フェラーリのレビュー・感想・評価
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ソシオパス社長のエクストリーム厄年
全方位やらかしおじさんの人生の舵取りを、アダムドライバーの顔が入りきらないクローズアップで見せられる130分。
1957年のエンツォにとってのカーレースは、自分や関係者をじわじわと殺していく病のようなものです。
自分の矜持や技術が、同時に自分の最大の敵になる。これはヒートのニールや、コラテラルのヴィンセントにも通じるものがあると思います。だから映画化にあたってこの年を選んだのかなという気もしました。
映画の大半は隠し子騒動に費やされており、もちろんそれも重要な要素ではありますが、もうちょい経営哲学に触れてほしかった感はあります。
以下は、福野礼一郎氏の『幻のスーパーカー』に書かれている内容ですが
元々が、レースで勝つためだけに作られた車。観戦していた金持ちの顧客が売ってくれと言い、商売として始まったのがフェラーリ社。
エンツォにとっては公道仕様の車=牙を抜かれて快適装備を付け足された乗り心地の悪い車であり、有難がる顧客を馬鹿にすらしていた。
だからフェラーリは市販車にスポーツやレーシングといった肩書をつけることなく、「GT」と名付ける。
個人的には、レース自体がビジネスと化した車業界をエンツォがどう見ているのか、その辺の描写がもうちょっと欲しかったなと思いました。
ただ、レースを描きながら勝利のカタルシスを徹底的に排したのは、さすがマイケルマンです。車を題材にした映画でありながら、ドライバーが誰も車を褒めず、いずれ自分を死に導く疫病神のように話すのが印象的でした。ソレックスのキャブレターが目を覚ましたようにぐるりと回って空気を取り込む場面ですら、処刑装置の調整をしているように不吉です。
素晴らしいマシンが勝利に導いてくれたのではなく、暴れ回るマシンに殺されなかっただけ。
レースに勝ったのではなく、最後まで死ななかっただけ。
でも、今は生きている。
この麻薬のように刹那的な高揚感を追体験させてくれる監督は、やはりマイケルマンしかいないなと、そう思わせてくれる映画でした。
中学部活監督レベルの激怒ぶり
日曜日にイオンシネマで
55歳以上は1100円なのだ
オマケにdocomoポイントを使い1000円で
そんなに車好きではないが イタリアとか名門ブランドとか
興味をそそられて急遽リストアップ
アダムドライバー最近割と好きで グッチとも重なる印象
プロデューサーに名を連ねていた
マイケルマン久々 ヒートはこの人だよな好きな一作
デニーロとアルパチーノがバチバチだった
なんか重厚で濃い作風にお得感がある
全然予備知識なく観たが面白かった
公道を猛スピードで走る 観客怖くないかと思ったし
子どもと野良犬には気をつけろとか前振りがあった
道路に飛び出しそうになる弟を父親が捕まえたので
ホッとしたんだが
主人公がマスコミを使って仕掛けた策にイタリアの資本家がはまって
レースもキレイに勝って大逆転と思いきや そうはならない
まさかこんな悲劇があったとは
リタイアしたレーサーを最寄りのピットまで乗っけてやるという
エピソードはほほえましかった
マセラティオーナーの中学部活監督レベルの激怒ぶりも含めて
ところで グッチもそうだったが 本来はイタリア語なんだよな
当たり前に英語でしゃべっていたが まいいか
日本と同盟国のイタリアの戦後にも興味がわいた
妻はやっぱりベネロペクルスか 最初分からなかった
これもグッチのレディガガに重なった
母親役の口元はいかにも不自然で違和感があった
(ここから映画と無関係)
終了後は公園で自作弁当を食べながらビールグビリ
炎天下だったが日影は快適 あぁ楽しい
イタリア人のホームドラマなのに英語劇
創業10年、経営危機に陥り、経営を担う共同経営者の妻とは冷え切り、前年に一人息子を亡くし、起死回生を目論んで参加したミッレミリアでは、前代未聞の大事故に遭遇。事故は車の不備のせいでないことが後に判明するが、フェラーリにすれば、なんちゅう年! な1年を描いたんだと思うが、前半社内の状況が少し出てくるだけで、ほぼフェラーリ一家の私生活のゴタゴタを延々見せられて、一体ワタシは何の映画を見ているんだろうか??と思いながらなんとか見たが時々うとうとしてしまった。
