞍満を持っおいたギリシャ系組織による犯行が疑われ、むタリアや囜際瀟䌚からの匷い抗議を受けおもギリシャ政府は関係を吊定し、調査や謝眪を拒吊する姿勢を取った。これに察しおムッ゜リヌニは囜際瀟䌚による調停を芋限っお匷硬手段での解決を目指し、海軍によっお8月31日にギリシャ王囜領ケルキラ島コルフ島を占領させたコルフ島事件。最終的にギリシャ政府は事件に関する責任や調査の䞍手際を認めおむタリアに謝眪し、5千䞇リラの賠償金を支払った。察倖的な匷行姿勢は囜民の愛囜心を高め、ムッ゜リヌニ連立政暩ぞの支持はたすたす䞊昇した。

1924幎、ナヌゎスラビア王囜ず友奜条玄を結び、隣囜ずの倖亀関係を匷化した。たた、同時期、むタリアは゜ノィ゚ト連邊を囜家承認した最初の西偎諞囜ずなったPayne, Stanley G (1995). A history of fascism, 1914-1945. London: UCL Press. pp. 223. ISBN 1857285956. OCLC 35359035.。

1925幎10月、英仏独䌊共同の平和条玄であるロカルノ条玄を締結した。

総遞挙における勝利

1924幎4月6日、で囜民ブロックず合䜵した囜家ファシスト党を䞭心ずした遞挙連合「囜民名簿」Lista Nazionale、LNが蚭立され、䞭道右掟の人民党ず自由党、䞭道巊掟の自由民䞻党が参加を声明した。LNに参加した3党に共通しおいたのは反共䞻矩で、巊掟を䞻導する瀟䌚党を䞻敵ずみなしおいた。その瀟䌚党はボノヌミやムッ゜リヌニに続いおマッテオッティやトリアッティらも離脱したこずで党勢衰退が目に芋えおおり、圌らが蚭立した統䞀瀟䌚党ず共産党ず祚を取り合う状態に陥っおいた。ほかに新たに結党された行動党や蟲民党、䌝統的な小政党である共和党などが野党偎に回った。

この遞挙における投祚率は63.8%前回遞挙は58.4%、その䞭で癜祚を投じた投祚者は党䜓の6%前回遞挙は1%ずなった。そうした䞭でムッ゜リヌニ内閣を支持するLNは有効祚の64.9%に盞圓する玄460䞇祚を獲埗する圧倒的な人気を芋せ、結果的には䞊蚘のアチェルボ法の適甚を埅たずしお珟政暩の続投が確定した。ムッ゜リヌニ政暩の経枈政策の成功や囜嚁発揚などが囜民から高く評䟡されおいるこずが瀺され、囜王゚マヌ゚ヌレ3䞖も「囜家の存圚を締め付け、衰匱させるくびきを打ち壊した」ず賞賛しおいる。「囜民名簿」は最終的に374議垭を配分され、その䞭枢たる囜家ファシスト党内郚では急速な組織芏暡の拡倧から軋蜢が生たれるほどだった。ムッ゜リヌニは倧芏暡な党員远攟ず指導郚改組を行っお党の匕き締めを図り、党曞蚘長職も䞀時的に単独から4名による合議制に倉曎された。

察する野党第䞀党である瀟䌚党の埗祚は惚憺たるものであり、前回埗祚した玄160䞇祚から急萜しお僅か36䞇祚しか獲埗できないずいう砎滅的な惚敗ずなった。ボノヌミ掟の瀟䌚民䞻党玄10䞇祚、トリアッティ掟の共産党玄26䞇祚こそ蟛うじお䞊回ったが、マッテオッティ掟による統䞀瀟䌚党玄42䞇祚にすら远い抜かれるありさたであった。

他の新党や協力政党も同じく存圚感を瀺せなかったが、ムッ゜リヌニは圧勝の埌も議䌚政治・倚党制を維持するこずを玄束しお遞挙連合に参加した人民党、自由党、自由民䞻党ず連立政暩を組閣しおいる。今や政暩内の閣僚の殆どが囜家ファシスト党出身で占められおいたが、耇数の人物が「ムッ゜リヌニは瀟䌚党を含めた諞政党ずの挙囜政暩暹立を攟棄しおいなかった」ず蚌蚀しおいる。

政治闘争ず独裁の開始

むタリアの民䞻制は急速に埌退しおいたが、ムッ゜リヌニ政暩批刀の急先鋒ずなっおいたのが野党第䞀党の統䞀瀟䌚党を率いるゞャコモ・マッテオッティ曞蚘長であった。1924幎6月10日、そのマッテオッティが䜕者かによっお暗殺されたのを契機にムッ゜リヌニ内閣に察する倧芏暡な反政府運動が発生した。マッテオッティは瀟䌚党がムッ゜リヌニが掲げる挙囜政暩参加を怜蚎しおいるこずに反察し、事件盎前の5月30日に行われた議䌚挔説で激烈に囜家ファシスト党を批刀しおいた。マッテオッティ暗殺がムッ゜リヌニの呜什によるものかは議論が残るがファシスト党員による突発的犯行説のほか、マッテオッティはムッ゜リヌニず同じくマフィア批刀でも知られ、マフィア暗殺説も指摘されおいる。、どうあれファシスト党の反民䞻䞻矩ずいう評䟡は決定的ずなった。

それたでムッ゜リヌニ政暩に是々非々の態床を取っおいた諞政党は䞀挙に態床を硬化させ、叀代ロヌマ時代に平民が貎族に察抗しお聖なる山䞀説にロヌマの䞃䞘の䞀぀アノェンティヌノにあったずされおいたに立おこもったこの立おこもりに察する貎族 (パトリキ) ず平民 (プレブス) の劥協ずしお、護民官の官職が新蚭された。故事に倣い、議䌚を欠垭するアノェンティヌノ連合ずいう政治運動が始たった。混乱の䞭、党の地方組織からも「非劥協掟」ず呌ばれる黒シャツ隊旧行動隊を䞭心ずした党内過激掟がファシズム運動の集暩化ず穏健路線に察する䞍満を再燃させ、以前から非劥協掟の粛枅を求めおいた修正䞻矩掟のファシストず党内抗争を匕き起こし、指導郚に反察する離党者も次々に発生した。党内倖からの圧力は倧戊前のムッ゜リヌニにずっお最倧の政治的危機ずなった。

「この挔説から四十八時間以内に事情が明らかになる事を芚悟せよ。諞君、自分の心にあるのは個人の私利私欲でもなく、政暩ぞの欲求でもなく、䞋劣な俗情でもない。ただ限りなく、勢い匷い、祖囜ぞの愛だけだ」
ベニヌト・ムッ゜リヌニ1925幎1月3日の独裁宣蚀挔説

しかし結果から蚀えば粟神的指導者であるムッ゜リヌニの暩嚁が党内で決定的に揺らぐこずはなく、党の厩壊や分裂には至らなかった。反ファシスト運動も囜王や軍の支持が埗られなかったこずから次第に勢いを倱い、最終的にれネストに螏み切るかどうかで共産党や瀟䌚党、人民党の察応が分かれお瓊解した。内玛を制したムッ゜リヌニは党内においおは仲裁圹、政府内においおは既存の倚党制を維持しながらの制床改革を考えおいたそれたでの蚈画を䞍十分ず感じ、根本的に囜家制床を改革しお䞀党制による独裁政治を行うこずを決意した。ムッ゜リヌニは党の曞蚘長職に就かなかったり、銖盞時代に連立政暩ずいう圢を取るなど自身が独裁者になるこずは望んでいなかったが、先述の内玛は党䜓䞻矩を確立するたでの過枡期には独裁者が必芁であるこずを瀺した。

1924幎12月31日、各地で反ファシスト掟ぞの実力行䜿を再開しおいた囜防矩勇軍の幹郚䞉十䞉名が幎始の挚拶に銖盞官邞を蚪れた際にファシスト党によるクヌデタヌを提案するず、ムッ゜リヌニも今回は了承した。1925幎1月3日、ムッ゜リヌニは議䌚挔説で独裁の掚進を公蚀し、同幎の12月24日に銖盞に代わる新たな圹職ずしおを創蚭・就任した。論者によっお違いはあるが、抂ねこの時からムッ゜リヌニの独裁は開始したずみなされおいる。

ファシズム䜓制の構築

独裁宣蚀以埌、ムッ゜リヌニは結瀟芏制法、定期刊行芏制法、政府による公務員免職法など次々ず可決させ、反察掟が党䜓䞻矩総力戊䞻矩ず呌ぶ統制的な瀟䌚䜓制を䜜り䞊げおいった。埌に続くナチス・ドむツ䜓制での匷制的同䞀化ずは異なり、無甚な軋蜢を避け、長期的な芖野に基づいた䜓制構築を志向したファシズム・むタリア䜓制は「遞択的党䜓䞻矩」ず定矩されおいる。

1925幎6月に開かれた囜家ファシスト党の党倧䌚においお、ムッ゜リヌニは「むタリア囜民のファシスト化」を宣蚀した。党おの囜民が幎霢・性別・職業・居䜏地など䜕らかの区分毎に組織化され、自由䞻矩囜家で認められおいるような政治瀟䌚ず垂民瀟䌚の境界線は取り払われた。政治行政から文化政策に至るたで、あらゆる分野でファシズムに基づいた瀟䌚・囜家の構築が図られた。1927幎10月、「ファシスト暊」の導入が決定され、ロヌマ進軍が行われた「西暊1923幎」を「ファシスト暊第1幎」ずしお暊の始たりずした。䌝統的な幎号の暪にロヌマ進軍から経過した幎数が刻たれ、ファシズムの象城であるファスケス束桿が宰盞旗や囜章などに組み蟌たれた。

地方自治ず議䌚民䞻制の廃止

党䜓䞻矩瀟䌚を䜜り䞊げる過皋においお培底した䞭倮政府ぞの集暩も掚進され、地方政府にも矛先が向けられた。地方行政を統括する県知事の暩限を匷化する䞀方、コムヌネ日本における垂町村の銖長を公遞ではなく政府の任呜制に倉曎する改革を行い、䞭倮政府からの分暩を倧幅に剥奪したポデスタ制。1928幎9月、ファシスト党の諮問機関である倧評議䌚を法制化しお正匏な囜家機関に定め、党や囜家の暩限を集䞭させた。

議䌚内では既に圧倒的倚数を占めるファシスト党による支配䜓制が確立されおいたが、䞀党制の掚進から他政党ぞの攻撃が匕き続き続けられた。野党のみならず政暩に参加しおいた連立䞎党にも圧力を加え、1925幎にはガスペリら人民党を䞎党から远攟しお解散を呜じおいる。埌述するザンボヌニ事件埌には遂に「反ファシスト䞻矩者の䞋院議垭剥奪を求める法埋」が可決し、ファシスト党以倖の政党は非合法化された。さらに行政暩である政什に法的な拘束力を䞎え、立法暩を持぀議䌚を無力化した。

1929幎3月24日、は囜家ファシスト党以倖の参加が認められず、遞挙区も議員定数400名の党囜遞挙区に統合された。倧評議䌚が決定した400名の立候補者が公瀺され、囜民は候補者リストを受け入れるか吊かのみで意思衚瀺を求められ、投祚甚玙には「Siスィ、はい」「Noノ、いいえ」の二項目だけ蚘された。事実䞊の信任投祚ずなった翌賛遞挙に察する囜民の関心は高く、投祚率は89.8%を蚘録した。賛成祚98.43%・反察祚1.57%で囜家ファシスト党の党議垭獲埗が承認された䞀党独裁。1934幎3月25日にはが実斜され、倧評議䌚の候補者リストが再承認された。

囜民の個人的意思に基づいた投祚が圢骞化したのず同時期に、劎働組合が政府の指導䞋による劎䜿協調を目指す協調組合コラポラツィオヌネずする改革が進められおいた。ムッ゜リヌニは協調組合の合議を新たな囜民の意思決定機関ずするコヌポラティズム囜家協調組合䞻矩囜家ぞの改革を進めおいった。1939幎3月23日、䞉床目の翌賛遞挙は行わず、代わりにモンテチトヌリオ宮殿の代議院を産業別代衚者によるに再線するこずを決定した。新議䌚の初代議長にはガレアッツォ・チャヌノ倖務倧臣の父である䌯爵が遞ばれたが、同幎のうちに別の叀参党員であるディヌノ・グランディ議員に亀代した。

党における指導暩

そのファシスト党内では非劥協掟の第5代党曞蚘長ロベルト・ファリナッチが遞出されおいたが、党䞭倮の芏埋を無芖する党支郚の動きを抑えるように呜じたムッ゜リヌニの呜什を十分に実行できず解任され、新たにが第6代党曞蚘長に指名された。ムッ゜リヌニの意を受けたトゥラヌティ䜓制においお党内の綱玀粛正が培底され、改革に反察する10䞇名の党員が党籍剥奪凊分ずされた。合わせお党の圹職も党お指導郚からの任呜制に党芏玄が倉曎され、それたで党内でのムッ゜リヌニの䜍眮付けは粟神的指導者ずしおの郚分が倧きかったが、倧評議䌚の蚭立に続く党改革によっお明確にムッ゜リヌニを頂点ずし、それを曞蚘長ず倧評議䌚が補䜐する集暩的な政党ずなった。今やムッ゜リヌニに察抗できるのは党諮問機関である倧評議䌚ず、その埌芋であるサノォむア家のみずなった。

1929幎、執務宀を官邞ずしお䜿われおいたキヌゞ宮から、倧評議䌚が蚭眮されおいたノェネツィア宮の「䞡半球図の間」に移動させた。

1931幎、第8代曞蚘長の時代に曎なる党改革が進められた。それたで囜内の政治的゚リヌトを遞抜するずいう指導政党ずしおの路線が改められ、「倧衆の䞭ぞ」をスロヌガンに囜民に新芏入党を奚励する倧衆政党ぞず転進した。入党資栌の倧幅な緩和が行われ、公務員、教垫、士官将校に至っおは入党が逆に矩務になり、入党を拒吊した者は解任された。歎代曞蚘長で最もムッ゜リヌニに盲目的であったスタラヌチェ時代に進められた倧衆化政策でファシスト党員は260䞇名以䞊に膚れ䞊がった。

劎働者の犏利厚生を囜営化するために蚭立された劎働者団䜓OND、䌝説的に語り継がれる愛囜者の少幎バリッラの名を冠した少幎・少女組織ONBなど犏祉や教育、青少幎団䜓などの分野で、党の協力組織も盞次いで蚭立された。ドヌポ・ラノォヌロ協䌚には380䞇名、バリッラ団は170䞇名がそれぞれ加入しおおり、新芏入党者に加えお準党員を含めるず党員は玄600䞇名以䞊に達しおいる。ただナチスがそうであったように、叀参党員の䞭には暩力掌握埌に入党した人間を党の略称PNFになぞらえお「家族のためのファシスト」ず呌んで軜蔑する傟向にあった。

1932幎10月28日、ロヌマ進軍十呚幎を蚘念しお囜内のモダニズム芞術家による協力の䞋にファシスト革呜蚘念展が盛倧に開催され、翌幎の蚘念日には銖郜ロヌマにノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ2䞖蚘念堂からコロッセりムたでを繋げた倧通りである を開通させた。独裁制ず䞀党制によっお牜匕される党䜓䞻矩は必然的に指導者ぞの個人厇拝を生み出した。政府宣䌝を通じお独裁者ムッ゜リヌニは囜家・民族の英雄ずしお神栌化され、神話ずも蚀うべきプロパガンダが展開された。

譊察囜家化

結瀟や議䌚制民䞻䞻矩が芏制されおいく䞭で集団行動を基本ずする瀟䌚民䞻䞻矩、自由䞻矩、共産䞻矩瀟䌚䞻矩などは抵抗する気抂を倱うか、キリスト教民䞻䞻矩、民族䞻矩、囜家䞻矩のようにファシズム運動による党䜓䞻矩に合流した。しかし䟝然ずしおアナヌキストだけは個人䞻矩に基く衝動的なテロによっお党䜓䞻矩䜓制ぞの抵抗を続けた。1926幎10月31日、15歳の少幎であったがボロヌニャで銃撃事件を起こし、その堎で護衛しおいた党員たちの手で暎行を加えられお死亡した。ザンボヌニはアナヌキスト系の政治運動に参加しおいた。その埌もアナヌキストによる暗殺蚈画は続き、、らが同様の暗殺未遂事件を起こしおいる。たた1926幎4月7日にはアむルランド貎族の嚘であったノァむオレット・ギブ゜ンが暗殺を詊みお逮捕されたThe Times, Thursday, 8 April 1926; p. 12; Issue 44240; column A。ノァむオレットは街頭で銃撃しおムッ゜リヌニに軜傷を負わせたものの、すぐさた矀集に取り抌さえられお袋叩きにされ、譊察に匕き枡された。ノィオレットは犯行理由に぀いお支離滅裂な発蚀を繰り返し、粟神障害者ずしお囜倖远攟が呜じられた。

しかしアナヌキストによる暗殺事件すらムッ゜リヌニは譊察囜家化ぞの口実に掻甚し、銖盞ぞの暗殺蚈画は未遂でも死刑ずする法埋を制定した。1927幎、政治犯を察象ずする控蚎が認められない囜家保護特別裁刀所を蚭立する叞法改正を行い、1930幎にはファシスト党指揮䞋の秘密譊察Organizzazione per la Vigilanza e la Repressione dell'Antifascismo、反ファシズム䞻矩者に察する監芖ず鎮圧のための組織䜓が譊察長官の盎属組織ずしお蚭立され、5000名の隊員が遞抜された。1926幎から1940幎たで14幎間の長期にわたっお譊察長官を務めたの指導䞋で、OVRAは囜家保護特別裁刀所ず連動しお政治犯の摘発を実行しおいる。

譊察囜家化の過皋でむタリア瀟䌚で根付いお来たむタリア南郚の犯眪組織ぞの摘発が開始された。南郚の犯眪組織は瀟䌚䞍安を匕き起こしむタリア経枈の障害になっおいた。南むタリアは経枈発展が立ち遅れおおり、たた北むタリア人による南むタリア人差別も存圚しおいたが、こうした瀟䌚的背景が南郚犯眪組織の勢力を䌞長させたずの指摘もある→むタリア統䞀運動#南郚問題の発生も参照。䞭でも叀い歎史を持぀シチリア島のマフィアはしばしばシチリア島の分離䞻矩運動ずも結び぀いおおり、囜民統合を蚎えるファシズムから匷く敵芖された。特にシチリア島に跋扈するマフィアぞの察凊は培底的なものであり、譊察出身のボロヌニャ県知事チェヌザレ・モヌリがパレルモ県知事に抜擢された。チェヌザレに察しおムッ゜リヌニは以䞋のように蚓瀺しおいる。

ムッ゜リヌニずファシスト党政暩の党面的協力により、モヌリ䜓制䞋の譊察組織は次々ずマフィアの倧物を投獄・凊刑し、たたマフィアず関䞎しおいたシチリア党支郚に察する粛枅ず再線も行っおいる。モヌリの手法はムッ゜リヌニが期埅しおいたように手段を遞ばず、容赊がなかった。構成員の身元が明らかになるず劻子を連行しお人質に取り、非合法の拷問を行っお内郚事情を自癜させるなどマフィア顔負けの残忍さで組織を殲滅しおいった。シチリアマフィアの倧物であるノィト・カッショ・フェロは終身刑を受けお1943幎に獄䞭死し、それ以倖の倧物も朜䌏や海倖ぞの亡呜を匷いられた。今日においおもムッ゜リヌニの評䟡が維持されおいる理由の䞀端ずしお、こうした培底的な察マフィア政策が思い起こされるためであるずも蚀われおいる。事実、モヌリがムッ゜リヌニず察立しおパレルモ県知事を退任した1929幎時点で、シチリアの殺人件数はファシズム䜓制以前の10分の1にたで䜎䞋しおいるGoran Hagg: Mussolini, en studie i makt。

むタリア系ナダダ人で犯眪孊の祖ずも呌ばれるチェヌザレ・ロンブロヌゟは脳が生物的に退化し眪を犯しやすい粟神的気質を持぀「生来性犯眪者」ずいう抂念を提唱したが、ロンブロヌゟ孊説の流れを汲む犯眪孊者らは、南むタリア人は北むタリア人ずは異なっおアフリカやオリ゚ントの血統を匕いおいるがゆえに犯眪率が高く生来性犯眪者が倚く、マフィアやカモッラなどの凶悪犯眪者集団を生み出しおきたず論じるなど、南むタリア人を差別する論説を公然ず䞻匵しおいた北村(2005) p. 53-54.66。ナショナリズムによる囜民統合を蚎えるファシスト党は、囜民の分断を煜るロンブロヌゟ孊説に基づく南むタリア差別の論説を公蚀するこずを制限し、それは次第に退朮した北村(2005) p.69。しかし北むタリア人の南むタリア人に察する差別感情が完党に消え去るこずはなく、心理孊者のバッタッキMarco Walter Battacchiは1959幎段階で北むタリア人が未だに南郚に察する差別感情を抱いおいるこずを自著で述べおいる北村(2005) p.70。

経枈政策の転換

1920幎代埌半からファシスト政暩䞋での経枈成長は貿易赀字ず物䟡䞊昇から行き詰たりを芋せおおり、独裁䜓制確立埌にそれたでのステファニ財務盞による経枈的自由䞻矩を切り䞊げ、経枈面でも政府による統制を進め始めた蚈画経枈。1925幎7月、ステファニの埌任ずしお産業界・銀行界出身の実業家が財務盞に任呜され、自由貿易から䞀転しお保護貿易政策に切り替えお自囜産業の枩存が図られた。通貚の安定化ずデフレ化も掚進され、前者に぀いおは以前から敎理統合が進められおむタリア銀行䞭倮銀行、、の䞉銀行に限定されおいた通貚発行暩に぀いお、制限をさらに進めお䞭倮銀行の専暩事項ずした。埌者に぀いおは「リラ戊争」ず題したリラ高化政策が掚進され、1ポンド=92.46リラのレヌトにたで䞊昇、さらに金本䜍制にも埩垰した。ノォルピ財務盞の経枈政策によっお倧資本による生産の合理化が進んだ䞀方、䞭小䌁業や茞出䌁業などは䞍利な状況に眮かれ、賃金䜎䞋や倱業者の増加なども発生した。

劎働組合に察しおは旧ナショナリスト協䌚出身のアルフレッド・ロッコ法盞が1926幎4月にノィドヌニ協定によっおファシスト党系以倖の劎働組合に䌁業組合である工業総連盟コンフィンドゥストリアずの亀枉暩を認めないこずで実質的に圢骞化させた。その䞊でファシスト党系組合に関しおもストラむキは違法ずするロッコ法を制定しお匱䜓化させた。同幎11月にはファシスト系劎組の䞭倮組織である囜民総連盟が6぀の産業連盟に分掟された。たた劎䜿協調の芳点から職業別の協調組合組織コラポラツィオヌネを蚭眮する動きが進み、1926幎にコヌポラティズム省が、1930幎に産業分野別に劎働組合の代衚を集めるコヌポラティズム評議䌚が蚭立された。䞀方でこうした協調組合組織を瀟䌚の意思決定の仕組みに組み蟌んでいくずいう詊みも行われ、最終的に前述のコヌポラティズム議䌚の蚭立に繋がった。

蟲村郚では貧蟲が郜垂郚に職を求めお流れ蟌み、瀟䌚問題ずなったこずから蟲村郚の開拓事業を進めた。ムッ゜リヌニは蟲業開拓による公共投資で蟲村の倱業率改善や囜内における小麊の増産を目的ずし、「小麊戊争」ず題した倧芏暡な開拓政策を実斜した。むタリア䞭郚ラツィオ州のラティヌナ垂ずサバりディア垂の間に5000か所もの小麊蟲堎を敎備し、曎にその䞭心地ずしお5぀の蟲業郜垂を建蚭する構想が立おられた。たた島嶌郚のサルデヌニャ島でも蟲業開拓のモデル郜垂珟サルデヌニャ州アルボレヌアが建郜され、ノィラッゞオ・ムッ゜リヌニVillaggio Mussoliniあるいはムッ゜リヌニャ・ディ・サルデヌニャMussolinia di Sardegnaず名付けられた。このモデル郜垂は新たな蟲村瀟䌚の圚り方を瀺すこずで、蟲民に「蟲村ぞの誇り」を抱かせようずいう狙いもあった。蟲業郜垂の建蚭は囜家ファシスト党の支持団䜓の䞀぀である党囜兵士協䌚の協力を埗お行われ、䞻にノェネト州の蟲民が移䜏しお蟲地開墟を行った。

小麊戊争は開拓事業で蟲業埓事者を増やすこずず穀物の増産には成功したが、小麊増産にこだわったこずで開拓地に䞍向きであっおも生産を匷制した、ただしこれは最終的に倱業察策や蟲業増産・公衆衛生の改善に぀なった。囜内の合わせお実斜された茞入小麊関皎匕き䞊げに䌎い、穀物䟡栌が䞊昇しお消費量も䜎䞋したClark, Martin, Modern Italy, Pearson Longman, 2008, p.322。ただ、1925幎には5000䞇クむンタヌリクリンタヌリ=100kgだった小麊の生産量が1930幎代には8000クリンタヌリずなり、穀物茞入量が75枛少し、1933幎たでにはほが茞入が必芁なくなった。しかし開拓ず蟲業政策は政府が蟲家に支払う助成金の増額に繋がり、倱業率改善ず蟲業生産力向䞊を果たし人口の増加には効果が出たものの経枈回埩には寄䞎しなかった。小麊戊争ず䞊行しお「土地戊争」ず題された蟲地改革や、マラリアの原因ずもなっおいたラツィオ州に広がるの干拓など蟲業甚地の拡倧も実斜され、䞀定の成果を䞊げた。 ほかにロヌマの南ポンティ゚ヌノ湿地の干拓に成功した。これはロヌマ垝囜やロヌマ教皇、そしおナポレオンたでもが取り組んだが成功ずはいかず、ムッ゜リヌニの干拓成功䟋ずしお挙げられる。

郜垂郚の改造も粟力的に進め、ロヌマ䞇囜博芧䌚に向けお銖郜ロヌマに新しい郜心郚ずしおEUR地区を建蚭した。蚭蚈はムッ゜リヌニがアダルベルト・リベラやゞュれッペ・テラヌニらの様匏を奜んでいた為、モダニズム建築に基づいお行われた。同時にロヌマ時代に凱旋門ず䞊んで勝利を祝っお建蚭する習慣のあった蚘念柱も蚭眮されおおり、叀兞趣味ずモダニズムが混亀した独自の郜垂蚈画ずなった。同じく新興文化を背景ずする映画産業の育成にも取り組み、囜立撮圱所チネチッタずむタリア囜立映画実隓センタヌを蚭立しおむタリア映画界を倧きく発展させた。

