フェラーリのレビュー・感想・評価
全66件中、61~66件目を表示
【”フェラーリ家の血と光と影”「ミッレミリア」でのマセラティとの熾烈なレースシーンと起きた悲劇。そしてフェラーリ家創業夫婦の愛憎を描いた作品。ペネロペ・クルスのやつれた顔の演技が物凄い作品でもある。】
■今作は、1950年代後半に次々に起きたエンツォ・フェラーリの身に降りかかった数々の不幸を描いている。
だが、驚くのは、エンツォ・フェラーリはその不幸に対し、苦悩の表情を見せながらも果敢に立ち向かって行くし、息子ディーノを亡くした事で冷え切っていたフェラーリの共同経営者であった妻ラウラが、フェラーリ存亡の危機の際に取った行動である。
そんな、エンツォ・フェラーリをアダム・ドライヴァーが抑制しつつも貫禄ある演技で魅せ、更にはラウラをペネロペ・クルスが狂気性さえ感じる表情で演じ切っているのである。
エンツォ・フェラーリは、妻に内緒で愛人リナ・ラルディ(シャイリーン・ウッドリー)との間に幼き息子ピエロを設け、自宅と愛人宅を行き来しつつ、社業でも社長として敏腕を振るっている。
だが、ライバルのフォード、フィアットなど量産車を売り上げる会社の台頭により、フェラーリの車は年間100台も売れなく、経営不振にも陥っている。
ー ご存じのように、企業方針としてフェラーリは少量生産体制を貫いている。尚、この辺りの企業方針の違いは、「フォードVSフェラーリ」で詳しく語られている。ー
そんな中、エンツォ・フェラーリは起死回生の一作として、公道レース「ミッレミリア」での優勝を目指し、ドライバーを募り参戦するのである。
◆感想
・1950年代のイタリアの法制度の関係(制度上、離婚は出来なかった。)もあろうが、ラウラが愛人リナ・ラルディ宅から朝帰りするエンツォ・フェラーリに向けて、拳銃を撃ち放つシーンにまずは度肝を抜かれる。
この時のラウラを演じるペネロペ・クルスの眼の下に隈を作りながら”外に泊まるのは良いが、珈琲の時間までに戻れと言っているでしょう!”と言い、拳銃を撃つ姿が凄いし、怖すぎる。こんな、ペネロペ・クルスは観たことが無い。
・更に驚くのはアダム・ドライヴァー演じるエンツォ・フェラーリの胆の据わり方である。会社も結婚も破綻寸前。リナからはピエロの認知も迫られつつ、全てレースで挽回すべく没入する姿である。普通はメンタルがやられそうなものだが、会議の際もコーナーで競っている時にブレーキを踏んだドライヴァーを首にするは、その化け物の様な精神力には驚嘆する。
・一番凍り付いたのは、勿論「ミッレミリア」で、アルフォンソ・デ・ポルターゴが運転するフェラーリ335Sが、道路上の異物を踏んだために吹っ飛び、子供を含む観客9名を薙ぎ倒すシーンである。
公道レースの恐ろしさを際立たせるシーンであるし、エンツォ・フェラーリが更に追い込まれる原因となったシーンでもある。
■だが、ここでラウラは窮地に立ったエンツォ・フェラーリの為に、自身が保有する株を現金化して彼を助けるのである。
このシーンのペネロペ・クルスも凄かった。
自身の血を引く息子ディーノ亡きあとに、彼女が守るモノは夫と立ち上げたフェラーリ社のみだったのである。その決然とした覚悟の表情が凄い。
又、終盤にエンツォ・フェラーリが、初めてピエロをディーノが眠る霊園に誘うシーンも、心に沁みるのである。
<今作は、1950年代後半のフェラーリ家の危機を描いた作品である。
共同経営者でもあったエンツォ・フェラーリと妻ラウラの間の冷戦や、共闘する姿を演じるアダム・ドライヴァーとペネロペ・クルスのひりつくような駆け引きと愛憎に引き込まれる作品でもあるのである。>