走行場面は迫力があるが、特に事故の場面がすごい。車もドライバーもふっとばされて空中を飛んでる! ドライバーが事故で亡くなるのは日常茶飯事らしく、死を悼みはするが、その場で後任ドライバーと契約したりする。
安全対策はお粗末で、レースドライバーが運転中にタバコを吸うのに驚いた。
さすがにミッレミリアのシーンは見ごたえがあったが、普通の街なかや郊外の公道を、箱根駅伝みたいにレーシングカーでがんがん走るのに驚いた。そして事故のシーンのグロさが新しい。車が宙を飛び、ドライバーが空を飛ぶ、宙に舞った車があっという間に見物人をなぎ倒す。放り出されたドライバーの、道路に叩きつけられた体を足元から映す、ちぎれた胴体が目に入り、その先には、目をひん剥いた頭部が乗った上半身が転がっている! うわ、と思わず声が出ました。
エンツォとラウラは冷え切ってレスの夫婦だとばかり思っていたら食事中唐突に始まってしまって、実は心の底では繋がっているのかただ発情しただけかもですが。イタリア人はこういうものなのでしょうか。
夫婦の不仲の元は、一人息子を失ったことから来ているよう。愛する息子が苦しんでいるときに愛人ともうひとりの息子と楽しんでいた(しかも知らないのは自分だけ)のが許せないというラウラの気持ちはよく分かる。
エンツォは設計屋で経営のアタマはないわ愛人作るわでしょーもない男だろう。
ペネロペ・クルスは美しいと思うが、歩き方が興ざめ、がに股でO脚で妊婦さんみたいに歩くんですよね。
アダム・ドライバーは見栄えするエンツォで良かったです。でも、ちょっと若すぎないか。
ラストが唐突で、この映画、ホームドラマだったのか~いと思いました。
それならイタリア語のほうがしっくりくると思うのに、なぜか英語劇。
ほんと何を見せたいのかわかりませんでした。
結局、奥さんの先読み行動で会社は存続したようで、奥さんの前ではエンツォはまるで中学生男子。フェラーリ一家は彼女にはアタマが上がらない。ラウラの出した「条件」を守り続けるしかないですね。
不機嫌なのはいつものアダム・ドライバー
タイトル通り、車メーカーのフェラーリの話です。数年前にみた「フォードvsフェラーリ」やレディ・ガガ主演の「ハウス・オブ・グッチ」が面白かったので、イタリア・ファミリービジネス繋がりで。
ストーリーは、創業者のエンツォ・フェラーリをカイロ・レン(スターウォーズ)のアダム・ドライバーが主演。エンツォの不倫騒動と、1957年に起きた耐久レース「ミッレ・ミリア」での事故が中心。そういえば「ハウス・オブ・グッチ」もアダム・ドライバーでしたね。
この映画の主題はエンツォの不倫なんでしょうね。おばあちゃんが言うように「跡取りは必要」で、現実には、映画のなかのピエロ少年は、後にフェラーリの副会長で株式の10%を保有、創業家が関与を続けられています。
では不倫は赦されるのか?という主題に対しては、正妻との子が死ぬとか、レースで惨たらしい大事故が起きるとか、正妻から反旗を突きつけられるとか、相応の「報い」を示すことで、赦しや償いを、、、という話。ちなみにフェラーリの深刻な経営危機は1960年代中頃なので、本当はもう少し後の話。
終始アダム・ドライバーの不機嫌な顔と北イタリアなのにどんよりとした天気のシーンと、不倫の罪で「苦しめ」「償え」というリベラルな説教を2時間聞かされた感じ。
マイケルマン監督なんで
フォードvsフェラーリにも エンッイオフェラーリは、会社経営のドン底と共同経営者でもある妻との冷えた関係 愛人とのひとときが休まる時。
起死回生はあるのか?アダムドライバーが、いいね。
ペネロペクロスもイタリアのお母さんが感じ出てた。
ラストは、観るに耐えるシーンだ。監督のこの作品の意味だな。シドニーポラックに捧ぐがあったね。
自閉モード
攻殻には都度〳〵出現する用語 要は自己催眠みたいなものだ 都合の悪い事は考えないようにする そうしないと先に進めないから・・・
富裕層は洩れなくその能力が実装されているらしく、多分そこが平民との差なんだろう 発動具合の頻繁さは、その度合いが高くなるにつれ、地表から乖離してゆく かくして一般社会には理解出来ない階層の出来上りとなる
"弧を描く" 平民はしばしば宙を舞う それは人生の最後に体験し、そしてスイッチが切れるようにこの世から消え去る 傍観者はその成れの果てを目に焼き付けてしまうが、富裕層は全て片付いた後にのうのうと訪れる
