「ギルバートを蝕むもの」ギルバート・グレイプ つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
ギルバートを蝕むもの
責任感の強い人、というのは往々にして自分の事を後回しにしがちだなぁ、と思う。それはもちろん美徳ではあるのだが、なんだかむしろ気不味い思いをすることもあるし、そんなに頑張らなくても良いのに、と思うこともある。
本作のギルバートも当にそれに当てはまる。
ギルバートの置かれている状況を考えると、誰かがやらなきゃいけない事を全部背負い込んでしまっていて、やりたいことなんてとてもじゃないけどやれない。そんな風に生きているように思うのだ。
目を離すと何を仕出かすかわからない弟のこと、夫を失って引きこもりになってしまったの母親のこと、そもそもお金がないこと…。挙げていくときりがない。
原題はWhat is eatingが「ギルバート・グレイプ」の前につく。
英語の表現でeatingは「蝕む」という意味がある。
何がギルバートを蝕んでいたのか?結局それはギルバート自身の思い込みと背負い込みだ。
彼を自由な選択から遠ざけていたのは肥満の母でも障害のある弟でもない。思えばギルバートの父も同じだったのだろう。
父親が存命の頃は母も肥満体の引きこもりではなかったはずだから、ギルバートよりも状況的にはマシだったはずなのに、何かを背負い込んだ瞬間からその見えない荷物は大きくなり続け、父親を蝕み、生きる喜びをその重みが凌駕したということになる。
色々あって責任から逃げ出したがゆえに、ギルバートは「そんなに頑張らなくても何とかなるじゃないか」ということに気づく。
何もかも背負い込んだとしても、全てに対応するのは不可能だ。結局どこかで取りこぼし、責任感があるがゆえに自分を責める。今回はたまたまギルバートを抜きにしても問題が片付いただけかもしれないが、その「たまたま」が重要なのだ。
「何とかなる時は何とかなるし、何ともならない時もある。その時はその時、そんなもんだ」そのことに気づいただけで、人生の荷物はちょっと軽くなるから。
その気づきと、明確に軽くなった荷物のおかげでギルバートはやっと自分の人生を選択し、生きていることに喜びを見出せたのだと思う。
まとめてしまうと「ただそれだけ」の話なのだが、それを飽きさせることなくギルバートに寄り添いながら観ていられるのは、やはり俳優陣の演技力の高さが大いに貢献しているからだ。
私は30年近くレオ様ファンなのだが、やっぱり若い頃からオーラも演技力もダントツに輝いてるなぁとしみじみ思ったくらいだ。
そこまで面白い映画ではないが、レオ様を語る上では絶対に外せない一品である。