ロバート・カー : ウィキペディア(Wikipedia)

初代サマセット伯ロバート・カー(, , 1587年頃 - 1645年7月17日)は、イングランド・スコットランドの廷臣、政治家、貴族。

1615年頃までイングランド王ジェームズ1世(スコットランド王ジェームズ6世)の寵臣だった。1611年にロチェスター子爵、1613年にサマセット伯爵に叙された。

経歴

1587年頃にサー・トマス・カーとその妻ジャネット(旧姓スコット)の間の息子としてスコットランドに生まれた。

早くからスコットランド王ジェームズ6世の宮廷に仕え、1603年に彼がイングランド王ジェームズ1世に即位するとカーもジェームズ1世に従ってロンドンへ移った。君寵を得て出世し、1607年にはナイトに叙され、1611年にはを与えられるとともにイングランド貴族爵位ロチェスター子爵に叙された。1612年には枢密顧問官に列するとともに国王秘書長官に就任。1613年にはイングランド貴族爵位サマセット伯に叙される。1614年から1615年にかけては、、王璽尚書を務めた。

カーはジェームズ1世の宮廷内ではスコットランド系廷臣を代表する立場であり、初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシルの死後、宮廷内の権力を握った初代ノーサンプトン伯爵ヘンリー・ハワードや甥の初代サフォーク伯トマス・ハワードらカトリックで親スペイン派のハワード家を支持していた。反面、プロテスタントで反スペイン派のカンタベリー大主教、ペンブルック伯ウィリアム・ハーバート、サウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリーらと対立していった。

詩人を宮廷内で取り立てたのはカーであった。しかし1613年にカーがサフォーク伯の娘で第3代エセックス伯ロバート・デヴァルー夫人フランセス・ハワードと恋仲になった際、オーヴァーベリーに結婚を反対されたことでカーとフランセスはオーヴァーベリーを恨むようになった。同年4月にオーヴァーベリーが外交官勤務を断って不敬としてロンドン塔投獄となった際、フランセスはオーヴァーベリーに少しずつ毒を盛って9月に彼を殺害した(毒殺の主犯はフランセスであり、カーの方は必ずしも積極的には関与しなかったという)。そして同年末に至ってフランセスとカーは結婚した。

しかし1614年から1615年頃にかけて君寵をジョージ・ヴィリアーズ(後の初代バッキンガム公)に奪われるようになり、結果として翌1616年にはオーヴァーベリー毒殺容疑で妻とともに逮捕されて失脚した。事件の取り調べにはエドワード・コークと法務長官フランシス・ベーコンらが当たり、ベーコンの告発文書で事件の内容が暴かれ、有罪宣告を受けて5年間監禁された。1622年に釈放されるもその後は引退生活を送った。

1645年7月17日に死去。男子はなく彼の死とともに保有爵位は廃絶した。

栄典

爵位

1611年3月25日に以下の爵位を新規に叙された。

  • 初代ロチェスター子爵 (1st Viscount Rochester)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位)

1613年11月3日に以下の爵位を新規に叙された。

  • 初代サマセット伯爵 (1st Earl of Somerset)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位)
  • ダラム州における初代ブランセペス男爵 (1st Baron Brancepeth, in the County of Durham)
    (勅許状によるイングランド貴族爵位)

勲章

  • 1611年、ガーター騎士団(勲章)ナイト

家族

1613年に初代サフォーク伯トマス・ハワードの娘フランセス・ハワード(1590年 - 1632年)と結婚。彼女との間に一人娘の(1615年 - 1684年)を儲けた。彼女は第5代ベッドフォード伯爵ウィリアム・ラッセル(後の初代ベッドフォード公爵)と結婚した。

注釈

出典

参考文献

  • 木村俊道『顧問官の政治学 フランシス・ベイコンとルネサンス期イングランド』木鐸社、2003年。
  • 石井栄一『ベーコン 人と思想43』清水書院、1977年(新装版2016年)。

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