悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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受賞作に期待したのだけど、それほどではなかった。彼の映画は評価して...
受賞作に期待したのだけど、それほどではなかった。彼の映画は評価しているし、映像も美しかったし、開拓民、自然との関係、芸能プロなどの設定も知的ではあったけど、途中で終わった感。主人公の何を考えているかわからない感はよかった。そして芸能プロダクションの二人のいい加減さと、社長、コンサルの薄っぺらい感じ。自然の中で生きてる住民との対比は明確。鹿の出てくる映画は多い。ここでも息を呑む美しい映像だった。
そして僕は途方に暮れる
薪を割ったり、水を汲んだりといった、自然の中での日常生活が、長回しの映像で延々と描かれる冒頭は、正直言って眠くなる。
だが、グランピング場の開設に関する地元説明会の場面になると、ドキュメンタリータッチの映像が独特の緊張感を醸し出して、俄然面白くなってくる。
ここでは、利益を優先して自然を破壊しようとする開発者と、自分たちの生活を守ろうとする地元住民の対立構造が明確になり、前者が「悪」で後者が「善」という、物語としての構図もはっきりしてくる。
やがて、モブキャラだと思われた開発者側の担当者にスポットが当てられ、彼らが悪い人間ではないということが分かってくると、人間は単純に「善」と「悪」とに区分できないということが実感できて、映画のタイトルが意味するところも理解できたような気になってくる。
さて、それでは、この開発計画をどのように着地させるのかと思っていると、突然、少女の失踪騒ぎに物語が転調し、最後は、呆気にとられるような形でエンドロールとなる。
一体全体、この結末は、どのように解釈すればよいのだろうか?
一度薪を割ったぐらいで、自然の中での暮らしを理解したように思っている芸能事務所の男を、自称「何でも屋」の男が、不快に感じていたのは間違いないだろうが、それだけで殺意を抱くとは思えないし、ましてや、「どうしてあのタイミングで?」という疑問も残る。
もしかして、何でも屋は、不用意に手負いの鹿に近づこうとした芸能事務所の男を助けるために、彼を制止しようとしたのかもしれないが、その前に、まず、自分の娘を助けようとするのが普通だろうし、制止するにしても、気絶するまで羽交い締めにするのは不自然過ぎる。
それとも、自分の娘を犠牲にしてまで、芸能事務所の男を救おうとしたということなのだろうか?
まあ、いくら考えても「正解」はないのだろうし、作り手側も、作品の解釈を観客に丸投げして、「正解」を提示する気がないのだろう。
ただし、「起承転結」の物語としては完全に破綻しているし、そういう意味では、良くも悪くも、観客の期待を見事に裏切る映画であるということは間違いないだろう。
心地いい余白
考えさせられる余白が大きいと感じた。
ただ、映画は絶対的な答えがあるものだけでもないので、こういうラストもありなのではと思った。
映画をあまり見てない時の自分が見たら邦画の良くない終わり方だなあって思う気がする。
芸能事務所の人たちが自身の境遇を車内で話しているのシーンが最高だった。とてもリアル。自分がこういう先輩と一緒だったらめっちゃ嫌だなって思ったけど、なんか嫌いになりきれなさそうな先輩だなと感じた。。
社長とコンサルの人が悪に見える。
都会の人間と現地の人間の考え方の違いや、意見のぶつけ合い方がとても面白い。あの説明会の淡々と詰める感じとか、感情で訴える感じとか、かなり没入感があった。
ラストの衝撃