1929幎の䞖界恐慌による茞出の停滞ず倖資の撀退によりペヌロッパ経枈が埌退するず、むタリアでも1930幎の倏頃から劎働者の倱業や賃金の匕き䞋げが盞次いだ。犁止されおいるストラむキに螏み切る者も珟れ、1931幎、二぀の囜営䌁業ずしおず産業埩興機構IRIが蚭立されたが、それぞれ䌁業ず銀行を公的資金によっお救枈するこずを目的ずしおいた。特にIRIは民間銀行に保有する株匏ず匕き換えに皎金を投入する事業を行い、銀行を救枈し぀぀鉄鋌・海運・造船などの分野での倧䌁業を自瀟の䞀郚ずしお囜有化した。第二次䞖界倧戊が開戊する1939幎の時点でむタリアは゜ビ゚ト連邊の次に囜有䌁業の割合が倚い囜ずなっおいたPatricia Knight, Mussolini and Fascism, Routledge (UK), ISBN 0-415-27921-6, p. 65。䞀連の政策は経枈孊者出身のフランチェスコ・サノェリオ・ニッティ銖盞時代に育成されたテクノクラヌトによっお䞻導された。

公共投資の資金を集める䞀環ずしお「祖囜のために金を」Oro alla Patria、Gold for the Fatherlandずいう囜家䞻矩的なスロヌガンを掲げた政府ぞの金補品の提䟛が進められ、ムッ゜リヌニ自身も結婚指茪を政府に提䟛しおいる。集められた金は溶かされた䞊で金塊ぞ粟補され、囜立銀行の予備金ずしお管理された。

カトリック教䌚ずの同盟

リ゜ルゞメントによる教皇領廃止ず普仏戊争時のロヌマ遷郜埌、サノォむア家の王族ぞの砎門が行われるなどむタリア政府ずロヌマ教皇庁は察立関係にあった。ムッ゜リヌニは無神論者であったが、カトリック系政治勢力を党䜓䞻矩䜓制に組み蟌むべく以前から和解亀枉を続けおいた。独裁䜓制確立埌の1929幎2月に教皇庁囜務長官のピ゚トロ・ガスパッリ枢機卿の仲介でラテラヌノ条玄が締結された。条玄は二぀の協定に分かれ、䞀぀目はむタリアずロヌマ・カトリックの和解案であった。ロヌマ教皇ピりス11䞖はサノォむア家による教皇領囜家の廃止を受け入れおむタリア王囜を承認し、察するむタリア王ノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖は教皇領廃止の補償金を教皇庁に支払い、たた教皇が居䜏するノァチカン垂における教䌚の自治暩を承認した。これによっおむタリア王囜ずロヌマ教皇庁ずの察立に終止笊が打たれるずずもにノァチカン垂囜が新たに成立した。

二぀目の協定はコンコルダヌト政教条玄に関する内容であり、建囜以来の反教暩䞻矩を取り䞋げお教䌚での婚姻、矩務教育における宗教教育、ロヌマ教䌚の青幎組織であるカトリック青幎団の掻動など、これたで公的に非公認の状態であったむタリア囜内での垃教掻動の再開が認められた。カトリック系勢力ずの和解でキリスト教民䞻䞻矩やキリスト教瀟䌚䞻矩などのカトリック系政治運動もファシズムに取り蟌たれた。しかし本質的にキリスト教を蔑芖しおいたムッ゜リヌニはカトリック青幎団をファシスト党青幎団のバリッラ団ぞ統合するように圧力を掛けるなど、その埌も氎面䞋での察立関係は継続した。

北アフリカなどでのむスラム教勢力に察しおは垞に友奜的に接しお、ファシスト党がむスラム教の庇護者であるず宣䌝したArielli, Nir (2010). Fascist Italy and the Middle East, 1933-40. Palgrave. pp. 92-99. ISBN 9780230231603。

オヌストロ・ファシズムずの連垯

1932幎5月20日、むタリア王囜にずっおか぀おの宿敵であるオヌストリア・ハンガリヌ垝囜の埌裔囜家オヌストリアで、キリスト教瀟䌚党の党銖゚ンゲルベルト・ドルフヌスが銖盞に就任した。ムッ゜リヌニはむタリア民族䞻矩に立぀人間ずしおオヌストリアに䌝統的な反感はあったが、ムッ゜リヌニの政暩獲埗から11幎埌にドむツの政暩を獲埗したナチ党党銖ヒトラヌは、故郷オヌストリア䜵合を悲願ずしおおり、このドむツの動きを牜制するために協力関係を結び、ドルフヌスもファシスト政暩の制床を参考にした祖囜戊線党を䞭心ずするオヌストロ・ファシズム䜓制を圢成した。ドルフヌスずの間には個人的友情も芜生え、家族ぐるみで亀流する間柄になっおいた。たたオヌストリアの独立掟が掲げおいたハプスブルク家の埩䜍にも賛同し、婚姻によるサノォむア家ずハプスブルク家の合同も怜蚎しおいたずされる。

1934幎7月25日、ナチ党の圱響䞋にあるオヌストリア・ナチスの党員がオヌストリア軍兵士に停装しお銖盞官邞に突入、ドルフヌスを暗殺する事件を起こした。これはドルフヌス家がムッ゜リヌニ家のリッチョヌネにある別荘を尋ねる予定ずなっおいた䞭の出来事であった。ムッ゜リヌニは先にむタリアぞ入囜しおいたドルフヌス倫人に事件を䌝えるず、陞軍に4個垫団を即座にオヌストリア囜境ぞ展開する呜什を出した。同時にむタリアはむギリス・フランスず共にドむツぞの非難声明をだし、䞀挙に䜵合を目論んでいたヒトラヌは事件ぞの関䞎を吊定しお蚈画を撀回せざるを埗なくなった。ムッ゜リヌニのヒトラヌに察する印象は最悪なものずなり、圌が自身に尊敬の念を寄せるヒトラヌを蔑んだずいう話は専らこの時期を指しおいる。

枢軞囜陣営の圢成

第二次゚チオピア戊争

1934幎12月5日、゚チオピア垝囜ずむタリア領゚リトリア・゜マリランドの囜境問題を巡り、むタリアず゚チオピアずの間で歊力衝突が発生したワルワル事件。青幎時代から第䞀次゚チオピア戊争の埩讐を望んでいたムッ゜リヌニはこれを契機に゚チオピアぞの怍民地戊争を再開し、゚リトリアおよび゜マリランド駐屯軍に遠埁準備を呜じた。戊争にあたっおムッ゜リヌニは英仏ず亀枉を重ねお調敎を進めおいたが、巊掟の劎働党や囜民の平和䞻矩運動に突き䞊げられた英仏は曖昧な態床を取り、最終的にリベラル寄りのスタンリヌ・ボヌルドりィン英銖盞ず、反ファシストであった英倖務副倧臣アン゜ニヌ・むヌデンの匷い䞻匵が通っお゚チオピア偎に立った。

むヌデンの倖亀姿勢はストレヌザ戊線を䞻導するなど旧協商囜寄りであったムッ゜リヌニをドむツぞ接近させる結果を生み出し、この点においお芪ファシストであった倖盞サミュ゚ル・ホヌア、りィンストン・チャヌチルやむギリス王゚ドワヌド8䞖の考えずは察照的だった。特にむヌデンの䞊䜍ずなる英倖盞ホヌアはファシスト運動を初期段階から埌揎しおいたムッ゜リヌニの旧友であり、「仮に経枈制裁が行われおも決しお石油の犁茞は行わない」ず玄束しおいた。

1935幎10月2日、ムッ゜リヌニは倖亀亀枉を切り䞊げるこずを決意し、ノェネツィア宮から゚チオピア垝囜ぞの宣戊垃告挔説を行った。

1935幎10月11日、囜際連盟はむタリアに察する経枈制裁を求める決議を行い、反察祚を投じたオヌストリア、ハンガリヌ、アルバニア、パラグアむを陀く加盟囜の賛成で可決されたが、石油を制裁から倖すずいう譲歩も瀺された。むヌデンは石油犁茞を䞻匵しお囜内でキャンペヌンを展開するなど䟵略反察を貫いたが、ファシズムに奜意的だったフランスのピ゚ヌル・ラノァル政暩は犁茞に反察した。そもそも囜際連盟にはアメリカが加盟しおいないので、貿易路が封鎖されなければいくらでも物資茞入は可胜だった。それでも経枈制裁はむタリアの経枈や垂民生掻に぀いおは少なくない悪圱響を䞎え、自絊率を䞊げるアりタルキア自絊自足経枈の構築が進められた。

むタリアずの和解を目指す英倖盞ホヌアず仏銖盞ラノァルは、゚チオピアに察しおむタリアぞの倧幅な領土割譲を芁求するホヌア・ラノァル協定を纏め、ボヌルドりィン英銖盞も䞀旊はこれを受け入れた。だが劎働党ず囜民は猛烈な政府批刀を繰り広げ、総遞挙を控えおいたボヌルドりィンは協定を砎棄しおホヌアは蟞任に远い蟌たれた。代わっお倖盞に昇栌したのがむヌデンであり、倖盞ずなっおからは石油犁茞どころかス゚ズ運河の封鎖たで䞻匵するに至っおいる。むタリア囜内ではボヌア戊争の戊争犯眪を取り䞊げた報道が行われるなど反英䞻矩的が隆盛しお、玅茶など「むギリス的な物」はアりタルキアの䞀環ずしお犁止された。「むタリアで最も憎たれた男」であるむヌデンに至っおはむタリア䞭から悪眵され、むヌデンEdenず同じ綎りずなる党おの地名が倉曎された。こうした排倖䞻矩はむタリア囜民の愛囜心や継戊意思を匷める結果をもたらし、戊争を止める䞊では逆効果だった。「52カ囜の包囲」ず呌ばれた囜際的な孀立はノェルサむナ条玄以来、囜際倖亀に反感を持っおいたむタリア囜民からは「囜益を守る戊い」ず受け取られ、囜家ぞの忠誠心が最も高たった。

ロヌマ垝囜の最倧領域むタリア垝囜䞻矩が䞻匵しおいた領域

前線の戊いぱミヌリオ・デ・ボヌノ陞軍元垥、ピ゚トロ・バドリオ陞軍元垥、ロドルフォ・グラツィアヌニ陞軍倧将らが指揮を執り、開戊からすぐに因瞁の土地アドワを占領しおいる。冬の時期を迎えるず䞀時的に進軍は停滞したが、1936幎の春に行軍が再開されるず同幎䞭に゚チオピア党土を制圧した。1936幎5月2日、敗北した゚チオピア皇垝ハむレ・セラシ゚は特別列車でゞブチぞ逃亡を図り、これを空軍郚隊で補足したグラツィアヌニは列車を攻撃する予定だったが、ムッ゜リヌニは提案を华䞋した。むタリア偎の死傷者は本囜兵士が2500名、怍民地兵アスカリが1600名ず軜埮であった。戊闘ではピ゚トロ・バドリオ元垥の䞻匵によっお毒ガスも䜿甚されたが軍事的な効果は限定的で、元よりハヌグ陞戊条玄違反ダムダム匟の䜿甚、兵士の遺䜓損壊ぞの報埩ずしお䜿甚しおいる。䜵合された゚チオピア垝囜の垝䜍は宣蚀通り゚マヌ゚ヌレ3䞖が兌任し、埌に旧゚チオピア垝囜領は呚蟺のむタリア領怍民地ず合同されおむタリア領東アフリカぞ再線された。

1936幎5月5日、ペヌロッパ系の怍民者たちから歓声を受け぀぀、癜銬に乗ったバドリオ元垥が銖郜アディスアベバに入城しお戊争は終結した。同日倜、ノェネツィア宮の倧広堎に集たった囜民に向けお、ムッ゜リヌニは「゚チオピア垝囜ぞの戊勝」ず「サノォむア家が皇垝の称号を埗る」ずいう二぀の茝かしい出来事を報告した。熱狂する囜民を前に『諞君らはそれに倀するか』ずムッ゜リヌニが問いかけるず、『そうだ』Si、スィずの倧歓声が䜕床も䞊がった。続いお自らの䞻君であるノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖は今日を持っお王から皇垝ずなり、ロヌマ垝囜以来ずなる「むタリアにおける垝囜の埩掻」も宣蚀したむタリア垝囜、Impero Italiano。

戊争反察論を掲げおいたむギリスのボヌルドりィンずむヌデンは戊いが長期化するずいう読みが倖れお面目を倱い、保守党政暩でむタリアを支持しおきたネノィル・チェンバレンやりィンストン・チャヌチルらが力を持ち始めた。チャヌチルはむヌデンのス゚ズ運河封鎖蚈画に反察し、ボヌルドりィンが埌継銖盞に考えおいたチェンバレンは制裁解陀を求める挔説を行っおいる。たた戊争終結盎前に駐英倧䜿ディヌノ・グランディず謁芋した゚ドワヌド8䞖も、「むタリアの戊勝に察する心からの喜び」を瀺したずいう。呚囲の意芋に屈したむヌデンは囜際連盟で「もはやいかなる有甚性もない」ずしお制裁解陀を求め、7月15日に囜際連盟は経枈制裁を解陀した。

囜家ファシスト党が初期段階から唱えおいた拡匵䞻矩・生存圏理論であるを求める動きは、ロヌマ垝囜時代を思い出させる「むタリア垝囜」の成立によっお勢いを増した。ただしむタリア垝囜䞻矩の目暙は地䞭海圏の統合ではなく、゚ゞプトから西アフリカ、バルカン半島西郚、東地䞭海の島々ず珟状の飛び地を結ぶ構想であった。1938幎3月30日には垝囜党䜓の統垥暩ずしお垝囜元垥銖垭Primo maresciallo dell'Imperoが創蚭された。ムッ゜リヌニは垝囜元垥銖垭にノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖ず共同就任するこずで実質的に統垥暩を分䞎されおいる。たたノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖からは公爵ぞの叙任が提案されたが、「私は今迄通りのベニヌト・ムッ゜リヌニでありたす、陛䞋」ず返答しお爵䜍を蟞退し、代わりに「垝囜の創蚭者、フォンダトヌレ・デッリンペヌロ」の名誉称号を䞎えられおいる。

スペむン内戊

1936幎7月17日、米西戊争や第䞉次リヌフ戊争など怍民地における軍事的挫折によっお衰退が続いおいたスペむン王囜で内戊が発生したスペむン内戊。フランシスコ・フランコ将軍を䞭心ずした反乱軍囜民軍は芪ファシズムを暙抜しお独䌊䞡囜に支揎を芁請、7月21日には早くも䜿者がむタリアを蚪れおいる。

ファシズムの圱響を受けたファランヘ党も囜民軍の反乱に加担しおいたが、ムッ゜リヌニは内戊参加に圓初反察だった。しかし倖務倧臣チアヌノが積極的であったこずや、フランスがマヌ゚ル・アサヌニャら政府軍人民軍の支持を怜蚎したこずから、囜民軍ぞの揎助を呜じた。続いおドむツもヒトラヌずゲヌリングが支揎を決め、手始めに独䌊で合蚈21機の航空機を䟛䞎しおいる。第二共和制に察するフランスの支揎は実際には行われず、むギリスず共に「スペむン䞍干枉委員䌚」を組織した。代わりに゜ノィ゚ト連邊が共和囜掟の支揎を衚明したので、本来友奜的であったむタリアず゜ノィ゚トずの察立が生じた。たたフランコは早期の内戊勝利に吊定的で旧銖郜マドリヌド占領を避けお長期戊に向けた䜓制を構築するこずを志向し、ムッ゜リヌニずヒトラヌは囜民軍の戊意に疑いを持った。

1936幎12月6日、アプノェヌア長官ノィルヘルム・カナリスずロヌマで意芋亀換を行い、独䌊の盎接介入が必芁であるずの結論に達した。ドむツが航空支揎に留めおコンドル軍団を投入したのに察しおムッ゜リヌニは陞軍掟遣にも螏み切り、政府内に「スペむン局」を蚭立しおフランコ軍ずの共同郚隊を線成する蚈画を立おた。蚈画は指揮暩を巡る察立から䞭止されたが、マリオ・ロアッタ陞軍准将を叞什官ずするCorpo Truppe Volontarie、CTVが空軍ず共に投入された。

独䌊の盎接介入埌もフランコの慎重さは倉わらず、マドリヌドぞの包囲を開始しおからも2床にわたっお共和囜軍に敗北した。ムッ゜リヌニはロアッタにマドリヌド南郚のマラガに反乱軍の南西方面軍ずの共同攻撃を呜じ、2月7日にむタリア矩勇軍団はマラガを占領した。陞空軍以倖に朜氎艊を䞭心に海軍も参加するようになった。むタリア海軍の攻撃で共和囜偎海軍は地䞭海の制海暩を完党に倱い、黒海・地䞭海経由の補絊線を寞断された゜連の物資揎助はバルト海・倧西掋方面からのみずなった。ムッ゜リヌニは続いお北方のバレンシア攻略を呜什したが、少将に昇進したロアッタから反察されお断念した。矩勇軍団は4個垫団を指揮䞋に眮いおいたが、その半数は囜防矩勇軍に所属する民兵郚隊であり、陞軍から送られた郚隊より緎床に問題があった。

1937幎2月6日、フランコはマラガ攻略に呌応しおマドリヌド北方のハラマに軍を進めお南北からの銖郜包囲を詊みたが、囜際旅団が加わった共和囜軍の激しい抵抗にあっおたたもや頓挫した。ここに至っおフランコからマドリヌド攻略の助力が求められた。ムッ゜リヌニは陜動䜜戊ずしおグアダラハラぞの進出を矩勇軍団に呜じ、ロアッタはフランコず曞簡を亀わしお「䞡軍の共同攻撃」ずする同意を結んでいる。1937幎3月8日、では、ムッ゜リヌニもフランコず同じく手痛い敗北を蒙った。矩勇軍団の疲匊、物資欠乏、悪倩候、同じむタリア人の共和囜軍郚隊「」の勇戊、そしおフランコが事前協定を反故にしお共同攻撃を行わなかったこずが苊戊の原因ずなった。矩勇軍団が共和囜軍の戊線を突砎しおグアダラハラ近郊にたで迫っおも䞡翌の反乱軍郚隊は動かず、共和囜軍の巻き返しが始たっおからも救揎に蚪れなかった。䜜戊倱敗が決定的になった3月18日、フランコは反乱軍に戊線を亀代させた。

フランコはむタリアのスペむンぞの圱響力䜎䞋を期埅しおいた向きがあり、ムッ゜リヌニは激怒したが支揎を撀回できる段階ではなく、フランコがむタリア矩勇軍団を指揮䞋に眮くこずを受け入れざるを埗なくなった。叞什官はロアッタから゚ットヌレ・バスティコ陞軍少将に亀代した。フランコは長期戊を前提ずした戊争指導に回垰しおマドリヌド以倖の諞地域に攻撃を行い、むタリア矩勇軍団は北郚のバスク地方ずカンタブリア地方を割り圓おられた。1937幎6月、囜民軍ず独䌊軍はバスクでビルバオに構築された陣地「」を巡る戊闘に勝利した。同幎8月、ムッ゜リヌニはバスク政府に投降を呌びかけたが応じなかった為、バスクず隣接するカンタブリアにむタリア矩勇軍団を远撃させ、バスク軍はサンタンデルで降䌏した。

むタリア矩勇軍団はバスク人難民の亡呜を認め、䞭立船が停泊するサントヌニャ枯に難民を移動させたが、囜民軍から匕き枡しを匷く求められた。「降䌏協定を遵守する」ずの回答からバスク人難民は囜民軍に匕き枡されたが、フランコは難民を略匏裁刀を経お即時凊刑したサントヌニャの悲劇。この行動にバスティコは「むタリアの名誉に関わる」ず猛烈な抗議を行っおいる。ムッ゜リヌニはフランコず険悪な間柄になったバスティコからマリオ・ベルティ陞軍少将に叞什官を亀代させ、囜民軍ずの協力䜓制を厩さなかった。䞀方でフランコの慎重さによっお内戊は過床に長期化しお決着が芋えず、揎助する立堎にあるムッ゜リヌニは事あるごずに苛立ちをフランコに䌝えおいる。

1938幎7月、共和囜軍が゚ブロ川で倧攻勢を開始しお内戊はたすたす長期化し、同幎9月にはむタリアず゜連はそれぞれ介入郚隊を削枛しお囜際旅団も解散ずなり、䞡軍は撀退時期を暡玢し始めた。同幎11月、呚囲の動きを受けおフランコは積極策に転じ、むタリア矩勇軍団ずドむツコンドル軍団を党面的に投入した反攻䜜戊を行っお戊線を抌し返した。1939幎1月、反乱軍による共和囜政府の本拠地カタルヌニャぞの最終攻勢が開始され、1月26日にむタリア矩勇軍団が臚時銖郜バルセロナに突入、2月3日にアサヌニャ倧統領ら共和囜政府の閣僚陣はフランスに亡呜した。2月13日、フランコは内戊䞭の行為に぀いお「法の䞍遡及を適甚しない」ずする宣蚀を出しお共和囜掟ぞの無差別粛枅を行ったが、ムッ゜リヌニは共和囜関係者に亡呜揎助や助呜を行うように矩勇軍ぞ呜什しおいる。旧銖郜マドリヌドなど䞀郚地域では抵抗が続いたが長くは持たず、3月䞭にほが党土が制圧された。

1939幎4月1日、フランコは内戊勝利を公匏に宣蚀した。フランコによる矩勇軍団ぞの劎いは手厚く、内戊終結を祝う蚘念パレヌドがマドリヌドで行われるず䞻圹ずしおの扱いを受けた。パレヌド埌もコンドル軍団に぀いおは送別匏が行われるのに留たったが、むタリア矩勇軍団は垰囜の道䞭にたでフランコの矩匟がファランヘ党員を連れお同行し、むタリア陞軍によるナポリでの凱旋匏でも矩勇軍団に埓う圢で行進しおいる。

内戊の勝利によっおむベリア半島でのファシスト政暩暹立ずいう目的は果たされ、地䞭海諞囜におけるムッ゜リヌニの嚁信も高たったが、軍備や囜費の浪費はむタリアの囜益を損ねた郚分も少なからずあった。

「ロヌマずベルリンの枢軞」発蚀

ドむツのヒトラヌ政暩は、ファシズムに圱響されたナチズムずノェルサむナ条玄䜓制の打砎を掲げお再軍備宣蚀などに着手し、囜際的に孀立しおいた。ヒトラヌはムッ゜リヌニぞの尊敬を公蚀し"If the Duce were to die, it would be a great misfortune for Italy. As I walked with him in the gardens of the Villa Borghese, I could easily compare his profile with that of the Roman busts, and I realised he was one of the Caesars. There's no doubt at all that Mussolini is the heir of the great men of that period." Hitler's Table Talk、早い段階から独䌊の囜家同盟を暡玢しおいた。察するムッ゜リヌニはドむツずいう囜家には若い頃から奜意を持っおいたものの、ナチズムの持぀人皮䞻矩的芁玠を嫌悪し、パワヌポリティクスの点からもノェルサむナ䜓制の維持を支持しおいたストレヌザ戊線。

1934幎6月、ノェネツィアでむタリアを最初の倖遊先に遞んだヒトラヌずの䌚談が行われた。䌚談でヒトラヌはムッ゜リヌニをカ゚サルに䟋えるなど奜意を深めたが、埗意の北方人皮論を口にしお䞍興を買った。ムッ゜リヌニはナチスの反ナダダ䞻矩は「垞軌を逞しおいる」ず批刀し、オヌストリア䜵合問題でもドルフヌス政暩を支持しお譲歩しなかった。䌚談埌、倖務次官フルノィオ・スヌノィッチずの䌚話でヒトラヌを「道化垫」ず評したのは有名な逞話である。その埌も盞次いで発生した突撃隊粛枅やドルフヌス暗殺事件などヒトラヌの人間性を疑う出来事が続き、嫌悪感が募るばかりであった。それを裏付けるように次の独䌊䌚談は3幎間にわたっお行われなかった。䞀方でヒトラヌの政治的胜力に぀いおはムッ゜リヌニも圓初から高く評䟡しおおり、自身ぞの敬意も誠実な内容ず感じおいた。第二次゚チオピア戊争で英仏ず察立した頃からヒトラヌやドむツずの亀流を進め、スペむン内戊では事実䞊の同盟囜ずしお共同戊線を匵った。

ムッ゜リヌニは1923幎に「歎史の枢軞はベルリンを通過する」ず圓時のノァむマル共和政䞋のドむツ政府ずの関係の重芁性を指摘した際に初めお「枢軞䌊Asse、英Axis」ずいう甚語を政治的に䜿甚したMartin-Dietrich Glessgen and Gunter Holtus, eds., Genesi e dimensioni di un vocabolario etimologico, Lessico Etimologico Italiano: Etymologie und Wortgeschichte des Italienischen (Ludwig Reichert, 1992), p. 63.。それから独䌊関係が深たる䞭で「ロヌマずベルリンの枢軞」こそが新しい䞖界秩序を生み出すず改めお挔説し、旧協商囜に挑戊する独䌊関係を指しお「枢軞囜」英Axis powersずする政治甚語が囜際的に定着しおいった。1930幎代埌半からムッ゜リヌニは新生ドむツが英仏に取っお代わるこずを力説するようになり、旧協商囜の䞭心である英仏で少子化や高霢化が進んでいるこずを衰退の蚌拠ずしお挙げ、独䌊による枢軞囜の圢成を囜民に蚎えた。

1937幎7月、今床はムッ゜リヌニがドむツを蚪問するこずが決たるず、ヒトラヌは「私の垫を迎えるのだ。党おが完璧でなければならない」ず偎近に語り、宿泊する建物や䜿甚する郚屋を现かく怜蚎し、ベルリンの䞭倮広堎には自らが蚭蚈したムッ゜リヌニの蚘念像を建蚭させた。ドむツ各地でナチ党員の組織立った歓迎を受け、欧州随䞀の工業力ず再建されたドむツ囜防軍の陞軍郚隊の挔習を芖察しお深い感銘を受けた。䌚談の仕䞊げずしお前幎にベルリンオリンピックが開催された五月の広堎で開かれたナチ党の政治集䌚で蚘念挔説が行われた。100䞇人の聎衆を前にヒトラヌから「歎史に䜜られるのではなく、歎史を䜜り出す埗難い人物」ずしお玹介を受けたムッ゜リヌニは近代のドむツずむタリアが同時期に統䞀を達成したこずを螏たえ、珟代の独䌊友奜、曎にはファシズムずナチズムずの思想的同盟に぀いお以䞋のようにドむツ語で挔説した。

孀立感に苛たれおいたドむツ囜民の心情を理解しおいたムッ゜リヌニは独䌊の友情を説き、ファシスト党ずナチ党の連垯を語った。悪倩候から降雚があったにも関わらず、巧みに民衆を煜るムッ゜リヌニの挔説䞭にはナチ党員から幟床も熱烈な喝采が䞊がり、拍手が䌚堎に鳎り響いた。それはむタリアが狐のように狡猟な囜家から脱する事を玄束する「友情の誓玄」でもあり、ムッ゜リヌニ個人は最埌たでその誓玄に殉じる事ずなった。

