悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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自然との共存の難しさ
擬人化した自然がもたらす、予測不能な結末だと感じました
自然との共存しようとしても、時には地震などで命を落としてしまいます
自然は生態系のバランスを取るため、まったく悪くない人も殺してしまう。悪は存在しない、というのも、「悪い人」ではないということだと最後のシーンを見て、しばらく考えた後、思いました。なので演技が下手ではなく、なにものにも動じない自然を演じていたのですね
住民説明会までは眠たいのですが、途中から惹き込まれていきます
もう一度、観たいと思います
結果としての生死は重要ではない
濱口監督は2011年の震災時に在学していた東京藝術大学からの派遣スタッフとして現地に入り津波を体験した地元住民のインタビューを大量に撮影したそうで「自然(津波)は悪?じゃ自然界の一部である人間は?」というテーマは当時からずっと抱き続けていたのだろう。記者会見でタイトルについて「普段の生活の中で考えないようなことを考えさせてくれることを期待して」と述べているけれど、観客はあまりにも考えさせられ過ぎて困る。面白い映画であることは間違いないが悲しいかなこの制作規模では「自然と人間」を描くにはあまりにもスケールが小さくちゃちくて薪割り水汲み山菜摘み果ては動かぬ剥製の鹿ではとうてい山に生きる男としての説得力を得られるものではなく、実写映画を観るというよりはむしろ挿絵付きの小説を読んで映像を補完している感覚に近い。前作「ドライブ・マイ・カー」では「イタリア式本読み」と呼ばれる感情を込めない演技指導が話題となったが、今作はまさに主人公の巧(大美賀均)が100%棒読みの素人であるのに対し、自然を蹂躙しに東京からやってくる高橋(小坂竜士)はどちらかというと大きめの芝居でそれぞれの立場を反映し対立軸がはっきりして良かった。近づいているようで、親密さを増していくかのようで、その間の溝が埋まることはない。友人と一緒に観た後居酒屋に入りエンディングの解釈で議論するにふさわしい映画で監督はそれを狙っているという狡さ。でも答えはスリーパーをかまされた高橋が発した台詞に示されている通り「なんなんだ?!」
【"自覚無き悪は存在する。”長野県の架空の山麓の自然豊かな町を舞台に、大都会に住む人間の”自覚無き悪意ある業”によって起きた出来事を描いた作品。衝撃的なラストシーンは忘れ難い作品でもある。】
■巧(大森賀均:当初はスタッフとして参加していたそうである。)は娘の花(西川玲)と”長野県の山麓の自然の恵みと共に暮らしている。
コロナ禍で経営の苦しい芸能事務所が、政府の補助金目当てに、宅と花が住む町にグランビング場を作ろうとしたことから、父娘や町の人達の暮らしに不穏な空気が漂い始める。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
- 今作品は平穏な生活を送っていた人達のコミュニティに、大都会から来た人々が波風を起こす事で"様々なバランス"が崩れて行く様を描いている。-
・序盤は、巧が森の中に流れる小川で水を汲み、薪を割り、花と広葉樹、針葉樹が入り交ざる豊かな森の中を歩くシーンが、穏やかなトーンで映される。
ー だが、その中に後半キーになるショットや言葉がさり気無く含まれている。例えば、花が鹿の骨を見つけた時に巧が、
”半矢の鹿だろう。”と言ったり、清涼な水の流れを映し撮ったり。-
・そこに、東京の芸能事務所の高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)が、グランビング場設置についての説明会を行いにやって来るが、浄化槽の位置や管理人が夜間いないなど、計画の不備を出席した町の人達に指摘され、這う這うの体で東京へ戻る。
二人は、コンサルの男と事務所の社長に住民に言われた様に、再度の説明会への出席を求めるが、軽くあしらわれ再び町へ戻るのである。
