島耕二 : ウィキペディア(Wikipedia)

島 耕二(しま こうじ、本名・鹿児島武彦、1901年2月16日 - 1986年9月10日)は、日本の俳優、映画監督。女優の大谷良子、片山夏子、轟夕起子は元妻キネマ旬報社[1979], p.149-150.。俳優の片山明彦は実子(大谷と間の子)。

経歴

1901年(明治34年)2月16日、長崎県長崎市に、医者の息子として生まれる。日本映画俳優学校を第一期生として卒業し、1925年(大正14年)、日活大将軍撮影所に入社する。現代的な二枚目俳優として内田吐夢阿部豊溝口健二などの作品に出演する。しかし、1934年(昭和9年)の労働争議で内田、村田実、伊藤大輔らとともに日活を脱退し、新映画社の創立に参加する。解散後、新興キネマを経て、日活多摩川撮影所に入り、『明治一代女』、『真実一路』などの作品に出演し、日活黄金期を支えるスター俳優としての地位を確立する。

1939年(昭和14年)、『雲雀』から監督に転向し、1940年(昭和15年)、『風の又三郎』を発表。1941年(昭和16年)に発表した『次郎物語』は詩情あふれる演出で監督としての代表作となった。第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)召集される。

戦後は、大映、東横映画、新東宝、大映と移り、娯楽映画を中心に発表する。主題歌が大ヒットとなった『銀座カンカン娘』などの歌謡映画を撮った。 1953年(昭和28年)には、新人の若尾文子を起用した思春期映画『十代の性典』を撮る。当時の婦人団体から怒りを買うような内容であり酷評されるも、続編や他社の追随作品を生む大ヒット作となった。その後は『金色夜叉』、『滝の白糸』などのリメイク作品、『宇宙人東京に現わる』などの空想映画まで作風は多岐に及んだ。70年代以降は、主にPR映画の監督として活躍し、80歳を越えても年に1本のペースで1時間以上の劇映画を製作し続けた『大映特撮コレクション 大魔神』(徳間書店)。墓所は多磨霊園。

主な作品

出演作品

  • 栄光の丘へ(1925年)
  • 紙人形春の囁き(1926年)
  • 水戸黄門(1926年)
  • 足にさはった女(1926年)
  • 維新の京洛 竜の巻 虎の巻(1928年)
  • 特急三百哩(1928年)
  • 東京行進曲(1929年)
  • -喜劇- 汗(1929年12月31日)
  • 唐人お吉(1930年)
  • 明治一代女(1935年)
  • 情熱の詩人啄木 ふるさと篇(1936年) - 石川啄木
  • 翼の世界(1937年)
  • 真実一路(1937年)
  • 裸の町(1937年)

監督作品

  • 雲雀(1939年)
  • 暢気眼鏡(1940年)
  • 風の又三郎(1940年)
  • 転落の詩集(1940年)
  • 次郎物語(1941年)
  • 出生前十二時間(1943年)
  • シンガポール總攻撃(1943年)
  • 銀座カンカン娘(1949年)
  • グッドバイ(1949年)
  • 窓から飛び出せ(1950年)
  • 東京のヒロイン(1950年)
  • 上海帰りのリル(1952年)
  • リンゴ園の少女(1952年)
  • 十代の性典(1953年)
  • にっぽん製(1953年)
  • 金色夜叉(1954年)
  • 風立ちぬ(1954年)
  • 幻の馬(1955年)
  • 宇宙人東京に現わる(1956年)
  • 残菊物語(1956年)
  • 滝の白糸(1956年)
  • 新・平家物語 静と義経(1956年)
  • 慕情の河(1957年)
  • 有楽町で逢いましょう(1958年)
  • 猫は知っていた(1958年)
  • 渇き(1958年)
  • 都会という港(1958年)
  • 細雪(1959年)
  • いつか来た道(1959年)
  • 花の大障碍(1959年)
  • 安珍と清姫(1960年)
  • 明日を呼ぶ港(1961年)
  • 情熱の詩人啄木(1962年)
  • 停年退職(1963年)
  • 末は博士か大臣か(1963年)
  • 処女受胎(1966年)
  • 複雑な彼(1966年)
  • 怪談おとし穴 (1968年、遺作)

参考文献

  • 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/10/14 11:11 UTC (変更履歴
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