地方農村の再開発を題材にしたシニカルなヒューマンドラマなのだが、突発的なラストがどこか不条理劇のようなテイストを持ち込み、何とも評しがたい作品となっている。
監督、脚本は「ドライブ・マイ・カー」、「偶然と想像」の濱口竜介。元々は本作で音楽を担当している石橋英子とのコラボ企画から始まったということで、これまでとは少し違った経緯で作られた作品である。とはいえ、緊張感を醸したロングテイクや、抑制を利かせたセリフ回し等、濱口監督らしい独特の作風は一貫している。
一つ違うのは、これまではどちらかと言うと会話劇主体な作りが多かった印象だが、今回は映像で語ることにこだわった点である。これは、そもそもの企画が音楽のための映像作品という所に起因しているのかもしれない。
中でも、意図的に肝心な部分を見せない映像演出は大きな特徴のように思う。「ドライブ~」でもそうした演出は一部で見られたが、今回はそれが更に推し進められたという印象である。
例えば、巧が花を探す序盤の森のシーンは、巧の姿を収めた移動ショットで撮られている。途中で画面は大木に阻まれ、二人はその陰で邂逅する。巧が花を見つけるという肝心な部分を全く見せない意外性に驚かされた。
あるいは、芸能事務所からグランピング建設の説明で派遣された男女が車中で交わす会話のシーン、行方不明になった花の身を案じる女性社員がコテージに佇むシーンは、徹底した後姿のショットが貫かれ、その表情を極力見せない。
極めつけは物議を醸すであろうラストシーンである。花の身に何が起こったかを映像では一切見せておらず、その顛末のみを提示して見せるという演出がとられている。
このように肝心な部分を見せず観客の想像に委ねる演出は、普通は余りしないものであるが、本作の場合はそれが頻出するのである。物語は割と淡々としているにもかかわらず、こうした意外性に満ちた語り口に引き込まれ、終始面白く観れる作品だった。
とは言うものの、やはりラストには、観ているこちらの想像をはるかに超える驚きがあったわけだが…。
これについては、観終わった今でも解釈に迷う所である。単に自然対人間、都市対農村、政治や社会構造の問題といったテーマでは語りきれない奇妙さがある。巧の”あの行動”に、自分は彼の心の”闇”を見た思いになった。
尚、本作を観て真っ先に連想したのは、往年の名作ドラマ「北の国から」である。自然と共生しながらマイペースに暮らす巧の姿が「北の国から」の五郎とダブって見えた。ただ、娘に対する愛情表現は五郎よりも不器用で、学校の送迎を失念したり、危険な森に一人で行かせたり、かなり放任的な点は異なる。その結果が、あのラストを呼び込んだとも言える。
また、芸能事務所の社員二人の視点に立って見れば、サム・ペキンパー監督の「わらの犬」も連想させられた。都会の人間と田舎の人間の間に生まれる不穏な空気感は、正に「わらの犬」のそれと同じである。そして、両者のズレを同じシークエンスを使って反復して見せた構成も面白い。
もう一つ連想させられたのはジャン・リュック=ゴダールの作品である。開幕のタイポグラフィーやBGMのぶつ切りといった演出は正にゴダールが得意としていた演出法である。これまでの濱口作品にはゴダールの意匠は全く感じられなかっただけに意外であった。
考察!!
『ドライブ・マイ・カー』を、まだ観ていない僕ですが、気になってコッチを先に観ましたよ。
なるほどサスガ、すごく画が良くて、計算され尽くされた洗練された美しいカットを観せてくれます。
話的には、いったい何を観せられてるだろう…と思って観てたけど、最後で、ひっくり返された…
この最後で評価が変わりました…
あなたは、どう解釈されますか?