フェラーリなんて乗れる筈もない一生 でも、人間の皮を被った悪魔達の産物に頼まれたって乗りたくない
あのスーパーカーブームに大人達は、マスコミは、いたいけで無垢な子供達に何故本当のことを教えなかったのか? 全ては"グル"・・・
レース
環境って昔はあんな感じだったのですね。ドライバーは来てすぐにスッと乗ってしますし、公道レースは安全対策は考えられていないし、ドライバーは道覚えて無いし。流石のフェラーリも創業当初は大変だったのですね。
血に染まった「フェラーリ」のボデイカラー
エンツォが息子ピエロにエンジン構造を語るシーンが彼が車に情熱をかけてる思いが特に感じられた
車の特性を一人一人のドライバーに伝えるところも魅力的だした
複雑な家庭環境であったにせよ社運を賭けた一族が取った行動やイタリアの名車が国外に委ねられ無い様駆け引きするなど現在のフェラーリ車につながっているのがわかった
そして一番の驚きはレースそのものが公道でのラリーだった事、そして不幸な事故の存在がフェラーリにあった事であった
レッドを基調にしたボディカラーが血に魔詰まってしまったんだろつか
最後に「フェラーリ」よりもレースで最後まで争った「マセラッティ」の車が憧れの車の一つでした
壮絶なフェラーリ一の一生は勝か負なのか?
車がそんなに好きではありませんが、彼の一生に興味があり見ました。
見て良かったです。いえいえ、映画館で見て欲しい映画です。
ラストのレースは映画館のスクリーンで見ると圧巻です。
昔はあんな近くでレースを町の人は見ていたのかと・・・びっくりです。
主役のフェラーリを演じた彼も凄いです。表情で演技をしています。
彼の動きや表情に引き込まれて行きます。
悲劇が沢山あるのですが、彼のような生き方はある意味男のロマンですね。
ペネロペ・クルスの妻役もやさぐれて、凶器に満ちていて凄いスパイスです。
この物語を映画化する意味は何ですか?
物語はレーサーを退き、フェラーリ社を設立してレースチームをつくり地元の名士となるも会社は落ち目となり借金経営状態から始まります。夫婦共同経営でありながらも仲は悪く、フェラーリは不倫していてしかも不倫相手には10歳になる自分の子供までいます。こんな状況から大逆転による展開となるサクセスストーリーを期待しました。ところが妻には不倫相手を知られ、しかも子供までいることまで発覚してしまいます。販売台数を伸ばすにはレースで優勝する事しかなくイタリア全土を縦断する公道レース"ミッレミリア"に参戦します。結果は優勝するも観客を巻き込む事故を起こしてマスコミに叩かれてしまいます。会社は維持したものの、夫婦は離婚、不倫相手の子供は認知できない。ここでおしまい。何を見せたかったのか理解できませんでした。唯一の救いは、圧巻のレースシーンです。
フィアットやフォードからの買収工作をなんとか回避は
しんどかったけど、案外面白かったかも
全然知識がないので、殺伐とした家庭模様なんか予期しておらず、観てる時は割としんどかった。
ラウラの隙のない雰囲気は怖いし気が休まらなそうで、エンツォが度々愛人宅に逃げるのは全くわからないわけでもない…。
が、息子の喪失を抱えつつ経営を支え、ショックな事実にも理性を取り戻せるのは凄い。
感情を見せながらも状況を受け入れて冷静になる強さが、悲しくもあり魅力的だった。
婚外子がバレた時の、
「息子が1人だろうが5人だろうが愛情が減るわけないだろ!」みたいな返しはヤケクソすぎて笑った。
ババアが一番鬼畜。
事故シーンは「やりすぎだろ…!」と思った。
負の側面や悲劇というより、衝撃しか残ってない。
不謹慎ながら、死亡フラグ総立ち〜ストライクまで整いすぎてて…。グロ苦手なのに見入ってしまった。
苦痛をすっ飛ばしてるのもリアリティを感じられないが、キツさが軽減されたので良かったと思う。
車好きの同行者は当時のレース模様などが伺えて面白かったそうで、背景を教えてもらった。
車体がマセラティと見分けにくいのは、イタリアのカラーが赤だったから。
ロゴのアップに頑張りを感じた。
シートベルトのまともな基準もなかったそう。
今は観客が巻き込まれない位置も考慮されている。
観てる時はスカッとしない展開だし地味に感じたけど、思い返すと結構面白い所もあった。
自動車史やレースが好きなら、より面白いのだろう。
教養が要るのかもなぁ。
アダムドライバーって凄いね!