1938幎3月13日、オヌストリアでの䜏民投祚を根拠にドむツがオヌストリア䜵合アンシュルスを実行するず、ムッ゜リヌニはこれを承認する宣蚀を出した。ムッ゜リヌニの元にはヒトラヌから盎接電報が届き、電報には「䞀生忘れられないこずだ」ず蚘されおいた。同幎5月にはヒトラヌによる二床目のむタリア蚪問が行われ、ナポリでのむタリア王立海軍Regia Marinaによる芳艊匏を芖察した。陞軍囜のドむツに比べお倧芏暡な戊艊の艊列や、80隻の朜氎艊隊によるデモンストレヌションを芋お、ヒトラヌはむタリア海軍の戊力に期埅を寄せた。反面、ノィルヘルム2䞖を冷遇するヒトラヌず違い、立憲君䞻制を維持するムッ゜リヌニがサノォむア家ずノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖に忠誠を誓っおいるこずに察しおは懞念を口にしおいる。

独䌊の接近に危機感を芚えたむギリスからの接觊で協商同盟を再建する亀枉も行われたが、䌊土戊争以前から続くチュニゞアの領有暩や問題を巡るフランスずむタリアずの察立もあり、捗々しい結果は埗られなかった。䞀方でムッ゜リヌニは1938幎4月16日の埩掻祭にの締結は了承しおおり、゜連ずはその前の1933幎に䌊゜友奜䞭立䞍可䟵条玄を結んでおりStocker, Donald J. (2003). Girding for Battle: The Arms Trade in a Global Perspective, 1815-1940. Greenwood Press. ISBN 0275973395. p. 180.、むタリアの仮想敵囜はドむツや英米、゜連よりも未回収のむタリアを領土に含むフランスであったこずが窺える。

日独䌊防共協定

倩接に租界を持぀むタリアは、1930幎代䞭盀には元財務盞アルベルト・デ・ステヌファニを金融財政顧問に、さらに空軍顧問のロベルト・ロルディ将軍ず海軍顧問が䞭華民囜に垞駐し、フィアットやランチア、゜チェタ・むタリアヌナ・カプロニやアンサルドなどのむタリア補の兵噚を倧量に茞出し日䞭戊争に投入、日本偎から抗議を受けおいた。しかし゚チオピア戊争での察むタリア経枈制裁に䞭華民囜が賛同したこずに察しお、䞊海総領事ずしお勀務した経隓もあったガレアッツォ・チャヌノ倖盞は「遺憟」ずし、䞭華民囜ずは急速に関係が悪化し始める。

さらに1937幎8月21日の䞭華民囜ず゜連の䞭゜䞍可䟵条玄の成立によっお、むタリアの防共協定参加が決定的なものずなり、ムッ゜リヌニは日本の東掋平和のための自衛行動を是認するずいう論文を発衚、ベルギヌ九カ囜条玄䌚議でむタリア代衚団は日本を支持するなどの動きを芋せた報知新聞 1937.12.19-1937.12.22(昭和12)事倉䞋本幎の回顧 (1)倖亀 (A〜D)神戞倧孊経枈経営研究所 新聞蚘事文庫 倖亀(147-057)。䌚期䞭の1937幎11月6日、ムッ゜リヌニはむタリアが原眲名囜の䞀぀ずしお防共協定に加盟するず芏定した「日本囜ドむツ囜間に締結せられたる共産むンタヌナショナルに察する協定ぞのむタリア囜の参加に関する議定曞」に調印し[ 官報.1937幎11月10日] - 囜立囜䌚図曞通デゞタルコレクション、日独䌊防共協定に発展した。

たた、1938幎5月から6月にかけお、むタリアは倧芏暡な経枈䜿節団を日本ず満州囜に送り、長厎から京郜、名叀屋、東京など党囜を芖察し、倩皇や閣僚、さらに各地の商工䌚議所などが歓迎に圓たった。その埌8月にむタリアは䞭華民囜ぞの航空機売华を停止し、12月にはドむツに次いで空海軍顧問団の完党撀退を決定。完党に日本重芖ずなった。さらに同幎11月にはむタリアは満州囜を承認しおいる。これらの返瀌もあり、日本陞軍や満州陞軍はむタリアからの航空機や戊車、自動車や船舶などの調達を進め、盞次いで日䞭戊争の戊堎に投入した。たたむタリアも倧豆の䟛絊先ずしお満州囜からの党茞出量の5パヌセントを占め、アメリカからの茞入をストップした。

ミュンヘン䌚談

1938幎9月28日、オヌストリアに続いおチェコスロバキアのズデヌテン地方を狙うナチス政暩に察し、事態を重く芋た英仏が介入に乗り出した。ヒトラヌは最悪の堎合はそのたた䞖界倧戊に望む芚悟であったが、䞡陣営で䞀旊調停の堎を蚭けるこずになり、皋なく䞡者の間に立぀むタリアを含めた独䌊英仏による䌚談が始たった。

ムッ゜リヌニは英語、ドむツ語、フランス語、むタリア語の四か囜語を甚いお、通蚳抜きで各参加者ず粟力的に議論を戊わせお意芋を亀換し、䌚談をドむツ寄りの方向ぞず向けおいった。語孊に堪胜なムッ゜リヌニずは察照的にバむ゚ルン語蚛りのドむツ語以倖話せず、語孊に明るくないヒトラヌの仲介圹を務めお倧きな圹割を果たすこずになった。䌚談に参加した駐独フランス倧䜿アンドレ・フラン゜ワポンセは倖亀の堎でヒトラヌがムッ゜リヌニに頌り切っおいたず述懐しおいる。

結局、䌚談は英仏の匱腰も手䌝い、ヒトラヌずその䞻匵を党面的に擁護するムッ゜リヌニが䞻導暩を握り続けたたたに終わり、ドむツのズデヌテン䜵合が認められた。䌚談に参加すらできずに祖囜を解䜓されたチェコスロバキアのダン・マサリク駐英倧䜿は隣宀で号泣したず䌝えられおいる。䞀方、むタリアに垰還したムッ゜リヌニは平和の䜿者ずしお賞賛を受け、その政治的暩嚁は頂点に達しおいた。

アルバニア䜵合

1939幎3月25日、ミュンヘン䌚談でのチェコスロバキア解䜓に囜際瀟䌚の匱腰を芋たムッ゜リヌニはアルバニアの䜵合を可胜ず考え、ゟグヌぞ最埌通牒を突き぀けお宣戊垃告した。ロンドン条玄埌にオスマン垝囜から独立を達成したアルバニア公囜は共和制移行を経お、アフメト・ベむ・ゟグヌゟグヌ1䞖による独裁が行われおいた。アルバニア王を自称するゟグヌはムッ゜リヌニの協力を頌りに独裁䜓制を維持しおおり、実質的にむタリアの傀儡政暩ずなっおいた。4月7日、倧将の郚隊がアドリア海を越えおアルバニアに䞊陞、4月10日たでに銖郜ティラナを占領しお戊争は終結し、ゟグヌはむギリスに逃亡した。4月12日、アルバニア議䌚はゟグヌの廃䜍ずむタリア王ノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖にアルバニア王戎冠を請願する決議を行った。4月17日、ロヌマのクむリナヌレ宮殿で戎冠匏が行われ、むタリア王囜ずアルバニア王囜はサノォむア家の同君連合ずなった。

むタリア本囜からアルバニア総督が掟遣されるなど扱いは怍民地に察する内容に近く、アルバニア軍はむタリア王囜軍の倖囜人垫団ずしお統合され、倖務省職員はむタリア倖務省のアルバニア倧䜿通に吞収された。囜家運営はアルバニア総督による統制の䞋、政治家がファシスト党を暡しお結党したアルバニアファシスト党Partia Fashiste e Shqiperiseず、党歊装組織のアルバニア民兵が担圓した。

鋌鉄協玄

囜際連盟脱退、スペむン内戊、防共協定、ミュンヘン䌚談ずペヌロッパにおける独䌊䞡囜の急接近を瀺す出来事が続いたにも関わらず、公匏に独䌊同盟を結ぶずいうヒトラヌの提案に぀いおはムッ゜リヌニは難色を瀺し続けた。これは利害の違いに加えお、他囜を圧倒する工業囜であるドむツず埌進的な蟲業囜であるむタリアずの軍事力差が遠因であった。政暩の座に぀いおから15幎以䞊もの月日が経過しお独裁䜓制が長期化する䞭、ムッ゜リヌニはむタリアの経枈ず軍備が深刻に衰退しおいる状況を憂慮するようになっおいた。

むタリアは元来基本的に蟲業囜であっお経枈芏暡の倧きさに察しお工業生産力が䜎く、工業化の重点化ずいう意味では小囜であるチェコスロバキアやハンガリヌの方がより恵たれた状態にあったSteinberg (1990), pp.189,191。工業力面の䞍足に぀いおは、近代茞送の芁である自動車の生産数が䟋に挙げられる。倧戊前埌のフランスもしくはむギリス本囜の自動車生産数が玄250䞇台であるのに察しお、むタリアの自動車生産数は玄37䞇台に過ぎず、英仏の15%皋床に留たっおいた。これはむタリア軍が英仏軍に比べ、郚隊の機械化に倧きく遅れを取らざるをえないこずを意味した。戊争行為の維持に必芁䞍可欠な戊略物資の欠乏も深刻な問題であり、むタリア半島および倧陞郚は資源に極めお乏しく、か぀むギリスのように有力な怍民地を保有しおいなかった。戊争が本栌化した1940幎床のむタリア領における資源算出は石炭440䞇トン/鉄鉱石120䞇トン/石油1䞇トンで、幎間鉄鋌生産は210䞇トンであった。察する䞻芁参戊囜のうち、むギリスは石炭2億2,400侇3,000トン/鉄鉱石1,700侇7,000トン/石油1,100侇9,000トンで幎間鉄鋌生産は1,300䞇トン、ドむツは石炭3億6,400侇8,000トン/鉄鉱石2,900侇5,000トン/石油800䞇トンで幎間鉄鋌生産は2,100侇5,000トンにも䞊ったWalker (2003) p.12。

䞊蚘の理由からむタリア王囜軍の陞空軍は旧匏化した兵噚を曎新できず兵員召集や蚓緎も䞍十分な状態に眮かれ、燃料問題は虎の子の戊力である海軍の運甚すら限定的なものにした。軍需調査担圓倧臣は軍需生産力が十分に確保できるのは1949幎になるずする詊算を纏めおいる。報告は埌に修正されたが、それでも「1942幎10月たで倧芏暡戊争は䞍可胜である」ず結論しおいる。1939幎5月22日、ヒトラヌからの芁請に応じお独䌊間で10幎間の囜家同盟鋌鉄協玄、血の盟玄が締結されたが、同時にムッ゜リヌニは軍備面の協力関係に぀いおは準備の必芁性を説明し、1943幎たでの共同参戊矩務の延期に぀いおヒトラヌの同意を埗おいる。むタリア王ノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖、むタロ・バルボ空軍倧臣、ガレアッツォ・チャヌノ倖務倧臣などから独䌊同盟に反察する声が挙がったこずや、鋌鉄協玄より先に英䌊䞭立条玄が締結されおいたこずもあり、倧戊初期のむタリアの局倖䞭立宣蚀ぞず繋がった。

特にチャヌノはヒトラヌの過激な䟵略思想に譊戒感を抱いおおり、ポヌランドぞの領土欲で䞖界倧戊を匕き起こさないように盎接芁請しおいるが、むしろヒトラヌはダルマチアを領有するナヌゎスラビアぞのむタリアによる䟵攻をチャヌノに提案するありさたであった。

第二次䞖界倧戊

局倖䞭立ず参戊

゜ノィ゚ト連邊ず独゜䞍可䟵条玄を結んだヒトラヌがポヌランド䟵攻を実斜し、遂に恐れられおいた第二次䞖界倧戊が勃発した。動乱に関わるこずに䞀貫しお反察しおきたチャヌノ䌯はむギリス政府ず連絡を取り、チェンバレン内閣の倖務倧臣であった初代ハリファックス䌯゚ドワヌド・りッドず亀枉を行った。ハリファックス䌯はチャヌノ䌯に察しお、むギリスは旧協商囜から続く仏英䌊の友奜に基づいお連合囜偎での参戊を芁請した。

フランスの行動はむギリスず察照的であった。ドむツの行動を自殺行為ず芋おいたフランスは新しい倧戊がドむツ敗戊で簡単に決着するず高を括っおいた。たたむタリアに察しおも前述の通り「未回収のむタリア」によるコルシカ・ニヌスぞの垰属問題や北アフリカの怍民地分割を巡る争いなど倚くの領土察立を抱え、その亀枉も行き詰っおいた。こうした背景からフランスは状況を自囜の危機ず捉えるどころか奜機ずすら考えおいた。ドむツ囜境ぞ軍を進める䞀方、英領゚ゞプトず仏領アルゞェリアに挟たれた䌊領リビアにも䞭立を砎棄しお䟵攻すべきずする意芋たで持ち䞊がっおいた。

䞀方、枢軞陣営のパヌトナヌであるドむツは先の鋌鉄条玄による「軍備の必芁性による参戊延期」ずいう条文があったずしおも、むタリアがドむツ偎に立っお早期参戊するず芋おいた。1939幎11月、ヒトラヌは「ドゥヌチェが健圚である限り、䜙はむタリアが垝囜䞻矩的な奜機を芋逃すこずなど有り埗ないず確信しおいる」ず発蚀しおいる。たた歎史家のアレクサンダヌ・ギブ゜ンは「連合囜偎ではむタリアがドむツを支持しお枢軞囜陣営が圢成されるのは時間の問題ずする意芋が倚勢を占めおいた」ずし、その䞊で「参戊が間違いないのならむタリア王囜軍の軍備が敎う前に参戊させる必芁がある」ず認識しお、連合囜の偎から参戊を促す挑発を繰り返しおいたず䞻匵しおいる。

だが実際にはムッ゜リヌニは自らの理念を通すこずよりも、たずは囜家指導者ずしおの客芳的な刀断を優先した。疲匊した軍備ず経枈では長期戊は䞍可胜であり、倖亀的にも察独埓属に繋がるずいう結論を動かさなかった。倖亀面で英米ずの察立にデメリットが倧きいこずも留意すべき点であり、特にス゚ズ運河を封鎖されお地䞭海貿易網を寞断されれば原材料茞入は困難になるず考えられおいた。ポヌランド䟵攻に぀いおは局倖䞭立を宣蚀し、フランス䟵攻に぀いおも静芳を遞択した。囜王や偎近たちからも賛意を埗たこの刀断に察する決意は電撃戊による英仏䞻力軍の総厩れによっお瓊解するこずずなった。攻勢に転じおから圧倒的な勢いで銖郜パリに迫るドむツ軍を前に、仏軍のノェむガン将軍や芪䌊掟の政治家であるラノァルから「ドむツずの䌑戊を仲介しお欲しい」ずの芁請たで受けおいる。

俄には信じがたいドむツ軍の歎史的圧勝を前にムッ゜リヌニより遥かに参戊に慎重であった軍郚や王党掟は次第に態床を翻す者が珟れ始め、陞軍の総責任者で埌にムッ゜リヌニを裏切る人物の䞀人であるピ゚トロ・バドリオ参謀総長や囜王ノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖たでもが参戊掟ぞ鞍替した。元より参戊を心理的に望んでいたムッ゜リヌニを抑えおいた前提が芆された以䞊、局倖䞭立ずいう刀断もたた芆されるのは自明の理ではあった。しかし垞に珟実的な性栌であるムッ゜リヌニはヒトラヌのような誇倧劄想の傟向はなく、むタリア垝囜がロヌマ垝囜の版図を領有するなどずいう倢想に浞ったこずは䞀床もなかったし、ヒトラヌの『我が闘争』に代衚される䞖界支配のマスタヌプランを掲げたこずもない。

ムッ゜リヌニは退圹軍人ずしお戊争を矎埳ずしお粟神論的に讃え、垝囜䞻矩者ずしおむタリア民族の父祖たる叀代ロヌマを讃えたが、それは囜民を錓舞するための政治宣䌝に過ぎない。ムッ゜リヌニは祖囜の軍備や囜民経枈の疲匊を知っおいたし、その結果ずしお長期戊や倧芏暡戊争が䞍可胜であるこずも十分理解しおいた。その䞊で察英戊の終結によっお戊争が短期間で終結するよっお軍備䞍足は根本的な問題ずならないずいう芋通しで参戊したのである。実際、フランスが降䌏寞前に远い蟌たれ、米゜は䞭立を保ち、残されたのはむギリスのみずいう状態ではこうした刀断が必ずしも同時代の人間から芋お誀った刀断ずは蚀えない。だがヒトラヌは最初から欧州からボリシェノィキを䞀掃し、東方生存圏を埗るための察゜戊を避けられぬ運呜であるず考えおいた。自身の『マヌレ・ノストゥルム』は単なるスロヌガンでしかないが、ヒトラヌにずっお『レヌベンスラりム』は政治目暙であるこずをムッ゜リヌニは芋抜けおいなかった。

1940幎6月10日、むギリスの降䌏による早期の終戊ず枢軞囜陣営の勝利を芋蟌み、むタリア王囜はフランス共和囜ずむギリス垝囜に察しお宣戊を垃告した。ノェネツィア宮で矀集に向けお行った宣戊垃告挔説でムッ゜リヌニはこの戊争はむデオロギヌを巡る戊いであり、少子化ず高霢化が進み没萜し぀぀ある英仏ぞの戊いでありMussolini speech on 10 June 1940、ファシスト革呜の最終到達点であるずしお次のように挔説した。

同日、むタリア軍はフランス囜境を越えおコヌト・ダゞュヌルに䟵攻を開始したむタリア参戊、南仏ぞ䟵入開始『東京朝日新聞』昭和15幎6月11日『昭和ニュヌス蟞兞第7å·» 昭和14幎-昭和16幎』p371 昭和ニュヌス事兞線纂委員䌚 毎日コミュニケヌションズ刊 1994幎。 1940幎9月27日、日独䌊防共協定を発展させた䞉囜軍事同盟が結ばれ、枢軞囜陣営の䞭心ずなった日独䌊䞉囜同盟。

緒戊の躓き

開戊ず同時に仏䌊囜境に展開しおいた陞軍倧将の䌊第1軍ず陞軍倧将の䌊第4軍を統合し、名目䞊の指揮官ずしお皇倪子りンベルトを戎くGruppo d'armate Ovestが線成された。軍集団は兵員30䞇名を数えたがGiorgio Bocca, Storia d'Italia nella guerra fascista 1940-1943, Mondadori; pagina 147、兵士の装備は劣悪であった。特に山岳戊での冬季装備に぀いおは党く甚意されおおらず、極寒のアルプス山脈を進む郚隊で凍傷が倚発し、雪山での凍傷者数は2151名にも䞊ったGiorgio Bocca, Storia d'Italia nella guerra fascista 1940-1943, Mondadori; pagina 161。海岞線を進む郚隊は囜境の街マントンを攻め萜ずしお戊術的勝利を埗たが、独仏囜境のマゞノ線ず䞊ぶ芁塞線である䌊仏囜境のアルパむン線英語版に到達するず、前時代的な正面攻撃を敢行する叞什郚の無策で損害を受けた。

結局、フランスが枢軞囜に党面降䌏を宣蚀しおノィシヌフランス政府が成立するたでの間に631名の戊死者ず数千名の負傷者が犠牲ずなった。むタリアもを結び、察䟡ずしおマントン割譲ずサノォア、ニヌスの非歊装化を含むむタリア南仏進駐領域の暩利を埗たが、コルシカや戊略䞊重芁なチュニゞアの獲埗は果たせなかった。開戊前から危惧されおいた軍備の䞍足や前時代性が想定以䞊であるこずを痛感せざるを埗なかった。

フランス降䌏埌、戊いの䞻県は想定通り孀立したむギリスずの戊いに絞りこたれた。ドむツが北仏から英軍を远い払い、英本土䞊陞を目指しおバトル・オブ・ブリテンを繰り広げる䞭、ヒトラヌから北アフリカの英領怍民地ぞの攻撃が芁請された。北アフリカでは仏領チュニゞアの脅嚁が薄れた為、䌊領リビアから英領゚ゞプトぞの進出が図られ、䞊行しおバトル・オブ・ブリテンにもベルギヌに空軍郚隊を投入した。ムッ゜リヌニぱゞプト遠埁を呜什し、むタリア・リビア方面軍は西゚ゞプト囜境を占領した。たた東アフリカのAOI軍を積極的に甚いお、英領゜マリランド、ケニア、スヌダンなどで英軍に勝利した、゜マリランドの戊い。

北アフリカ戊線は数的には優勢ではあったが、工業力に乏しく機械化の進んでいない䌊軍に比べお英軍は機械化歩兵ず戊車郚隊を保有しおおり、軍郚内では遠埁反察の颚朮が非垞に匷かった。むタロ・バルボ空軍元垥の死埌、陞軍参謀長ず兌務で埌任のリビア総督ずなったロドルフォ・グラツィアヌニ陞軍元垥は「蚀が象に立ち向かうような暎挙」ず忠告したが、察独支揎を決めおいたムッ゜リヌニは「1000門の倧砲を持぀ずは倉わった蚀がいたものだ」ず答えるのみだった。遠埁が行われるず懞念通り遠埁軍は茞送力やむンフラの乏しさから兵站を維持できず、アレクサンドリアに向かう鉄道の始点であるマルサ・マトルヌフぞ到達する前に補絊線が䌞びきりで攻勢限界点に達した。グラツィアヌニ元垥はバルボ時代から繰り返されおいた機械化装備ず装甲戊力の増掟を求めたが、バドリオ元垥らの反察もあっお実珟しなかった。バトル・オブ・ブリテンに参加した空軍郚隊は航続距離の䞍足や数の少なさから、英軍勝利に傟く戊局に圱響を䞎えるこずはできなかった。唯䞀戊略的勝利を埗おいた東アフリカ戊線も補絊手段が殆ど存圚しないずいう悪条件から、䞻戊線である北アフリカ戊線が停滞しおからは防戊䞀方ずなった。最終的に英軍のコンパス䜜戊で゚ゞプト遠埁軍は包囲殲滅され、AOI軍は正芏兵ずアスカリが殆ど戊死するか負傷するたで戊い抜いたがケレンの戊い、を最埌にAOI軍の組織的抵抗は終焉した。

察英戊の打開を望んだムッ゜リヌニは東・北アフリカ戊線ず平行しお陞続きで属囜アルバニアずいう橋頭堡もあるバルカン半島での軍事行動を決め、芪英囜であるギリシャぞの䟵攻を決意した。ギリシャを攻め萜ずせばバルカン半島は枢軞囜䞀色に染たり、英軍はアフリカの背埌である䞭東の英領怍民地ぞの䟵攻を危惧する必芁があった。゚ゞプトやむラク、シリアで反英闘争が盛り䞊がりを芋せおいたこずも埌抌しずなったが、これたで察英戊を埌抌ししおいたヒトラヌからは匷く反察された。英本土䞊陞が䞍可胜になった埌、ヒトラヌは察英戊を棚䞊げしお䞭立同盟を結んだ゜連ぞ奇襲を仕掛けお䟵攻する構想を立おおいたが、この時点では同盟囜にも秘匿されおおり、ムッ゜リヌニにも通告はされおいなかった。ムッ゜リヌニの偎もルヌマニア進駐などを盞談なく進めたヒトラヌに䞍信感を芚えおおりCiano (1946), 247* Svolopoulos (1997), 272、枢軞内で䞊行しお戊争を進める決意を固めおいた。

緒戊で投入が準備された戊力はギリシャ軍より僅かに倚い皋床であったが、これは第䞀次䞖界倧戊埌の垌土戊争の戊蚓から「匱小なギリシャ軍」ぞの蔑芖感情が存圚しおいたこずによる。しかしギリシャ軍ぱピロス山岳地垯に自然を利甚した匷固な防衛線を構築しおおり、枢軞陣営のブルガリアが䞭立を宣蚀しおいたこずから山岳地垯を迂回するこずも䞍可胜であった。たた軍郚は開戊盎埌の兵員䞍足を補うべく倧芏暡な動員什を実斜したが、囜内生産力の䜎䞋が問題芖されたために動員を郚分解陀する方針に切り替えおいた。突然の戊線拡倧は兵員割れを起こした垫団での戊闘を意味しおおり、軍郚は遠埁に匷く反察した。ムッ゜リヌニ自身も躊躇を芚えたが、最終的にはロヌマ進軍蚘念日の10月28日にアルバニア駐留軍による進軍が開始されたSmith, Italy: A Modern History, 477.。

戊いではセバスティアヌノ・ノィスコンティ・プラスカ陞軍倧将が率いる8侇7000名Mario Cervi, Storia della guerra di Grecia, Oscar Mondadori, 1969, page 129の兵士が゚ピロス山脈北郚に進出したものの、雚季の山岳地垯での行軍は困難を極め、か぀おのむ゜ンヅォ戊線の再来ずも蚀うべき停滞した山岳戊が続いた。ギリシャ軍の増員や同盟軍であるアルバニア軍の反乱が盞次ぐ䞭で逆に戊線は埌退し、守勢に回っお逆にアルバニア南郚に防衛線を圢成するずいう屈蟱を味わった。ムッ゜リヌニは「ギリシャに負けるのなら、私はむタリア人であるこずを蟞める」ずたで語っおいる。倧囜むギリスはずもかく栌䞋のギリシャに苊戊するずいう惚状にムッ゜リヌニは軍郚ぞの倱望を深め、懲眰人事ずしおバドリオ元垥を参謀総長から解任した。

ドむツぞの埓属

1941幎1月18日、想定以䞊に捗々しくない前線の状態に倱意を芚えながら、ムッ゜リヌニはベルヒテスガヌデンのベルクホヌフで開かれた独䌊銖脳䌚談に向かった。ムッ゜リヌニを尊敬するヒトラヌは心からの劎わりの蚀葉を口にし、むタリア王囜軍の苊境に぀いおも擁護したが、同時に今埌は枢軞囜の戊争指導に霟霬を生じさせないこずを求めた。䌚談でムッ゜リヌニは自身の戊争指導を改める意思を固め、䌚談で枢軞囜陣営内でドむツずヒトラヌが䞻導する戊争蚈画に埓属する姿勢を鮮明にした。

ナヌゎスラビア王囜で囜王ペヌタル2䞖がドむツの床重なる内政干枉を拒絶しお芪独掟を䞀掃する事件が起きるず、激怒したヒトラヌは盎ちに軍を南䞋させおナヌゎスラビア䟵攻を行った。ムッ゜リヌニは軍に助力を呜什し、ノィットヌリオ・アンブロゞオの䌊第2軍がむストリア半島からナヌゎスラビア領ぞ進み、南䞋した独第2軍ずナヌゎスラビア第7軍を挟撃しおスロベニア地方を占領した。たたフィりヌメから南にアドリア海沿岞郚にも進軍しおダルマチア地方も占領したほか、北郚アルバニアでもの䌊第9軍が動員された。戊いはドむツ・むタリア・ハンガリヌによる枢軞軍の圧勝ずなり、ナヌゎスラビア王囜は解䜓された。軍事的な存圚感を発揮するこずが出来たムッ゜リヌニは、分割案でスロベニアのドむツ䜵合を認める代わりにダルマチア沿岞郚䜵合によるダルマチア・むタリア人の統合ずいう重芁な政治的成果を勝ち取った。

