「河合優実さんでなければ成立しなかった作品」 「あんのこと」入江悠監督が語る、河合、佐藤二朗、稲垣吾郎の素晴らしさ
2024年6月3日 14:00
河合優実が、虐待の末に売春を強いられ、ドラッグに溺れる少女・杏という難役に挑んだ「あんのこと」から、入江悠監督のオフィシャルインタビューを、映画.comが独占入手した。本作は、2020年6月に新聞に掲載された「あるひとりの少女の壮絶な人生を綴った記事」に着想を得て描く、実話をもとにした人間ドラマ。記事の内容に衝撃を受け、胸が抉られるような現実を、「これはどうしてもいま映画化したい話だ」と強く望み、映像化に臨んだという入江監督が、思いを語った。
21歳の杏は、幼い頃から母親に暴力を振るわれ、10代半ばから売春を強いられて、過酷な人生を送ってきた。ある日、覚醒剤使用容疑で取り調べを受けた彼女は、多々羅(佐藤二朗)という変わった刑事と出会う。大人を信用したことのない杏だが、何の見返りも求めず就職を支援し、ありのままを受け入れてくれる多々羅に、次第に心を開いていく。多々羅が主宰する薬物校正者の自助グループを取材するジャーナリスト・桐野(稲垣吾郎)とも出会い、微かな希望をつかみかけた矢先、どうしようもない現実が彼女の運命を残酷に襲う。
本作プロデューサーの國實瑞惠さんから「映画にしてみませんか?」と、1本の新聞記事をもらったのがきっかけです。コロナ禍で命を断ったある若い女性についての記事でした。彼女は幼い頃から母親の虐待を受け、売春を強いられ、薬物中毒に陥っていた。再起に向けて頑張っていた矢先、新型コロナウイルスが感染拡大し、望みが絶たれてしまったといいます。私たちの社会、もっと言えば自分のすぐ隣にこういう子がいたという事実に、まず衝撃を受けました。それでリサーチを始めたのですが、脚本を練っていく過程で、自分の個人的感情も重なっていきました。
2020年、わたしもふたりの友人を亡くしました。コロナ禍が始まった当初、人と会ったり、会食することを避けねばならない空気があり、連絡もしなかったのです。ある日突然、報せを受けました。人と人の繋がりがこんなにもあっさり断ち切られてしまったことがショックでした。ふたりがどんな状況に置かれていたのか、詳しいことはわかりません。でも少なくとも自分の心には、強烈な悔いが残りました。
というのも私自身、コロナ禍を通じて、自分という存在の予想以上の脆弱さを感じていたからです。社会との接点を奪われ、孤立を強いられたとき、人は容易に絶望に陥ってしまう。日常から寛容さが失われたとき、友人たちはSOSを出したくても出せなかったんじゃないか。鎮魂というと大げさに響きますが、ふたりの抱えていた孤独感や絶望と向き合わない限り、自分がもの作りをしている意味がないのではと思いました。
2020年から21年にかけて社会を覆ったあの空気を、忘れないように記録しておきたい。そういう気持ちはありました。でも、コロナ禍と社会的弱者というようなテーマがあったわけではなく、むしろ記事に書かれていたひとりの女性について、より深く知りたいという動機が先にありました。たしかに彼女の人生は過酷といえます。でもそれは、私の友人たちがそうであったように、少し条件が揃ってしまえば誰にでも起きうることなのかもしれない。と同時に、彼女にも楽しく豊かな時間はあったにちがいない。そう考えたとき、彼女の人生と並走し、その体温を身近に感じてみたくなったんです。
私はこれまで、物語の着地点が比較的明確な娯楽作を撮ってきました。でも今作は違います。モチーフは実際の事件ですが、撮り終えたときに自分が何を感じているのか、取材を始めた時点では何もわからなかった。他者の人生を勝手に総括し、結論を与えることは失礼だと思ったのです。その意味では初めての挑戦でしたし、これまで培ったノウハウとか方法論はすべて捨てようと、最初から決めて臨みました。
聡明で、独特の魅力を持っている方だと思っていました。実際に今回初めて一緒に作品に取り組んでみて、浮ついたところが少しもなかった。俳優さんは多かれ少なかれ、演技を通じて自分の見え方をある程度は意識せざるを得ないところがあるものですが、河合さんにはそういった作為をほとんど感じないんですね。ただ目の前の役に対して、ひたすらまっすぐ、誠実に取り組んでいく。この人なら杏という主人公を託してもきっと大丈夫だと、そう感じたのを覚えています。