カイロレン役で初めて顔出しした時には『パッとしない役者さんだな〜』と思いましたが、やっぱり良い役者である事を再確認! それに負けないペネロペの演技も良かったです。 自動車会社に勤めている事もあってレースの映画は好きで良く観てますが、レースはエンツォの人生を語る上でのピースでしかないので、家族との絡みの方が扱いは大きく、レースシーンは意外と少ない… (迫力あります!今では考えられない!まさに命懸け!)
史実を変える訳にはいかないけれど、ラストにはビックリ! あそこまで言われても息子を優先するんですね…
私の(日本人の?)感覚ではエンツォに付いて行けませんでした!
華やかながら重厚な映画
車も持たない庶民の私からしても、没入感をもって異なる人生を感じることができた。フェラーリ氏は元レーサーでありながら開発者で経営者、そして恐妻家で息子を愛する父、このあたりは共感できた。これも映画の醍醐味。最近、ディアファミリー、ONELIFE、ルックバックとか個人的に大当たりの映画が多くてうれしい。
嫁さん怖い
夫婦喧嘩でフェラーリを死なない程度に銃撃するというシーンは何かの伏線かなと思ったけど、それ以上エスカレートしなくて安心しました。
あんな怖い嫁さんだったら、愛人や隠し子作りまくってもしょうがないよな。くわばらくわばら。
制作費どれだけかかったのか知らないけど、惜しげもなくクラシックカーをレースで破壊しまくって、うわぁ、勿体無いけど贅沢な金の使い方してんなぁと思いました。レースシーンはコラテラルのカーアクションを思い出して眼福、眼福。
クラシックカーのケツがこれ以上無いくらい美しくて、購入したくなりました。マイケルマンはやっぱ外さないなぁ。万人にお勧めの映画です。
レースよりも心情に没入感
マイケル・マン久々の劇場映画ということで上がりすぎた期待を、「マイアミ・バイス」「ブラックハット」「TOKYO VICE」という近年の作品群で思い出されるガッカリ感でクールダウンさせて臨んだのが良かったのか、満足度は割と高めでした。
撮影も綺麗だし、音響も素晴らしい。様々なアングルで見せる序盤のテストレースや終盤のレースのスピード感とレーサーとの一体感は劇場ならでは。
しかしそれを軽く凌駕して没入感を与えてくれたのはアダム・ドライバーとペネロペ・クルスの圧倒的演技力に裏打ちされたキャラクターの心情。特にペネロペ・クルスが良くて、序盤の亡き息子の墓参りで見せる万感の想いを込めた表情なんて物凄く胸に迫るものがありました。
同監督の同じ伝記物「ALI」とは異なり、短期間の出来事を描いているため密度も濃い。映画的盛り上がりはそこまで無いものの、見応えある作品なのは間違いないと思いました。
ふわっと終わって肩透かし。。
予告編見た瞬間になんか絶対面白そう!!と思って楽しみにしていたんですが。。
アダム・ドライバーさんは映画「GUCCI」で見ていた俳優さんだし、期待していましたが見終わって「うん?で、これで終わり?そっか。。」と感動も興奮も何も無くて自分でもビックリ。
もっとこうレースへの情熱とか車へのこだわりとかレーサー達との関わり方の流儀とか。。何か事業への信念とかそういうのを見たかったんですが、
単なる浮気男のいつまでも婚外子を隠し通そうとしてバレておたおたしてるだけの優柔不断おじさんにしか見えず。。。。
三流ドラマにあるような「妻とは離婚しようと思ってるんだ!」とか言いながらいつまでも離婚なんてする気もないし認知もリナさんには10年以内にとか言っておいて結局正妻が亡くなるまで出来ないとか(そりゃ〜正妻からしたらふざけんなって気持ちは分かるから当然そうなる。でも息子にはパパと言わせておいて姓はなかなかフェラーリにならないってさぁ。。)
プライベートが中途半端過ぎて全然共感出来ない主人公で残念でした。