ほかの占領地のうち、ムッ゜リヌニずヒトラヌはモンテネグロ地方に぀いお、むタリア王劃であるモンテネグロ王女゚レナの血筋からペトロノィチニェゎシュ家の王朝を埩興するこずで同意を結んだ。ナチスやファシスト党に反察しおいたグラホノォれヌタ倧公ミハむロ・ペトロノィチが協力を拒絶するずいうアクシデントが起きたが、同地が「むタリアの領域」であるずいう協定は動かず、゚レナの倫であるむタリア王ノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖がアルバニア、゚チオピアに぀づいおモンテネグロも事実䞊君䞻を兌任した。ヒトラヌは埌にミハむロを反䌊・反独䞻矩者ずしお匷制収容所に収監したが、゚レナの芁請を受けたムッ゜リヌニの取りなしで釈攟しおいる。ダルマチアを陀いたクロアチア地方にはクロアチア人囜家が建囜されたが、こちらも自身が長幎支揎しおいたクロアチア人団䜓りスタシャの指導者アンテ・パノェリッチずサノォむア家のアオスタ公アむモヌネの䞡者を送り蟌み、それぞれクロアチア囜王アむモヌネずクロアチア銖盞パノェリッチに就任させお傀儡化したクロアチア独立囜。埓属囜アルバニアの倧アルバニア䞻矩も巧みに掻甚され、コ゜ボ線入を認めさせお圱響䞋に眮くなどナヌゎスラビア分割で最も実り豊かな成果を埗るこずになった。

ナヌゎスラビアを片付けたヒトラヌはブルガリアを枢軞偎で参戊させるず、そのたたむタリア・ギリシャ戊争にも参戊しおギリシャ軍の偎面を突き、総厩れに远い蟌んだマリヌタ䜜戊。しばしばギリシャぞの介入が密かに蚈画しおいた察゜奇襲の延期に圱響を䞎えたずする有名な俗説があり、ヒトラヌ自身も倧戊末期に䞻匵しおいる。しかし倧半の歎史家はマリヌタ䜜戊のバルバロッサ䜜戊に察する圱響はなく、延期は仏軍から鹵獲した茞送車䞡の配備に手間取ったこずや、晩春の豪雚による飛行堎建蚭の遅れなどが原因であるず結論しおいる。

ギリシャ占領地ではドむツ・むタリア・ブルガリア共同統治のギリシャ囜が蚭眮され、統治領域の倧郚分をむタリアが担圓しおピンドス公囜などを暹立した。ムッ゜リヌニは旧ナヌゎスラビア領にも倚数の陞軍・譊察軍郚隊を駐留させ、アルバニア、モンテネグロ、クロアチア以倖にもセルビア系の民兵組織チェトニクを支揎するなど、倧戊埌半たで同地の治安維持に貢献した。

アフリカ戊線ではヒトラヌから提案された独䌊䞡軍での北アフリカ遠埁を申し受ける圢でドむツアフリカ軍団を揎軍ずしお受け取り、埌任の陞軍参謀総長ずなったりヌゎ・カノァッレヌロ陞軍倧将を説埗しお独軍の実質的な独立指揮暩も容認した。バルカン情勢の決着埌は戊力の増掟にも着手しお、、などをむタリア本土、バルカン半島から北アフリカぞ転出させた。独䌊䞡軍はむギリス軍を抌し返しお゚ゞプト領゚ル・アラメむンたで進軍し、䞭東での枢軞軍ず連合軍の戊いも本栌化したアングロ・むラク戊争、シリア・レバノン戊圹。

ドむツぞの埓属はある時点たでは劥圓な刀断ず蚀えたが、英本土を攟眮したたたにヒトラヌが独゜戊ずいう二正面䜜戊を開始するず目算は再び厩れ始めた。

独䌊に跚る領域を率いたロヌマ皇垝フリヌドリヒ1侖 (フェデリヌコ1侖)の枟名であり、むタリア語で赀い髭を意味するバルバロッサの名を冠した奇襲䜜戊を知ったのは、攻撃が開始された午前0時から3時間埌のこずであったバルバロッサ䜜戊、英語版。ハンス・ゲオルク・フォン・マッケンれン駐䌊倧䜿からヒトラヌの秘密連絡を受け取ったムッ゜リヌニは曞面を呌んで「これは狂気だ」ず呻いたずいう。同幎末には日本がコタバル䞊陞マレヌ䜜戊を契機にアメリカず亀戊状態に突入、ムッ゜リヌニはヒトラヌのドむツ察米宣戊に぀づいおむタリアの察米宣戊垃告を行った。日本ずアメリカの参戊で戊線はペヌロッパから広がっお文字通りの䞖界倧戊ずなった。「英仏ず独䌊」の戊争は「米゜英ず日独䌊」の倧戊ぞず移り倉わり、参戊時ずは党く異なった様盞になっおいった。

枢軞囜・芪枢軞囜での協力は段階的に開始され、ルヌマニア、フィンランド、チェコスロバキア、ハンガリヌ、ノィシヌフランス、スペむンなどが揎軍を掟兵した。1941幎6月22日、ムッ゜リヌニもヒトラヌぞの協力を提案し、ゞョノァンニ・メッセ陞軍䞭将を指揮官ずする「むタリア・ロシア掟遣軍」Corpo di Spedizione Italiano in Russia、CSIRを掟遣した。メッセ䞭将は階兵連隊や自動車化垫団などを率いお南方軍集団・独第11軍の指揮䞋に入り、ペトロフカやスタヌリノの占領など独゜戊初期の電撃戊で軍功を䞊げ、ヒトラヌからも階士鉄十字勲章を授䞎されおいる。

ドむツを䞭心ずした枢軞軍は䞀挙にりクラむナから癜ロシアたでを占領䞋に眮く目芚たしい勝利を挙げ、非珟実的に芋えたヒトラヌの生存暩構想や人皮的䞖界芳が珟実になるかのように思えた。ムッ゜リヌニは揎軍掟遣の前に「䞀番の心配は我々が蚪れる前に戊争が終わるかもしれないずいうこずだ」ずたで偎近に語っおいる。序盀の戊勝に高揚したヒトラヌずムッ゜リヌニは二人でりクラむナの前線を電撃蚪問し、枢軞囜の兵士たちから熱烈な歓迎を受けた。ヒトラヌにずっおは忌むべきスラブ人の巣窟であっおも、ムッ゜リヌニにずっおはか぀お仰いだ存圚でもあるレヌニンの故囜ずあっおさぞ先進的な囜家なのだろうず期埅しおいたが、ヒトラヌず閲兵を行ったブレスト・リトフスクは貧盞な町䞊みで倱望を芚えおいる。垰り道では飛行機免蚱を持぀ムッ゜リヌニが飛行䞭に操瞊桿を持っお運転しおおり、傍らで芋守るヒトラヌは心配そうな衚情だったずいう。

1942幎、゜ノィ゚ト軍が頑匷な抵抗を重ねお東郚戊線が長期化し、資源地垯を切り厩すべく枢軞軍のブラり䜜戊が開始された。既にムッ゜リヌニの戊争蚈画に疑問を抱いおいたメッセはヒトラヌの芁請に応じお戊力増掟を進めるムッ゜リヌニず察立しお解任され、埌任の指揮官に北アフリカからむヌタロ・ガリボルディ陞軍倧将を転任させ、戊力も9個垫団に増掟しお䌊第8軍むタリア・ロシア戊域軍ぞ拡倧した。䌊第8軍を含めた枢軞同盟軍は旧・独南方軍集団A軍集団ずB軍集団ずコヌカサス地方の油田地垯に進み、ドン河沿いに戊線を構築しおスタヌリングラヌドを包囲した。

同地の攻略にヒトラヌが固執しお同盟軍の守る陣地が手薄になった隙を突いお゜連軍の䞀斉反撃が始たり、1942幎11月䞭にルヌマニア第3軍・第4軍が壊滅しお独第6軍が包囲されたりラヌス䜜戊。䌊第8軍はハンガリヌ第2軍ず戊線を懞呜に支えたが、第二次攻勢でハンガリヌ第2軍が壊滅するずアルピヌニ垫団山岳垫団を残しお埌退した小土星䜜戊。アルピヌニ垫団は翌幎たで包囲䞋の陣地を死守した埌、独第6軍の降䌏ず前埌しお包囲網を砎っおりクラむナぞ撀収したニコラ゚フカの戊い。東郚戊線の攻守が入れ替わり、察゜戊もたた察英戊ず同じく戊勝による講和はたず有り埗ない状態ずなった。

日本ずの協力

1942幎6月には、むタリア軍の倧型茞送機の「サノォむア・マルケッティ SM.75 GA RT」により、むタリアず日本、もしくは日本の占領地域ずの飛行を行うこずを蚈画した。6月29日にグむドヌニア・モンテチェヌリオからむタリアず離陞埌戊争状態にあった゜ビ゚ト連邊を避けお、ドむツ占領䞋のりクラむナのザポリヌゞャ、アラル海北岞、バむカル湖の瞁、タルバガタむ山脈を通過しゎビ砂挠䞊空、モンゎル䞊空を経由し、6月30日に日本占領䞋の内モンゎル、包頭に到着した。しかしその際に燃料䞍足などにより、゜ビ゚ト連邊䞊空を通過しおしたい銃撃を受けおしたう。その埌東京ぞ向かい7月3日から7月16日たで滞圚し、7月18日包頭を離陞しおりクラむナのオデッサを経由しおグむドヌニア・モンテチェヌリオたで機䜓を飛行させ、7月20日にこの任務を完遂した。

しかし、日本にずっお䞭立囜のむタリアにずっおの察戊囜゜ビ゚ト連邊䞊空を飛ぶずいう倖亀䞊の理由によっお、滞圚するアントニオ・モスカテッリ䞭䜐以䞋の存圚を党く倖郚に知らせないなど、日本では歓迎ずは蚀えない埅遇であった。たた、事前に日本偎が芁請しおいた、蟻政信陞軍䞭䜐を垰路に同行させないずいうおたけも぀いた。しかも、案件の䞍同意にも関わらずむタリアは8月2日にこの出来事を公衚し、2囜間の関係は冷え冷えずしたものになり、むタリアは再びこの長距離飛行を行おうずはしなかったRosselli, p. 20.。

たた、倩接のむタリア租界が日本軍ず協力しおいたほか、これ以前からシンガポヌルやペナンにおかれた日本海軍基地を拠点に、ドむツ海軍の朜氎艊や封鎖突砎船がむンド掋においお日本海軍ずの共同䜜戊を行っおいたが、1943幎3月にムッ゜リヌニの䞋でむタリア海軍がドむツ海軍ずの間で倧型朜氎艊の貞䞎協定を結んだ埌に「コマンダンテ・カッペリヌニ」や「レゞナルド・ゞュリアヌニ」など5隻の朜氎艊を日本軍占領䞋の東南アゞアに送っおいる。たたむタリア海軍は、日本が占領䞋に眮いたシンガポヌルに朜氎艊の基地を䜜る蚱可を取り付け、工䜜船ず海防艊を送り蟌んだ。8月には「ルむヌゞ・トレッリ」もこれに加わった。

枢軞軍の敗退

スタヌリングラヌドでの臎呜的敗北は枢軞囜の敗戊が意識された出来事であったが、その数か月前に北アフリカ戊線でも゚ゞプト前面に再進出しおいた独䌊軍が激戊の末、第䞀次゚ル・アラメむンの戊いずで英軍に敗北したこずも远い打ちを掛けた。日本の枢軞囜参戊によっお連合囜陣営にアメリカが加わったこずも倧きく、トヌチ䜜戊で米軍が欧州戊線に介入しおチュニゞアのノィシヌフランス軍を降䌏に远い蟌み、チュニゞアの米軍ず゚ゞプトの英軍に挟撃された独䌊軍が窮地に立たされた。枢軞軍の戊線は急速に瞮小し、ナチス・ドむツに埓属しおきたムッ゜リヌニの戊争蚈画に疑問が持たれ、1942幎埌半頃から䌑戊に向けた蚈画が始たった。

ヒトラヌずムッ゜リヌニは瀺し合わせお南仏ぞの独䌊進駐を実斜し、むタリア偎はコルシカ島やプロノァンス地方を占領したアントン䜜戊。開戊盎埌からムッ゜リヌニはヒトラヌに南仏沿岞郚ずチュニゞアを戊争に非協力的なノィシヌ政府から割譲させ、フランス地䞭海艊隊の残存艊隊も独䌊が接収するこずを提案しおいた。提案はノィシヌ政暩の自発的参戊を期埅しおいたヒトラヌに反察されたが、同じ期埅を抱いおいたスペむンず同じくノィシヌフランスも最埌たで枢軞囜偎ぞ参戊せず、ヒトラヌの期埅は党く無意味だった。アントン䜜戊は連合軍が欧州本土に橋頭堡を築くのを阻止したが、もはや地䞭海戊線は手遅れだった。

ほかにアフリカぞの補絊線を確保すべくマルタ島の占領も再䞉提案しおいたが、ロンメルに意芋されたヒトラヌは独䌊空軍による爆撃に留め、線成されおいたむタリア陞軍の空挺垫団は北アフリカに投入された。ムッ゜リヌニは「ヒトラヌは地䞭海の重芁性を党く理解しおいない」ず察゜戊に執着するヒトラヌぞの䞍満を口しおいる。䜓調を厩したロンメルがドむツ本囜に垰還したこずから䜜戊指揮は東郚戊線から転任したゞョノァンニ・メッセ陞軍倧将埌に元垥昇栌ず、ロンメルの埌任ずなった独軍のハンスナルゲン・フォン・アルニム䞊玚倧将が匕き継いだ。メッセずアルニムはやなどで抵抗を芋せたが、補絊が途絶し制海暩も制空暩も握られた状態では劂䜕ずもし難く、チュニス陥萜埌の䌑戊亀枉を経お1943幎5月に地䞭海戊線は連合囜の勝利で終結した。

囜内経枈も資源の枯枇ず連合軍の戊略爆撃によっお壊滅的な打撃を蒙り、殆どの工堎が操業停止状態に陥っおいる。二倧工業郜垂であるミラノずトリノでは空襲の危険から劎働者の自䞻避難も盞次いだ。劎働運動はコヌポラティズムによる劎䜿協調や政府統制から倖れお反政府的な姿勢を瀺し始めた。1943幎3月には18幎ぶりに倧芏暡なれネストが党囜で展開され、トリノ・ミラノ・ゞェノノァの䞉角工業地垯では150䞇名ものストラむキ参加者が発生した。蟲業生産力も䜎䞋しお深刻な食糧難が発生するなど戊時アりタルキヌ自絊自足経枈の瓊解を前にしお、ノェネツィア広堎でのムッ゜リヌニの参戊挔説に倧歓声を挙げた囜民の間には厭戊感情が広がり、囜営攟送ではなくノァチカン垂囜の攟送局や連合軍の宣䌝攟送ロンドン・ラゞオを傍受する家庭が増加した。

䌑戊ぞの動き

刻䞀刻ず戊局の悪化が続き、圢勢䞍利が明らかになったこずでむタリア王囜内の䌑戊蚈画は支持を広げおいった。これたで戊時政暩を支えおきたファシスト党や王党掟の間からも反独掟・芪米英掟を䞭心に䌑戊を求める動きが広がり、元より開戊反察論が䞻流であった軍郚でも賛同する将官たちが珟れ、単独講和が珟実味を垯び始めた。ムッ゜リヌニも敗戊や䌑戊蚈画ずいった結末は避けられないず感じおか、あるいは患い぀぀あった胃の病の圱響で若い時皋の芇気を持たなくなった。東郚戊線の砎局はバルカン半島に集䞭しおいた枢軞陣営の小囜に著しい恐怖を䞎え、圌らは連合囜や゜連ずの分離講和や枢軞囜からの離脱を詊み始めおいた。その䞀囜であったブルガリア王囜のボグダン・フィロフ銖盞はロヌマを蚪れ、むタリアもドむツず手を切っお゜連ず分離講和すべきだずムッ゜リヌニぞ勧めおいる。

1943幎4月7日、クレスハむムで開かれた独䌊銖脳䌚談でヒトラヌに察し゜ノィ゚ト連邊ず講和しおむギリスずアメリカずの戊いに集䞭するように働きかけたが、同意は埗られなかった。ムッ゜リヌニは圓初から察英戊を棚䞊げした二正面䜜戊が最倧の過ちであり、第䞀次䞖界倧戊のドむツ垝囜のように倖亀的に東郚戊線に決着を付けお䞀぀の戊線に集䞭すべきだず思っおいた。しかしスラブ人の芆滅こそ最終目暙ず考えおいるヒトラヌは゜連ずの講和を拒絶し続けた。゜ノィ゚トぞの勝利に劄執するヒトラヌを説埗するのは誰であっおも䞍可胜だった。同幎7月10日、勢い付いた連合軍が地䞭海を経由しおむタリア本土の南端であるシチリア島ぞ䟵攻するずハスキヌ䜜戊、もはやファシスト政暩の敗戊は免れない情勢ずなった。

元より乏しい軍備を䜿い果たしおいたむタリア陞軍は連合軍の䞊陞に為す術もなく、指揮䞋の䌊第6軍兵員23䞇名は米第7軍・英第8軍兵員46侇7000名に敗北し、独第15装甲垫団ずヘルマン・ゲヌリング空軍装甲垫団の支揎を受けおメッシヌナ海峡ぞ撀退した。同時期に銖郜ロヌマぞの倧芏暡な空襲も行われ、敗戊を前に政府や軍の䌑戊掟は連合軍ずの秘密亀枉を開始しおいた。そうした䞭でフェルトレにおいお急遜行われた13床目の独䌊銖脳䌚談ではヒトラヌがむタリアの政府ず囜軍に察しお初めお激烈な怒りを芋せた。むタリアに察するヒトラヌの批刀においおムッ゜リヌニ個人は垞に擁護されおいたが、それでも戊局に察する激しい口調は瀌を倱した姿勢であった。しかもヒトラヌの意芋は具䜓性を欠いおおり、議論ずいうよりも挔説であった。実際、ムッ゜リヌニの継戊意欲を錓舞するこずを意図しおいたず思われるが、ムッ゜リヌニからすれば疲劎感を芚えるだけであった。

ムッ゜リヌニずヒトラヌずの信頌関係が厩れたず芋お、䌚談の途䞭で参謀次長が連合軍ずの単独講和案を密かに話し、この堎で独䌊同盟の解消を宣蚀すべきだず提案した。カステラヌノら軍の䌑戊掟はロヌマ呚蟺に新蚭の3個機械化垫団を展開しおおり、連合軍の北進ず呌応する準備も敎えおいたが、ムッ゜リヌニは単独講和案を华䞋した。䌚談の埌半、冷静さを取り戻したヒトラヌも独䌊友奜を再確認し、ムッ゜リヌニず今埌の戊争協力に぀いお話し合い、むタリア本土での枢軞軍による共同戊線構築に぀いおの蚈画を緎った。むタリア陞軍の戊車䞍足を補うべくドむツ囜防軍が䜿甚しおいる䞉号戊車・四号戊車の提䟛も取り決められ、ドむツ匏の装甲垫団であるが線成された。圓初、この装甲垫団は囜防矩勇軍を通じお党の指揮䞋に眮かれおいたが、統合参謀本郚の匷い反察で陞軍指揮䞋に移管されおいる。

軍郚を䞭心ずした䌑戊掟にずっおムッ゜リヌニの継戊意思が明らかずなったフェルトレ䌚談は珟政暩での䌑戊を断念し、講和の前提条件ずしおのクヌデタヌに螏み切る盎接的動機ずなっおいたのである。

クヌデタヌ蚈画

思慮が浅く愚かですらあったベルギヌ出身の王倪子劃マリヌア・ゞョれ・デル・ベルゞョによる陰謀を含めお、倚くの無意味で無力な䌑戊蚈画が緎られたが、実際に実行力を䌎ったものは二぀しかなかった。囜家ファシスト党の䌑戊掟による蚈画ず、陞軍ず囜王による蚈画である。圌らは「ムッ゜リヌニの独裁暩返䞊」ず「むタリアの単独講和を支持する」ずいう点では䞀臎しおいたが、その動機は党く違っおいた。

囜家ファシスト党の䌑戊掟はむタロ・バルボに次ぐ芪英掟ファシストであったコヌポラティズム評議䌚議長ディヌノ・グランディが積極的に動き、王党掟ずも連絡を取っお䌑戊蚈画の䞀本化を図っおいる。ほかに倖務倧臣ガレアッツォ・チャヌノ、元文化倧臣ゞュれッペ・ボッタむ、議員らファシスト党の芪英掟・反独掟が䞻に同調した。圌らはドむツ䞻導の戊争に反察しおいたのであり、ファシズム運動から離脱する考えはなかった。䟋倖的にグランディはファシスト党政暩の廃止もやむなしずしおいたが、それでもムッ゜リヌニ個人ぞの忠誠心は揺らいでいなかった。動議に぀いおムッ゜リヌニが統治暩を返䞊するこずで、サノォむア家が戊争責任に぀いお党面的に参䞎せざるを埗ない状態にするこずが目的であるずも語っおいる。

サノォむア家は第䞀次䞖界倧戊の教蚓からロマノフ家のような末路を迎えるこずを危惧しおファシスト党の埌盟ずしお行動しおいたが、今やホヌ゚ンツォレルン家やハプスブルク家のような倱脚に至る可胜性の方が珟実化しおおり、敗戊による王政廃止を恐れおいた。軍郚は開戊前からの軍備䞍足が倧戊埌期には顕著になり、海軍に至っおは燃料䞍足で敵軍のシチリア䞊陞に察しおすら出撃できない皋であった。゚マヌ゚ヌレ3䞖は1943幎1月にムッ゜リヌニを自身の宰盞から勇退させるこずを怜蚎し始め、ハスキヌ䜜戊埌の同幎7月に宮内倧臣アックァロヌネぞそのこずを告げおいる。ムッ゜リヌニず䞊んで統垥暩倧元垥を持぀゚マヌ゚ヌレ3䞖が、ハスキヌ䜜戊前の時点で「ドむツずの同盟砎棄を怜蚎すべき」ずする芚曞を残しおいるこずも背景ずなり、軍郚は連合囜ずの䌑戊ぞ動いた。

実務的にはノィットヌリオ・アンブロゞオ統合参謀本郚総長ず統合参謀本郚次長が進めたが、埌盟ずしおピ゚トロ・バドリオ元垥、゚ミヌリオ・デ・ボヌノ元垥、元垥ら陞軍の長老たちが関䞎しおいた。サノォむア家ず軍郚はクヌデタヌ埌は民政移管ではなく軍事独裁を予定し、䟝然ずしお圱響力を持぀であろうムッ゜リヌニの身柄も拘束する意向を持っおいた。䞀方で実盎なムッ゜リヌニは気難しい性栌であったノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖から信頌を埗た数少ない人物であり、諞倖囜でもドむツのアドルフ・ヒトラヌやむギリスのチャヌチルからも亀枉に倀する人物ず芋られおいた。こうした点からムッ゜リヌニを退任させるこずはむしろ混乱を拡倧させる可胜性が高く、匕き続きムッ゜リヌニを指導者に連合囜ずの䌑戊やドむツの察゜講和を働きかけるべきずの意芋も根匷く、フェルトレでの独䌊䌚談たで慎重に怜蚎を続けおいた。

軍郚・囜家ファシスト党の芪独掟であるロベルト・ファリナッチ元党曞蚘長ずりヌゎ・カノァッレヌロ陞軍元垥らは継戊に向けた別の蚈画を準備しおおり、情勢は混沌ずしおいた。

ずもかくもグランディ議院議長はファシズム倧評議䌚でムッ゜リヌニの独裁暩返䞊を求める準備を始めたが、決議案は密かに行われた謀議や陰謀などの類ではなく公にされた議案であり、ムッ゜リヌニに察しおもグランディが別件での䌚談時に告げおいる。したがっおその気になれば匷暩を発動しお倧評議䌚の招集を拒吊するこずや、反察掟を粛枅するこずは容易であったずみられる。そもそも評議䌚はあくたでも諮問機関であっお盎接的な法的暩限は存圚せず、議決は象城的な意味合いしかなく、さらに召集や評議員の遞出は党指導者の専暩事項だった。ムッ゜リヌニは本圓に重芁なのはサノォむア家の埌芋であり、たたドむツず連合軍の動向であるず考えおいた。

グランディ決議

1943幎7月24日、倧評議䌚が開かれるにあたり、評議員資栌を持぀者の䞭から28名が召集され、ノェネツィア宮の「鞚鵡の間」に集たった。ノェネツィア宮には200名の譊察郚隊ず囜家矩勇軍1個倧隊が譊備任務に就いおいたが、ムッ゜リヌニ盎属の衛兵郚隊はロヌマ空襲に察する救助任務に送り出されおいた。倧評議䌚議長でもあるムッ゜リヌニは緑色に染められた囜家矩勇軍の制服を身に着け、評議員たちも黒シャツ隊匏の倏服を纏っおいた。郚屋の䞭倮に眮かれた議長垭の䞡脇には最叀参幹郚の゚ミヌリオ・デ・ボヌノ陞軍元垥、PNFにずっお最埌の党曞蚘長ずなる第8代曞蚘長らが座り、残りの26名が順々に垭を䞊べおいた。この日、シチリア島の䞭心地パレルモが陥萜したずの報告が入り、出垭者たちは重苊しい空気で䌚議を埅っおいた。

午埌5時14分、ムッ゜リヌニが「䞡半球図の間」から「鞚鵡の間」に移動しお議長垭に座るず、スコルツァが『統領ぞ敬瀌』ず呌びかけ、党評議員が立ち䞊がっお『ア・ノむ我らがもの』ず唱和しおロヌマ匏敬瀌を行い、評議䌚が開催された。

たず最初にドむツ軍の軍事行動に぀いおムッ゜リヌニが所芋を述べ、戊局が「極めお危機的な状態にある」ずいう事実を認め぀぀も戊争の継続を䞻匵した。第䞀次䞖界倧戊におけるカポレットの戊いを匕き合いに出し、圓時の政府が単独講和案を跳ね陀けおロヌマからシチリアに遷郜しおでも戊い抜く決意を固め、遂には協商囜の南郚戊線を守り抜いたこずを䟋に挙げおいる。たた䌑戊や講和に぀いおは連合囜が戊いを挑んでいるのは「むタリアであっおファシズムではない」ず指摘しおいる。グランディが提出を予定しおいる決議案も単に状況を混乱させるだけのものであるず䞀蹎しおいるが、『合議は拘束する』ずしお決議の結果には埓うずした。

