「キッド・クラフ 少年パッキャオ」監督&プロデューサーが明かすフィリピン映画界の現在
2015年10月30日 15:55
[映画.com ニュース] プロボクシングで6階級を制覇した世界チャンピオン、エマニエル(マニー)・パッキャオの極貧生活の子ども時代から、ボクシングで成功を収めるまでの軌跡を綴った伝記作品。フィリピンの英雄の不屈の精神を、長編監督3作目のポール・ソリアーノが画面に焼き付けている。プロデューサーのマリー・ピネタにとっては初めての大作だが、プロデューサーの顔も持つソリアーノは、映画祭の取材でも巧みに彼女をサポートしていた。
どのようなきっかけで、この作品に挑まれるようになったのですか。
ポール・ソリアーノ(以下、ソリアーノ監督):私はCMの監督もやっていたので マニー・パッキャオとは知り合いでした。私から映画を撮りたいと話すと、ドキュメンタリーをはじめ幾つもの作品に出ていた彼は、「また映画?」という反応で、乗り気ではありませんでした。
どのように説得したのですか。
ソリアーノ監督:マニーの幼少期から現在までの流れを描きたいと伝えました。貧しい家庭の出身から、現在の成功を掴み取ったことをビジュアルで訴えたかったのです。彼自身にとっての真の闘いは、幼少期から強くなるまでの期間だったはずです。貧しくてもやる気があれば、成功を手にできるというメッセージを若者に与えたいと説得しました。それから2年かけて彼とどのような映画をつくるかを話し合い、彼の記憶を引き出していったのです。
数多いエピソードのなかから抽出して、ストーリーにまとめ上げたのですね。
ソリアーノ監督:17年間の歴史を1時間40分に収めるために取捨選択が必要で、エピソードを選ぶのは難しいプロセスでした。本人とも話をしましたし、彼の幼友だちや家族、母親など、一緒に育った人たちに取材して、心を打つエピソードをピックアップしていきました。
マリー・ピネタ:マニーの力の源を映像で見せることが作品の核だと、監督と意見が一致しました。マニーにとっては家族がいちばん大事だと分かり、家族愛をテーマに描きたいと思いました。監督と組むのは初めてでしたが、協力的で仕事がしやすい人でした。
マニーの少年時代、子ども時代を再現する上で苦労はありましたか。
ソリアーノ監督:再現するために、撮影はマニーの生まれ故郷の山のなかやジェネラル・サントス州で行いました。大変でしたが、なによりマニー役を決めるのが大変でした。演技のできるボクサーを探すべきか、演技ができる人にボクシングを教えるべきか悩みましたが、演技力のある俳優のブーボイ・ビリャーを選びました。撮影の4カ月前から特訓をはじめ、マニーからアドバイスをもらいながら肉体をつくりあげ、誠実な演技をしてくれました。
監督のおじいさんもお父さんも有名な監督で、いわば監督業がファミリービジネスのような印象があります。
ソリアーノ監督:「監督になれ」とは言われませんでした。自分が選んだ道ですが、子どもの頃は製作現場で育ったといっても過言ではありません。いつも祖父や父の仕事を見ていました。
アメリカのロサンゼルスで生まれ、8歳でフィリピンに戻られました。カルチャーギャップは感じましたか?
ソリアーノ監督:衝撃はありましたが、両方の国を知っていることは、映画の語り手としては有利です。イマジネーションの刺激になります。ただ、自分の故郷はフィリピン。現在もフィリピンに住んでいます。
映画もアメリカで学んだのですね。
ソリアーノ監督:確かにアメリカで勉強はしましたが、映画セットのなかで育った環境が、ぼくの映画づくりに反映されていると思います。父親は、映画監督ではなくCMディレクターです。私は現場でPAをやるなど、見習いをしながら勉強しました。CMディレクターは視覚で訴えることを重要視します。自分にとってはそこが一番勉強になったかと思います。
この作品は大ヒットしたとうかがっていますが、フィリピン映画界の抱える問題点をお聞かせください。
ソリアーノ監督:フィリピンには才能のある監督が多くいますが、問題は製作費です。国からの支援がほとんどない状況です。ただ最近、ブリランテ・メンドーサ監督をはじめ、若い監督をサポートする存在も生まれています。地方での映画祭なども開催されており、ようやくインフラが整備されてきた印象です。ぼくたちのような若い監督の作品が、東京国際映画祭で紹介されるのは大きな意味があります。感謝を申し上げます。
(取材/構成 稲田隆起 日本映画ペンクラブ)