戦国時代の側室制度もなければ一夫多妻制の国でもないなら、産ませちゃだめだし産ませるならすぐ離婚しなさいよ!とかちょっとモヤモヤ。
*****
あと沿道の事故は凄まじくて合掌しかなかったです。。街なかを走る時も「沿道で公道レース見るのは怖いな〜」と思っていたら、少し郊外の道でしたがまさかあんな事故があったとは。
その前も日光いろは坂みたいに自然の草と道路しか無い、レッカー車とかもすぐには来れないような場所がレースコースになってたので「ここでエンストとかしてもドライバーもすぐに救出出来ないしレッカー移動も大変じゃん。。」と思ってたら案の定車の故障。
まぁドライバーは同じレースの参加者に運よく同乗させてもらってましたが、運に頼る救出ってどうなの??大会のコース設定や運営に問題あるんじゃないか??とやはり物語そのものにあまり没入出来ず。
あと新しいドライバーの人へのフェラーリ社長のぞんざいな態度も気になりました。ご本人、本当にこんな人となりだったんでしょうか。よくこんな、挨拶しに行ってもそっけない、ドライバーの扱いがぞんざいに見えるこの社長のところに行ったよな~と疑問。少なくとも映画の中では「この人に是非雇ってもらいたい!」と思えるような社長像は描かれて無かったので。。どこにフェラーリさんの魅力があるんだ??と終始疑問でした。
*****
車は詳しくないけど子どもの頃の遊園地ではジェットコースターなんかよりも断然ゴーカート派だったので、車の映画、楽しみだったんですけどだいぶ残念でした。
最後の文章の説明で、ピエロ君がちゃんと「ピエロ・フェラーリ」と名乗り今や副会長にまでなっていると分かり、息子君の「僕の苗字はママの?それともパパのフェラーリ?どっちを名乗るの?」という小学生頃の葛藤は解消されてて良かったです。でも正妻さんも亡くなるまで辛かっただろうしな。。。と複雑な切ない気持ちになりました。
ただ あるがままに
フェラーリ
元レーシングドライバー
「コメンダトーレ(司令官)」と呼ばれた
エンツォ・フェラーリが
イタリア北部モデナ県に1947年に
設立したレーシングチーム及び
レースカー・スポーツカーを
販売する今では高級スポーツカー
の代名詞とも言える自動車メーカー
販売にあたり一切
広告することがないことでも
知られている
昨今のフェラーリ社を
モダンに成長させたのは正直
ルカ・ディ・モンテゼモロ
の手腕によるところが大きいが
1950年代のフェラーリ社は
大メーカーに比べれば
家内工業的規模で
日曜日にレースに出場し
マセラッティや
アルファロメオに勝ち
月曜日にそのレースを
観た客が買いにくる
売れたらまたレースの
資金に充てるという
自転車操業であった
この映画はそんな時期の
フェラーリを創始者
エンツォ自身の家庭の問題や
降りかかる困難を
自身もフェラーリ愛好家の
マイケル・マン監督が描いた
どうだったか
本妻と愛人など
現代の価値観に対する挑戦
のような描き方で
序盤は昼の連ドラ感も
ありつつ
死か栄光かという
当時の自動車レース界の風潮を
つぶさに描写し
マン監督が以前撮り
あまりにエンタメに振った感じの
フォードvsフェラーリに対する
カウンターパンチのような
作品になっていたと思う
愛人リナ宅で目を覚まし
その名をテストコースや
自社の市販車に冠するほどに愛したが
病気で亡くなった息子の墓を毎朝訪ね
その足で次のレースに使う
レーサーを駅に迎えに行くが
雰囲気が気に入らずそのまま帰る
この冒頭のシーンで
エンツォの当たり前のように
いる愛人や好き嫌い人事など
パパパッと説明してる感じ
戦争で死んだ兄と比較し
ネチネチ小言を言ってくる母親
本妻ラウラも息子を亡くした
ことで精神的に不安定になり
護身用拳銃をぶっ放すなど
ちょっと笑ってしまうほど
サクサク関係が分かります