ー 高橋と黛の車中での会話から、彼らが行き詰まっている事が分かるが、二人の人生観の薄っぺらさが垣間見える。特に、”俺が管理人になろうか。”などと言っている高橋である。彼らの闖入が、平穏だった町にとっては”自覚無き悪”ではないか、と私は思ったのである。-
・高橋と黛は、社長に言われた通りに、巧を懐柔しようとするが軽くあしらわれつつ、巧は彼らを冒頭のシーンで、巧とうどん屋を営む男が汲んだ”清涼な水”を使ったうどんを御馳走するのである。
ー 巧の心は、良くは分からないが高橋と黛を嫌悪している様子はない。そして、花はいつものように、森の中を一人で歩いている。巧がいつも迎えが遅い為である。巧は高橋と黛と鹿の通り道でもある、グランビング場になるであろう、森を歩く。
そして、ここでもキーになる言葉が巧みの口から出る。”鹿は人を襲わない。但し、半矢の鹿は別だ。子が居たら尚更だ。”-
■衝撃的なラストシーンの私の解釈
・花が居なくなり町中で捜索をするシーン。徐々に暗くなる中、巧と高橋は花を探しに森に入る。探し続けた結果、漸く二人は花を見つけるが、花の前には”半矢の雄鹿”と”子鹿”がいる。
その姿を見た巧は、高橋の首を後ろから羽交い絞めにして彼を失神させる。その後高橋は泡を吹きながら少し動くがその後動かなくなる。
そして、アングルは血を出して倒れている花を映す。花が襲われたシーンは映されないが、巧が高橋の首を絞めた前であろうと推測する。
巧は、花が雄鹿に襲われた瞬間に、高橋を””半矢の都会の男”であり、彼らが来た為に自分が花を迎えに行く時間がいつもよりも更に遅れ、花が襲われた”と感じ、咄嗟に高橋の首を絞めたのだろうと、思った。
巧も又、”自覚無き悪”に一瞬、成ったのであろう。彼が説明会で語っていた”バランス”が崩れた瞬間でもある。
何度も書くが、これは私の解釈である。
因みに濱口監督は、このシーンに関して”解釈は観客に委ねる。”と言っている。そして、私は解釈を委ねられるのが、比較的好きである。
<ラスト、巧は花を両手で抱え、森の奥に消えていく。そして、冒頭明るく下からのアングルで映された森が、下からのアングルで暗く映されるのである。
今作の後半までの展開の面白さと、特にラストは迷宮的な仕上がりが印象的な作品である。>
<2024年5月12日 刈谷日劇にて鑑賞>
自然が主役級
ル・シネマ渋谷宮下で鑑賞🎥
冒頭のカメラを真上方向に向けて木々の枝を仰ぎながらズンズン進む映像から引き込まれた感じだった。普段、真上を見ながら自然の中を歩くことなど無いので、とても新鮮な風景に見えた。
カメラは信州の山村の自然を次々と切り取って、スクリーンに映される。バックでは音楽が流れ、「これは自然を描く映画だよ」と濱口監督が言っているような映画🌿🍃🦌
「きれいな水」が山村の人々にはとても大事な生活基盤であり、薪割りして火にくべるような生活も続けている自然と人間が上手に共存している村。
そんな村にグランピング場を作ろうとする会社の人間が、山村の人々に説明会を開くが、こてんぱんにやられる会社側の2人。彼らも会社に戻ってから再び山村を訪れた時には住民側に寄り添おうとする気持ちを持ち始めるのだが……といった流れで物語は進む。
あの清流で作ったうどんorそば、食べてみたい!😊
ラストは「えっ!」という驚きで、「その後どうなるの?」はスクリーンの霧の中🌪️🌪️🌪️
自然を映した映像が素晴らしく、濱口監督なかなかの佳作であった🎥✨
<映倫No.124282>
Untitled
タイトルがきっと今作の中で一番でかい意味を成してるんだろうなと予想しながら鑑賞。真っ昼間ですがほぼ満席でした。
序盤のゆったりと音楽に合わせて森の中を映す映像でまず画面に釘付けにさせられました。スロースタートな作品は苦手ですし、この時点で合わないかもって思う作品は多くあるんですが、今作は不思議と落ち着く〜となりました。音楽の力もかなり強かったです。
そこから森やその付近の町を映す描写になり、今作の主人公的ポジションの巧の普段の行動だったり、グランピング施設の説明会だったりと、展開が少しずつ動き出していく感じで、ちょっとした違和感がポツリポツリとありました(鹿を撃ったのはきっと出張してきた東出くんのはず…)。
