エカテリーナ・マクシーモワ : ウィキペディア(Wikipedia)
エカテリーナ・マクシーモワ (、、1939年2月1日 - 2009年4月28日)は、ロシアのバレエダンサーである『別冊ダンスマガジン バレエって、何?』、p.65.。20世紀後半のロシア・バレエ界の代表的なダンサーの1人であり、舞踊技術に加えて演技力や表現力にも秀でていた。
生涯
1939年2月1日にモスクワで生まれた。父親は技師、母親はジャーナリストだった[http://www.biograph.ru/bank/maksimova.htm ], 。 モスクワ国立舞踊アカデミーにてI・ラファイロワ、エリザヴェータ・ゲルトから指導を受ける。 1957年にモスクワでの全連合バレエコンクールにて優勝し、同年にチャイコフスキー作曲のバレエ、くるみ割り人形(バイノーネン版)で主役のマーシャとしてデビューした。 バレエ学校を卒業後、ボリショイ劇場に正式に入団を許可された。以降はガリーナ・ウラノワが劇場での教師となった。1958年から1988年までボリショイ・バレエに在籍して活躍した『バレエ・ダンサー201』、pp.128.。
可憐な容姿に加えて高度な舞踊技巧と演技力を兼ね備え、「ボリショイのベビー・バレリーナ」と呼ばれて人気を集めた。夫である名ダンサー、ウラジーミル・ワシーリエフとは、モスクワ国立舞踊アカデミー時代からの同級生で9歳から互いのことを知っている。二人のペアは世界最高峰のデュエットと称された。。
夫婦にとっての大きな悲劇は、子供を亡くしたことだった。医師が赤ちゃんの心臓が鼓動しなくなったと報告した後、マクシーモワはそれを信じなかった。 子供の喪失により、マクシーモワはさらに大きな情熱を持ってバレリーナとしての仕事に没頭するようになった。
ボリショイ劇場でのリハーサル中、脊髄損傷を受けた。医師達は舞台に戻ることはおろか、歩くこともできないと主張したが、後に舞台に復帰した。
ボリショイのプリマの地位を退いたあとも、ワシーリエフが演出・振付を手がけた 『アニュータ』 (1986年)のタイトルロールを踊って絶賛を得ている。1998年からボリショイのバレエ・ミストレスを務め、S・ルンキナ、A・ニクーリナらを育てた[http://www.vremya.ru/2009/74/10/227796.html ], 。2009年4月28日、モスクワにて急逝デイリー・テレグラフによる訃報(英語)。
小惑星(4145) Maximovaはマクシーモワの名前にちなんで命名された。
賞歴
- 1964年 - 第1回ヴァルナ国際バレエコンクール・金賞
- 1973年 - ソ連人民芸術家
参考文献
- ダンスマガジン編 『バレエ・ダンサー201』 新書館、2009年。
- ダンスマガジン編 『別冊ダンスマガジン バレエって、何?』 新書館、1993年。
外部リンク
- ボリショイ・バレエ〜ダンサーで紐解く歴史〜 Vol.3 ジャパン・アーツ
- ボリショイ・バレエ団 『ロミオとジュリエット』(YouTube - 1974年。ロミオ役はV・ワシーリエフ)
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