平和なもののみが主人公の物語――「ベルリン・天使の詩」【コラム/スクリーンに詩を見つけたら】
2022年4月23日 12:00
古今東西の映画のあちこちに、さまざまに登場する詩のことば。登場人物によってふと暗唱されたり、ラストシーンで印象的に引用されたり……。古典から現代詩まで、映画の場面に密やかに(あるいは大胆に!)息づく詩を見つけると嬉しくなってしまう詩人・大崎清夏が、詩の解説とともに、詩と映画との濃密な関係を紐解いてゆく連載です。
今回のテーマは、第40回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した「ベルリン・天使の詩」(ビム・ベンダース監督)です。
腕をぶらぶらさせて歩いた、
小川は川になればいいのに、
川は急流になればいいのに、
水たまりは海になればいいのにと。
自分が子供だとは知らず、
どんなものにも魂があり、
すべての魂はひとつだった。
物事に対する意見などなく、
癖もなく、
足を組んで座ったり、
駆けまわったり、
髪にはつむじがあって、
すましもせずに写真を撮られた。
詩を愛する多くの人にとって、知を愛する多くの人にとって、「ベルリン・天使の詩」は特別な映画だと思う。太いペンで文字を紙に書きつける手元のクローズアップとともに、天使を演じるブルーノ・ガンツの低い柔らかな声でこの詩が朗読される冒頭シーン。声は淡々と詩を読むかと思えばときおり思い出したように節をつけて童謡を歌う調子になり、また平読みに戻る。まるで声が声のまま書かれてゆくようなこの冒頭に、私も一瞬で魅了され、それからこの映画を何度も見返すことになった。
オーストリアの詩人、ペーター・ハントケの「幼年時代の歌」。冒頭で読まれるのは3連目までだけれど、詩は映画の随所で同じ天使の声によって朗読され、通奏低音のように続いてゆく。全体は10の連からなり、そのすべての連が「子供は子供だった頃……」で始まる詩だ。この言葉に呼応するように、映画の中では子供だけが天使の姿を見る。まるで、永遠を垣間見る能力が、子供にだけは残されているかのように。
2019年のノーベル文学賞を受賞したことで、この詩人の名前は世界に知られることになった。受賞の際、ハントケがユーゴスラビアへのNATO空爆に反対したボスニア紛争時の言動が物議を醸した。空爆に反対することはセルビア人による大量虐殺を容認することだと判じた欧米メディアが、一斉に授賞を批判したのだ。
けれども、紛争や戦争がいつもはっきり分かれた敵と味方の間で行われるわけではないことを、ロシアによるウクライナ侵攻で私たちは目の当たりにしている(いつになったら私たち人間は、このことから学ぶのだろう?)。ハントケ自身、スロベニア人の母をもち、ドイツ語で書く。文化も血も感情も、国境を越えて複雑に絡みあっていて、一筋縄ではいかない。そして、NATOが落とそうが、ロシアが落とそうが、爆弾は爆弾だ。それが落ちた場所では街が破壊され、罪のない人も死ぬ。
久しぶりに「ベルリン・天使の詩」を見返して、路上に延々と並ぶ死体を市民が確認する記録映像が挟まれていることに、初めて気づいた。小さな子供や、眠るような顔の乳児の死体も映る。「誰ひとり 平和の叙事詩をまだ うまく物語れないでいる」と、ひとりの老人が図書館でアウグスト・ザンダーの写真集「20世紀の人間たち」を捲りながら憂う。第二次世界大戦で空襲を受け、壁によって分断され、無人地帯となったポツダム広場を彷徨う老人を、映画は追いかける。「ここがポツダム広場なものか!」と老人は心の中で言う。天使だけがそれを聴いている。
天使たちは傍観者だ。自殺に向かう若者を止めることも、交通事故で死に瀕した男を救うことも、戦争を止めることもできない。天使にできるのはただそっと触れること、触れられた人がその感触に気づく可能性に賭けることだけ。それは、図書館で読まれるのを待つ本のありかたに、よく似ている。
図書館に大勢の天使が棲みついているのは、そのせいかもしれない。図書館には、自ら感覚を研ぎ澄まし、知の遺産から何かを受けとろうとする人が集まる。世界中の言語で読まれ、生きた人間のものになろうとする言葉のざわめきが満ちる。図書館では歴史が呼吸されるから、天使たちは嬉しいのかもしれない。
ビム・ベンダースにとって「幼年時代の歌」は、自分の故郷の街ベルリンで撮る映画にふさわしいテーマソングだったのだろう(劇作家としても著名なペーター・ハントケは詩を提供しただけではなく、ベンダースの熱心な依頼を受けて脚本にも参加している)。
「幼年時代の歌」の引用部分だけでなく、映画全体を通じて叙事詩のように織りなされる言葉を浴びたくて、私はこの映画を見る。創世から現在までを見つめ続けてきた天使たちのひとりごと。街の人たちが誰にも言わないまま抱えている、大小さまざまな喜びと悲しみ。
映画の終盤、人間に堕した元天使は、愛する人のもとに向かって子供のように嬉しそうにベルリンの壁の脇を歩き、壁に絵を描く人に「美しい!」と呼びかける。きっとこれこそが、あの老人が夢見た「勇壮な戦士や王が主人公の物語ではなく、平和なもののみが主人公の物語」なのだろう。
https://members.thecinema.jp/article_features/TlD9J」
関連ニュース
映画.com注目特集をチェック
関連コンテンツをチェック
シネマ映画.comで今すぐ見る