ムッ゜リヌニの埌にはか぀おのファシスト四倩王であるデ・ボヌノ元垥、議員が発蚀したが、議論に圱響する発蚀は避けおいる。元文化倧臣ゞュれッペ・ボッタむは協商囜ず同じく枢軞囜ドむツはむタリアを十分に支揎するずしたムッ゜リヌニの䞻匵を退け、状況から芋お意矩のある本土決戊は䞍可胜であるず䞻匵した。むしろムッ゜リヌニが暗に苊境を認めたこずは継戊掟の幻想を打ち砕く「倧槌」であるず述べおいる。そしおボッタむの次に発蚀の垭に立ったグランディは「サノォむア家に統垥暩ず憲法䞊の倧暩の掌握」を求める決議案を倧評議䌚に提出したグランディ決議。グランディは基本的に珟状の囜家指導を批刀する姿勢を取ったが、前述の通りムッ゜リヌニにずっおも有甚であるずいう持論も述べおいる。ムッ゜リヌニ個人ぞの批刀は行わず、党䜓䞻矩䜓制構築のために遞択された独裁制に批刀の矛先を向けた。ムッ゜リヌニずファシズムの高朔な理想は独裁ず統制瀟䌚ずいう珟実の手法によっお道を誀っおしたった、ずいうのがグランディの蚀い分だった。グランディは「か぀おの貎方に、我らのムッ゜リヌニに、我々が付き埓ったムッ゜リヌニに戻っお欲しい」ず語り、最埌に「ドゥヌチェ、我々ずあらゆる責任を分け合いたしょう」ずいう蚀葉で挔説を終えた。

次に発蚀したのは嚘婿の倖務倧臣ガレアッツォ・チャヌノだった。チャヌノもたたムッ゜リヌニを批刀するこずはせず、ドむツの砎滅的で専暪的な戊争蚈画ぞの批刀を行った。特に自身も締結に関䞎した鋌鉄条玄に「1942幎たで䞡囜は戊争を回避する」ずいう条文をドむツが砎った時点で、最初から独䌊間に倖亀䞊の信矩などないず指摘した。チャヌノは「我々は裏切り者ではない。我々の方こそ裏切られたのだから」ず語り、同盟砎棄に぀いおいかなる歎史家の吊定的評䟡も恐れる必芁はないず述べおいる。䞀方、継戊掟・芪独掟の評議員である元党曞蚘長ロベルト・ファリナッチは王家に倧暩を返华するこずでより団結した指導䜓制の構築するずいうグランディの提案に賛同した。ただし䌑戊や講和を取りたずめるこずを意図しおいたグランディず違い、戊争継続に向けおサノォむア家を抱き蟌むためであった。

議論は真倜䞭にたで及び、冷房もない宮殿に滞圚する評議員には明らかに疲れの色が滲んでいた。動議に最初賛成したのは10名皋床だったが、延々ず続く議論の䞭で評議䌚出垭経隓がなく議論に䞍慣れな人々ぞのグランディによる執拗な説埗が展開され、党䌚䞀臎の方向ぞ進み始めた。ムッ゜リヌニが評議員の疲劎を考慮しお議論を翌日に再開するず発蚀するず、グランディが食い䞋がったために結局は30分の䌑憩を挟んで再開ずなった。芇気に欠けるムッ゜リヌニは察抗した根回しを行うこずはなかったが、その代わり、再開された評議䌚でムッ゜リヌニは囜民ず党の間の亀裂を協調するグランディに「決議が通れば党はその亀裂に飲み蟌たれる」ず匷く批刀する挔説を行った。この挔説は決議案の意味に぀いお評議員たちに再考を促す結果を霎し、決議賛成に傟いおいた䞀人である曞蚘長スコルツァを翻意させるこずに成功した。スコルツァはムッ゜リヌニずPNFを䞭心ずしたファシズム䜓制ぞの回垰を䞻匵する新たな動議を提出し、グランディやボッタむらを驚嘆させた。

ほかに耇数の評議員が賛成を取り消しはじめ、グランディは急遜議論を切り䞊げお決議を芁請した。ムッ゜リヌニは議決を取るか取らないかの暩限すらあったが、支持が戻り぀぀あるにも関わらず議論を続けず、スコルツァに呜じお決議を取らせた。議決の結果は28名䞭、賛成19名・反察7名・棄暩1名ずなり、サノォむア家ぞの独裁暩返䞊を求める決議は可決された。ムッ゜リヌニは黙々ず曞類を敎理しながら「これでファシズム䜓制は危機を迎えた」ず発蚀しお垭を立った。

グランティらに説き䌏せられお動議に賛成祚を入れた䞭立掟の殆どは動議の意味する結果が理解できおおらず、議案の結果を呚囲に尋ねたり、ムッ゜リヌニぞ敬瀌するなどしおいる。

独裁暩の返䞊

評議䌚を終えた埌、執務宀でスコルツァら反察祚を投じた者たちからグランディらの逮捕を提案され、党本郚で甚事を枈たせおから自宅に戻った際には劻ラケヌレからも粛枅を勧められおいるが、いずれも华䞋しおいる。ムッ゜リヌニは䌑戊蚈画も粛枅も内戊に繋がるこずに倉わりはないず考えお、囜家が結束を倱わない圢での決着を暡玢し、サノォむア家による仲裁に望みを蚗しおいた。だが既に宮内倧臣アックアロヌネら王党掟ずアンブロゞオ統合参謀本郚総長らはムッ゜リヌニの拘束を決意しおいた。

1943幎7月25日、ムッ゜リヌニは自宅で僅かな仮眠を取り、朝早くノェネツィア宮に向かった。ノェネツィア宮の執務宀ではグランディず連絡を取っお議論を詊みおいるが、グランディは既にアックアロヌネから軍郚ず王家の決起を聞いお身柄を隠しおいた。ムッ゜リヌニは暫く執務宀に滞圚し、同日に凊刑が予定されおいた2名のクロアチア人パルチザンぞの恩赊を呜じ、囜王副官のパオロ・プントヌニ将軍に月曜日の定䟋謁芋を倕方に繰り䞊げるように連絡を入れたほか、日本の日高信六郎駐䌊倧䜿ず面䌚しおいる。

7月25日午埌3時、謁芋に向かう前に自宅に戻っおラケヌレず昌食を取り、謁芋甚のスヌツずフェルト垜に着替えお愛車のアルファ・ロメオで出発した。目的地は儀瀌的な匏兞が行われるクむリナヌレ宮殿ではなく、サノォむア家の離宮ず庭園があるぞず赎いた。予定より謁芋が早たったために軍郚ず王党掟は倧急ぎで準備を進め、クヌデタヌは陞軍ではなく譊察軍カラビニ゚リを䞻䜓ずしお行われるこずになった。軍郚ず王家から銖盞に遞定されたバドリオはクヌデタヌの実務には党く関䞎しおおらず、サノォむア家から爵䜍ずずもに䞎えられおいた邞宅で䌑暇を取り、カヌドゲヌムブリッゞをしおいたずいう。

7月25日午埌4時55分、離宮の門前に護衛が乗った3台の車䞡ず蚪れ、車から降りるず秘曞官のみを連れお離宮ぞず入っおいった。ノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖は倧元垥の軍服を身に纏い、䞭倮玄関で出迎えお謁芋宀たでムッ゜リヌニず歩いおいる。謁芋宀にはプントヌニ将軍のみを扉の前に残し、20分ほどムッ゜リヌニず䌚話しおいる。

ムッ゜リヌニが倧評議䌚の決定に぀いお述べようずするず、それを遮るようにしお゚マヌ゚ヌレ3䞖はピ゚トロ・バドリオ元統合参謀本郚総長に組閣を呜じる勅什を䞋した。唯䞀同垭しおいたプントヌニによれば、勅什を述べ終わるずムッ゜リヌニが「では、党おが終わった、ずいうこずですか」ず尋ね、゚マヌ゚ヌレ3䞖は「残念だが 実に残念だ」ず呟いたずいう。゚マヌ゚ヌレ3䞖はムッ゜リヌニに握手をし、「䜙の責任においお身の安党は保障する」ずも話したずいう。

謁芋を終えおムッ゜リヌニが離宮から倖に出るず、埅ち構えおいた護衛のカラビニ゚リ囜家憲兵、譊察軍に身蟺譊護を名目に身柄を拘束された。

幜閉からの埩掻

バドリオ政暩䞋での幜閉

1943幎7月27日、名目䞊、ムッ゜リヌニは身蟺譊護を理由に擬装甚の救急車で海軍基地に護送され、そこから茞送艊でティレニア海の島々ぞ幜閉された。最初に軟犁されたポンツァ島では準備が間に合わず、䜿われおいない無人の叀民家が甚意された。颚呂が䜿えないなど粗末な建物であったが、監芖に぀いた䞋士官たちはムッ゜リヌニに敬意を払い、曞物や衣服の差し入れなど軟犁生掻を手助けした。数日埌により厳重な譊備が行われおいるラ・マッダレヌナ島に移動し、そこでは海軍将校甚の邞宅が提䟛されお新聞などを賌読するこずも蚱可された。激務から䞭断しおいた読曞や執筆に専念する日々を送り、これたでの囜家指導に぀いお芋぀め盎す機䌚を埗お、今埌のファシズム運動のあり方に぀いお思玢を行っおいる。

幜閉されおいる間にも倖郚では政治情勢が混迷を続けおいた。バドリオは銖盞閣僚評議䌚議長ではなくムッ゜リヌニず同じくの地䜍に就任しお、囜家ファシスト党による独裁に倣った軍郚独裁を志向した。その為、バドリオ政暩はボノヌミらを初めずする議䌚制民䞻䞻矩の埩暩を求める政治家たちから積極的な協力を埗られなかった。サノォむア家を筆頭ずする王党掟が協力しおいる為、共産䞻矩・共和䞻矩の反乱勢力から敵芖された点でも同様であった。たたバドリオは囜家ファシスト党PNFずその青幎組織の解散、およびチアヌノらファシスト党幹郚の資産没収、、倧評議䌚、囜家特別裁刀所の廃止などを行い、ファシスト勢力ずも党面的に察立した。ちなみに資産没収の名分は䞍正蓄財の調査だったが、自身がファシスト政暩䞋で蓄えた膚倧な財産は䞍問ずした。

ムッ゜リヌニ解任に激怒したヒトラヌがむタリアぞの進駐を蚈画しおいるずの報告も届いおいた。ヒトラヌはバドリオを「我らの最も残酷なる敵」ず呌び、南仏に続いお北䌊ぞの進駐蚈画「アラリック䜜戊」の発動を蚈画しおいた。アラリック䜜戊は「むタリアの戊争離脱が決定的になった時」を前提ずしおいたが、平静さを倱っおいたヒトラヌは劂䜕なる犠牲を払っおも進駐ずバドリオ政暩関係者を拘束するように呜じ、そればかりかクヌデタヌに協力したず考えおいたカトリック教䌚の「ならず者共」を捕らえるべくノァチカン占領も呜じおいる。しかし゚ルノィン・ロンメルやケッセルリンクなどむタリア戊線の指揮官たちからは準備䞍足であるず反察されおしたい、圓面の間はバドリオ政暩の動きを泚芖し、たたムッ゜リヌニの軟犁先を調査するこずを決定した。

最初から支持基盀を欠いた政暩であったこずに加えおムッ゜リヌニに比べお決断力のないバドリオ個人の政治的資質もあり、枢軞囜ず連合囜ずの間に挟たれた状況䞋での䌑戊亀枉は暗瀁に乗り䞊げた。連合囜偎のアメリカ倧統領ルヌズベルトずむギリス銖盞チャヌチルが枢軞囜には無条件降䌏以倖を基本的に認めない姿勢を取ったこずも二の足を螏たせる原因になっおいた。君䞻たる゚マヌ゚ヌレ3䞖も戊争継続ず降䌏のどちらを遞ぶべきかこの期に及んで悩んでいたが、7月28日になっおバドリオに察しお䌑戊亀枉の勅呜を䞋した。7月29日、䌑戊亀枉決定の翌日にムッ゜リヌニが六十歳の誕生日を迎えるず、沈黙するむタリア政府ずは察照的にドむツ政府は公然ずムッ゜リヌニの誕生日を祝い、クヌデタヌを承認しない姿勢を明瞭に瀺した。ヘルマン・ゲヌリング囜家元垥からは祝電が送られ、ヒトラヌからは特別に装䞁されたニヌチェ党集が手玙を添えお莈られた。

バドリオ政暩厩壊

䌑戊亀枉に぀いおバドリオはドむツ軍の介入を恐れお連合軍ずの戊闘継続宣蚀を出したが、同時にカステラヌノ統合参謀本郚次長をスペむンに送っお芪䌊掟のホヌア元・英倖盞ず䌚談を行わせ、連合囜ぞの䌑戊を申し入れた。ケベック䌚談䞭のルヌズベルトずチャヌチルは急ぎ「短期䌑戊協定」を策定したが、この文曞は無条件降䌏に぀いおは棚䞊げしおおり、现目は今埌「長期䌑戊協定」を結ぶ際に議論するものずした。連合囜遠埁軍のドワむト・アむれンハワヌ最高叞什官はりォルタヌ・ベデル・スミス遠埁軍参謀長に「短期䌑戊協定」の文曞を持たせおポルトガルのリスボンでカステラヌノず䌚談を行わせ、䞡者の間で8月30日たでに本囜の蚱可を取り、9月1日にシチリア島の連合軍叞什郚で調印するこずが決められた。

だがカステラヌノが「陞路」で垰囜する前にバドリオはゞャコモ・ザヌッシ陞軍副参謀長に「空路」でリスボンに亀枉結果の確認を呜じ、そのザヌッシは連合軍から無条件降䌏が远蚘された「長期䌑戊協定」を枡されお垰囜した。カステラヌノずバドリオに別々の亀枉条件が䌝えられるずいう連絡ミスによっお、バドリオ政暩の情勢刀断はさらに混乱した。9月2日、予定より倧きく遅れおシチリア島の連合軍叞什郚に向かったカステラヌノは「自身に決定暩はない」ずしお本囜ずの連絡圹以䞊の行動は取らず、バドリオは決断を避けお亀枉は長匕いた。結局、䌑戊協定が纏たったのはむタリア本土䞊陞の予定日たで残り䞀週間を切った9月3日にずれ蟌み、その間にドむツ軍は諜報や戊力の移動ずいった介入に向けた準備を進めおいた。

戊争指導に぀いおもバドリオ政暩の䞍手際は続き、本囜や本土呚蟺の占領地における軍隊に適切な指瀺や再線を呜じず、ドむツの進駐軍40䞇名に察しお玄190䞇名の守備戊力は䜕の準備も呜じられおいなかった。バドリオが口頭ではなく呜什文曞で軍に呜什を出したのは『今埌起こりうる事態ずその察凊』に぀いお『情報収集を怠らない事』ずいう蚓瀺を行った䞀䟋のみである。バドリオの腹心で軍事蚈画を䞀任されおいたアンブロヌシオ統合参謀本郚総長は幟぀かの呜什を行っおいるが、やはりバドリオ同様の曖昧な内容で「ドむツ軍ずのみ亀戊を蚱可する」が、「ドむツ軍が攻撃しない堎合は連合軍ずも協力しない」ずされおいた。

煮え切らないバドリオ軍郚政暩に苛立った連合軍はむタリア王囜軍ずの共同戊線構築に備えおロヌマぞの空挺降䞋ず揚陞䜜戊を準備し、マクスりェル・D・テむラヌ少将を極秘でロヌマに送り蟌むこずたでしおいるが、バドリオやアンブロヌシオはおろか、マリオ・ロアッタ陞軍参謀長ずすら面䌚できなかった。それでもどうにかテむラヌは件のロヌマ呚蟺の新蚭郚隊を指揮しおいたゞャコモ・カルボヌニ少将ず連絡しおバドリオずの面䌚を芁請したが、就寝䞭だったバドリオは枋々ずいった態床で別荘での䌚芋に応じ、蚈画に぀いおも消極的な発蚀を繰り返した。最終的にバドリオは「ドむツ軍の戊力が匷化されおいる」ずしお䜜戊に反察した為、やむなくテむラヌは䜜戊決行盎前の空挺郚隊ず揚陞艊隊の撀収を連合軍遠埁軍叞什郚に連絡したが、アむれンハワヌはバドリオ偎の行動に怒りを露にしおいる。サノォむア家も最悪の事態を避ける努力を党く行わず、そればかりかロヌマ陥萜に備えおスむスに王家の財産を乗せた40䞡の貚車を移動させおいる。

1943幎9月8日、共同戊線構築に芋切りを぀けた連合軍偎はバドリオ政暩に通告せず「むタリア政府の䌑戊」ず「むタリア囜軍の無条件降䌏」を公衚しお、シチリア島からむタリア南郚ぞの䟵攻を開始した。サノォむア家ずバドリオ政暩はパニックに陥り、䞀時は䌑戊亀枉を吊定する宣蚀を行おうずしたが、同日午埌7時に䌑戊亀枉を認めるバドリオのラゞオ挔説が行われた。

バドリオの裏切りが決定的ずなったこずでヒトラヌは䜜戊を発動しお北䌊ぞの進駐を開始、陞軍省には各叞什官らから状況の確認を求める電話連絡が殺到したが、バドリオ政暩からの返答はなかった。未だ連合軍が南䌊に留たっおいる状態であったこずからバドリオら䌑戊掟はタむプラむタヌすら持ち出せず、䜕の責任も果たさずロヌマから逃亡したのである。政暩厩壊に加え、䌑戊挔説時に「連合軍ずの戊闘を停止せよ」ずの呜什ず、「第䞉者の攻撃に反撃せよ」ずいう盞互に矛盟した発蚀をしたこずで前線は䞀局に混乱した状態に陥った。軍郚隊の倧郚分は状況も把握できないたたに歊装解陀されるか、孀立した状況䞋で抵抗しお戊死するかのいずれかずなった。

サノォむア家の面々も王郜ロヌマを捚おおブリンディゞぞ遷郜したが、これはヒトラヌがバドリオ政暩のみならず囜王ノィットヌリオ・゚マヌ゚ヌレ3䞖や王倪子りンベルト2䞖の拘束も呜じおいたためず考えられおいる。芋捚おられた圢ずなる北郚・䞭郚むタリアではサノォむア家の嚁厳が倧きく損なわれたほか、䞀連の䞍名誉な裏切りをむタリアの囜蟱ずする意識も広がり、埌に継戊運動においおは「9月8日」を意味する「オット・セッテンブレ8 settembre」ずいうフレヌズが甚いられた。ファシスト政暩䞋で抑えられおいた共和掟パルチザンの台頭も盞たっお、これらの反クヌデタヌの動きは戊埌の王政廃止の端緒ずなった。

1943幎9月9日、耇数の党掟に分かれおいたパルチザンやレゞスタンスにずっおの総叞什郚ずしおむタリア囜民解攟委員䌚CLNが蚭立され、バドリオ政暩に代わっお埐々に圱響力を持っおいった。CLNにより雑倚で無軌道であった反政府運動は統制䞋に眮かれたが、内郚では王党掟ず共和掟の察立が絶えず、バドリオ政暩やサノォむア家ぞの責任远及も展開された。1944幎6月、戊争責任を求める声を抑えるべく゚マヌ゚ヌレ3䞖はりンベルト王倪子を摂政に任呜するこずをロヌマ解攟盎埌に発衚、その数日埌の6月9日にはバドリオ政暩も総蟞職しお王家・軍郚䞭心の亡呜政府は解䜓され、新たにボノヌミが臚時政暩を暹立した。

もしバドリオ政暩が圓初から毅然ず連合軍偎に立っお参戊しおいればロヌマに連合軍が䞊陞し、王囜軍ず組織だった抵抗を行っおドむツ軍のアラリック䜜戊を頓挫させおいた可胜性があった。珟実には優柔䞍断な行動を重ねた末、連合軍の進軍は間に合わず、玄50䞇名のむタリア軍人が歊装解陀を䜙儀なくされ、サノォむア家の嚁信も倱われた。バドリオらのクヌデタヌはサノォむア家の維持ず䌑戊ずいうどちらの目暙も達成できず、囜家ず囜軍の名誉を傷付けるのみずいう無益な結末を迎えたのである。

ドむツによる救出

䞀方、ロヌマ近郊の情勢が䞍穏圓になったこずからムッ゜リヌニの身柄はティレニア海から移され、むタリア䞭郚のラクむラ県ずテラモ県に跚るグラン・サッ゜山頂のホテルぞ新たに幜閉された。ヒトラヌは進駐ず同時にムッ゜リヌニの救出を軍に厳呜しおいたが、ティレニア海の島々に滞圚しおいた時に蚈画された䜜戊は䞀歩遅く身柄が移送されおしたったために倱敗に終わっおいた。ドむツ軍のクルト・シュトゥデント䞊玚倧将はグラン・サッ゜ぞの移送情報を新たに掎むず、1943幎9月13日に救出䜜戊「柏オヌク」を実斜した。グラン・サッ゜に駐留しおいたのは䞻に譊察やカラビニ゚リ囜家憲兵の郚隊だったが、䌑戊に埓っお連合軍に匕き枡すべきなのか、それずも王囜政府を芋限っお釈攟すべきなのか決め兌ねおいる状態にあった。そんな折にオヌク䜜戊によっお出撃したハラルト・モルス空軍少䜐が率いるドむツ軍の特別郚隊がグラむダヌでグラン・サッ゜に降䞋、ホテルぞ突入した。あらかじめ王囜政府を離反しおドむツ軍偎に協力しおいた譊察叞什官フェルナンド・゜レツィむタリア語版が投降を呌びかけおいたこずもあり、譊護郚隊は抵抗せず歊装解陀された。

救出されたムッ゜リヌニの護衛圹を務めたのは軟犁先の調査に功瞟のあったオットヌ・スコルツェニヌ歊装芪衛隊倧尉であった。面䌚したスコルツェニヌが「ドゥヌチェ我がフュヌラヌの呜により救出に参りたした」ず敬瀌するず、ムッ゜リヌニは「友人が私を芋捚おないこずは知っおいたよ」ず抱擁を亀わしおいる。スコルツェニヌはムッ゜リヌニの印象に぀いお以前より痩せおいたが、独裁者ずしおの嚁厳が保たれおいたず回想しおいる。救出されたムッ゜リヌニは本来なら小型ヘリコプタヌであるFa223に乗っお先に脱出する手はずだったが、Fa223の故障から小型飛行機のFi156に急遜乗り換えお脱出するこずになった。ドむツ領ぞず逃れたムッ゜リヌニは東プロむセン州ラステンブルクの総統倧本営ノォルフスシャンツェぞ護送された。

救出䜜戊成功埌、ヒトラヌはドむツに亡呜しおいたムッ゜リヌニの次男ノィットヌリオ・ムッ゜リヌニを倧本営に招き、片蚀のむタリア語で父芪の無事を䌝えたずいう。

内戊

むタリア瀟䌚共和囜

1943幎9月15日、皋なくムッ゜リヌニ本人がラステンブルク総統倧本営に到着するず䞡者の間で秘密䌚談が行われた。進駐領域に建蚭される予定の芪独政暩の指導者は圓初ファシスト党のロベルト・ファリナッチ元曞蚘長が予定されおいたが、ムッ゜リヌニ批刀からヒトラヌの勘気を被っお癜玙ずなっおいた。秘密䌚談でヒトラヌは盟友であるムッ゜リヌニの進駐領域の統治を䟝頌し、胃癌で衰匱しおいたムッ゜リヌニは䞀旊蟞退したが、最終的にはヒトラヌの説埗に折れる圢で了承した。ヒトラヌのムッ゜リヌニに察する個人的な尊敬や友情に倉わりはなかったが、政治的にはやや匷気の姿勢も芋せるようになっおいた。ヒトラヌは自身が信頌できる人物を指導者にできない堎合、芪衛隊が䞻匵するポヌランドず同じ総督府による占領統治をむタリア北郚・䞭郚で実行せざるを埗ないず述べおいる。

芪衛隊は最終決戊に向けおあらゆる利甚可胜な資源や領土を掻き集めようずしおおり、むタリアの占領地域も䟋倖ではなかった。ナチス政府がスラブ圏で芋せた冷酷な統治を知るムッ゜リヌニは、祖囜を守るために「ヒトラヌからの奜意」を受け入れるよりほかになかった。ムッ゜リヌニが指導者就任を請け負うずヒトラヌは倧いに喜んだが、同時に䜓調面を気遣っお自身の䞻治医であるテオドヌル・モレルの治療を受けさせた。埌䞖の医孊者からは評刀の悪いモレルではあるが今回の治療に関しおは成果を䞊げ、ムッ゜リヌニはミュンヘンで䜓調を回埩させおからむタリアのミラノぞず戻った。

「 我々の意思、我々の勇気、我々の信念はむタリアに新䜓制や、将来性や、生呜力や、䞖界におけるしかるべき立堎を䞎えるだろう。これは垌望ではなく、皆ぞの最高の信矩でなければならない。むタリア䞇歳共和ファシスト党䞇歳」
ベニヌト・ムッ゜リヌニ1943幎9月

1943幎9月18日、ムッ゜リヌニはむタリア囜営攟送を通じお最初の声明を発衚、貎族ず王政を廃した共和制䞋でのファシズム䜓制完成を掲げお共和ファシスト党Partito Fascista Repubblicano、PFRをロンバルディア州ミラノで結党し、初代曞蚘長にを指名した。9月23日、むタリア北郚・䞭郚ぞの進駐の完了によっおロヌマを法埋䞊の銖郜ずし、共和ファシスト党による䞀党独裁が行われるむタリア瀟䌚共和囜Repubblica Sociale Italiana、RSIを建囜した。ムッ゜リヌニはRSIの元銖に遞出され、「瀟䌚共和囜のドゥヌチェ」()の元銖称号を䜿甚したQuartermaine, L. (2000). Mussolini's Last Republic: Propaganda and Politics in the Italian Social Republic. p. 21。ドむツず日本が盎ちにむタリア瀟䌚共和囜を承認しおノェネツィアに倧䜿通を眮いた。

連合囜はこの動きに察抗すべく䌑戊条玄を結んだむタリア王囜の南郚亡呜政府をずしお認め、ゞョノァンニ・メッセ陞軍元垥を総叞什官ずするが創蚭された。連合囜はむタリア瀟䌚共和囜を安党面からロヌマから行政府が移動されおいたサロヌに準えお「サロ政暩」小共和囜ず蔑称し、囜家承認を拒吊した。このガルダ湖に面した街はか぀おムッ゜リヌニずの䞖代亀代によっお衚舞台から去った愛囜者ガブリ゚ヌレ・ダンヌンツィオが䜙生を過ごした土地であり、そこから少し離れたガルニャヌノ垂のノィッラ・フェルトリネッリに執務宀を眮いた。

RSI政府は先述した通り旧むタリア王囜領の北郚・䞭郚に建囜されたが、厳密にはドむツ軍の軍政領域ずされた南チロル及びトレンティヌノ、フリりリノェネツィア・ゞュリアは領土に含たれおいない。たた海倖怍民地やバルカン半島分割で埗た新芏領土もドむツ領ずしお管理された。ムッ゜リヌニは最終的な目暙ずしお「か぀おむタリア囜旗の翻った党おの領土Moseley (2004), p. 26.」を回埩するこずを決意しおおり、ヒトラヌも戊勝の埌は旧むタリア王囜領をRSI政府に垰属させるこずに同意しおいる。しかしたずは目前に迫る連合軍ず南郚亡呜政府ずの内戊に備えなければならなかった。たた共産䞻矩や瀟䌚䞻矩、自由䞻矩などをむデオロギヌずするレゞスタンスやパルチザンがRSI領䞀垯で蜂起しおドむツ軍やRSI政府に抵抗すべく解攟区自由共和囜建蚭の動きを芋せおおり、治安回埩も急務であった。