田舎VS都会の構図のようになっていた住民会と芸能事務所の社員の話し合いは中々にスリリングでした。
計画書を示されてもどれもざっくりとしたもので、そりゃ住民も反対するよという内容には思わず住民と一緒に相槌を打っていました。
バランスを大切にというのには思わず納得してしまい、我慢もしなきゃならないし、たまには気持ちを発散させたりと、日常から大きな事業までやることなすことは一緒だよなと変に納得してしまいました。
都内に帰ってきてからの社長やお偉いさんの杜撰な対応はいかにもだなぁってなりました。計画性というか考えというのが浅はかで、完全にお金目当てなんだよなというのをうまいこと言葉で濁してる感じで居心地が悪かったです。
今作でほっこりしたのは高橋と黛の車内での会話シーンで、会社への不満をぶちまけたり、お互いの恋愛観を語ってみたり、田舎っていいよな〜ってなったりとまったりした時間が流れていて、この時ばかりは劇場も笑いが起こっていました。ここでもやはり車が出てくるんだなとニヤッとしていました。
高橋が薪割り気持ちいい〜とかここの管理人になろうかなっていうシーン。きっと現状の本心なんだとは思いますし、それこそ悪意なんて無いもんだとは思うんですが、どうしても実家がまぁまぁの田舎の身からすると、そんなに楽じゃないよ?と違和感が出てしまったのを巧は強烈に感じてしまったんだろうなと思いました。
町内の集まりであったセリフの「水は上から下に向かって流れる」というセリフが今作を象徴していたなと思いました。コロナ禍の給付金や補助金の行方、汚水は上の地域は良くても下に流れると生活に影響するなど、なるほどなーとゾクゾクする感覚がありました。
花を探しにいくシーンでも上流から下流へと探しにいっていたので、これぞ伏線の回収だなと思いました。
ラストシーン、これは捉え方が十人十色ってやつだと思います。誰しもが正解であって正解じゃないやつです。
個人的には自然にズカズカと入ってくる都会もんを巧が自分の手で成敗するという正義にも見えるんですが、いかにも身勝手で、でも防衛本能もはたらいてみたいなように見えて本当の悪とは思えない作りになってるのが本当に凄いなと思ってしまいました。
観ていたら急にぶん殴られた感覚で置いてけぼりにはされましたが、印象的すぎるラストの衝撃の方が強く、おもしれ〜ってゴワゴワした感情で劇場を後にしました。
個人的にですが、多分全員どこかしら悪いところ、発展したらクズな箇所があって、巧だって娘の事を何回も忘れている事は捉え方によっては悪だと思いましたし、花も何度も行くなっていうのに行くのは極端ですが学ばない悪だとも思いましたし、ここまできたらもう悪は存在しないよ!ブンナゲ!ってなってしまい、上手い作りだなぁってなりました。
棒読みの演技というか本読みの演技が濱口監督作品では特徴的なので、最初こそ違和感はありましたが、だんだんそのキャラクターの特徴や考え方が滲み出るようになっていき、そして感情が少しずつ乗っていくと人間味が出てきたのでそういう面でもこの演技は楽しめました。ただ他作品でもこの感じだったら浮いちゃうだろうなという人が何人かいたので、そういう面にも着目していきたいです。
ここまでタイトルに振り回される作品ってのは初めてでした。思っていたよりかは難しい作品ではありませんでしたが、それでもしっかり考え込んで不意を打たれてと忙しい映画でした。ちゃんと今作と向き合えるような人間になりたい。
鑑賞日 5/9
鑑賞時間 13:05〜14:55
座席 G-12
確かに悪は存在しないが犯罪はある。
子鹿を守るために親鹿は躊躇しないだろう。
相手が猟師であろうと少女であろうと。
環境を守るために全力で抵抗する人もいるだろう。
相手が親切で好意を持っていても。
そんな抵抗や反動は悪ではない。
正当防衛行為なのだ。
それがたとえ傷害以上の行為だとしても。
野山の自然の静寂な環境の中で何かが起こることは悪ではないが、人間社会環境から見れば犯罪となってしまう。
これを理不尽、不条理という人も居れば、言われる人もいる。
いつからか自然も社会環境の一部となったからか!?
