【コラム/スクリーンに詩を見つけたら】讃め歌に潜む見えない野犬――「パワー・オブ・ザ・ドッグ」
2022年3月17日 09:00
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古今東西の映画のあちこちに、さまざまに登場する詩のことば。登場人物によってふと暗唱されたり、ラストシーンで印象的に引用されたり……。古典から現代詩まで、映画の場面に密やかに(あるいは大胆に!)息づく詩を見つけると嬉しくなってしまう詩人・大崎清夏が、詩の解説とともに、詩と映画との濃密な関係を紐解いてゆく連載です。
今回のテーマは、第94回アカデミー賞にて、作品賞を含む最多11部門12ノミネートを果たした「パワー・オブ・ザ・ドッグ」(ジェーン・カンピオン監督)です。
見える者にはすぐに見える。けれども見えない者には、いつまでも見えない。
牧場の向こうに広がる丘に、何が見えるか? ちょっとした謎解きのようで、フィル・バーバンク(ベネディクト・カンバーバッチ)にとってはとても大切な秘密だった。粗野に、傍若無人に振る舞うことで、自分の柔らかい部分を徹底的に隠そうとしていたこの男には。
映画の舞台は1925年のモンタナ州。原作はアメリカ西部を舞台にした作品を多く手がけた作家トーマス・サヴェージ(1915~2003)の自伝的小説だ。
この時代のアメリカには、何ともいえない独特の緊張感がある。サヴェージより16歳年上の作家アーネスト・ヘミングウェイは、第一次世界大戦を経験し、偽りのない事実に向きあう書き方を重視したことで、抑制的な価値観を尊重する、敬虔なキリスト教徒の母親との軋轢を抱えた。20世紀初頭を舞台にしたコーエン兄弟の映画「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」には、石油採掘で資本主義的な成功を手に入れる男と、福音派教会の狂信的な伝道師との対決が描かれる。
二つの全く異なる価値観のせめぎ合いが、人びとをぎゅうぎゅうに抑圧する。救われようともがく中で、逆に自分のアイデンティティを見失い、追いつめられてゆく。そんな心理状態から発散される雰囲気が、少なくとも映画や文芸を通して私が触れてきた20世紀初頭のアメリカには、確かに漂っている。
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」は、旧約聖書の詩編第22編に登場する一節(ちなみに「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」は同じく出エジプト記「十の災い」の一節)。詩編は150編の讃歌から成り、聖書の中でもキリスト教の礼拝や冠婚葬祭で歌われたり、祈りとして捧げられたりすることの多い箇所だ。
当然、その多くは「主よ」という呼びかけや、誓いの言葉、神の完璧さを褒め歌う言葉が中心になる。ところが第22編では、すこし異様なほどにしつこく「わたし」の苦難が語られる。
人間の屑、民の恥。
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
「主に頼んで救ってもらうがよい。
主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。
(第22編7-9節※)
さいなむ者が群がってわたしを囲み
獅子のようにわたしの手足を砕く。
骨が数えられる程になったわたしのからだを
彼らはさらしものにして眺め
わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く。
(同17-19節※)
わたしの身を犬どもから救い出してください。
獅子の口、雄牛の角からわたしを救い
わたしに答えてください。
(同21-22節※)
自己卑下から始まるこの箇所は、映画を見た人にはむしろ一見、フィルの仲間たちの笑い者にされるピーター(コディ・スミット=マクフィー)の台詞のようにも感じられるかもしれない。ピーターを率先して貶めたフィルは、男たちがピーターを完全に「女々しい男」と認定した頃になって、唯一の理解者の素振りを見せはじめる。これは、私たちのよく知っている支配関係。だとすれば、「犬ども」とはフィルが属し率いている、男たちのホモソーシャル集団を指すことになるだろう。
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けれどもこの映画の凄みは、映画の中に描かれていないもの――何か観客に見えていないものがあることがじわじわと見えてくる、その過程にある。「丘の上に見えるもの」は、その象徴だ。そして、その遅さの中で、現代のポリコレ的雰囲気の中ではすぐに血祭りに上げられてしまいそうなフィル・バーバンクという人物も、性急なジャッジから逃れている。ではいったい、この映画における「犬」とは何の比喩なのか。
日本語でも「犬ども」と訳されているように、英語版の詩編では「power of the dogs」と犬は複数形になっている。ところが、この作品の犬には「s」が付いていない。普通に考えれば「the dog」は「一匹の犬」だけれど、この映画には「一匹の犬」は出てこない。出てくるのは、もっと得体の知れない、見える者には見えるのに、見えない者には見えない、言ってみれば不可算名詞的な、移ろいゆく影の形のようなものだ。
サヴェージは、神を言祝ぐ詩編の言葉を逆手にとって、性的マイノリティだった自分がキリスト教的な価値観にいかに抑圧されてきたかをこの一節に込め、「s」を外したのではないか。「DOG」は「GOD」――sが取れることで一神教の神を指す――のアナグラムでもある。犬どもから救い出してくれるはずのその存在こそが、フィル・バーバンクの「犬」だった。その抑圧からやっと秘密裏に解放されると思われたとき、事件は起こる。
誰も逃れることのできない、掴むことも数えることもできない、不気味な空気のような「犬」。本作の登場人物は、みんな「犬」に苛まれている。けれども、それぞれに見えているのは、まったく違う姿かたちの「犬」なのだ。
参考文献:小笠原亜衣著「アヴァンギャルド・ヘミングウェイ パリ前衛の刻印」(小鳥遊書房)
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