すぐ調べずに、ゆっくり自分で考えてから、自分なりに答えを出し、もう1回観たい。
『ドライブ・マイ・カー』も観よう(笑)
冬山の日没
音楽についての評価が高かったが、自分にとっては映像の美しさの方がユニークでした。大友良英さんが音楽をつけた邦画を複数見ていたため、無意識に比べていたのかもしれません。
本作で映像化された自然の美しさ、それと共存をはかる人間の生活がよく分かりました。そのバランス感は、脚本上も重要なポイントでした。子供の頃、アウトドア好きの父にスキーやキャンプに連れ出され、山の形、木や鳥や雪上の足跡の種類を解説されたことまで思い出しました。父は都内暮らしのサラリーマンでしたが。鹿の水場の美しさはその中でも特に際立っていて、写真作品にしてコレクションしたいようでした。
過去に見た作品と違うのは、役者さんたちのお芝居の朴訥とした印象と、音楽の扱い方とに、共通の意図的な突き放し方があった点です。例えば生の演劇では絶対に見られないような、カットアウトしたような、時にぶっきらぼうとも言えるような切り口が、意図的に何かを伝えたり、場面を変える役割を持つ台詞や音楽が置かれて、映画が進んでいき、これは映画だなと思います。自然の弱肉強食の世界で、生きることを優先し愛想や辻褄合わせに振り向けるエネルギーは無い状況の暗喩にも見えました。
そして日常の風景が突然ばっさり切り落とされて非日常の様相になり、ラストに向かうのですが、余韻にまだ空想を止められないでいます。
色んな可能性があるけど、息が残っていたとして、日没までに誰にも見つからなかったら助からない可能性が高い季節の出来事。その意味で、走れメロスのような緊迫感がありました。
残念ながら、私はダメでした、、、
どうもこの監督とは相性があまりよろしくないのかな。テンポというか、ゆだね方というか、リアリティと寓話の線の引き方というか、、、とにかく「寝ても覚めても」を見て以来、鑑賞中に「あー、私は俗っぽいおばさんになっちゃったわけから、監督からファンにならなくても結構ですよ、と言われているような疎外感」に襲われる。
今時のあるある社会派ドラマの断片を見せながら、結果とはいえ、子どもを連日一人で林の中歩かせる? それに対して他の保護者があまりにも無関心すぎない?ってあたりでもうだめ。
ラストに至っては「ここで放り出すんんだー」と、喧嘩売られた気分です。
映像と音楽作品に無理にストーリーつけなくても「白鹿」や「いいちこ」のCMみたいなのが出来ただろうにと思う。
ラスト、、、唖然
まず、ラストシーンに完全に置いてきぼりにされました。釈然としないまま、ラストから物語を遡ってみると、様々なシーンが思いだされます。
だからあの時、巧はこう言っていたのか?高橋って浅はかだよな。あの音がラストへの伏線だったのか?
しかし、色々と考えを巡らせていても、ラストの出来事が理屈に合わない。
ああ、世界には説明のできない非論理的なことが現実に《存在する》のだな。
人類はずっと論理性を追求し続けていますが、この世は非論理的なんだ。
論理的に感情的にならずに賢そうに振る舞っていた社長とコンサルが、実は誰よりも滑稽な存在だったのだということをラストシーンから気づくことができました。しかし、世界は社長やコンサルに象徴される《滑稽さ》に覆われていて、私達もその《滑稽さ》が正しいと思う社会に生きています。
資源開発に限らず、福島原発、ガザの状況も理屈に合わないことのひとつと気がつくことができました。生物の本質は生きることですが、本質から逸脱した《種の破滅》も可能性として起こり得るのだなと思います。
自然界には悪という概念は存在しない。熊が人を襲うのに善悪はない。
鑑賞後、様々なことについて、想像力が膨らみ続けています。凄い作品に出会いました。
世界的な映画監督がこのような作品を作ってはダメなのでは?
(完全ネタバレですので必ず鑑賞後にお読み下さい!)
この映画『悪は存在しない』を超絶雑にまとめると以下になると思われます。
【水のきれいな自然豊かな田舎の町に、政府のコロナ補助金目当ての芸能事務所がグランピング施設を計画し、そのズサンな計画を察した主人公が、娘が手負いのシカに襲われたのがトリガーとなり、芸能事務所の交渉役の人物を殺害するストーリー】
もちろん、このような雑なまとめをされないように、映画の冒頭からおそらく都会とは違う自然の時間の流れを表現するために、超絶に長い、森林を下から移動で眺めるショットや、画面からアウトするまで撮り続ける主人公・巧(大美賀均さん)の水汲みのシーンや、長い薪割りのシーンなどのショットを流し、あくまで本音を語らない物静かな主人公・巧を配置したりした作りになっていたと思われます。
しかし、どんなに取り繕って煙に巻いても、自然に敬意の無い補助金目当ての芸能事務所の人間を排除するために主人公がその人物を殺害した、との【短絡的なストーリー】からは免れることは出来ていません。
なぜ【短絡】かといえば、(濱口監督もインタビューで応えているように)人間は自然に対して存在している時点で(主人公・巧の排除の論理の延長線上で)【悪】であり、己の【悪】を棚に上げたまま相手を断罪や排除をしてはならず、己の【悪】を棚に上げた時点で【短絡】にしかならないということです。
例えば、主人公・巧たちが住んでいる家や店の汚染水はどうしているのか、彼らが住んでいた場所もかつてはきれいな水場やシカの通り道であったのでは?