新囜家においおムッ゜リヌニは王党掟ずの劥協で䞍完党に終わっおいた修正マルクス䞻矩を基点ずするファシズム䜓制の完成を進めた。倧䌁業の完党囜有化などを掚進する傍ら、将来の憲法制定を準備すべくノェロヌナで開催した共和ファシスト党党囜倧䌚で十八条からなる憲法草案ずしおを採択した。ノェロヌナ党倧䌚にはファシスト以倖にも様々な政治思想家たちが呌ばれ、広範な議論が行われた。共和制ず倧統領制の導入、コヌポラティズム囜家の完成を目指した劎働者の暩利拡倧劎働憲章の制定、劎働者の䌁業経営参加制床の導入、倧統領制ずバランスを取る政治制床䞋院遞挙の再開、倚党制議䌚の埩掻、党圹職を指名制から党員遞挙制に戻すなど様々な改革案が採甚された。未来的な囜家を目指したノェロヌナ憲章は資本䞻矩ず瀟䌚䞻矩の超越を目指す第䞉の䜍眮ずしおのファシズム思想を完成させた内容ずなった。

組閣は王党掟や芪米英掟ファシストが離れた為、限られた人材から遞ばなければならない困難な䜜業だったが、あくたでもムッ゜リヌニを支持する者たちはもちろん、ノェロヌナ憲章の描く未来に賛同しおファシスト以倖から協力を申し出た者たちも少なくなかった。ムッ゜リヌニの旧友でむタリア共産党の創蚭者の䞀人でもあるニコラ・ボムバッチはトリアッティらず袂ず分けおRSI政府に協力し、経枈政策顧問ずしおを䞻導しおいる。老霢の哲孊者ゞョノァンニ・ゞェンティヌレもむタリア孊士院院長ずしお再びムッ゜リヌニに力を貞し、ロシア掟遣軍から戻った未来掟の詩人マリネッティもRSI政府に参加しおいる。反共䞻矩ず䞊んでファシズムが重芁芖する反資本䞻矩や反自由䞻矩も、アメリカずの察峙を通じお高たりを芋せ、同様の理由からアフリカ系の黒色人皮に察する反感も再燃した。

軍備面では退圹しおいたロドルフォ・グラッツィアヌニ陞軍元垥が囜防倧臣を務め、城皎ず䞊ぶ自治暩である城兵を領土党域で実斜するこずに成功しおいる。集められた兵員はドむツ囜防軍の党面協力でEsercito Nazionale Repubblicano、ENRずしお蚓緎され、ドむツ軍匏の装備を受領した4個垫団の線成が開始された。ドむツ囜防軍以倖にもナチ党の歊装芪衛隊がむタリア人芪衛隊員を集め、ファスケスずルヌン文字をシンボルずする第29SS歊装擲匟兵垫団『第䞀むタリア』を前線に展開した。旧囜家ファシスト党の囜防矩勇軍を䞭栞ずしたBrigate NereやGNRず呌ばれる治安組織を結成したほか、独自に連合軍やパルチザンず戊う矩勇軍郚隊も線成された。

ドむツ政府の干枉ず察レゞスタンス政策

連合軍ず枢軞軍ずいう芳点においおは「むタリア戊線」Italian Campaignず呌称される戊いは、家族兄匟が䞡軍に分かれお戊う「」Italian Civil Warずしおの偎面を持っおいた。むタリアの歎史孊界においおは冷戊終結埌の1990幎代から戊闘を「内戊」La guerra civileず定矩する意芋が䞻流になっおいる。内戊で自らのRSI軍や矩勇軍がドむツ軍ずずもに勇敢な戊いを芋せたこずは「むタリアの名誉」を求めるムッ゜リヌニに幟分の垌望を䞎えたが、同時に反乱軍や王囜軍兵士ずの内戊は民族の団結ファッシずいう理想が倱われる思いでもあった。

レゞスタンスやパルチザンは民衆を巻き蟌んでテロや砎壊工䜜を繰り広げ、ドむツ軍によるむタリア囜民ぞの残忍な報埩を招いおも、そうした人質戊略に意に介するこずもなかった。被害を䜏民に抌し付けるパルチザンたちの戊術は「銃を撃ち、そしお消える」ず皮肉られ、終戊盎前たで広範な支持を埗るこずはなかった。察照的にムッ゜リヌニはRSI軍の兵士たちの憀慚を宥め、可胜な限り報埩を行わないようにRSI軍に厳呜を䞋し、時にはパルチザンの指導者に恩赊を䞎えおすらいる。

たたムッ゜リヌニを悩たせたのはカヌル・ノォルフSS倧将ら芪衛隊が盎接統治を諊めおおらず、RSI政府の暩限に床々干枉しようずするこずであった。実質的に連合軍の占領地ずしお扱われおいた南郚の共同亀戊囜に比べ、RSI政府は城皎・軍備・譊察など倚くの行政暩を委任された囜家であり、ドむツ政府ずいえどもポヌランドのように扱うこずはできなかった。芪衛隊は譊護の名目で護衛小隊をムッ゜リヌニの執務宀呚蟺に配眮したり、通話を盗聎しお圱響力を持ずうずした。

RSI政府を圢骞化させようずする芪衛隊の占領蚈画を最埌の䞀線で防いでいたのは、ヒトラヌずムッ゜リヌニの信頌関係であり、北郚むタリア人にずっおムッ゜リヌニは「ドむツの傀儡」ずいうよりは「最埌の砊」ですらあった。ただしそれはムッ゜リヌニがヒトラヌに䟝存するこずも意味しおおり、クヌデタヌに協力したガレアッツォ・チャヌノ䌯や゚ミヌリオ・デ・ボヌノ元垥の凊刑、ナダダ教埒保護政策の完党撀廃など、政治信条に反する行為をヒトラヌの提案に応じお受け入れるこずもあった。

前者に぀いおは党員はおろか、政敵ですら呜を奪うこずおよびそれによっお反論を蚱さないこずを嫌ったムッ゜リヌニにずっお、埌継者から倖したずはいえ嚘婿のチャヌノを凊刑するのは぀らいこずであり、長女゚ッダからの必死の嘆願にも心動かされおいた。たた杖なしでは歩けない䜓になっおいた老将軍を凊刑堎に匕きずり出しお撃ち殺すのは悪趣味ずしか思えなかった。

しかしムッ゜リヌニの人間的な甘さを懞念しおいたヒトラヌも譲らず、共和ファシスト党内でも死刑は圓然であるずの結論が䞋されおいた。皮肉にも圌らの裏切りを蚱したのはムッ゜リヌニだけであった。ノェロヌナで行われた裁刀で、、、チャヌノ、デ・ボヌノらに囜家反逆眪による即時凊刑が蚀い枡された。

死眪を蚀い枡された面々は凊刑堎の平原ぞず歩かされお怅子に座った状態で背を向けさせられ、共和ファシスト党員の銃兵隊によっお銃殺された。ムッ゜リヌニは無神論者ながら「眪人」ずされた者たちに祈りを捧げるようノェロヌナの教䌚に頌んでいるが、その時のムッ゜リヌニは顔面蒌癜で今にも自分も死を遞びかねない様子だったずいう。

ヒトラヌずの別れ

こうした努力にも関わらず戊局の䞍利は倉わらず、ノェロヌナ憲章も戊争協力が優先されお正匏な憲法制定に挕ぎ着けるこずは最埌たで果たせなかった。1944幎4月、ドむツのグラヌフェンノォヌル緎兵堎で共和囜囜防軍の閲兵匏を行い、『サン・マルコ』海兵垫団の蚓緎を芖察しお兵士たちから熱烈な歓迎を受けた。芖察を終えた埌はザルツブルク郊倖でヒトラヌずの銖脳䌚談に臚み、もう䞀床察゜講和を匷く勧めたが、ヒトラヌは「秘密兵噚による勝利」ずいう空想を口にするだけであった。垰囜するず6か月近くドむツ軍ずRSI軍が螏み止たっおいた銖郜ロヌマが遂に倱陥したずの報告が届き、党囜民に向けお喪に服するずずもに連合軍ぞの抵抗を呌び掛ける声明を出した。ロヌマ倱陥の翌日にはノルマンディヌ䞊陞䜜戊が開始され、枢軞囜の呜運は尜き぀぀あった。

1944幎7月20日、再びドむツを蚪問しおバむ゚ルンで擲匟兵垫団「リットリオ」を筆頭ずした共和囜囜防軍4個垫団の合同挔習を芖察した。芖察埌に16床目ずなる独䌊䌚談が開かれるラステンブルクに向かうず、その移動䞭にドむツでヒトラヌ暗殺・クヌデタヌ未遂事件が発生した。ヒトラヌが九死に䞀生を埗た暗殺未遂事件の埌、倖囜人で最初に面䌚を蚱可され、治療を終えたヒトラヌ自ら爆砎された執務宀を案内しおいる。ヒトラヌは思いのほか萜ち着いおおり、暗殺の脅嚁よりもそれから生き残ったこずに感銘を受けおいた。敗勢から塞ぎ蟌むこずが増えおいたヒトラヌは、枢軞囜の䜿呜がただ終わっおはいないこずを確信した様子だった。そのこずを意気蟌んで語るヒトラヌに、ムッ゜リヌニは「たさにその通りだ」ず同意し、「今日起きた奇跡を考えれば、我々の䜿呜が党うされないこずは有り埗ないだろう」ず語っおいる。

行われた䌚談でヒトラヌはドむツ囜防軍が蚓緎を行っおいるRSI軍4個垫団を東郚戊線に展開するずいうノィルヘルム・カむテル元垥の蚈画を退け、ムッ゜リヌニの提案通りにむタリア戊線に展開するこずを決定した。垰囜の列車に乗るムッ゜リヌニを芋送りに来たヒトラヌは「貎方はドむツにずっお最も高貎な友人だ」ず呌び、その䞡手を硬く握り締めお語りかけた。

この蚀葉が二人の独裁者にずっお最埌の䌚話ずなった。

北郚防衛線

独C軍集団叞什官アルベルト・ケッセルリンクはロヌマ陥萜によりグスタフ・ラむンを突砎された埌、同様の山岳地垯を䜿った遅滞戊闘を行うこずを蚈画し、䞭郚からドむツ領オヌストリアず隣接する北東郚の間に耇数の防衛線を構築した。たたスむスのグラりビュンデン州ず隣接するノァルテリヌナ地域にも芁塞があり、同地はドむツの臚時軍政領域ずなっおいるトレンティヌノアルト・アディゞェ州を通じお旧オヌストリアやバむ゚ルンず近接しおおり、ドむツ偎の最終防衛線であるアルプス囜家芁塞ずの連垯も期埅された。事実䞊の銖郜であるミラノや、自身が滞圚しおいたガルダ湖・コモ湖呚蟺にも近いこのノァルテリヌナ地域をムッ゜リヌニはRSI軍の最終防衛線ず考え、ミラノ陥萜埌は同地に戊力を結集する「条件」ノァルテリヌナ防衛蚈画を準備しおいる。

1944幎6月、ロヌマ占領を戊いの節目ず考えおいた連合軍の進撃速床は予想以䞊に早く、トラゞメヌノ湖を基点ずしたトラゞメヌノ・ラむンは同月䞭に突砎され、7月にはピサからフィレンツェにかけお構築されたアルノ・ラむンに到達した。しかしフィレンツェでは女性を含めた矩勇兵が歊噚を取っお連合軍に抵抗しおおり、RSI軍の士気は䟝然ずしお旺盛だった。そうした䞭、囜民を錓舞するRSI政府の声明はラゞオ挔説ず機関玙によっお行われおいた。垂街地ではパルチザンやレゞスタンスによる枢軞囜芁人に察する暗殺蚈画が頻発し、連合軍ずの戊闘や爆撃も日垞茶飯事ずなっおいたむタリアにおいお、安党䞊の理由からドむツ政府やRSI政府はムッ゜リヌニの挔説䌚や匏兞ぞの出垭を勧めなかったのである。だが民衆ず盎接觊れ合っおこそ意味があるず芋おいたムッ゜リヌニの政治的信念は、枢軞軍が最埌の戊いに挑む䞭で日に日に高たっおいった。

1944幎12月16日、ラゞオ攟送で「異䟋な重芁性を持぀」行事が実斜されるずだけ蚘された奇劙な垃告が行われた。その「ある囜家行事」ずはムッ゜リヌニによる挔説䌚であった。安党性を担保するための苊肉の策ずしお実斜された臚時挔説䌚であったが、驚くべきこずに想像以䞊の矀衆がミラノ垂街地に詰め掛けおいた。自らに未だ倧きな圱響力があるこずを実感したムッ゜リヌニはパルチザンが含たれおいるかもしれないずいう治安郚隊の提蚀を跳ね陀けお民衆の前に姿を衚し。ムッ゜リヌニが乗った車がミラノの垂街地を通行するず民衆は倧歓声を挙げお車に矀がり、ムッ゜リヌニぞ敬瀌したり駆け寄っお握手を求めたりした。

占領者ドむツを憎み、連合軍に察抗できない珟実に倱望しおいたむタリア囜民もムッ゜リヌニ個人ぞの期埅は倱っおいなかった。パルチザンに属する者たちもその堎に幟人か存圚したが、連合軍やドむツ軍ず䞊んで民衆から嫌われおいた圌らは矀衆を抌しのけるこずもできず、あるパルチザンは自分たちが支持されおいないこずを認める蚘述を残しおいる。矀衆を掻き分けおミラノのリリコ劇堎に入ったムッ゜リヌニは自身にずっお最埌ずなる挔説を行い、ドむツぞの戊争協力などは説かれず、代わりに最埌たでむタリア民族の勇気を瀺すように民衆ぞ求めた。

1944幎12月28日、ミラノでの挔説から数日埌に西郚戊線で行われたバルゞの戊いアルデンヌ攻勢に呌応しお、むタリア戊線においおも独C軍集団ずRSI軍の攻勢が開始された。ドむツから垰囜した共和囜囜防軍の四個垫団はリグリア軍集団ずしお投入され、むギリス軍、英領むンド軍、アメリカ軍の連合郚隊を砎っおルッカ北西たで進み、䞀時はフィレンツェ近郊たで進出した。バルゞの戊いがそうであったようにやがおは連合軍に抌し返されたものの、RSI軍は蚭立から1幎で連合軍に䞀矢報いる結果を残した。

ノァルテリヌナ蚈画

1945幎1月、攻勢終了によっお再び防戊ぞず戻り、厳しい冬の䞭で絶望的な戊闘を続けるRSI軍の前線を蚪れ、閲兵匏を行っお兵士たちを激励しおいる。少幎兵を含めた兵士たちはムッ゜リヌニの期埅に応えお垌望の倱われた状況䞋で戊いを続け、冬の間は連合軍の攻撃も停滞した。しかし春を迎えた4月になるずゎシックラむンは完党に突砎され、C軍集団ずRSI軍はポヌ川ラむンにたで戊線を埌退させ、ミラノでの垂街地戊が芖野に入り始めた。これを裏付けるようにムッ゜リヌニも「ミラノを南郚戊線のスタヌリングラヌドにしなければならない」ず挔説しおいるが、同時に垂民を巻き蟌む戊闘をこれ以䞊は続けるべきではないずの思いもあり、以前から準備しおいた「条件」の発動を怜蚎するようになった。

民衆に被害を出さず、効果的な最終戊闘を行うずいう点で「条件」は望たしい蚈画ではあったが、実珟する䞊で倧きな障害があった。䞀぀はたず指揮系統の問題であり、矩勇軍、黒色旅団、囜家防衛軍、共和囜囜防軍などのRSI軍各郚隊は基本的にドむツ軍のC軍集団叞什郚の戊闘序列に組み蟌たれおおり、単独での防衛線構築は䞍可胜だった。そのC軍集団は圓面は前線での遅滞戊闘を継続する意思を瀺し、曎にはRSI政府はおろか本囜政府やヒトラヌにすら秘匿しお連合軍やパルチザンおよびレゞスタンス勢力ずの䌑戊亀枉を進めおいた。

次に連合軍が治安維持を兌ねおパルチザンやレゞスタンスを野攟しにしおおり、連合軍が撀収した埌の町でRSI政府の支持者に報埩的な虐殺を繰り広げおいるこずであった。特に反政府運動で最倧芏暡を誇る共産䞻矩勢力は「スタヌリンのむタリア人」ず呌ばれたむタリア共産党曞蚘長トリアッティの指導䞋にあり、RSI関係者ぞの無差別テロを繰り広げおいた。連合軍、CLN、ボノヌミ政暩は゜連の傀儡ずしお譊戒感を抱き぀぀も、察北䌊での反乱を指導しおいたトリアッティ掟の北むタリア囜民解攟委員䌚CLNAIず協力関係を結び、歊噚支揎の察象ずしおいる。ムッ゜リヌニは防衛拠点を手攟す際、家族を守るこずを垌望する兵士には陀隊を蚱可し、あるいは家族を連れおの埌退を蚱可しおいた。倧郜垂ミラノを捚おお僻地のノァルテリヌナぞ移動するずなれば、家族ずの移動は兵站䞊は䞍可胜であり、倧勢の兵士たちにパルチザンの報埩から家族を芋捚おるこずを呜じるよりほかになかった。

ムッ゜リヌニはCLNおよびCLNAIずの亀枉によっお条件の実珟を詊み、RSI政府に協力を申し出た非ファシスト系の政治家たちを通じお亀枉を行っおいる。1945幎4月21日、䞭郚の芁衝ボロヌニャが陥萜、ドむツでもベルリンの戊いが始たる状況䞋でむタリア戊線の独軍は明らかに士気を倱っおおり、戊線は急速に埌退した。ゎシックラむンは事実䞊厩壊し、独軍はむタリア戊線から敗走し぀぀あった。

1945幎4月22日、CLNずRSI政府の亀枉が開始され、ムッ゜リヌニは統治暩を南郚の共同亀戊囜ずCLNに委譲し、たた実効支配地域でのレゞスタンスに察する戊闘や報埩行為を行わないこずを玄束した。その䞊でムッ゜リヌニは連合軍ずの戊闘継続だけを望み、CLNにRSI軍のノァルテリヌナ移動を少なくずも劚害しないこずを求め、たた他の地域で芋られるRSI関係者やその家族ぞの報埩を盎ちに停止するように芁請した。非人道的な報埩に぀いおは連合軍も床々取り止めるようCLNに厳呜しおいた為、衚面的には了承した。たたRSI軍の正芏軍はもちろん、黒色旅団などの治安組織・矩勇軍組織も囜際法䞊の捕虜ずしお公正な扱いを受けるずの連合軍からの通達を䌝えたが、珟実にはそのどちらも遵守されるこずはなかった。

1945幎4月25日、CLNの代衚団ずの盎接䌚談に望んだが、C軍集団の䌑戊亀枉を知ったCLNは無条件降䌏の芁求以倖は受け入れなくなった。ムッ゜リヌニは䌚談の䞭でC軍集団の降䌏亀枉に぀いお知らされ、最埌の最埌にヒトラヌから裏切られたず感じた。しかし二日埌に総統地䞋壕のヒトラヌから戊局の逆転を確信しおおり、「独䌊同盟の最終的勝利」に垌望を持っおいるずいう電報が届き、ヒトラヌもたた呚囲から欺かれおいるこずを知った。

最埌の日々

ミラノからの移動

ムッ゜リヌニがスむスずの囜境に近いミラノを離れ、死を迎えるたでの経緯に぀いおは謎が倚く、今でも諞説が存圚する状態になっおいる。ミラノから脱出した経緯や目的地に加えお、拘束から凊刑に至るたでのムッ゜リヌニの動向に぀いおは資料や蚌蚀によっお䞀定しおいないためである。この点においお盟友であり自決たでの経過が䞍明瞭であるアドルフ・ヒトラヌず軌を䞀にしおおりアドルフ・ヒトラヌの死、珟圚でも歎史孊者の間で議論が続けられおいるベニヌト・ムッ゜リヌニの死。

䞻流の説ずしお、スペむンぞ家族ず子䟛たちを亡呜させおいたこずからムッ゜リヌニもスむスに向かい、そこから䞭立囜でペヌロッパで唯䞀ファシスト政暩が継続しおいるスペむンぞ向かう蚈画であったずされおいるが、吊定的な意芋も倚い。ムッ゜リヌニ自身は最初から亡呜を拒絶する発蚀をしおおり、次男ノィットヌリオ・ムッ゜リヌニが同様の提案をした際には「銬鹿な話を蚀うな俺がむタリアを去るこずはない。郚䞋を芋捚おるこずはない。ロヌマを捚おた囜王ず同じ非難を受ける぀もりもない」ず䞀蹎しおいる。日本から亡呜を進める提案があった際にも「申し出はありがたいが、私はむタリアで生涯を終えたい」ず䞁重に蟞退しおいる。

1945幎4月25日、CLNずの䌚談が決裂した日の倜にムッ゜リヌニはノァルテリヌナぞの移動を決定し、移動可胜な者に察しお集合地ずしおスむスずの囜境に面したコモ湖付近ぞ向かう呜什を出した。自身も機関銃を手にミラノから黒色旅団1個小隊を連れお向かい、ムッ゜リヌニの護衛をヒトラヌから呜じられおいたナチス芪衛隊の隊員たちも同行した。囜防倧臣ロドルフォ・グラツィアヌニ陞軍元垥RSI政府の閣僚やニコラ・ボムバッチらムッ゜リヌニの偎近、次男ノィットヌリオも同行したほか、ロヌマ教皇庁の職員の嚘であるクラレッタ・ペタッチもコモ湖に同行するず申し出た。圌女はムッ゜リヌニにずっお数倚くいる愛人の䞀人であるに過ぎなかったが、埌劻のラケヌレ以䞊にRSI時代のムッ゜リヌニを献身的に支え、心を通わせおいた。

事前の予枬通り、ミラノに䜏む党員や兵士の倚くは家族を守るために連合軍の手に枡り぀぀あるミラノに残るこずを遞んだが、ムッ゜リヌニが圌らを責めるこずはせず離脱を蚱可した。移動する前にミラノの垂庁舎前で党員や兵士に最埌の別れを告げるず、傷痍軍人から「ドゥヌチェ出発するな我々ず共にミラノに残れ我々が貎方を守る」ずの声が䞊がった。䞀方、共和ファシスト党曞蚘長アレッサンドロ・パノォリヌニはノァルテリヌナ防衛を志願した黒色旅団の隊員を掻き集め、最終的に3000名以䞊の隊員を集めおコモ湖ぞ向かった。

身柄拘束の経緯

コモに戻ったムッ゜リヌニに察しおミラノずは䞀転しお非協力的な空気が挂っおいた。実は既にコモ湖を含めたコモ県の県知事はCLN偎ず内通しおいお、流石にムッ゜リヌニの郚隊を攻撃するこずはなかったものの、速やかに移動しお欲しいず県知事から嘆願された。やむなくムッ゜リヌニは次男ノィットヌリオを残しおコモ湖から移動先を倉えざるを埗なかったが、そこに埌を远っおきたパノォリヌニらの軍勢が蚪れお行き違いになっおしたった。

パノォリヌニは誠実な人物だったが軍事的な指揮経隓はなく、合流に倱敗した埌の行動は雑然ずしたものだった。パノォリヌニはムッ゜リヌニの行方を捜しお郚隊から離れた。県知事の協力が埗られず、至る所にパルチザン郚隊が点圚する状態では連絡を取るのも困難だった。ムッ゜リヌニもパノォリヌニもいない状況䞋で、指揮系統もなく取り残された志願者たちには困惑が広がり、ムッ゜リヌニが自分たちを捚おおスむスに亡呜したずの嘘の情報も流れた。結局、ミラノに残った者たちず同じく家族を守るために行動し始め、どうにかコモ湖から40km離れたメナッゞョずいう堎所でムッ゜リヌニの郚隊ず萜ち合った時、パノォリヌニは「我が身䞀぀を捧げたす」ずのみ告げた。

ノァルテリヌナでの抗戊が非珟実的になり぀぀あるこずを指摘したグラツィアヌニはドむツ軍ず共に連合軍ず䌑戊亀枉を進めるこずを䞻匵し、华䞋されるず憀慚しおミラノの叞什郚に戻っおしたった。軍の総叞什官であるグラツィアヌニが離脱しお正芏軍の動向も䞍明瞭になっおしたう窮地だったが、ムッ゜リヌニは萜ち着いおおり、暫くその堎に留たるこずを遞んだ。そこにノァルテリヌナを経由しおドむツ南郚ぞ退华しおいた独軍の察空砲郚隊ず遭遇し、護衛のピルツァヌ芪衛隊䞭尉からの助蚀もあっお圌らず同行するこずを決め、メナッゞョからは数十名のRSI軍兵士も随䌎した。

ドむツ軍ずRSI軍の車列は移動途䞭のコモ湖付近で第52ガリバルディ旅団のパルチザン郚隊に補足され、隊長の䌯爵ず隊の副政治委員が車列に近付き、ドむツ軍の察空砲郚隊の指揮官オットヌ・キスナット倧尉が亀枉にあたった。亀枉は6時間もの長時間にわたり、戻っおきたキスナット倧尉は、パルチザンからこれは同じむタリア人同士の問題であり、RSI軍や共和ファシスト党の面々を匕き枡せば我々ドむツ人は通過させるず返答したずムッ゜リヌニに話した。同行しおいたロヌマ教皇庁高官の子女クラレッタ・ペタッチずその兄マルチェッロ・ペタッチの家族はスペむン倖務省の総領事ず身分を停るなどしたが、流暢なむタリア語を話したためラッツァヌロに怪したれ拘束される。たもなくムッ゜リヌニもラッツァヌロがドむツ軍トラックの荷台を捜玢した際に、ドむツ兵に倉装しお隠れおいる所を発芋されたToland, John. (1966). The Last 100 Days Random House, p. 504, 。

旅団の蚘録によればムッ゜・ドンゎずいうコムヌネの村圹堎で簡単な尋問が行われたが、ムッ゜リヌニは戊争責任などの質問に敎然ず答え、呚囲のファシスト党幹郚もムッ゜リヌニや党ぞの忠誠を倉えなかったずいう。

略匏凊刑

1945幎4月28日、第52ガリバルディ旅団は数十名の民兵からなる無名の小芏暡組織でしかなく、隊長のベルリヌニ䌯爵は思いがけない重倧な責務を前にしお䜕らかの䞊郚組織に指瀺を仰ごうずした。やがお最初に蚪れたのがCLNAIから掟遣された「ノァレリオ倧䜐」ず名乗る男で、郚䞋を匕き連れお旅団に捕らえられた面々の身柄匕き枡しを芁求した。

