フレデリック・ルイズ : ウィキペディア(Wikipedia)

フレデリック・ルイス(, 1707年2月1日 - 1751年3月31日)は、イギリス・ハノーヴァー朝の王族でイギリス国王兼ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯ジョージ2世と妃キャロライン・オブ・アーンズバックの長男。ジョージ3世の父。王太子(プリンス・オブ・ウェールズ)に叙されていたが、王位継承を果たさずに薨去した。ドイツ語ではフリードリヒ・ルートヴィヒ()。

経歴

1707年、ハノーファーでブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(後のジョージ1世)の孫フリードリヒ・ルートヴィヒとして生まれた。1714年に祖父がイギリス王位を継承し、新たにイギリス王太子となる父ゲオルク・アウグスト(後のジョージ2世)、母カロリーネ(英語名キャロライン)は共にイギリスに渡ったが、当時7歳だったフリードリヒはハノーファーに残された。1726年に祖父からエディンバラ公を授爵された際も、翌1727年に祖父が亡くなり父がジョージ2世としてイギリス王位を継承した際もハノーファーにとどまっており、1728年に自らイギリスに渡るまで両親に会う事はなかった。祖父が在世中にフリードリヒの渡英を許さなかったからである。

1728年から1751年までを務めた。

プリンス・オブ・ウェールズに叙された後でさえ「ハノーファーのプリンス・フリードリヒ・ルートヴィヒ」として知られていた。両親と長く離れていたこともあって素行が悪く、渡英後は特に母とは死ぬまで険悪な関係であった。政界でも父であるジョージ2世と対立し、首相ロバート・ウォルポールに反発して1741年の総選挙で足並みを乱し、翌1742年のウォルポール辞任に繋げた。ヘンリー・ペラム政権でも野党と組んで対立したが、1751年、父ジョージ2世に先立って急逝した。長男ジョージ・ウィリアム・フレデリックが新たにプリンス・オブ・ウェールズに叙され、1760年にジョージ3世として王位を継承した。

フリーメイソン

1737年にロンドンのキュー宮殿の「臨時ロッジ」においてフリーメイソンとなる。彼の加入がきっかけとなり、以降イギリス王族男子はフリーメイソンに加入するのが一般的となり、英国王室とフリーメイソンの一体化が急速に進展する。

王子のうち、長男ジョージ王子(ジョージ3世)にはフリーメイソン加入の記録は発見されていないが、それ以外の次男エドワード王子(ヨーク公)、三男ウィリアム(グロスター公)、四男 ヘンリー(カンバーランド公)は全員フリーメイソンに加入している。

子女

1736年にザクセン=ゴータ=アルテンブルク公女オーガスタと結婚した。2人の間には5男4女が生まれた。末子キャロライン・マティルダが生まれたのはフレデリック・ルイスの死後であった。

  • オーガスタ(1737年8月31日 - 1813年3月31日) - ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公カール・ヴィルヘルム・フェルディナントと結婚。ジョージ4世の王妃キャロラインの母。
  • ジョージ・ウィリアム・フレデリック(1738年6月4日 - 1820年1月29日) - 国王ジョージ3世
  • エドワード・オーガスタス(1739年3月14日 - 1767年9月17日) - ヨーク公
  • エリザベス・キャロライン(1740年12月30日 - 1759年9月4日)
  • ウィリアム・ヘンリー(1743年11月14日 - 1805年8月25日) - グロスター公
  • ヘンリー・フレデリック(1745年11月27日 - 1790年9月18日) - カンバーランド公
  • ルイーザ・アン(1749年3月8日 - 1768年5月13日)
  • フレデリック・ウィリアム(1750年5月13日 - 1765年12月29日)
  • キャロライン・マティルダ(1751年7月11日 - 1775年5月10日) - デンマーク王クリスチャン7世と結婚。

系図

出典

参考文献

|-

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/05/21 15:25 UTC (変更履歴
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike and/or GNU Free Documentation License.

「フレデリック・ルイズ」の人物情報へ