小山勇 : ウィキペディア(Wikipedia)

小山 勇(こやま いさむ、1935年1月29日 - 2020年6月10日)は日本の実業家、ジャーナリスト。株式会社中日新聞社代表取締役副社長、中部日本放送株式会社非常勤取締役を歴任した。東京府東京市(現:東京都港区)出身。

養父は株式会社中日新聞社代表取締役社主を務めた小山龍三。

来歴

1935年(昭和10年)1月29日、東京府東京市に「平賀勇」として生まれる。

1959年(昭和34年)3月、早稲田大学政治経済学部を卒業する。在学中は後に内閣総理大臣となる森喜朗と交友があった。同年4月、自動車ディーラーのヤナセに入社する。

1969年(昭和44年)に義父の小山武夫が取締役を務める中部日本新聞社(現:中日新聞社)に入社、経済部記者に配属される。

中部日本新聞社(現:中日新聞社)は、大島宇吉が創業した新愛知新聞社と小山松寿が創業した名古屋新聞社の2紙が戦時統制により合併して誕生した。合併以来、中日新聞社では大島家と小山家の両家による共同経営が続いている。

平賀勇は、小山武夫(小山松寿の婿養子)・百合子夫妻(松寿の次女)の長女にあたる小山寧子と結婚し、さらに中日新聞社の代表取締役社主を務める小山龍三(松寿の養嗣子)・千鶴子夫妻(松寿の長女)に養嗣子に迎えられて「小山勇」となった。

1981年(昭和56年)6月、中日新聞社の監査役に就任。1983年(昭和58年)6月、中日新聞社の取締役に就任。1995年(平成7年)6月に取締役副社長、1997年(平成9年)6月に代表取締役副社長に昇任した。同年6月、中日グループ傘下の放送事業者・中部日本放送の非常勤取締役に就任した。

2000年(平成12年)4月5日、脳梗塞で倒れ緊急入院した小渕恵三の後を継ぐ形で、早稲田大学時代から交友のあった森喜朗が内閣総理大臣に急遽就任する。小山はこれに前後して、森を代表者とする3つの政治団体に政治資金規正法の範囲内で各100万円ずつ、合計300万円を個人名義で献金した。法的に何ら問題ない献金であるが、中日新聞社の第二労組で経営陣と敵対する東京新聞労働組合は「脱法献金」であると追及『新聞労連』、2000年9月16日付1面「森首相政治団体に300万円 中日新聞副社長が献金」。。これに続いて講談社『週刊現代』で三男が森の秘書に就いていることをスクープされ『週刊現代』(講談社)2000年10月14日号, pp204-205「中日新聞副社長の息子は森首相の秘書だった」。、他の全国紙や週刊誌でも相次いでこの問題が報じられた。2001年(平成13年)6月、一連の問題をめぐって代表取締役副社長を辞任、代表権を持たない取締役相談役に就任した。2003年(平成15年)6月、取締役顧問に就任した。

2011年(平成23年)6月に中日新聞社の取締役を退任、常任顧問に就任した。

この他、株式会社名古屋スポーツセンター、社会福祉法人中部善意銀行副理事長、財団法人愛知体操協会会長などを歴任した。

2012年(平成24年)7月31日、妻の小山寧子が逝去https://www.nikkan.co.jp/articles/view/217371。

2020年(令和2年)6月10日、骨髄異形成症候群のため愛知県豊明市の病院で逝去。享年86(満85歳没)。この時点で長男の小山仁は中日新聞社に在職し、名古屋本社広告局次長を務めていた。

2021年(令和3年)6月、長男の小山仁が中日新聞社名古屋本社広告局長に昇進https://www.bunkanews.jp/article/234521/。

2025年(令和7年)6月、長男の小山仁が中日新聞社の取締役(メディアビジネス担当)に就任した。

参考文献

  • 人事興信所 編『人事興信録』第25版 上(1969年)

出典

関連項目

  • 早稲田大学の人物一覧

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