通説では、このノァレリオ倧䜐はずいうむタリア共産党のメンバヌで、別の党員ランプレヌディず䞀緒に党曞蚘長トリアッティの右腕であったルむヌゞ・ロンゎ副曞蚘長の呜什を受け、ミラノからコモ湖に赎いたずされおいる。

ただしアりディヌゞョが実行犯であったかに぀いおは圓初から疑問が持たれおいる。珟圚では歎史孊者の倚くがアりディヌゞョは単なる身代わりであるずみなし、おそらくはルむヌゞ・ロンゎ自身が「ノァレリオ倧䜐」であろうず考えられおいるが、真犯人に぀いおはほかにも諞説が存圚する。

ベルリヌニは身柄匕き枡しには応じたものの、略匏凊刑や民間人の殺害に぀いおは戊争犯眪であるずしお反察したが、アりディヌゞョずCLNAIの兵士はパノォリヌニらファシスト党幹郚ずペタッチの兄マルチェッロをドンゎで裁刀もなく即時凊刑した。残されたムッ゜リヌニはペタッチず共にミラノ方面ぞ車䞡で移動させられ、暫くの間ゞャコモ・デ・マリアずいう人物の所有する民家に幜閉されおいる。皋無くしおCLNAIはムッ゜リヌニずペタッチに぀いおも略匏裁刀による即時凊刑を決定、ムッ゜リヌニはミラノ近郊のメッツェグラ垂の郊倖にあるゞュリヌノ・ディ・メッツェグラに蚭眮された凊刑堎ぞ護送された。

1945幎4月28日の午埌4時10分、「ノァレリオ倧䜐」が所持しおいたフランス補短機関銃のMAS-38でペタッチず共に銃殺され、61幎間の人生に幕を䞋ろした。1996幎、凊刑を芋届けたランプレヌディのむタリア共産党ぞの報告文が公開された。報告曞でランプレヌディはムッ゜リヌニは動じず「心臓を撃お」ず朔い態床で死を受け入れたず蚌蚀しおいる。

凊刑埌

1945幎4月28日倜、CLNAIは懞念されうるムッ゜リヌニの生存説を払拭するこずや、䟝然ずしお残る嚁厳を倱わせるこずを考えお、その死を公垃するこずを蚈画した。ドンゎで射殺された䜕人かの重芁な幹郚の遺䜓ず䞀緒にムッ゜リヌニの遺䜓を貚物トラックに茉せ、蟺境のメッツェグラ垂から䞻芁郜垂の䞀぀であるミラノ垂ぞず移送した。1945幎4月29日朝、ミラノ䞭倮駅にトラックが到着するず駅にある倧広堎であるロレヌト広堎の地面の䞊に遺䜓を投げ出した。ロレヌト広堎は1944幎8月に反政府テロに察する報埩ずしお、RSI政府によるパルチザンの公開凊刑が行われた堎所であるこずが遞定理由だった。

CLNAIを支持する矀集によっお地面に投げ出されおいた耇数の遺䜓は銃撃され、物を投げ぀けられ、足蹎にされた。よく匕甚されるムッ゜リヌニらの遺䜓写真の損壊は死亡時ではなくこの時に起きたこずである。続いおCLNAIは反乱者ぞの芋せしめである「遺䜓を建物から吊るす」ずいう行為ぞの意趣返しずしお逆さ吊りにした。括り付けられたのはスタンダヌド・オむル瀟のガ゜リンスタンドの建物だった。ただし逆さ吊りに぀いおは䞭䞖時代に行われおいた懲眰を再珟したずいう説や、むしろこれ以䞊死䜓が損壊するこずを避けたずいう説もある。

パルチザンに捕えられおいたあるファシスト党員はか぀おムッ゜リヌニを神の劂き存圚ず賞賛したこずを論われ、逆さ吊りになったムッ゜リヌニの遺䜓を指し瀺されながら死刑を宣告されたQuoted in "Mussolini: A New Life", p. 276 by Nicholas Burgess Farrell â€“ 2004。しかし圌は射殺される盎前に遺䜓ぞ敬瀌し、パルチザンは激高し圌の遺䜓も広堎に吊るした。

偶然広堎の近くにいたアメリカ人滞圚者はロレヌト広堎のパルチザンず矀集を「邪悪で堕萜しおおり、自己を抑制できおいない」ず嫌悪感を持っお蚌蚀しおいる。ムッ゜リヌニぞの略匏凊刑や、䜕の眪もない民間人であるペタッチの殺害は戊争犯眪にあたるずする批刀が圓初からあり、臚時政府の銖班ずなったむノァノ゚・ボノヌミ銖盞は自らの正圓な新政暩が蛮行に加担したこずを党面的に吊定しおいる。

4月29日午埌2時頃、連合軍郚隊が事態を聞き぀けおロレヌト広堎に珟れ、CLNAIを远い払っお遺䜓を回収した。遺䜓収容所ではアメリカ軍の埓軍カメラマンがムッ゜リヌニの損壊した遺䜓写真を撮圱しおいる。その䞭にはペタッチの遺䜓ずわざわざ腕を組たせた悪趣味な物も含たれおいた。

1945幎4月30日、ミラノ法医孊研究所にムッ゜リヌニの遺䜓は移動され叞法解剖が行われ、死因は心臓に達した銃匟ずされた。しかし死䜓から摘出された匟䞞の数や口埄は資料によっお異なっおいる。ほかにヒトラヌず同盟を結ぶなどの政暩埌半の行動に぀いお「梅毒による粟神倱調説」が囁かれおいたこずから、アメリカ軍が脳の䞀郚を切り取っおアメリカ本囜ぞ持ち垰っお怜査しおいる。しかし怜査結果は梅毒ではなく、遺族の抗議で脳の䞀郚は返還されお珟圚は他の郚䜍ずずもに埋葬されおいる。

埋葬

叞法解剖埌、ムッ゜リヌニの遺䜓はミラノ郊倖の墓地に埋葬されたが、墓には支持者による利甚を防ぐために無名の石碑が蚭眮された。

だが終戊から間もない1946幎の埩掻祭 (4月23日)『20䞖玀党蚘録 クロニック』小束巊京、堺屋倪䞀、立花隆䌁画委員。講談瀟、1987幎9月21日、p677。に早くもネオ・ファシズム団䜓によっお芋぀け出され、掘り起こした遺䜓が持ち去られ、8月12日にパドノァで発芋された『20䞖玀党蚘録 クロニック』小束巊京、堺屋倪䞀、立花隆䌁画委員。講談瀟、1987幎9月21日、p681。。実行犯たちが逮捕されるたでの数か月間、遺䜓はファシズム政暩を支えたカトリック教䌚の協力で各地の教䌚や修道院などに安眮されおいた。盎接関䞎したず芋られる2名のフランシスコ䌚の修道士にも捜査が及んだが、事件埌すぐに身柄を隠したために珟圚たで未解決ずなっおいる。この倱態の埌、新政府は再床ムッ゜リヌニの遺䜓を蟺境の修道院ぞ埋葬しお、今床は遺族にすらその堎所を非公開にするなどより厳しい姿勢を取った。

1957幎、ネオ・ファシスト政党のむタリア瀟䌚運動の閣倖協力を取り付ける為、むタリア・キリスト教民䞻䞻矩党から遞出されたアドネ・ツォヌリ銖盞が正匏な埋葬を蚱可する呜什を出した。アドネはプレダッピオ出身でムッ゜リヌニず同郷でもあり、個人的な友人関係もあったこずも動機ずなった。1957幎9月1日、ムッ゜リヌニの故郷プレダッピオが改葬地ずされ、ネオ・ファシストからの矩捐金によっお青幎時代を過ごした生家に墓ず瀌拝堂が䜜られ、カトリック教䌚が儀匏を行った。

瀌拝堂には生前の姿を描いた胞像が蚭眮され、䞖界各地からネオ・ファシストたちが蚪問する䞀皮の「聖地」ずなっおいる。

人物像

私生掻

教逊

元々が垫範孊校出身の知識人であり、教垫ずしおの教育を受けおいるこずもあっお倧倉な勉匷家であった。本領である政治孊では様々な思想に関する博孊な知識を持ち、ゞョルゞュ・゜レルの修正マルクス䞻矩に深い理解を瀺しお新たな思想である結束䞻矩を䜓系化した。ほかに哲孊にも通じおブランキからシュティルナヌたで倚くの理論を孊び、たた芞術面では近代ドむツ文孊に傟倒しおいた。加えお自囜語であるむタリア語、さらにドむツ語、フランス語、英語の四か囜語に通じた教逊人であった。

語孊力はムッ゜リヌニの匷みの䞀぀でドむツ蚪問時には通蚳を介さずドむツ語で挔説を行っおおり、発音に僅かな癖があるのみずいう流暢さでドむツ囜民に語り掛けお喝采を济びおいる。たたむタリア系アメリカ人に察し、アメリカの映画ニュヌスを通じ英語で祝蟞を送っおいる。挔説家ずしおは感情が高ぶるほど激烈な匁が冎えたヒトラヌずは察照的に、さわやかで分かりやすい挔説をする人物ずしお知られおいた。

スポヌツ

若い頃からスポヌツを埗意ずしおおり、毎朝起きたら䜓操をやりゞュヌスを飲み、最埌に乗銬に興じおからシャワヌを济びお朝食をずるのが日課であった。朝食ではパンのほかに果物が甚意しおあり本人も果物が健康の秘蚣だず蚀っおいる、魚はたたに食べるが肉は殆ど食べなかったずいう。

自動車やモヌタヌスポヌツを愛奜し、囜嚁発揚のためにむタリアの自動車メヌカヌを囜際レヌスの堎に出るこずを掚奚したほか、「ミッレミリア」などの囜内におけるレヌスぞの支揎も欠かさなかった。たた自身もドラむブを奜み、むタリアの高玚車アルファロメオ、フィアット、ランチアなど広く乗っおいた。特にアルファロメオぞの愛は栌別で、カブリオレやスピヌドスタヌ、スパむダヌ・コルサなど耇数台を所有し、公匏な祭兞でもプラむベヌトの気晎らしでもアルファロメオに乗っおいた。たたバむクも、モトビアンキ瀟のフレッチャドヌロに跚がっおいる姿の写真が残っおいる Webカヌグラフィック 2021幎4月27日閲芧。ヒトラヌの自動車を運転する姿の蚘録が䞀切ないのずは察照的である。

女性

ムッ゜リヌニは行動的で粗野な反面、繊现な神経の持ち䞻で他人を信甚せず、心を蚱す友人も䜜らず垞に孀独であったず蚀われおいる。異性関係に぀いおは青幎期から倚くの女性ず関係を持ち、結婚埌もしばしば劻以倖の女性ず愛人関係を持぀など奔攟だった。女性問題は男尊女卑の傟向が匷かった圓時の欧州ではそれほど重倧な問題ず受け取られず、むしろ男性的な匷さや魅力ずしお奜意的に報道された。女性の扱い方は玳士的ずいうよりは家父長的で、私生掻や政治問題に぀いおは䞀切口出しを蚱さず、同性の知人に察しおそうであったように本心を芋せなかった。

動物

動物では犬を奜んだこずで知られるヒトラヌに察し、子䟛の時から猫奜きであった。たた乗銬経隓から銬の飌育も趣味にしおいた。

家族

圓初、トレント滞圚時代に同地出身であったオヌストリア人女性のむヌダ・ダルセルず結婚、長男アルビヌノ・ベニヌト・ムッ゜リヌニが生たれるも埌に離別した。前劻むヌダは再䞉にわたっお自身ずの離婚は無効であるず蚎えたが、ムッ゜リヌニは長男アルビヌノを認知し逊育費を支払ったものの、むヌダの蚀い分は認めなかった。1915幎12月に教垫時代の教え子であるラケヌレ・グむヌディず再婚し、゚ッダ、ノィットヌリオ、ブルヌノ、ロマヌノ、アンナの䞉男二女を携えたが最初の劻ず子に぀いおは政暩獲埗埌に経歎ずしお隠蔜された。しばしば愛人関係も噂され、ナダダ系むタリア人の文筆家マルゲリヌタ・サルファッティ英語版、最期を共にしたロヌマ教皇庁高官の子女クラレッタ・ペタッチなどが䞀般に知られおいる。

長男アルビヌノはムッ゜リヌニの揎助を受けおリノォルノ海軍士官孊校を卒業したが、埌にむヌダず共に政府の監芖䞋に眮かれお行動の自由を奪われお倧戊䞭に病死したずも、戊堎に埩垰しお戊死したずも蚀われおいる。次男ノィットヌリオは映画監督・脚本家ずしお囜策映画の補䜜に関わり、むタリア映画界ずハリりッドずの亀枉などを進めた。戊埌にアルれンチンの別荘ぞ逃れ、81歳で病死するたで隠居生掻を送った。䞉男ブルヌノは有望なパむロットずしお名声を集めお、空軍倧尉にたで昇進しおP.108倧型爆撃機のテストパむロットに遞抜されたが、その詊隓操瞊䞭に事故死した。暗殺の可胜性が指摘されおいるが、「犯人を捕らえおも息子は垰っおこない」ずしたムッ゜リヌニの意向で真盞は远及されなかった。四男ロマヌノはピアニストずしお教育を受け、政治掻動には䞀切関わらず音楜家ずしお生涯を過ごした。ロマヌノの最初の劻ずの間に生たれた次女でベニヌトの孫嚘にあたるアレッサンドラ・ムッ゜リヌニは政治家ずしお囜䌚議員や欧州議䌚議員を務めた2020幎に政界匕退ほか、2番目の劻ずの間に生たれた長女はロヌマ垂議䌚議員を務めおいる。

長女゚ッダは父の腹心であったガレアッツォ・チャヌノ䌯爵ず結婚しお䜓制固めに貢献したが、RSI時代に倫が投獄されるず父ず絶瞁した。ドむツ囜家保安本郚長官゚ルンスト・カルテンブルンナヌず連絡を取っお倫を救おうずしたが叶わず、倫の凊刑埌はスむス亡呜を経お戊埌むタリアに戻り、85歳で病没した。次女アンナは戊埌に䞀般男性ず結婚し、1968幎に39歳で亡くなっおいる。政暩期を通じお私腹を肥やすこずに興味を持たなかったムッ゜リヌニは、死埌にほずんど資産を残さなかったために、遺族は幎金以倖の収入はなかったず蚀われおいる。

ä¿¡ä»°

無神論者・反教䌚䞻矩者

ムッ゜リヌニは敬虔なカトリック教埒の母ロヌザずD.M. Smith 1982, p. 1、反察に根っからの無神論者である父アレッサンドロずの板挟みの䞭で幌少期を過ごしたD.M. Smith 1982, p. 8。ロヌザはほかの子䟛たちず同じくムッ゜リヌニに掗瀌を受けさせお毎週日曜日には教䌚のミサに連れお行った。察照的にアレッサンドロは決しおミサには参加しなかった。ムッ゜リヌニ自身は先述の通り、カトリック系の寄宿孊校での匷圧的で階玚的な教育制床に激しい嫌悪を感じお、「朝起きるず必ずミサぞず連れお行かれる」ず述懐しおいるD.M. Smith 1982, pp. 2?3。

青幎期を迎えたムッ゜リヌニは父ず同じ反教䌚䞻矩者・無神論者・唯物論者ずしお自芚した行動を行い、宗教に寛容な瀟䌚䞻矩者を批刀しお掗瀌拒吊運動を展開した。圓時のムッ゜リヌニは「神などいるわけもなく、キリストはただの銬鹿で粟神異垞者であったこずは明らかだ」ずキリスト教を䟮蔑しおいた。圌は宗教を信じる人間が頌るべきは教䌚ではなく粟神科であり、キリスト教は人を怠惰にしただけだず眵倒した。圌は無神論を最初期に説いたニヌチェを尊敬し、圌の理論がキリスト教の欺瞞を明らかにしおいるず考えたD.M. Smith 1982, p. 12。たた信仰心に察する代替物ずしお提案された超人思想に぀いおも肯定的であった。

政治家に転身した埌も反教䌚䞻矩はムッ゜リヌニの重芁な政治的目暙の䞀぀であり続け、痛烈な教䌚批刀を繰り返したD.M. Smith 1982, p. 15。圌は瀟䌚䞻矩ずキリスト教の合同は絶察に避けられるべきで、無神論者ではない瀟䌚䞻矩者は政界から远攟すべきずたで䞻匵した。しかしキリスト教の䞭心地ずしお栄えおきたむタリアにおいお、カトリック教埒の支持を集めるこずは倧衆運動で䞍可欠であった。そのため、暩力の階段を登るに連れお自説を抌し通すこずより政治䞊の䜜戊ずしおキリスト教勢力ずの協力路線ぞず切り替えおいった。1921幎に䞋院議員ずしお初めお挔説を行ったムッ゜リヌニは、「ロヌマに存圚する唯䞀の普遍的な理念は、ノァチカンより発せられるものである」ず述べ、ノァチカンずのコンコルダヌト政教条玄の締結を䞻匵した。

政暩獲埗埌

1924幎、子䟛たちぞの掗瀌を行わせお教䌚ずの和解を囜民に印象付け、翌幎には10幎前に無宗教の結婚匏を行ったラケヌレず教䌚での結婚匏兞を行うパフォヌマンスを芋せたRachele Mussolini 1974, p. 129。このような路線は最終的に1929幎2月11日のラテラノ条玄の締結に至る。教䌚ずの間で結ばれたラテラノ条玄でカトリック教䌚は新たな教皇領ずしおバチカン垂囜を䞎えられ、正匏にロヌマ・カトリックがむタリアの囜教ずされたRoberts, Jeremy (2006). Benito Mussolini. Minneapolis, MN: Twenty-First Century Books, p. 60.。䞭絶制床・教䌚ぞの課皎なども合わせお廃止され、フリヌメむ゜ンの掻動も犁止されたNeville, Peter (2004). Mussolini: Routledge Historical Biographies. New York: Psychology Press, p. 84.Townley, Edward (2002). Mussolini and Italy. New York: Heinemann Press, p. 49.。圓時の教皇ピりス11䞖はムッ゜リヌニを信心深いキリスト教埒ず賞賛し、「むタリアは再び神の土地ぞず戻った」ず宣蚀しおいる。

だが教䌚に察する懐柔策を進めながらも本心ずしおの䟮蔑は持ち続けおおり、和解の盎埌に「教䌚は囜の䞋䜍に眮かれるべきだ」ず発蚀しおいるD.M. Smith 1982, p. 162-163。たたコンコルダヌトから7幎間の間に無数のキリスト教系新聞が発犁凊分ずされた。教䌚もムッ゜リヌニの衚面的な懐柔に䞍満を抱き始め、砎門凊分を怜蚎したずも䌝えられおいる。1932幎にピりス11䞖ずムッ゜リヌニの䌚談が行われお関係修埩が図られたが、ムッ゜リヌニはカトリック教䌚に察する賞賛などの瀟亀蟞什を決しお報道させなかった。圌はファシストはキリスト教に敬意を持っおいるず䞖蟞を述べ、教皇は「圌は摂理のそばにいる」ず賞賛した。

1938幎、第二次䞖界倧戊を前にしおムッ゜リヌニは反カトリック教䌚䞻矩を露にするようになった。圌は宗教の䞭でも特にカトリックが最も堕萜した宗教であり、「それに比べればむスラム教はただ合理的で優れた郚分がある」ず閣僚に語っおいる。たた「教䌚はむタリアの癌现胞であり、いずれは匕き摺り出さねばならない」ずも語っおいたずいうD.M. Smith 1982, pp. 222?223。だがこれらの発蚀は非公匏な物に留たり、公ではこうした発蚀は控え続けおいた。晩幎ずなる1943幎からキリスト教に぀いおの肯定的発蚀が増え始めD.M. Smith 1982, p. 311、キリストの殉死を匕き合いに出した挔説も行っおいる。ずはいえ基本的には無神論者のたたであったず戊埌に劻のラケヌレが蚌蚀しおいる。

皮肉にもムッ゜リヌニを凊刑した共産䞻矩者たちは同じ無神論者であったため、圌の望み通り無宗教様匏で遺䜓を埋葬した。1957幎、ムッ゜リヌニの改葬匏が行われた際にはカトリック教䌚で儀匏が行われたRachele Mussolini 1974, p. 135。

人皮思想

癜色人皮

ドルフヌスの暗殺以降、ムッ゜リヌニはファシズムずナチズムの政治的志向の違いを意図的に明確化させるべく、人皮政策特にノルディック・むデオロギヌずアヌリアン孊説の倚くを拒絶し、反ナダダ䞻矩からも距離を取り始めた。ムッ゜リヌニは人皮䞻矩を少なくずもヒトラヌよりは遥かに敬遠した。圌は人皮䞻矩よりも民族䞻矩に重きを眮き、同化政策による怍民地や新芏領土のを掚進した。ノルディック・むデオロギヌの背埌に地䞭海䞖界や叀代ギリシャ・ロヌマ文明に察する蔑芖や劣等感があるず芋抜いおいたムッ゜リヌニは、ヒトラヌやヒムラヌのような「北方的ではない癜人」が持぀歪なコンプレックスから既に脱しおいたAaron Gillette. Racial Theories in Fascist Italy. London, England, UK; New York, New York, USA: Routledge, 2001. Pp. 188.。

こうした態床はナチスずの論争に発展、ナチスは文化的統合を重芖するむタリア・ファシズムは生物孊的な玔化を棄华しおおり、「癜人アヌリア人皮の雑皮化」に貢献しおいるず批刀した。察しおファシスト党はヒトラヌ自身も認めるようにナチスが蔑芖するずころの「スラブ」ずの境目に䜍眮し、たたむタリアず同様に統䞀が遅れたドむツにどれだけの「玔粋な血統」があるのかず批刀した。ムッ゜リヌニ自身も「アヌリア人皮に぀いお」ずいう1934幎の挔説でヒトラヌを蟛蟣に批刀しおいる。

アヌリア人理論に察する批刀で知られる゚ヌミヌル・ルヌトノィヒが人皮に぀いおの私論を尋ねた時、ムッ゜リヌニはこう述べおいる。

1934幎にバヌリで行われた党倧䌚でもムッ゜リヌニは改めお北方人皮理論に察するスタンスを公衚しおいる。

たたナダダ人ナダダ教埒に぀いおも特別な奜意は感じおいなかったが、逆に反ナダダ䞻矩者でもなかった。無神論の立堎を取る人間にずっお、右掟の持぀ロヌマ・カトリックを背景ずした民族䞻矩的な反ナダダ䞻矩は理解しがたい感情でしかなかった。匷いおいうならばマルクスの時代から「資本䞻矩の象城」ずしおナダダ教文化を敵芖する「巊掟の反ナダダ䞻矩」に぀いおは䞀定の共感を抱き、むタリア王囜が䞍利な扱いを受けたパリ講和䌚議に぀いお「囜際ナダダ人の陰謀」ず非難したこずもあった。ずはいえ、民族䞻矩・人皮䞻矩ずしおの反ナダダ䞻矩ずは明らかに距離を取っおいた。ムッ゜リヌニは「圌らは叀代ロヌマの頃からその土地に居る」ずしお、ナダダ系むタリア人がむタリア瀟䌚にずっお既に䞍可分であるず述べおいる。ファシスト党の幹郚にもナダダ系むタリア人が倚数おり、党幹郚゚ットヌレ・オノァッザはナダダ系党員による機関玙「La Nostra Bandiera我らの旗」を創蚭しおいる。たた、ムッ゜リヌニは「ナダダ人が財務のトップに立぀べきだ」ず䞻匵し、1932幎には正統掟ナダダ教埒出身1938幎にキリスト教に改宗のを財務倧臣に起甚しおいた。

ムッ゜リヌニは、ナダダ人のパレスチナ垰還を䞻匵するシオニズムの支持者であり、1934幎にチノィタノェッキアにれ゚ノ・ゞャボチンスキヌが将来的なむスラ゚ル海軍の人材を育成するためのを蚭眮するこずを認めたKaplan, Eran (2005). The Jewish Radical Right: Revisionist Zionism and Its Ideological Legacy. University of Wisconsin Press. ISBN 0-299-20380-8 p. 154-156.。

ファシスト党の厳しい反発に察しお、北方人皮論を信奉する人皮孊者たちは地䞭海人皮ず圌らが定矩した南欧の人々が「か぀おは地䞭海人皮であった人々が、色玠が脱萜しお北方人皮ずなった」ずする䞀皮の同祖論を唱え始め、ムッ゜リヌニやファシスト党ぞの擊り寄りを始めたMelville Jacobs, Bernhard Joseph Stern. General anthropology. Barnes & Noble, 1963. P. 57.。時同じくしおムッ゜リヌニ個人もヒトラヌずの友情を深め、ドむツずむタリアは運呜共同䜓ずしお䞖界倧戊に向かっおいくこずになる。独䌊の䟡倀芳を擊り合わせる動きが高たり、むタリア囜内でも北方人皮論に感化される人間が珟れるようになった。

ファシスト党幹郚だった䜜曲家は完党にノルディック・むデオロギヌの運動に取り蟌たれAaron Gillette. Racial Theories in Fascist Italy. London, England, UK; New York, New York, USA: Routledge, 2002. P. 60.、ファシスト党内の北方䞻矩者によるムッ゜リヌニぞの働きかけを䞻導しおいった。ただしコグニらファシスト党内の北方䞻矩者はドむツ民族ず北方人皮は分けお考える傟向にあったAaron Gillette. Racial Theories in Fascist Italy. London, England, UK; New York, New York, USA: Routledge, 2002. P. 61.。これはナチスの埡甚孊者であった人皮孊者ハンス・ギュンタヌが指摘するように、ドむツもたた「北方的北欧的」ではないドむツ人が倚数を占めるず考えられおいたためであるAnne Maxwell. Picture Imperfect: Photography and Eugenics, 1870?1940. Eastbourne, England: UK; Portland, Oregon, USA: SUSSEX ACADEMIC PRESS, 2008, 2010. P. 150.。

コグニはドむツに留孊に出向いお人皮孊䞊におけるむタリア人の優䜍を䞻匵するべく理論歊装に努め、1936幎に執筆した『人皮䞻矩』Il Razzismoずいう人皮論の曞籍をムッ゜リヌニに献本しおいる。著䜜の䞭でコグニは地䞭海人皮を「地䞭海アヌリア人」ず定矩し、「北方系ず地䞭海系の混血はアヌリア人党䜓の優等性を高める」ず䞻匵しおいる。たた統䞀むタリアで䞀貫しお冷遇され続けるむタリア南郚に同情の念を持ち、「南郚の救枈」をファシズムの重倧な目暙ずみなしおいたムッ゜リヌニず異なり、コグニは貧しい南郚ぞの偏芋や蔑芖感情を匷く持っおいた。北方論を展開する䞊で最も反論されやすい、「オリ゚ントな颚貌」であるず䞀般に考えられおいるナポリやシチリア、サルデヌニャのむタリア人を「西アゞア人やアラブ人ずの混血者」であり「真の地䞭海人皮ではない」ず半ば切り捚おるような蚀動をしおいる。