モデルになった女性について関係者から話を伺ったり、薬物についてのレクチャーを受けたり、ふたりでいろいろ話し合ったりしました。撮影前に確認したのは、「この子をかわいそうな存在と考えるのはやめよう」ということです。彼女はひとりの人間として、自分の人生を懸命に生きていた。映画製作の過程では、さまざまなパートのスタッフや俳優たちが把握するため、人物をわかりやすくとらえようとしがちです。でも今回はそうじゃなくて、河合優実さんという俳優の肉体を借りて、モデルとなった女性が向き合っていた世界を、皆で一緒に再発見していきたかったんですね。役者にとっては痛みを伴うやり方ですが、彼女は文字通り全身全霊で向き合ってくれた。
私自身、現場で河合さんの表情や言葉に触れながら、そうか、杏っていうのはこういう子だったのかもしれないと少しずつわかっていった気がしました。撮影中、河合さんに「今、杏はどんなこと思ってますか?」と聞いたことはあっても、「こういう感じで演じてください」とお願いしたことはありません。自分にとっては未経験のアプローチでしたが、役を引き受ける覚悟も含めて、河合さんでなければ成立しなかったと思いますね。
杏とは対照的で、ほとんどなかったです。こういう男性像の方が、やっぱり自分には掴みやすかった。熱血でバイタリティがあって人助けの手間も惜しまない。でも自分の欲望にはけっこう簡単に流されてしまう。ある種、古いタイプの男性像ともいえるので、昭和の時代を知っている身としては、こういう人いたよねととらえやすい。さらに佐藤さんが脚本により深みを与えてくれたと思います。現場では驚くほど緻密な演技プランで、人懐っこさとだらしなさが入り混じった男を演じてくださいました。
桐野もまた、実在の方をモデルにしたキャラクターです。実際の事件を取材された新聞記者さんをベースに、ストーリーを語るうえで必要な要素をいくつか加えている。多々羅役の佐藤さんと同じで、彼の内面や演技の方向性についてはほとんど相談していません。それでも桐野という人物が抱える独特の居心地の悪さ、どっちつかずの葛藤みたいなものを、稲垣さんが絶妙に体現してくれました。
本作における桐野って、ある種の観察者なんですね。もちろん杏の更生を心から願って、サポートもしています。でも彼女が信頼する多々羅については、ジャーナリストとして疑念を持っている。ふたりの関係を知れば知るほど、自分の職務をまっとうするのが本当に正しいことなのか、わからなくなっていくわけです。このジレンマはある種、僕自身の皮膚感覚と近いかもしれません。稲垣さんがすごいのはそのアンビバレントさを、微妙なたたずまいで表現できることです。劇中で、桐野が自分の心情を語るセリフは一切ありません。シーンによっては無表情で、何を考えているのか見えにくいこともある。でもトータルの芝居には何とも言えない揺れが滲むんです。見事だと思いました。
先ほど、本作の撮影では明確な終着点を設定せず、杏という主人公が「今、何を思っているんだろう」と探っていったという話をしました。自分にとっては、これまで撮ってきた映画とは根本的に異なるアプローチです。そのスタンスを、「あんのこと」のチームでは本当に深く共有できました。たとえば、物語に何らかのメッセージを込めようとか、観客の気持ちをある方向に引っ張ろうとか、そういうことは一切考えませんでした。プロデューサー、スタッフ、俳優、誰もそういうことを言わなかった。それがとても嬉しかったです。
その原動力となったのは、やっぱり河合さんの芝居だと思います。たとえば今回、カメラマンの浦田秀穂さんのご提案で、シナリオにはなかった杏のシーンを現場で、かなり追加で撮っているんですね。散らかった団地の室内。荒川の橋の上。本編で使われる予定はなくても、そういうひとりの時間を切り取ることで、彼女の生きていた世界をスタッフ全員が徐々に掴んでいきました。
現場だけじゃありません。カメラテストも実際のロケーションで衣装を着てやりましたし、杏が母から暴力を受けるシーンも「どういう種類の暴力がありえるんだろうか」ということを、河合優実さんと母役の河井青葉さんとともにエチュードをして、意見を交換しました。編集という最終プロセスも何度もやり直して、杏の人生について考えることができた。モデルとなった方に失礼がないよう、誠意を持って皆で映画を作っていけたことは真に貴重で、贅沢な体験でした。
「あんのこと」は、6月7日から東京の新宿武蔵野館、丸の内TOEI、池袋シネマ・ロサほか全国公開。
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