毎週、山歩きをする者として自然の社会化は、
文明の高度化と比例する故に仕方ないことと諦めるより仕方ない。
要約すると、「無用の用」 なのか? 老子
ちと、違うなぁ…
(^_^)
悪は存在しない
劇場公開日:2024年4月26日 106分
「ドライブ・マイ・カー」でアカデミー国際長編映画賞、カンヌ国際映画祭脚本賞、「偶然と想像」でベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞するなど国際的に高く評価される濱口竜介監督が、
カンヌ、ベルリンと並ぶ世界3大映画祭のひとつであるベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)受賞を果たした長編作品。
「ドライブ・マイ・カー」でもタッグを組んだ音楽家・シンガーソングライターの石橋英子と濱口監督による共同企画として誕生した。
自然豊かな高原に位置する長野県水挽町は、
東京からも近いため近年移住者が増加傾向にあり、ごく緩やかに発展している。
代々その地に暮らす巧は、娘の花とともに自然のサイクルに合わせた慎ましい生活を送っているが、ある時、家の近くでグランピング場の設営計画が持ち上がる。
それは、コロナ禍のあおりで経営難に陥った芸能事務所が、政府からの補助金を得て計画したものだった。
しかし、彼らが町の水源に汚水を流そうとしていることがわかったことから町内に動揺が広がり、巧たちの静かな生活にも思わぬ余波が及ぶことになる。
石橋がライブパフォーマンスのための映像を濱口監督に依頼したことから、プロジェクトがスタート。
その音楽ライブ用の映像を制作する過程で、1本の長編映画としての本作も誕生した。
2023年・第80回ベネチア国際映画祭では銀獅子賞(審査員大賞)を受賞したほか、映画祭本体とは別機関から授与される国際批評家連盟賞、映画企業特別賞、人・職場・環境賞の3つの独立賞も受賞した。
悪は存在しない
劇場公開日:2024年4月26日 106分
噛み応えがあるね
善と悪とは
冒頭から独特の映像の撮り方。
だが静寂で綺麗。
ここから見る人や物、動物、自然によって
善悪とは其々によって違う事を意味してたのかも。車から後ろへ撮り方も。
グランピングの説明会、都会と田舎では
時間の流れ方や大切さは分かり合えない。
相手が自然だし。口先だけでは無理。
ここの会話劇は皮肉たっぷりで面白かった。
あの、高橋みたいな鈍感な人必ずいるよね。
水を大切にしてるわりとには大事な娘
花の迎えは忘れる違和感。
巧は何か起きて欲しいと願ってたのかな……。
亡き母に対するお想い。
ラストは衝撃。鹿に身を捧げる感じ。
それを止めようとする高橋。
高橋の首を絞めて気絶させる行動。
このシーンは当人同士の気持ち。
どちらが善悪が分からない。
花があちら側に少し寄り添っている
のを巧は感じとったかもしれない。
自分はどの人物なんだろうか。
過度に音楽が入らないところが、鹿の気持ちになったように、じっと没入できた。
開発者側の女性が役者っぽくなく、落ち着いた口調が、観ている自分の立場をそちら側にも動かされてしまう。
自分は一体どの立場でいきているのだろうか、
生きていく為に何を1番大切に守っているのか、考えた時間だった。
花ちゃんとの描き方に疑問。
時間を忘れてしまうなら対策考えるべきだし、
ちゃんとルールを作れば良いし。
鹿への知識も教えてあげていないのか、そこに暮らしていながら学ばなさ過ぎではないか。
そこは、ストーリー的にそうせざるをえなかったのかな。
高橋は私だ!
