フランスで活動する映画監督。TV映画の監督としてキャリアをスタートさせ、94年に俳優としてスクリーンデビュー、出演第2作では脚本も手がけた。「Mes amis」(99)で長編映画の監督としての第一歩を踏み出す。仏人気俳優ジャン・デュジャルダンを主演、女優ベレニス・ベジョをヒロインに迎えた「OSS 117 私を愛したカフェオーレ」(06)は、第19回東京国際映画祭の東京サクラグランプリを受賞。デュジャルダンとベジョを再びメインに起用した「アーティスト」(11)は、トーキー映画が台頭してきたハリウッドを舞台に、無声映画のスターの栄枯盛衰を描くモノクロの無声映画。同作はカンヌ国際映画祭で高い評価を得て、アメリカの賞レースのダークホースとなった。私生活でもパートナー関係にあるベジョとの間に子供が2人いる。
スタンフォード大学を卒業後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の映画学科に通う。数本の短編映画を制作した後、「The Passion of Martin(原題)」(91)で長編映画監督デビュー。同作をはじめ、全ての監督作で脚本も担当している。劇場映画3作目「ハイスクール白書 優等生ギャルに気をつけろ!」(99・日本劇場未公開)で、共同執筆者のジム・テイラーとともにアカデミー脚色賞にノミネートされた。スティーブン・スピルバーグ監督の最大のヒット作となった「ジュラシック・パーク III」(01)の脚本を手がけ、自身の監督作「アバウト・シュミット」(02)でゴールデングローブ賞の脚本賞を受賞。「サイドウェイ」(04)ではアカデミー脚色賞を受賞し、監督賞にもノミネートされた。7年ぶりの長編監督作「ファミリー・ツリー」(11)も、LA批評家協会賞の作品賞を受賞するなど高い評価を得ている。
聖職を目指していたが、映画に興味がわき、挫折。ニューヨーク大学で映画を専攻する。卒業後は母校の講師を務めながら、様々な映画関係の仕事をこなし、72年低予算映画の帝王ロジャー・コーマンのプロデュースで「明日に処刑を…」を監督し、商業映画監督デビュー。翌年「ミーン・ストリート」が評判となり、76年「タクシードライバー」でカンヌ映画祭グランプリを受賞、主演のロバート・デ・ニーロとともにアメリカ映画の新世代を代表する存在となる。それ以後、「レイジング・ブル」(80)、「キング・オブ・コメディ」(83)、「グッド・フェローズ」(90)、「カジノ」(95)とデ・ニーロとともに傑作を連発し、最も重要な映画監督と称されるようになる。
米ニューヨーク・ブルックリン出身。60年代初頭にスタンダップコメディアンとして活躍する。初めて映画の脚本を手がけた「何かいいことないか子猫チャン」(65)で俳優としてもデビューし、「泥棒野郎」(69)が単独での初監督作となる。当時の恋人ダイアン・キートンをヒロインに迎えた「アニー・ホール」(77)で、アカデミー監督賞と脚本賞を受賞するが授賞式は欠席。その時間にニューヨークのパブで趣味のクラリネットを演奏していたというエピソードが知られている。その後、私生活でもパートナーになったミア・ファローをミューズに「ブロードウェイのダニー・ローズ」(84)、「ハンナとその姉妹」(86)などを撮る。ほとんどの作品でニューヨークを舞台にしていたが、近年は「マッチ・ポイント」(05)、「タロットカード殺人事件」(06)、「ウディ・アレンの夢と犯罪」(07)の“ロンドン3部作”のようにヨーロッパの都市を舞台にした作品が増えてきた。スペイン・バルセロナが舞台の「それでも恋するバルセロナ」(08)で女優ペネロペ・クルスにオスカーをもたらし、仏パリで撮影した「ミッドナイト・イン・パリ(原題)」(11)は自身最大のヒット作となった。ファローの養女で、34歳年下のスン・イー・プレビンとの結婚も話題になった。
米テキサス州出身。ハーバード大学で哲学を専攻し、英オックスフォード大学モードリン・カレッジに通うが退学。帰国してフリーのジャーナリストになる。マサチューセッツ工科大学で哲学の講師を務めるかたわら、映画製作を学び始める。72年、「ポケット・マネー」(日本未公開)で脚本家デビュー。翌年の「地獄の逃避行」(日本未公開)で初メガホンをとり、続く「天国の日々」(78)でカンヌ国際映画祭の監督賞を受賞する。その後、映画界から姿を消しパリで隠遁生活を送る。98年、20年ぶりの監督作「シン・レッド・ライン」を発表。同作はベルリン国際映画祭で金熊賞を受賞し、アカデミー賞でも監督賞と脚本賞にノミネートされ、第一線に返り咲いた。05年、監督第4作「ニュー・ワールド」を発表。5作目の「ツリー・オブ・ライフ」(11)はカンヌで最高賞パルムドールに輝いた。デビューから30数年で監督作はわずか5本と寡作ながらも、常に良質な作品を作り出すことで世界から注目される現代最高の監督のひとり。