ラウラはこんなですが
財務面を管理して会社を
支えています
(映画では触れられてませんが
この後ラウラが口を出しすぎて
幹部クラスの大量離脱を
引き起こすんですが)
そして愛人リナとの間には
子供ピエロがいます
(この子が今フェラーリ副会長)
フェラーリは次のレースのために
テストコースで走らせますが
そのドライバーがクラッシュして絶命
そこへ現れたのが駅で無視した
スペイン人の
アルフォンゾ・デ・ポルターゴが
ひょっこりやって来て
フェラーリは「仕方が無く」
起用を決めます
前述のとおり好き嫌いで人選する
人なので気に入られたイギリス人の
ピーター・コリンズは非常に
可愛がったそうです
しかしいかにもドライバーの
使い捨て感のある描写ですが
当時は本当に死んでも当たり前
みたいな認識で行われていたのです
そしてフェラーリは
大企業フィアットやフォードから
買収も持ちかけられる中
社運をかけてイタリアを折り返し
1000マイル走破する公道レース
「ミッレ・ミリア」に必勝の
4台体制で出場
覚えておかなければいけない
のはクルマは故障したら
他人のマシンに乗り換えてもOK
なのでゴールまでに1台
たどり着けばいいというレース
であること
そして悲劇が怒ります
ポルターゴのマシンが
バランスを崩し240km/hクラッシュ
沿道で観ていた人々を跳ね飛ばし
9人が亡くなる大惨事
レースはフェラーリ所属の
ピエロ・タルッフィ
(ちなみに演じたパトリック・デンプシー
は俳優の他本職のレーサーでもあります)
が勝ちますが
エンツォは事故の原因と責任を
問われ優勝を喜ぶどころでは
なくなってしまいます
(ミッレミリアもこの事故が
もとで1957年で中止)
結局タイヤのパンクが原因
ということでエンツォは
無罪とされました
映画としてはほんとうに
史実をつづる感じでこれだけの
危機を抱えた状況のまま終わっていく
点においては結局何が言いたかったのか
と思う客もいると思いますが
ヤマやオチを求めすぎなんじゃ
ないですかね
実在の人物のあるがまんまを描写
することに真摯に務めた感じ
嫌いではありません
エンツォには共感できず・・・
エンツォ・フェラーリという人物の生き様を描いた作品です。
共同経営を始めた奥さんを裏切り、愛人及び愛人との子どものところへ足げく通うエンツォ。
こういう倫理観始め、奥さんとお母さんへの扱いが酷く、
もう本当にレースのことしか頭にない人物なんだなと感じました。
そのことを表す顕著なセリフが「レースをするために車を売っている」です。
もう、レース狂というべきクレイジーさなわけです。
したがい、全く共感はできず、終始客観的に鑑賞しました。
とはいえ、ひょっとすると奥さんとの息子、ディーノが亡くなった1年後から
物語は描かれているので、ディーノの死が、エンツォをそうさせているのかもしれないとも思いました。
ディーノの死が夫婦の亀裂にもつながったのかな・・・と。
レースシーン始め、車がFeaturingされるシーンは、
ギアチェンジの動作やエンジン音、タイヤのグリップする音など、
実に臨場感にあふれていて、魅入ってしまいました。車好きにはたまりません。
まさにフェラーリの車の魅力全開といったところです。
当時はマセラティがライバルだったんですね。
このあたりのレースバトルも面白かったです。
俳優も素晴らしく、主人公エンツォを演じたアダム・ドライバーはもとより
奥さん役のペネロペ・クルスが迫真の演技をしており、本作の俳優陣の中では
もっとも迫力のある演技をしていました。
今後も要注目ですね。
ラスト近くの事故のシーンは胸が痛みました。
驚くほど冷静に、しかしながらあっさりと人が亡くなっていく様は
本当に恐ろしかったです。
そりゃレーサーもやめたくなるのも道理ですが
