老いや死に直面した時に、どうしたら平穏な心でいられるのか――「精神0」想田和弘監督が見出したヒント
2020年5月2日 09:00
日本社会がタブーとしてきた精神医療の現場で、被写体の了承を得ながらモザイクなしで患者を映し、国内外で高い評価を得た「精神」から10年。「精神」の舞台となった診療所「こらーる岡山」を主宰していた山本昌知医師が引退する──突然の報に接した映画作家・想田和弘は再びカメラを持って診察室に向かい、このほど「精神0」が完成した。カメラが映したのは精神医療に身を捧げた山本医師の医師人生最後の日々であり、老いと向き合う夫婦の姿だった。折しも、コロナ禍で人々がこれまでの日常を失っていくなか、オンラインで想田監督に話を聞いた。(取材・文/木村奈緒)
日本で精神疾患により医療機関を受診している患者は、通院・入院を併せて400万人を超える(厚生労働省みんなのメンタルヘルス総合サイト「精神疾患による患者数」、2017年)。『精神』が公開された2008年は323万人であったから、患者数は大幅に増加している。一方、2008年には1万3千人、2018年には1万5000人超の精神科医が医療施設に従事している(同省「医師・歯科医師・薬剤師統計」)。
「精神」「精神0」で想田がカメラを向けた精神科医・山本昌知は、1936年岡山県生まれ。尾道市青山病院に勤務していた1969年から、入院患者・看護者と話し合い、閉鎖病棟の鍵を開ける取り組みを行う。1997年には無床診療所「こらーる岡山」を設立し、患者主体の医療をモットーに、長年患者と向き合ってきた。そんな山本医師の引退の知らせが想田のもとに飛び込んできたのは、2018年2月のことだった。
「『精神』に出ておられる患者さんから『山本先生が引退されるので、撮ったほうがいいんじゃないですか』と連絡をいただいて。先生のドキュメンタリーを撮りたいとずっと思っていたので、これがラストチャンスだなと。撮影の打診をしたら『ちょっと考えさせてよ』と言われて、1週間くらい考えておられました。最終的には『被写体としては自信がねぇけどなぁ』と言いながら撮影を承諾してくださいました(笑)」
述べ30日間に及んだ「精神」の撮影では70時間分の映像を編集したが、今回は7日間の撮影期間でカメラを回したのは37時間。想田が掲げる「観察映画の十戒」にあるように、撮影にあたり事前に台本は書かないしテーマは設定しない。いつどんな場面が撮れるかはカメラを回してみなければ分からない。それだけに「どの場面も盛り込みたくなるような」撮影は、想田にとって濃密な日々だった。
「実は1年とか2年とか、すごく長いスパンで撮影するつもりでカメラを回してたんですけど、撮影を始めて5日目くらいに、地元紙の記者の取材を受けて『こんな場面とこんな場面を撮りました』と説明しているうちに、『もしかしてもう一本分撮れてるんじゃないか』って気づいたんです(笑)。それを山本先生に伝えたら、先生は『なんか足りねぇんじゃねぇか』と思われたんでしょうか、『もう一軒行かん?』と言われて(笑)。それで、芳子さん(山本医師の妻)の親友のお宅を訪ねました。あのシーンは山本先生の提案だったんです」
撮影後、約半年間の編集を経て完成した「精神0」は、早速各地の映画祭で反響を呼ぶ。世界の革新的なドキュメンタリー作品を紹介するニューヨーク近代美術館(MoMA)の映画祭「ドキュメンタリー フォートナイト」ではセンターピース(目玉作品)として上映され、第70回ベルリン国際映画祭フォーラム部門では、宗派を超えたキリスト教者6人により選出されるエキュメニカル審査員賞を受賞し「人間が持つ力と愛する物へのケアの価値を描いた感動的な映画」と高く評された。一方で、観客からの思わぬ反応に自身を見直す機会もあったと言う。
「ベルリンの観客は、山本先生と芳子さんの関係を見ながら、背景にある日本の家父長制的な男性優位のアンバランスな関係を敏感に見てとったんでしょうね。山本先生が素晴らしい精神科医であるのは間違いないけれども、芳子さんも山本先生と同じかそれ以上の仕事をされてきたのに、先生の陰に隠れがちであることが映画を通して分かる。質疑では僕と(プロデューサーであり妻である)柏木(規与子)が登壇したんですが、終了後に『もっと柏木がしゃべるべきだ、あなた方も男女の関係がアンバランスだ』と批判されて(笑)、僕も気をつけないとなと思いました」
映画は、芳子さんの長年の献身を映し出すとともに、認知症を患い人の助けが必要となった芳子さんと、妻を支える夫としての山本医師を映す。しかし、多くの患者の支えとなってきた山本医師も、診察室を一歩出れば助けが必要な一人の高齢者だ。食器を取り出す、お茶を淹れるといった何気ない日々の動作でさえ、老いた身体には一苦労である。想田はそんな二人の日常を映すため、心を鬼にしてカメラを回し続けた。誰しも逃れようのない“老い”と、その先にある“死”は、想田が幼少期から考え続けてきたことでもあった。
「『精神』は、精神を病んでいない方からすれば、ある意味“他者”の話という感覚の人が多かったと思いますが、今回は誰にとっても無関係でいられないことでしょう。絶対に避けることのできない老いや死に直面した時に、どうしたら平穏な心でいられるのか。ずっと考えてきたその問いに、山本ご夫妻からヒントをいただけた気がするんです。今、新型コロナウイルスでなぜみんながパニックになってるかと言えば、死ぬのが怖いからですよね。自分や周りの人が死んでしまうのが怖くて耐えられない。山本先生も芳子さんも、客観的には厳しい状況だと思うんですけど、心は乱れていない。お二人の佇まいや、やり取りにすごくインスピレーションを受けました。そういう意味で、今本作を観ていただくことは、この大変な状況を生きていくうえで何かヒントになるんじゃないかという気がしています」
タイトルにつけた「0(ゼロ)」は「哲学的な思索をも誘う、いろんな意味を喚起しうるマジックワード」で、「あれこれ考えをめぐらせていただきたい」と想田は言う。人と人が会うことが難しい今だからこそ、「病気ではなく人を看る」「本人の話に耳を傾ける」「人薬(ひとぐすり)」をモットーに目の前の患者=人と向き合ってきた医師の言葉は、一人の人間として老いに向き合う夫婦の姿は、私たちにどう響くのか。困難な日々だからこそ、映画がもたらしてくれる力は計り知れない。
「精神0」は、5月より順次、全国で劇場公開されるほか、新型コロナウイルスの感染拡大下で、人が劇場に集うことが難しい状況を踏まえ、5月2日午前10時からインターネット上の「仮設の映画館」でも配信される。観客は鑑賞する映画館を選ぶことができ、鑑賞料(1800円)は、実際に映画館を訪れた時と同様、劇場・配給会社・製作者に分配される。
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