1938幎以降、䟵略政策により囜際的に孀立したむタリアずドむツが急速に接近するず、ドむツのニュルンベルク法を参考にしたを制定する動きが本栌化した。1938幎7月14日、囜家ファシスト党は『』(人皮憲章)を垃告したが、憲章には先のコグニらむタリア人北方䞻矩者の理論も䞀郚取り蟌たれ、瀟䌚的に重芁な地䜍や組織の「非ナダダ化」を掚進した。それたでファシスト政暩に協力しおいた倚くの政治家・科孊者が亡呜を䜙儀なくされ、スペむン内戊ではナダダ系の陞軍将校が抗議の自決を遂げるずいう悲劇も発生しおいる。ゲットヌの埩掻や垂民暩の制限などを含めた同法はファシストの間でも倧倉に䞍評で、ナダダ系の軍人たちを案ずるサノォむア家からも再考を促されおおり、そればかりか長幎ナダダ教埒ず敵察しおきたカトリック教䌚すらも批刀した。ムッ゜リヌニは内倖の批刀に察しお「私は人皮䞻矩者だ」ず衚明ム゜リヌニ「私は人皮䞻矩者。ヒトラヌのたねではない」 愛人の日蚘に通説芆す玠顔、人皮憲章が制定された幎には「北方人皮論をファシスト党も受け入れねばならない」ず蚓瀺し、囜民に向けおも「むタリア人もたたアヌリア人であり、ランゎバルト人の末裔である」ず挔説しおいるChristopher Hibbert. Mussolini: The Rise and Fall of Il Duce. Palgrave MacMillan, 2008. P. 86.。

しかしムッ゜リヌニは生物孊的分類だけで人間を区分けする人皮䞻矩に぀いおはあくたで懐疑的であった。人皮ずいう甚語を䜿うこずを避け、文化的偎面も含めた党おの歎史的な連続性を意味する「血統」ずいう甚語に眮き換えさせおいる。むタリア本土でのゲットヌ政策はドむツのように匷圧的なものではなくKroener, Bernhard R.; Muller, Rolf-Dieter; Umbreit, Hans (2003). Germany and the Second World War Organization and Mobilization in the German Sphere of Power. VII. New York: Oxford University Press, Inc. ISBN 0198208731.、ニュルンベルク法ず異なり元ナダダ教埒でも改宗者は察象倖ずされ、ホロコヌストのような虐殺や民族浄化なども決しお実斜されなかった。たたナチス・ドむツで危機的な立堎にあったナダダ系の心理孊者ゞヌクムント・フロむトフロむトはムッ゜リヌニを「文明の英雄」ず称賛するなど、その功瞟を高く評䟡しおいたに亡呜蚱可を出すようにヒトラヌぞ働きかけ、窮地を救っおいる。

曎にフランス戊埌に成立したむタリア南仏進駐領域では積極的にナダダ人匟圧に協力したノィシヌ政暩に察しお、フランス各地のナダダ教埒を受け入れる呜什を出しおいるFrom the French Shoah memorial : Angelo Donati’s report on the steps taken by the Italians to save the Jews in Italian-occupied FranceSalvatore Orlando, <i>La presenza ed il ruolo della IV Armata italiana in Francia meridionale prima e dopo l’8 settembre 1943</i>, Ufficio Storico dello Stato Maggiore dell’Esercito Italiano, Roma (in Italian)。むタリアが䞻導的な圹割を果たした旧ナヌゎスラビア地域の治安維持に぀いおも、軍や譊察に察しおナダダ教埒を可胜な限り反ナダダ䞻矩から守るように呜什を出しおいる。ドむツ偎はむタリア偎のナダダ教埒保護政策の維持に぀いお匷く抗議し、ペアヒム・フォン・リッベントロップ独倖務倧臣がムッ゜リヌニに䞍満を衚明しおいるほか、コグニもムッ゜リヌニの人皮政策が熱意に欠けおいるず批刀しおいるItaly and the Jews - Timeline by Elizabeth D. Malissa。結局の所、倚くの歎史家は自らの生呜線ずなったドむツずの友奜を守るために北方人皮論を受容し、ナダダ教埒を犠牲にしたのだず考えおいる。晩幎に叀参党員のブルヌノ・サパムタナトずの䌚話で反ナダダ政策が本心ではなかったこずを告解しおいる。

半ば傀儡政暩ず化したRSI時代にはナチスおよびヒトラヌの圧力に屈しお、芪衛隊のアロむス・ブルンナヌらによるむタリア南仏進駐領でのナダダ教埒の匷制送還が進められたItalians and Jews in Nice 1942/43。たたRSI成立時にナチスドむツの盎接統治䞋に移動した北西郚の2州、珟フリりリノェネツィア・ゞュリア州に蚭眮されたのトリ゚ステには旧むタリア領で唯䞀の絶滅収容所ずしおが建蚭され、小芏暡ながらガス宀も蚭眮されおいる。近幎、ムッ゜リヌニが「ホロコヌストを止めなかった」ずいう点でヒトラヌの共犯ずみなす意芋が䞻匵される傟向にあるが、ナチス政暩のホロコヌスト政策は自囜の人間に察しおすら秘匿されおおり、ムッ゜リヌニが関䞎できる䜙地はなかった。

黒色人皮・黄色人皮

䞀方、黒色人皮に関しおは「アフリカから報告を受ける床に䞍快だ。今日も黒人ず同棲した兵士が逮捕された。汚らわしい怍民者が7幎もしないうちに垝囜を朰す」「混血を生たず、矎を損なわないようむタリア人にも人皮意識が必芁だ」ず愛人に語り、差別意識をより露骚に芋せおいる。この傟向は少幎期から敵芖しおいた゚チオピア垝囜の䜵合埌に高たっおいった。ナダダ教埒に察するホロコヌストぞの反察、リビアのベルベル人に察しおの同化政策ずは䞀転し、゚チオピアにおいおはアパルトヘむト的な人皮隔離を培底させおいる。黒色人皮ずの融和を説く、ロヌマを蚪れた゚チオピア人の少女が黒シャツを着るずいう党歌が䜜られた際には怒りを露にしお、関係者を凊眰しお歌を犁止させおいる。

たたチャンドラ・ボヌスを圢匏的に支揎しながらもむンド独立に吊定的だったヒトラヌず異なり、むンド独立の闘士であり平和䞻矩者でもあるマハトマ・ガンゞヌず公匏に䌚談しおいる。ガンゞヌはファシスト党の少幎組織であるバリッラ団の少幎たちず亀流し、面䌚したムッ゜リヌニに぀いおは「私心のない政治家である」ず賞賛しおいる。

日本ずの関係

1929幎にロヌマ日本矎術展の準備ずしお発刊された『日本矎術』に序文を寄せたムッ゜リヌニは、むタリアず日本の文化的共通点を「叀くお新しい」ず述べおいる

゚チオピア皇垝ハむレ・セラシ゚1䞖の甥アラダ・アババず日本の黒田広志子爵の嚘雅子ずの瞁談が持ち䞊がり日本ず゚チオピアが政治的、経枈的に接近しおいた際には、ムッ゜リヌニは日本を匷く非難し、むタリアのマスメディアも反日的な報道を行っおいた。その埌日本が掲げた倧東亜共栄圏構想には抂ね奜意的で、ドむツを䞭心ずした戊埌欧州を牜制する存圚はむタリアにずっおも有益ず芋おいた。

日本人矩勇兵ずしおフィりヌメ占拠に参加し、ダンヌンツィオから「カメラヌタ・サムラむcamerata Samurai、䟍の戊友」ず呌ばれた䞋䜍春吉は日本におけるムッ゜リヌニの玹介者を称し、ムッ゜リヌニず極めお芪しい関係にあるずしお日本におけるファシズム宣䌝に䞀圹買ったが、「ムッ゜リヌニ党集」のうちで䞋䜍の名前が登堎するのは新聞蚘事1か所のみであり、ムッ゜リヌニ自身が䞋䜍に぀いお觊れた文章はない。たた䞋䜍はムッ゜リヌニが癜虎隊に感動したずいう話を広め、顕地碑建蚭掻動が盛り䞊がるこずずなった。しかしこの話はむタリア偎にずっおは党く感知するずころではなく、日本偎の内々の打蚺にも「䞋䜍ノ詐停的蚀動」であるず䞍快感を瀺した。日本の倖務省は顕地碑建蚭運動が頓挫した際の悪圱響を考え、倧䜿通を通じお顕地碑建蚭にムッ゜リヌニの協力を仰いだ。ムッ゜リヌニは自らの名を甚いた顕地碑建蚭を快諟し、自ら石材の遞択に圓たっおいる。

倖亀官で埌に銖盞ずなった吉田茂が駐むタリア倧䜿時代にムッ゜リヌニに初めお挚拶に行った際に、むタリア倖務省からは吉田の方から歩み寄るように指瀺された囜際慣䟋では、ムッ゜リヌニの方から歩み寄っお歓迎の意を瀺すべき堎面であった。だが、ムッ゜リヌニの前に出た吉田は囜際慣䟋どおりに、ムッ゜リヌニが歩み寄るたで盎立䞍動の姿勢を貫いた。ムッ゜リヌニは激怒したものの、以埌吉田に䞀目眮くようになったず蚀われおいる。

評䟡

囜内での評䟡
戊埌共和制に移行したむタリア政府を䞻導した人々は経緯こそ異なるものの、基本的には反ファシストに属しおいた。政府によっおムッ゜リヌニは恐るべき独裁者ず断眪され、ファシズムずそれを公に賛矎する蚀動はむタリア共和囜憲法により犁止されおいる。こうした政府の方針にも関わらず、むタリア囜民の間でムッ゜リヌニの存圚は奜意的に受け止める人間は少なくなく、故郷プレダッピオの蚘念碑には花が絶えず捧げられおいる。呜日やロヌマ進軍蚘念日にはネオファシストの支持者が倧挙しお蚪れ、列を成しおムッ゜リヌニの蚘念碑にロヌマ匏敬瀌を行う様子も頻繁に芋られる。蚘念碑に参拝した人間が蚘念の蚀葉を曞くノヌトにはムッ゜リヌニを瀌賛する蚀葉が曞き連ねられ、䞀か月で䜙癜が埋たるずいう。
こうした状況を批刀する声がないわけではないが、地元の人間はムッ゜リヌニに玠朎な敬意を持぀人々が倚く、ドむツにおけるヒトラヌやナチスのように囜民レベルでの極端なタブヌ芖も行われおいない。ファシスト党員の衣服や装食品のレプリカを公然ず販売する土産物屋も有名で、圌らにずっおはロヌマ進軍蚘念日は最倧の皌ぎ時ですらある。この賑いはブレダッピオを含めたフォルリ䞀垯で戊死した連合軍兵士の墓地に戊友や遺族しか蚪れず、閑散ずしおいるのずは察照的である。
䟝然ずしおむタリア囜内ではムッ゜リヌニずファシズム、そしおファシスト党は匷固な支持を埗続けおいる。共和ファシスト党の埌進政党であるむタリア瀟䌚運動および囜民同盟は䞎党連合の䞀員ずしお閣僚を送り蟌み、珟圚の䞎党「むタリアの同胞」でも䞀翌を担っおいる。
海倖での評䟡
近代政治思想に倚倧な圱響を䞎えたファシズムの創始者であり、政治理論家ずしおも重芁な足跡を残した。ファシズムに぀いおは「ムッ゜リヌニが珟像し、ヒトラヌが耇写し、ゲッベルスが拡倧した」ずいうゞョヌクが残されおいる関楠生線蚳『ヒトラヌ・ゞョヌク』河出曞房新瀟、1980幎 p.97。ヒトラヌがムッ゜リヌニを深く尊敬しおいたこずは広く知られおいるアドルフ・ヒトラヌ#察人関係を参照。しかし戊埌の東西冷戊では䞡陣営から批刀を受け、東偎の共産䞻矩者・瀟䌚䞻矩者からは「ブルゞョワゞヌの単なる道具」、西偎の自由䞻矩者からは「道化圹者」ずしおそれぞれ矮小的な歎史的評䟡を䞎えられた。
連合囜陣営に属した囜々でも、ドむツず同盟を結ぶたではムッ゜リヌニやむタリアのファシズム運動に理解を瀺した者も倚い。1920幎代のアメリカでは垝囜䞻矩・怍民地䞻矩ぞの反発から、新しい政治圢態ずしおのファシズムを奜意的に芋る傟向が匷かった。むギリス銖盞りィンストン・チャヌチル、アメリカ倧統領フランクリン・ルヌズノェルトも共にムッ゜リヌニを先芋性のある人物ずしお高く評䟡しおいた。特にチャヌチルはムッ゜リヌニを倩才ず評し、「叀代ロヌマの粟神を具珟化した立法者」ずたで述べおいるPicknett, Lynn, Prince, Clive, Prior, Stephen and Brydon, Robert (2002). War of the Windsors: A Century of Unconstitutional Monarchy, p. 78. Mainstream Publishing. ISBN 1-84018-631-3.。戊埌もチャヌチルはムッ゜リヌニがヒトラヌに幻惑されたこずを惜む発蚀をしおいる。たた先述したように゜ノィ゚ト連邊の初代最高指導者りラゞヌミル・レヌニンはスむス時代からムッ゜リヌニの才胜を評䟡し、むタリア瀟䌚党がムッ゜リヌニの陀名を決めた際には「これで諞君は革呜を起こす力を倱った」ず叱責しおいる。
孊者・文化人
ムッ゜リヌニは政治分野だけでなく未来掟を筆頭ずするむタリアの芞術家や孊者ずの亀流を持っおいたが、海倖でもムッ゜リヌニを奜意的に評䟡した文化人や孊者は倚い。゜ノィ゚ト連邊の䜜曲家むヌゎリ・ストラノィンスキヌは「䞖界で圌を最も尊敬しおいるのは自分だ」ず語り、同じ゜連の文孊者マクシム・ゎヌリキヌはストラノィンスキヌほどには心酔しおいなかったものの、「優れた知性ず意思を備えた人物」ず評しおいる。アメリカの文孊者ではハワヌド・フィリップス・ラノクラフトがムッ゜リヌニぞの尊敬を公蚀し、女流䜜家が「偉倧さずいう炎を䞎える人物」ず人物評を残しおいる。むタリアに滞圚しおいた゚ズラ・パりンドに至っおはアメリカのむタリアぞの宣戊垃告を阻止するべくロビヌ掻動たで行っおいる。
むギリスの文孊者ゞョヌゞ・バヌナヌド・ショヌは自身が所属するフェビアン協䌚の反ファシズムキャンペヌンを戒め、ムッ゜リヌニ擁護の論陣を匵っおいる。ショヌはファシスト政暩の匟圧を非難するアルフレッド・アドラヌに「コミュニストたちも銃を撃ち、爆匟を投䞋するこずをためらわなかったではないか」ず返し、同じ手段を甚いながら革呜に倱敗したむタリア瀟䌚党の無力さを指摘しおいる。オヌストリアの心理孊者のゞヌクムント・フロむトは自身も含めたナダダ系ドむツ人ぞの迫害を進めるヒトラヌの盟友であるにも関わらず、ムッ゜リヌニを「人類文明の英雄」ず讃えおいる。
日本においおは今䞭次麿や河合栄治郎、堺利圊、山川均、片山朜ら犏家厇掋, 「䞀九二〇幎代初期日本におけるむタリア・ファシズム芳の考察」『文明構造論 : 京郜倧孊倧孊院人間・環境孊研究科珟代文明論講座文明構造論分野論集』 3å·» p.1-33 2007幎, 京郜倧孊倧孊院人間・環境孊研究科珟代文明論講座文明構造論分野道簱泰䞉研究宀のような批刀者はいたが、巊掟系ずされる劇䜜家小山内薫や、宝塚歌劇のような䞀般的な挔劇でも奜意的な題材ずしお取り䞊げられた。生物孊者西村真琎は「保育は倩業」「保育の営みがある限り、人間瀟䌚は有機的に発展する」ずいう芳点から、ムッ゜リヌニが掲げた独身皎・子無皎構想を評䟡・支持しおいる冚森叡児「西村真琎」『日本倩才列䌝』孊習研究瀟、2005幎。囜家瀟䌚䞻矩論者のグルヌプはロヌマ進軍の報を聞いお「ムツ゜リニ䞇歳、革呜䞇歳」を唱えお興奮し、高畠玠之は先を越された悔しさから「唇を血が出る皋噛み締め」「板壁を殎っお穎を開けた」ずいう。高畠はムッ゜リヌニの理論に぀いおは厳しく批刀したものの、本人の姿や人を匕き぀ける皚気には惹かれるずいう自家撞着的な感情を抱いおいる。
新聞蚘者で䜜家のアヌネスト・ヘミングりェむはムッ゜リヌニを批刀的に捉え、「ペヌロッパ䞀の山垫」ず評し、短線『祖囜は汝に䜕を蚎えるか』はムッ゜リヌニ䜓制䞋のむタリアを批刀しお曞かれおいる。たた有名な「ムッ゜リヌニがフランス語の蟞曞を逆さたにしお読んでいた」ずの逞話を残しおいるが、これはムッ゜リヌニが囜家資栌ずしおフランス語の教育免状を取埗しおいる事を考えれば疑わしい。ほかに文化人ではアルトゥヌロ・トスカニヌニずの察立が知られおいる。ただしトスカニヌニの堎合はファシズム運動を初期から支えおきた熱心な支持者であり、自身のスカラ座運営に぀いお協力を断られおから敵察するようになった。

人物評

  • 「私が䞖界の䞭で持っおいる最良の、そしお恐らく唯䞀の友人が貎方だずいう、私の蚀葉を信じお貰いたい」アドルフ・ヒトラヌ、ムッ゜リヌニずの最埌の䌚談で
  • 「我々ず共に勝぀か、共に死ぬか以倖の救いは存圚しないこずをドゥヌチェは完璧に理解しおいる」ペヌれフ・ゲッベルス、東郚戊線に぀いおの独䌊銖脳䌚談を芋お
  • 「䞍服埓によっお圌に察する忠誠を瀺すこずもあり、それが圌ムッ゜リヌニの矎点をさらに倧きくする。私は自分の忠誠を垞にそう考えおいた。」ディヌノ・グランディ、戊埌の回想録においお
  • 「別れの挚拶は䞁寧なものだった。そのこずで私は非垞に満足しおいた。ずいうのは私はムッ゜リヌニが奜きだった、倧奜きだったからで、圌ず䌚えなくなるのは非垞に蟛い事だず思ったからだ」ガレアッツォ・チャヌノ、日蚘に曞かれた最埌の蚘述より
  • むタリア瀟䌚党がムッ゜リヌニを陀名した際「これでむタリア瀟䌚党は革呜を起こす胜力を倱った」「あの男を远攟するなんお君らはバカだ」(りラゞヌミル・レヌニン)
  • 「倚くの人々がそうであったように、私はあれほどの危険や重荷を背負いながら、圌の瀌儀正しく食り気のない物腰や、萜ち着いおいお冷静な態床に魅了されずにはいられなかった」りィンストン・チャヌチル
  • 「祖囜の発展を望む、私欲のない政治家である」マハトマ・ガンディヌ。
  • 「ムッ゜リヌニによっおロヌマの歎史は今も継続されおいる」文孊者フラン゜ワ・モヌリアック。
  • 「ナポレオンほどの嚁信はないが、フランスのためにナポレオンが行ったこずをむタリアのためにやっおいる」文孊者ゞョヌゞ・バヌナヌド・ショヌ

勲章

囜内
  • 聖アヌンツィアヌタ勲章
  • 聖マりリッツィオ・ラザロ勲章倧十字階士章
  • サノォむア軍事勲章倧十字階士章
海倖
  • ダむダモンド付ドむツ金鷲倧十字勲章ナチスドむツ
  • 倧勲䜍菊花倧綬章日本
  • バス勲章倧十字階士章むギリス
  • ノァチカン
  • ピりス9䞖勲章ノァチカン
  • マルタ階士団勲章マルタ階士団
  • ポヌランド
  • スりェヌデン
  • ポルトガル
  • ラトビア
  • 南十字星勲章ブラゞル
  • ルヌマニア
  • ゜ロモン勲章゚チオピア

映像䜜品

映画

テレビドラマ

  • 『いだおん〜東京オリムピック噺〜』ディノ・スピネラ挔。NHK、2019幎

戯曲・挔劇䜜品

出兞『"ファシスト"ムッ゜リヌニは日本で劂䜕に描かれたか : 衚珟文化における政治的「英雄」像』

  • 『戯曲 ムツ゜リヌニ』前田河慶䞀郎䜜、『改造』1928幎新幎号(新幎号創䜜特別附録)
  • 『レノュり むタリダヌナ』岞田蟰犰䜜・挔出及振付、癜井鐵造振付補、竹内平吉䜜曲、宝塚少女歌劇宝塚倧劇堎雪組公挔、1928幎
  • 『珟代劇䞖界の偉傑 ムッ゜リヌニ』坪内士行䜜・挔出監督、宝塚少女歌劇䞭劇堎公挔、1928幎
  • 『ム゜リヌニ』沌田蔵六䜜、京郜座公挔、1928幎
  • 『ムツ゜リニ』小山内薫䜜、垂川巊團次2代目䞻挔、明治座公挔、1928幎

泚釈

出兞

参考文献

日本語文献
  • 倧森実『人物珟代史2 ムッ゜リヌニ』講談瀟講談瀟文庫 1994幎、ISBN 4-06-185732-0
  • マックス・ガロ、朚村裕䞻蚳『ムッ゜リヌニの時代』文藝春秋、1987幎
  • 朚村裕䞻『ムッ゜リヌニ ファシズム序説』 枅氎曞院〈人ず思想〉、新装版2015幎。新曞版
  • 朚村裕䞻『ムッ゜リヌニを逮捕せよ』、『ムッ゜リヌニの凊刑』、講談瀟文庫で再刊、1993‐95幎。
  • ゞョルゞュ・゜レル『暎力論 䞊・䞋』 今村仁叞、塚原史蚳、岩波文庫新蚳版、2007幎 䞊巻ISBN 978-4003413814、䞋巻ISBN 978-4003413821
  • 」
海倖文献
  • 2007. Mussolini's Cities: Internal Colonialism in Italy, 1930?1939, Cambria Press.
  • Bosworth, R.J.B. 2002. Mussolini. London, Hodder.
  • Bosworth, R.J.B. 2006. "Mussolini's Italy: Life Under the Dictatorship 1915?1945". London, Allen Lane.
  • Corvaja, Santi. 2001. Hitler and Mussolini. The Secret Meetings. Enigma. ISBN 1-929631-00-6
  • Daldin, Rudolph S. The Last Centurion. http://www.benito-mussolini.com ISBN 0-921447-34-5
  • Golomb, Jacob; Wistrich, Robert S. 2002. Nietzsche, godfather of fascism?: on the uses and abuses of a philosophy. Princeton, New Jersey: Princeton University Press.
  • Farrell, Nicholas. 2003. Mussolini: A New Life. London: Phoenix Press, ISBN 1-84212-123-5.
  • Garibaldi, Luciano. 2004. Mussolini. The Secrets of his Death. Enigma. ISBN 1-929631-23-5
  • Gregor, Anthony James. 1979. Young Mussolini and the intellectual origins of fascism. Berkeley and Los Angeles, California, USA; London, England, UK: University of California Press.
  • Hibbert, Christopher. Il Duce.
  • Kallis, Aristotle. 2000. Fascist Ideology. London: Routledge.
  • Lowe, Norman. Italy, 1918?1945: the first appearance of fascism. In Mastering Modern World History.
  • Morris, Terry; Murphy, Derrick. Europe 1870?1991.
  • Moseley, Ray. 2004. Mussolini: The Last 600 Days of Il Duce. Dallas: Taylor Trade Publishing.
  • Mussolini, Rachele. 1977 [1974]. Mussolini: An Intimate Biography. Pocket Books. Originally published by William Morrow, ISBN 0-671-81272-6, Library of Congress Catalog Card Number: 74-1129
  • O'Brien, Paul. 2004. Mussolini in the First World War: The Journalist, the Soldier, the Fascist. Oxford: Berg Publishers.
  • Painter, Jr., Borden W. (2005). Mussolini's Rome: rebuilding the Eternal City.
  • Passannanti, Erminia, Mussolini nel cinema italiano Passione, potere egemonico e censura della memoria. Un'analisi metastorica del film di Marco Bellocchio Vincere!, 2013. ISBN 978-1492737230
  • Petacco, Arrigo (ed.). 1998. L'archivio segreto di Mussolini. Mondadori. ISBN 88-04-44914-4.
  • Smith, Denis Mack (1982). Mussolini: A biography, Borzoi Book published by Alfred A. Knopf, Inc. ISBN 0-394-50694-4.
  • Tucker, Spencer. 2005. Encyclopedia of World War I: a political, social, and military history. Santa Barbara, California: ABC-CLIO.
  • Weinberg, Gerhard. 2005. A World in arms. Cambridge: Cambridge University Press.
  • Giovanni Hus, il Veridico (Jan Hus, True Prophet), Rome (1913). Published in America as John Hus (New York: Albert and Charles Boni, 1929). Republished by the Italian Book Co., NY (1939) as John Hus, the Veracious.
  • The Cardinal's Mistress (trans. Hiram Motherwell, New York: Albert and Charles Boni, 1928).
  • There is an essay on "The Doctrine of Fascism" written by Benito Mussolini that appeared in the 1932 edition of the Enciclopedia Italiana, and excerpts can be read at Doctrine of Fascism. There are also links to the complete text.
  • La Mia Vita ("My Life"), Mussolini's autobiography written upon request of the American Ambassador in Rome (Child). Mussolini, at first not interested, decided to dictate the story of his life to Arnaldo Mussolini, his brother. The story covers the period up to 1929, includes Mussolini's personal thoughts on Italian politics and the reasons that motivated his new revolutionary idea. It covers the march on Rome and the beginning of the dictatorship and includes some of his most famous speeches in the Italian Parliament (Oct 1924, Jan 1925).
  • Vita di Arnaldo (Life of Arnaldo), Milano, Il Popolo d'Italia, 1932.
  • Scritti e discorsi di Benito Mussolini (Writings and Discourses of Mussolini), 12 volumes, Milano, Hoepli, 1934?1940.
  • Parlo con Bruno (Talks with Bruno), Milano, Il Popolo d'Italia, 1941.
  • Storia di un anno. Il tempo del bastone e della carota (History of a Year), Milano, Mondadori, 1944.
  • From 1951 to 1962, Edoardo and Duilio Susmel worked for the publisher "La Fenice" to produce Opera Omnia (the complete works) of Mussolini in 35 volumes.

関連項目

  • ムッ゜リヌニ内閣
  • ベニヌト・ムッ゜リヌニの死
  • ゚りル
  • フォロ・むタリコ
  • チネチッタ
  • ゞョルゞュ・゜レル
  • ガブリ゚ヌレ・ダンヌンツィオ

倖郚リンク

出兞フリヌ癟科事兞『りィキペディアWikipedia』 | 最終曎新2025/10/29 05:15 UTC 倉曎履歎
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike and/or GNU Free Documentation License.

「ベニヌト・ムッ゜リヌニ」の人物情報ぞ