仮にそれら汚染水などの問題や人間存在の【悪】の問題を次善として解決出来ているのであれば、(グランピングであろうがなかろうが)そのグラデーションの中での次善の解決策を今後も全体で模索し続けるのが、自分たちの存在を棚に上げないまともな人間の営みだと思われます。
そんな可能性や問い掛けを排除して、(本当は存在自体が【悪】であるのに)自分たちは《善》の側に立ち、相手を【悪】に押し込めて断罪する、気持ちの良い場所からこの映画を作ってしまっていないか(今回では芸能事務所の人間を逃げ場のない【悪】の人物として描いていなかったか)、という厳しい問い掛けがされる必要があると思われました。
今や世界的な映画監督になった濱口監督に映画界は誰も指摘出来ない裸の大様になっているとすれば、こんな【短絡】の人間観の映画を作ってしまっていることを、誰かが指摘しないといけないと思われました。
私はこの映画『悪は存在しない』を再開発の最前線の渋谷のど真ん中の映画館で観たのですが、<何が『悪は存在しない』だ、自分たちの存在を棚に上げて片側を一方的な【悪】に描きやがって‥>と憤慨して映画館を出ました。
私がこの映画を観た渋谷は、川を何十年も前から暗渠化して自然とは真逆の場所ですが、そこに出来た新しい映画館の素晴らしさを濱口監督が自ら称賛する映像をロビーで見てから、『悪は存在しない』を鑑賞しました。
そして帰りの電車の中で、<そのツラの皮をひっぺ返してやろうかこの偽善者どもめ!>と心の中で映画に対して怒り狂いながら帰路に着きました。
こんな【短絡】で浅すぎる人間観で映画を作ってはいけない、と今でも強く思われています。
己を棚に上げるみっともなさを、今一度深く考えて欲しいと、僭越ながら思われました。
(憤慨する内容はともかく、映画自体は自然の美しさもありその点をプラスしてのこの点数となりました。)
あなたの考える悪について
シネ・ヌーヴォで濱口竜介× 石橋英子「悪は存在しない」やっぱりラストに切り裂かれた断裂について考えてしまうよね。きちんと伏線はあるんだけど、やっぱり不条理。観ながら予想していた人はそれでも人を分かろうとするべきなのかというような物語ではなかったな。もう少しその断裂について考えよう。
悪ばっかり
終わるなぁァァァと思いながらエンドロールを迎えてしまった。これが好きすぎるがあまりの感情だったら良かったのに...。
アカデミー賞国際長編映画賞を受賞した「ドライブ・マイ・カー」は、原作者・村上春樹の作風が個人的に大の苦手ということもあって全然ハマれなかったけど、濱口監督のゆったりとした作り方は割と好きだし、今度こそはみんなと同じように絶賛できるだろうと、そう信じていた。のに。冒頭でうっすらと感じた嫌な予感は、見事に的中。今年一気味が悪い、監督の自己満的映画だった。。。
タイトルとラストの兼ね合いだけでここまで好評を得ているのか?絶対に裏切らない、タイトルに沿って言えば、悪は一切存在しない自然は確かに良かった。音をすごく丁寧に扱っている気がしたし。
でも、あのラストはとてもじゃないけど受け入れられない。ハッキリ言っちゃうけど、今年ワーストに入るくらい大嫌い。観客に今後の展開や隠された真実を問いかける形で幕を閉じる作品は、2024年だけでも「コット、夏の思い出」「瞳をとじて」などがあり、どれもこれも傑作ばかり。これは自分の推測だが、この締め方を起用していて観客が胸を打つ作品を作れる監督っていうのは、こうなって欲しい、こうなるといいな、という熱い思いやどう解釈しようと自由だけど、自分はこう思うよという考えが作品にしっかり宿っているからだと思っている。
だが、本作は「君たちはどう生きるか」のように、作り手自身に明確な答えが持てず、ハッキリとしたラストを描けなかったばっかりに、こんな曖昧で観客に丸投げするかのような終わり方になったんじゃないだろうか。絶賛している人に聞きたい。ビックリした!で5.0を付けてないか?もしそうじゃないのなら、貴方が見い出した答えを教えて欲しい。でも、その答えはなんの意味もなさないはず。だって、濱口監督が分かっていないんだもん(インタビュー記事より)。
これって自分が悪なのかな?