父親と2人で過ごした夏休みを、20年後、その時の父親と同じ年齢になった娘の視点からつづり、当時は知らなかった父親の新たな一面を見いだしていく姿を描いたヒューマンドラマ。 11歳の夏休み、思春期のソフィは、離れて暮らす31歳の父親カラムとともにトルコのひなびたリゾート地にやってきた。まぶしい太陽の下、カラムが入手したビデオカメラを互いに向け合い、2人は親密な時間を過ごす。20年後、当時のカラムと同じ年齢になったソフィは、その時に撮影した懐かしい映像を振り返り、大好きだった父との記憶をよみがえらてゆく。 テレビドラマ「ノーマル・ピープル」でブレイクしたポール・メスカルが愛情深くも繊細な父親カラムを演じ、第95回アカデミー主演男優賞にノミネート。ソフィ役はオーディションで選ばれた新人フランキー・コリオ。監督・脚本はこれが長編デビューとなる、スコットランド出身の新星シャーロット・ウェルズ。
「苦役列車」「まなみ100%」の脚本や「れいこいるか」などの監督作で知られるいまおかしんじ監督が、突然体が入れ替わってしまった男女を主人公に、セックスもジェンダーも超えた恋の形をユーモラスにつづった奇想天外なラブストーリー。 39歳の小説家・辺見たかしと24歳の美容師・横澤サトミは、街で衝突して一緒に階段から転げ落ちたことをきっかけに、体が入れ替わってしまう。お互いになりきってそれぞれの生活を送り始める2人だったが、たかしの妻・由莉奈には別の男の影があり、レズビアンのサトミは同棲中の真紀から男の恋人ができたことを理由に別れを告げられる。たかしとサトミはお互いの人生を好転させるため、周囲の人々を巻き込みながら奮闘を続けるが……。 小説家たかしを小出恵介、たかしと体が入れ替わってしまう美容師サトミをグラビアアイドルの風吹ケイ、たかしの妻・由莉奈を新藤まなみ、たかしとサトミを見守るゲイのバー店主を田中幸太朗が演じた。
ギリシャ・クレタ島のリゾート地を舞台に、10代の少女たちの友情や恋愛やセックスが絡み合う夏休みをいきいきと描いた青春ドラマ。 タラ、スカイ、エムの親友3人組は卒業旅行の締めくくりとして、パーティが盛んなクレタ島のリゾート地マリアへやって来る。3人の中で自分だけがバージンのタラはこの地で初体験を果たすべく焦りを募らせるが、スカイとエムはお節介な混乱を招いてばかり。バーやナイトクラブが立ち並ぶ雑踏を、酒に酔ってひとりさまようタラ。やがて彼女はホテルの隣室の青年たちと出会い、思い出に残る夏の日々への期待を抱くが……。 主人公タラ役に、ドラマ「ヴァンパイア・アカデミー」のミア・マッケンナ=ブルース。「SCRAPPER スクラッパー」などの作品で撮影監督として活躍してきたモリー・マニング・ウォーカーが長編初監督・脚本を手がけ、2023年・第76回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリをはじめ世界各地の映画祭で高く評価された。
文豪・谷崎潤一郎が同性愛や不倫に溺れる男女の破滅的な情愛を赤裸々につづった長編小説「卍」を、現代に舞台を置き換えて登場人物の性別を逆にするなど大胆なアレンジを加えて映画化。 画家になる夢を諦めきれず、サラリーマンを辞めて美術学校に通う園田。家庭では弁護士の妻・弥生が生計を支えていた。そんな中、園田は学校で見かけた美しい青年・光を目で追うようになり、デッサンのモデルとして自宅に招く。園田と光は自然に体を重ね、その後も逢瀬を繰り返していく。弥生からの誘いを断って光との情事に溺れる園田だったが、光には香織という婚約者がいることが発覚し……。 「クロガラス0」の中﨑絵梨奈が弥生役を体当たりで演じ、「ヘタな二人の恋の話」の鈴木志遠、「モダンかアナーキー」の門間航が共演。監督・脚本は「家政夫のミタゾノ」「孤独のグルメ」などテレビドラマの演出を中心に手がけてきた宝来忠昭。
奔放な美少女に翻弄される男の姿をつづった谷崎潤一郎の長編小説「痴人の愛」を、現代に舞台を置き換えて主人公ふたりの性別を逆転させるなど大胆なアレンジを加えて映画化。 教師のなおみは、捨て猫のように道端に座り込んでいた青年ゆずるを放っておくことができず、広い家に引っ越して一緒に暮らし始める。ゆずるとの間に体の関係はなく、なおみは彼の成長を見守るだけのはずだった。しかし、ゆずるの自由奔放な行動に振り回されるうちに、その蠱惑的な魅力の虜になっていき……。 2022年の映画「鍵」でも谷崎作品のヒロインを務めた桝田幸希が主人公なおみ、「ロストサマー」「ブルーイマジン」の林裕太がゆずるを演じ、「青春ジャック 止められるか、俺たちを2」の碧木愛莉、「きのう生まれたわけじゃない」の守屋文雄が共演。「家政夫のミタゾノ」などテレビドラマの演出を中心に手がけてきた宝来忠昭が監督・脚本を担当。
内容のあまりの過激さに世界各国で上映の際に多くのシーンがカット、ないしは上映そのものが禁止されるなど物議をかもしたセルビア製ゴアスリラー。元ポルノ男優のミロシュは、怪しげな大作ポルノ映画への出演を依頼され、高額なギャラにひかれて話を引き受ける。ある豪邸につれていかれ、そこに現れたビクミルと名乗る謎の男から「大金持ちのクライアントの嗜好を満たす芸術的なポルノ映画が撮りたい」と諭されたミロシュは、具体的な内容の説明も聞かぬうちに契約書にサインしてしまうが……。日本では2012年にノーカット版で劇場公開。2022年には4Kデジタルリマスター化&無修正の「4Kリマスター完全版」で公開。※本作品はHD画質での配信となります。予め、ご了承くださいませ。