子どもを巡る、惜別と受容の3か月
初めて予告を観た時抱いた印象は「勝利へ執念を燃やす男のドラマ」だった。だが、鑑賞を終えた今、どうしても考えてしまうほどに印象的だったのはエンツォ・フェラーリではなく、ラウラ・フェラーリの方だ。
そして思った。この映画はエンツォとラウラの「子ども」が焦点なのだと。二人の「子ども」とは既に喪失したアルフレード(愛称ディーノ)だけでなく、「フェラーリ」という会社も含まれるのだと。
映画館から帰って来て、調べたところによるとこの映画で描かれている期間は1957年、夏の3か月間。
この3か月こそ、エンツォとラウラの人間性が、愛が、執念が最も色濃く出た時期なのだと思う。
エンツォの人生について、ラウラはこう言う。
「工場での闘いで、あなたはすり減っていった」
それは長いレースの中で、徐々に傷んでいくレーシングカーと同じだ。駆ける姿の美しさ、それに魅了される人々の視線から外れたところで、痛み、傷つき、悲鳴を上げながら、それでも全速力で進んでいく。
その先に待ち受けているものは、栄冠かもしれないし、鋭く尖った小石かもしれない。その運命だけはどんなに強く美しいものでも、覆すことなど出来ないことなのだ。
ミッレ・ミリアでの事故を受けて、ラウラはやっと最愛の息子の死を受容したのだと思う。事故が事故であるように、息子の死がエンツォにもコントロール出来ないことであったことを受け入れたのだ。
そしてもう一つ、重大な事が起きていることも悟っていた。エンツォと自分の間に残ったもう一方の「子ども」であるフェラーリが死にかけている。
今度こそ「子ども」を失わない為に、ラウラはエンツォも、運命も、何もかもを受容し、これが最善だと信じる道を突き進んだ。そして願わくば、エンツォにも自分と同じようにディーノこそ息子であると示してほしい、それだけを望んだのだと思う。
久々に観たマイケル・マン監督の映画は、マイケル・マンらしいカメラの近さが演者たちの表情の奥まで捉え、複雑に葛藤する心を切り取ろうとする一方で、レースシーンでもまるで車自体が肉体であるかのような振動を捉えて迫力があった。
観る前に予想していた印象とはかなり違ったが、見応えのある良作だったと思う。
ブレない経営理念と情熱。
1957年代イタリア自動車メーカーフェラーリ社創業者エンツォ・フェラーリ59才の私生活と会社経営の話。
会社の共同経営してる妻ラウラと愛人リナ・ラルディと息子のピエロ、車も売れてなくレースもいい成績が残せてなくで会社経営も上手く行かないなか、タイムアタック中に専属ドライバーの死と入れ代わりで専属ドライバーとなったデ・ポルターゴを交え公道レース「ミッレミリア」出場を描く。
とりあえずエンツォさんのブレない前向きな姿勢が今に繋がってるんでしょうね。息子の死を乗り越え、レース中に亡くなった親友達、専属ドライバーが亡くなっても、すぐ気持ちを切り替える感じとかミッレミリアの事故での会見での開き直りではないけどメンタルの強さも含め。
ただ本作観てて思ったのは公道レース中のギャラリー達のケガや死って、本作では道路から出てた金属がタイヤに引っ掛かりが原因と分かったから責任を免れたけれど、車輌に不備、不具合があった場合ってレース主催側、レースチーム側に責任を問われるんですかね?ギャラリーは勝手に集まってるのに…。
にしても本妻よりもリナ・ラルディの存在はエンツォさんにとって心の拠り所ではないけど大きな存在だったんでしょうね。てか、この当時のレースって半ヘルにゴーグルスタイルだったんですか?だったら恐いわ(笑)とりあえず音にシビれました!