とっても嫌らしい作品
最後まで見た時の自分の感情が、
「なんでこの結末だったの?」
と疑問を抱いたことに、後々くらってしまう。
そんな作品でした。
冷静に思い返してみれば、
この結末にたどり着くことは、
全然あり得たことで、
けれど、それに気づかずに観てしまう。
そして最後に後戻りできない場面にぶち当たる。
そんな風に撮られた作品だ、と思いました。
自分が鈍感な部分があったのだとも感じますが、
逆に言えばそんな鈍感な人間を、
ぶっ叩くような作品だったとも思い、
非常に嫌らしい作品だと思いました。
自分がきちんとした感性を持って生きていたら、
どんな結末を迎えられるだろうか
そんな風に、じわじわと思いながら家路に帰る。
はまぐちさん、
ぼくは貴方とこの作品が、
嫌いでありそして大好きです。
鹿に表されたものは何者か
悪は存在しない
では存在とはなんなのか
善とか悪とかではない
上映時間106分濱口監督としては短め
山村の里にグランピング場建設を東京の芸能プロダクションが企画
コロナの異常な社会状況
歪んだ生存危機感
コロナウィルスに怖れる
経済的に追い込まれる
日本の体力低下、空気感がリアルで
グランピング説明会のシーンで不快な気持ちに全身が支配された。
映画的に濱口監督の思惑通りにしてやられた。
そしてラストシーンに至るまで、ずっと居心地の悪さ
鹿はメタファー
「ディアハンター」
「聖なる鹿殺し」
「クィーン」
などなど
洋画には鹿が意味を持つ存在だけど邦画では初めて🦌鹿の印象深いシーン
この物語を支配する
巧とは何者であるのか?
鹿は巧のメタファーなのか?
悪は存在しない
では善なるものはどこに存在するのか
善人よ踠けと言ったナワリヌイとは違う感覚
国民性なのか。
終わりのない問い
#悪は存在しない
#濱口竜介監督
#映画
水問題だけではなく バランス
今流行りのグランピングを、補助金目当てに企てたバカ芸能事務所 どんな計画かは知らんが、なぜこの国はこの脈略もない計画に補助金を… 結局グランピングは計画どおりにいったのか?
最後までしっくりこない…あの二匹の鹿は父と娘を表していて、小鹿が被弾していたことと、山道で二度ほど遭遇した小鹿の死体を考えると、娘は亡くなった(父が発見した時には生きていたのかも…)んだと思うのだが、なぜ鼻血?(→自然のバランスを壊す人間に対する臆病な鹿の抵抗にあった)泡ふかせるぐらいスリーパーホールドしたのは、口先だけの社畜に対する腹いせ???? 今日は寝れないけど… 悪は存在します‼️
ロングショットを多用した山里の風景が、端正なBGMと相まって美し...
ロングショットを多用した山里の風景が、端正なBGMと相まって美しいが、映画としては黒沢清譲りの移動車中の会話劇や、公民館での地元住民VS観光施設誘致企業の論争シーンの方が断然面白い。タイトルとは裏腹に(?)悪は歴然と存在するじゃないか。補助金目当ての糞コンサルに手負いの鹿をダース単位でけしかけたくなる。穴だらけの事業と自覚しながらも住民説明に駆り出される会社側スタッフ2名がそれぞれ人間的に描かれているだけに…。間延びしないのは良いことだが、一切の解釈を拒絶するような結末には流石に困惑する。
人間同士お互いをリスペクトしつつ話し合いが大切で、そして野生動物に...
人間同士お互いをリスペクトしつつ話し合いが大切で、そして野生動物には適切な対応が重要だが、どちらも簡単ではないのだ。「これが正解」が無いのだ。
3部構成の、2部の辺りで悪者はいないと感じさせる演出が上手だと感じる。
当然 音楽がとてもマッチしている。
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