受賞作に期待したのだけど、それほどではなかった。彼の映画は評価して...
受賞作に期待したのだけど、それほどではなかった。彼の映画は評価しているし、映像も美しかったし、開拓民、自然との関係、芸能プロなどの設定も知的ではあったけど、途中で終わった感。主人公の何を考えているかわからない感はよかった。そして芸能プロダクションの二人のいい加減さと、社長、コンサルの薄っぺらい感じ。自然の中で生きてる住民との対比は明確。鹿の出てくる映画は多い。ここでも息を呑む美しい映像だった。
そして僕は途方に暮れる
薪を割ったり、水を汲んだりといった、自然の中での日常生活が、長回しの映像で延々と描かれる冒頭は、正直言って眠くなる。
だが、グランピング場の開設に関する地元説明会の場面になると、ドキュメンタリータッチの映像が独特の緊張感を醸し出して、俄然面白くなってくる。
ここでは、利益を優先して自然を破壊しようとする開発者と、自分たちの生活を守ろうとする地元住民の対立構造が明確になり、前者が「悪」で後者が「善」という、物語としての構図もはっきりしてくる。
やがて、モブキャラだと思われた開発者側の担当者にスポットが当てられ、彼らが悪い人間ではないということが分かってくると、人間は単純に「善」と「悪」とに区分できないということが実感できて、映画のタイトルが意味するところも理解できたような気になってくる。
さて、それでは、この開発計画をどのように着地させるのかと思っていると、突然、少女の失踪騒ぎに物語が転調し、最後は、呆気にとられるような形でエンドロールとなる。
一体全体、この結末は、どのように解釈すればよいのだろうか?
一度薪を割ったぐらいで、自然の中での暮らしを理解したように思っている芸能事務所の男を、自称「何でも屋」の男が、不快に感じていたのは間違いないだろうが、それだけで殺意を抱くとは思えないし、ましてや、「どうしてあのタイミングで?」という疑問も残る。
もしかして、何でも屋は、不用意に手負いの鹿に近づこうとした芸能事務所の男を助けるために、彼を制止しようとしたのかもしれないが、その前に、まず、自分の娘を助けようとするのが普通だろうし、制止するにしても、気絶するまで羽交い締めにするのは不自然過ぎる。
それとも、自分の娘を犠牲にしてまで、芸能事務所の男を救おうとしたということなのだろうか?