全然痛快じゃない
うっとりするほどかっこいいフェラーリがスリリングなレースで競り勝って大興奮する、みたいな映画を想像していたら全然違う。むしろ安全運転をしたくなるし、フェラーリ欲しくならない。
エンツォ・フェラーリがアダム・ドライバーだったことにエンディングロールで気が付く。50代半ばの役で、オレと変わらないくらい。エンツォが高慢な男でなかなか嫌な感じだ。しかしブランドとはそいうもので、不遜であるくらい自分が一番であると思っていなければ他者を魅了することはできない。レースでの勝ち負けにこだわるのも、自分が誰よりも強者であると示したいという強い意志によるものだ。そんな人が奥さんを始めとして周囲の人と軋轢を生むのは必然だ。よく続いている。
子どもが無邪気に「パパーパパー」と呼ぶのが切ない。どんなに嫌な人間でも大切なたった一人のお父さんだ。子どもにエンジンの設計図を見せて、子どもが興味を示すと嬉しそうにする。
奥さんに詰められて、愛人にもけっこう詰められて、経営も大変だし、苦い。さっぱりうらやましくない。レースで優勝しても代償が大きすぎてつらい。
エンツォが、レーサーが二人死んで事故に巻き込まれた人が何人も死んでいるのに、特に死者を悼んだり憐れむ描写はない。そんな徹底ぶりが改めて腹が座ったハードな表現ですごい。
クライマックスは
どこだ? 事故の大惨事か、スタート前のマセラティとの丁々発止か、それとも虎の様な奥さんか?散漫になっていたのは否めない。でもペネロペクルス良かったなぁ、推しになっちゃいましたよ。
イタリア人と言えばカイロレンなのかな? 今回は面長に見えなかった。赤い車体が美しいね。
あくまでもエンツォの伝記映画なのだが、ミッレミリアの再現度が強すぎて引いてしまう
2024.7.5 字幕 イオンシネマ京都桂川
2023年のアメリカ&イギリス&イタリア&サウジアラビア合作の映画(130分、PG12)
原作はブローク・イェーツのノンフィクション『Enzo Ferrari: The Man, the Cars, the Races, the Machine』
実在の実業家エンツォ・フェラーリの1957年頃の激動を描いた伝記映画
監督はマイケル・マン
脚本はトロイ・ケネディ・マーティン
物語の舞台は、1955年頃のイタリアのモデナ
モータースポーツのカーメイカーのエンツォ・フェラーリ(アダム・ドライバー)は、妻ラウラ(ペネロペ・クルス)と共にフェラーリ社を経営してきたが、業績は下降傾向で資金繰りも悪化していた
エンツォはモデナ郊外に愛人のリナ・ラルディ(シャイリーン・ウッドリー)を囲っていて、彼女との間にピエロ(ジュゼッペ・フェスティネーゼ)という息子がいた
ラウラとの間にもアルフレッド、ディーノ(ベネデット・ベネデッティーニ、幼少期:ガブリエル・ノト&エドゥアルド・ブラルディ)がいたが、共に若い頃に亡くなっていた
ある日、フランスからジャン・ベーラ(デレク・ヒル)というドライバーがやってきて、ライバル会社のマセラティと契約を結ぶことになった
彼は新車で最速タイムを叩き出し、一躍時の人となった
業績悪化が叫ばれる中、フェラーリはミッレミリアと呼ばれるイタリア北部のブレシアからローマを往復する1000マイルを走破するレースに参加することを決意する
このレースで優勝すれば多大な宣伝効果になることが見込まれ、それに全てを賭けようと考えるのである
だが、その一方で、ピエロの認知問題が放置できなくなり、銀行家のうっかり発言でラウラに知られてしまう
ラウラは権利の譲渡と引き換えに金を要求するものの、小切手を現金化すれば破産手続きに入られてしまう
そこでエンツォは条件を提示し、レースで勝つために全力を投入することになったのである
映画は、ミッレミリアについて知っているかどうかで印象が変わるのだが、その再現度は凄まじいの一言である
レースはイタリア車同士が争い、結果としてフェラーリがワンツースリーを独占してしまうので、誰がどうなったかは分かりにくい
スペインから自分を売り込んだデ・ポルターゴ(ガブリエル・レオーネ)と、彼のナビゲーターとして同乗したエドマンド・ガンナー・ネルソン(エリック・ヒューゲン)が乗った車が大事故を起こし、観覧者9人(うち5人が子ども)が犠牲になってしまう
レースはこの事故を受けて開催中止となり、デ・ポルターゴの体は車体の下敷きになったあと、真っ二つになっていたそうだ
このあたりが結構リアルに描かれているので、心臓の弱い人は注意されたほうが良いのではないだろうか
映画は、モータースポーツの華々しい開発競争とかレースを描いているのではなく、この時期にまとめて起こったエンツォの事情を余すところなく再現している
それゆえにヒューマンドラマの側面が強く、伝記映画として見る分には良いが、モータースポーツ映画として見ていると結構しんどい内容になっている
ちなみに、ピエロは無事に認知され、フェラーリ姓を名乗り、今では副社長クラスの幹部に名乗りをあげているので、エンツォの母アダルジーザ(ダニエラ・ピッペーノ)の見立ては正しかったのだろう
いずれにせよ、個人的にはミッレミリアの詳細は知らなかったので、事故のシーンがリアルすぎて引いてしまった
コントロールを失った車がどうなるのかという怖さと、避けようがない瞬間的な出来事なので、観戦する方も命懸けなんだなと思う
ドライバーは死を覚悟して乗るが、観客はそうではない、という言葉が印象的で、その他にもエンツォの経営哲学や人生訓がさらっと登場するので、全てのセリフに重みがある
成功者としての哲学は素晴らしいのだが、戦時中のいろんなことがあったとは言え、下半身をちゃんとコントロールしないと大変なことになるのだなあと感じた
全66件中、61~66件目を表示