【「小さき麦の花」評論】愛し、育み、土と生きる。普遍的な日常が問いかけること。
2023年2月12日 17:00
「小さき麦の花」を観て、「レッドクリフ」(2008)の撮影地に向かうバスの窓からの光景を思い出した。北京郊外へと走る早朝の往路にも、夜の帳が下りた復路にも山間の道を歩く人の姿がある。木々が生い茂った道端には建物はまばらで、時たま屋根や軒先にトウモロコシを干す土蔵の家が見えるだけ。近くに目的地とおぼしき場所が思い当たらない。
黙々と歩を進める人々の姿に驚き、素朴な疑問が浮かんだ。彼らはどこに向かい、どこまで歩けば目的地にたどり着くのだろう。この時、広大な中国に暮らす人々の生活は、小さな島国で都市化こそが豊かさだと取り違えている自分とはまったく違うのだと思い知らされた。
前置きが長くなったが、この映画が描くのは、家族から厄介者と蔑まれ、形式だけの見合いで結ばれ、貸し家をあてがわれた男と女が共に過ごす日常だ。相棒のロバと砂漠に囲まれた荒れ地を耕し、小麦や芋、とうもろこしを収穫して生きる貧農の有鉄(ヨウティエ)の元に身体に障害を抱えた貴英(クイイン)が嫁ぐ。
しきたりや約束ごとを決して疎かにしない四男坊の有鉄は、妻との写真を撮った後、紙銭を燃やして先祖たちに結婚を報告する。輸血が必要な豪農のために血を抜かれても、兄の長男のために結婚道具を町から運べと命じられても黙って受け入れる。
ロバと町に向かった有鉄は辺りが暗くなった頃に帰ってくる。夫の帰りを待ち続けていた貴英は、「魔法瓶の湯が何度も冷めてしまった」と華奢な身体を震わせている。内気で無口な妻に、寡黙な夫が「これを羽織るといい」と町で見つけたコートを差し出す。
ツケで手に入れた麦の種を二人で耕した土に撒く。発芽した苗は、陽光を浴びて稲穂となり、やがて金色の輝きを放つ。自然の営みに合わせるかのように、黙りがちだった二人は、朴訥だけど心のこもった言葉を交わすようになる。質素な家で、老夫婦から借りた有精卵を温める電球の灯りが優しく二人を包み込む。
だが、農村改革で空き家の解体が進む。家を壊せば金になるからと貸し家を追い出された有鉄は、貴英と暮らす家を作ると決め、湿地帯が生む黄色い土を捏ねて煉瓦を作り始める。
自身の故郷、甘粛省で撮影に臨んだリー・ルイジュン監督は、雪が舞う中でぎこちなく始まる二人の生活を、麦の成長に重ねて丁寧に描く。自然と共生する撮影期間は約10ヶ月に及んだ。愛の物語を描くために美男美女は要らない。貴英を演じた女優ハイ・チン以外、有鉄役のウー・レンリンを始めとする登場人物たちは監督の近親者や知人で固められている。
愛し、育み、土と生きる。ただそれだけのかけがえのない日々。劇中に「麦はなにも言わない」という科白があるが、有鉄も貴英も言葉少なく歩き続ける。ささやかな喜びに満たされた二人の普遍的な日常が、「時をやり過ごすな、今を生きろ」と語りかけてくる。
タイトルにある「麦の花」とは、誰でも簡単に作れる小さな魔法に由来する。その花は時と共に儚く消えていくが、心に刻まれたその輪郭は消えることはない。(高橋直樹)
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