【「春に散る」評論】邦画におけるボクシング映画の理想的な到達点
2023年8月26日 21:00
日本映画界において、ボクシング映画といえば「どついたるねん」(1989)を差し置いて話を進めるわけにはいかない。阪本順治監督が、長編デビュー作として赤井英和の自伝小説を赤井本人の主演で映画化。俳優として実績のない赤井主演では配給が決まらず、原宿の空き地にテントを特設して自主上映したところ口コミで評判を呼んで劇場公開へと実を結び、その年のブルーリボン賞で作品賞を受賞する快挙を成し遂げた。
あれから34年、ボクシング映画は数多く製作されてきたが、2014年に公開された安藤サクラ主演作「百円の恋」が大きな転機となった。俳優としても活躍する松浦慎一郎が、ボクシング指導と監修を担当。俳優に対する減量やボディメイクなど細部に至るアプローチが、製作サイドの意識も大きく変え、その後の作品群に繋げていったことは彼のその後の実績からも、疑いの余地はない。
松浦は今作でもボクシング指導と監修を務め、トレーナー役となる主演・佐藤浩市へのミットの指導、空手の世界チャンピオンだったことがある横浜流星の空手のパンチを、コンビネーションパンチに変えていくなど、ボクシングシーンはリアルをとことん追求しながら、俳優部の安全面を死守することも忘れなかった。
これだけでも、観るに値する本格ボクシング映画と謳うことができるはずだ。だが沢木耕太郎の人気小説を映画化する今作は、40年ぶりに帰国した元ボクサーの主人公・広岡(佐藤)と不公平な判定負けに嫌気がさして一度はボクシングをやめた翔吾(横浜)による、芝居とは思えぬ魂の激突にこそ醍醐味がある。
とりわけ佐藤は、近年におけるベストアクトと言い切ってしまえるほどの姿を披露。持病を抱えながらも、教えを乞う翔吾に若き日に捨て置いた見果てぬ夢を託し、必死で走り始める姿には、リアリティなどという言葉が陳腐に思えてくるほど生々しく釘付けになる。そして、そんな佐藤の背中を必死に追いかける横浜の不器用な健気さは、観る者の心の琴線を無遠慮に揺らしてくる。
誰しも、生きていれば予期せぬことを含め難問を眼前に突き付けられることがある。そんなときに問題解決の糸口を提示してくれるとまではいわないが、少なくとも気持ちを奮い立たせ、劇中のセリフではないが「生きていることは楽しい」と実感させてくれることを鑑みれば、ボクシング映画の理想的な到達点として、これから誕生するであろう未来のボクシング映画の前に立ちはだかる大きな壁として、語り継がれていくのではないだろうか。
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