それでもレースを続ける(今もなお)フェラーリはすごいですね。
レース映画ではなく、ヒューマンドラマではありますが、
エンツォ・フェラーリという人を見事に描き出した作品だと思います。
【”フェラーリ家の血と光と影”「ミッレミリア」でのマセラティとの熾烈なレースシーンと起きた悲劇。そしてフェラーリ家創業夫婦の愛憎を描いた作品。ペネロペ・クルスのやつれた顔の演技が物凄い作品でもある。】
■今作は、1950年代後半に次々に起きたエンツォ・フェラーリの身に降りかかった数々の不幸を描いている。
だが、驚くのは、エンツォ・フェラーリはその不幸に対し、苦悩の表情を見せながらも果敢に立ち向かって行くし、息子ディーノを亡くした事で冷え切っていたフェラーリの共同経営者であった妻ラウラが、フェラーリ存亡の危機の際に取った行動である。
そんな、エンツォ・フェラーリをアダム・ドライヴァーが抑制しつつも貫禄ある演技で魅せ、更にはラウラをペネロペ・クルスが狂気性さえ感じる表情で演じ切っているのである。
エンツォ・フェラーリは、妻に内緒で愛人リナ・ラルディ(シャイリーン・ウッドリー)との間に幼き息子ピエロを設け、自宅と愛人宅を行き来しつつ、社業でも社長として敏腕を振るっている。
だが、ライバルのフォード、フィアットなど量産車を売り上げる会社の台頭により、フェラーリの車は年間100台も売れなく、経営不振にも陥っている。
ー ご存じのように、企業方針としてフェラーリは少量生産体制を貫いている。尚、この辺りの企業方針の違いは、「フォードVSフェラーリ」で詳しく語られている。ー
そんな中、エンツォ・フェラーリは起死回生の一作として、公道レース「ミッレミリア」での優勝を目指し、ドライバーを募り参戦するのである。
◆感想
・1950年代のイタリアの法制度の関係(制度上、離婚は出来なかった。)もあろうが、ラウラが愛人リナ・ラルディ宅から朝帰りするエンツォ・フェラーリに向けて、拳銃を撃ち放つシーンにまずは度肝を抜かれる。
この時のラウラを演じるペネロペ・クルスの眼の下に隈を作りながら”外に泊まるのは良いが、珈琲の時間までに戻れと言っているでしょう!”と言い、拳銃を撃つ姿が凄いし、怖すぎる。こんな、ペネロペ・クルスは観たことが無い。
・更に驚くのはアダム・ドライヴァー演じるエンツォ・フェラーリの胆の据わり方である。会社も結婚も破綻寸前。リナからはピエロの認知も迫られつつ、全てレースで挽回すべく没入する姿である。普通はメンタルがやられそうなものだが、会議の際もコーナーで競っている時にブレーキを踏んだドライヴァーを首にするは、その化け物の様な精神力には驚嘆する。
・一番凍り付いたのは、勿論「ミッレミリア」で、アルフォンソ・デ・ポルターゴが運転するフェラーリ335Sが、道路上の異物を踏んだために吹っ飛び、子供を含む観客9名を薙ぎ倒すシーンである。
公道レースの恐ろしさを際立たせるシーンであるし、エンツォ・フェラーリが更に追い込まれる原因となったシーンでもある。
■だが、ここでラウラは窮地に立ったエンツォ・フェラーリの為に、自身が保有する株を現金化して彼を助けるのである。
このシーンのペネロペ・クルスも凄かった。
自身の血を引く息子ディーノ亡きあとに、彼女が守るモノは夫と立ち上げたフェラーリ社のみだったのである。その決然とした覚悟の表情が凄い。
又、終盤にエンツォ・フェラーリが、初めてピエロをディーノが眠る霊園に誘うシーンも、心に沁みるのである。
<今作は、1950年代後半のフェラーリ家の危機を描いた作品である。
共同経営者でもあったエンツォ・フェラーリと妻ラウラの間の冷戦や、共闘する姿を演じるアダム・ドライヴァーとペネロペ・クルスのひりつくような駆け引きと愛憎に引き込まれる作品でもあるのである。>
全65件中、41~60件目を表示