【佐々木俊尚コラム:ドキュメンタリーの時代】「オクトパスの神秘 海の賢者は語る」
2021年4月24日 06:00
「タコと人間の恋愛物語」「タコの可憐さと切なさに泣いた」などと前評判が伝わってきて、「本当なのか?」と半信半疑でNetflixで観たら、まさにその通りの切ないラブストーリーだった。
邦題はまるでBBCのネイチャードキュメンタリーのようだが、原題は「My Octopus Teacher」。直訳して「わたしのタコ先生」のほうが良かったのでは。
あらすじも、まさに悲恋ものの映画そのまんまである。人生にくじけ、打ちひしがれた男が故郷の南アフリカに帰ってくる。子どものころに慣れ親しんだ海に潜るうち、ひとりの女性に出会う。少しずつ探り合うふたり。やがて女性はこころを開き、手と手を触れあうようになる。そして熱愛と抱擁。しかし彼女を追いかける敵(サメ)が現れる。追われて姿を消した彼女を、必死で追う男……。
本当にタコが胸襟をひらいて監督を受け入れているようにみえ、話が進んでいくうちに、タコの顔に表情が浮かんでいるようにさえ感じてくる。まさに映画のマジックそのものである。
そして太鼓判を押しておくが、本作のラストシーンにはほんとうに感動が待っている。それは間違いない。
しかしわたしは本作を観ながら、唐突に別のことを考えていた。
東京・神田に、「ANTCICADA(アントシカダ)」という昆虫食レストランがある。昨年オープンしたこの店のオーナーは1994年生まれの篠原祐太で、わたしは彼がまだ慶應大学の学生だったころに初めて出会った。彼は当時から昆虫食の推進者として有名だった。いつもアルゼンチン産の昆虫がたくさん入ったケージを持ち歩いており、お腹が空くとそこから虫を取り出して生きたまま食べるのだという。それだけでも普通の人は驚くだろうが、彼はさらに驚くべきことを言った。
そう言って取り出した1匹の昆虫(わたしには他の虫とどう違うのかさっぱりわからなかった)の背中を愛おしげにさすり、ついには口の中に入れたりした。わたしが絶句していると、彼は再びその昆虫を口から出して、「食べたいぐらい好きって言葉があるけど、まさにそれです」と言った。
タコも昆虫も、哺乳類であるヒトからはかなり遠い親戚で、何を考えているのかを理解するのも難しい。そもそも、彼らの知性とはどのようなものなのだろうか。そしてわたしたちは、わたしたち自身とまったく異なる昆虫やタコのような他者とどれだけ交信できるのだろうか。
ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムは、古典的な名作として知られる「ソラリスの陽のもとに」で、わたしたちの理解できない知性のありようを想像してみせた。ソラリスという惑星には広大な海しかなく、その海がなんらかの知性を持っている。なぜそれがわかったかというと、ソラリスの周回軌道にやってきた人間の研究員の頭の中をのぞき、そこにあるイメージを具体化させて目の前に出現させたからだ。しかし海がなぜそのようなことをするのか、海が何を考えているのかはまったくわからない。ただ知性があるということがわかるだけだ。
昆虫もそうだ。地球にいるおびただしい数の昆虫は、微小な脳しか持っていない。神経細胞の数はわずか10万個ぐらいで、人間の100万分の1。しかし正確な行動で餌を捕らえ、機能性にすぐれた巣をゼロからつくり、巣のメンテナンスをし、仲間に餌のありかを伝えたりすることもできる。それはある種の「知性」と言えそうだが、哺乳類の持っているような知性とはまったく異なる。
そういうまったく異なる知性と、わたしたちはどのようにコミュニケーションがとれるのだろうか。しかし篠原祐太は昆虫と交信できていると考えているし、本作の監督はタコと愛し合っているように見える。それが真のコミュニケーションとして成立しているのかどうかは何とも言えないが、少なくとも人間の側がこういう異種とのあいだに関係を保とうとしている。
そういう関係性のフラットさが、本作では際だって描かれている。そのフラットさが、本作を切ないラブストーリーへと昇華させているのだ。
人は、自分たち人間をどう見ているのか。かつては「人間は生命の進化の頂点」と思われていた時代もあった。しかし生物学の進歩とともに、進化は一本道の成長軌道ではなく、多様性の中でさまざまな偶然が織りなす道行きでしかないこともわかってきた。人類の起源でさえも一本道ではなく、つい最近までネアンデルタール人などの亜種と共存していて、彼らは洗練された技術や宗教的な文化を持っていたこともわかってきている。何かの掛け違いがあれば絶滅したのはわれわ現生人類で、生き残ったネアンデルタール人が闊歩する世界もあったかもしれない。
そういう多様性と多様性の中のフラットさのようなものが認識されるようになり、それがわたしたちと異種との関係性にも反映してるのではないか。そういえば、あまりにもセンセーショナルな内容が話題になった一昨年の開高健ノンフィクション受賞作「聖なるズー」は、イヌやウマと人間との対等な性愛を描いていた。このような話の登場も、どこかで同じメロディを奏でているように思える。
多様性の中での恋愛。これからの想像力は、ラブストーリーの地平さえも広げていくことになるのかもしれない。
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