まあ、いくら考えても「正解」はないのだろうし、作り手側も、作品の解釈を観客に丸投げして、「正解」を提示する気がないのだろう。
ただし、「起承転結」の物語としては完全に破綻しているし、そういう意味では、良くも悪くも、観客の期待を見事に裏切る映画であるということは間違いないだろう。
心地いい余白
考えさせられる余白が大きいと感じた。
ただ、映画は絶対的な答えがあるものだけでもないので、こういうラストもありなのではと思った。
映画をあまり見てない時の自分が見たら邦画の良くない終わり方だなあって思う気がする。
芸能事務所の人たちが自身の境遇を車内で話しているのシーンが最高だった。とてもリアル。自分がこういう先輩と一緒だったらめっちゃ嫌だなって思ったけど、なんか嫌いになりきれなさそうな先輩だなと感じた。。
社長とコンサルの人が悪に見える。
都会の人間と現地の人間の考え方の違いや、意見のぶつけ合い方がとても面白い。あの説明会の淡々と詰める感じとか、感情で訴える感じとか、かなり没入感があった。
ラストの衝撃
地方農村の再開発を題材にしたシニカルなヒューマンドラマなのだが、突発的なラストがどこか不条理劇のようなテイストを持ち込み、何とも評しがたい作品となっている。
監督、脚本は「ドライブ・マイ・カー」、「偶然と想像」の濱口竜介。元々は本作で音楽を担当している石橋英子とのコラボ企画から始まったということで、これまでとは少し違った経緯で作られた作品である。とはいえ、緊張感を醸したロングテイクや、抑制を利かせたセリフ回し等、濱口監督らしい独特の作風は一貫している。
一つ違うのは、これまではどちらかと言うと会話劇主体な作りが多かった印象だが、今回は映像で語ることにこだわった点である。これは、そもそもの企画が音楽のための映像作品という所に起因しているのかもしれない。
中でも、意図的に肝心な部分を見せない映像演出は大きな特徴のように思う。「ドライブ~」でもそうした演出は一部で見られたが、今回はそれが更に推し進められたという印象である。
例えば、巧が花を探す序盤の森のシーンは、巧の姿を収めた移動ショットで撮られている。途中で画面は大木に阻まれ、二人はその陰で邂逅する。巧が花を見つけるという肝心な部分を全く見せない意外性に驚かされた。
あるいは、芸能事務所からグランピング建設の説明で派遣された男女が車中で交わす会話のシーン、行方不明になった花の身を案じる女性社員がコテージに佇むシーンは、徹底した後姿のショットが貫かれ、その表情を極力見せない。
極めつけは物議を醸すであろうラストシーンである。花の身に何が起こったかを映像では一切見せておらず、その顛末のみを提示して見せるという演出がとられている。
このように肝心な部分を見せず観客の想像に委ねる演出は、普通は余りしないものであるが、本作の場合はそれが頻出するのである。物語は割と淡々としているにもかかわらず、こうした意外性に満ちた語り口に引き込まれ、終始面白く観れる作品だった。
とは言うものの、やはりラストには、観ているこちらの想像をはるかに超える驚きがあったわけだが…。
これについては、観終わった今でも解釈に迷う所である。単に自然対人間、都市対農村、政治や社会構造の問題といったテーマでは語りきれない奇妙さがある。巧の”あの行動”に、自分は彼の心の”闇”を見た思いになった。
尚、本作を観て真っ先に連想したのは、往年の名作ドラマ「北の国から」である。自然と共生しながらマイペースに暮らす巧の姿が「北の国から」の五郎とダブって見えた。ただ、娘に対する愛情表現は五郎よりも不器用で、学校の送迎を失念したり、危険な森に一人で行かせたり、かなり放任的な点は異なる。その結果が、あのラストを呼び込んだとも言える。
また、芸能事務所の社員二人の視点に立って見れば、サム・ペキンパー監督の「わらの犬」も連想させられた。都会の人間と田舎の人間の間に生まれる不穏な空気感は、正に「わらの犬」のそれと同じである。そして、両者のズレを同じシークエンスを使って反復して見せた構成も面白い。
もう一つ連想させられたのはジャン・リュック=ゴダールの作品である。開幕のタイポグラフィーやBGMのぶつ切りといった演出は正にゴダールが得意としていた演出法である。これまでの濱口作品にはゴダールの意匠は全く感じられなかっただけに意外であった。
考察!!
冬山の日没
音楽についての評価が高かったが、自分にとっては映像の美しさの方がユニークでした。大友良英さんが音楽をつけた邦画を複数見ていたため、無意識に比べていたのかもしれません。
本作で映像化された自然の美しさ、それと共存をはかる人間の生活がよく分かりました。そのバランス感は、脚本上も重要なポイントでした。子供の頃、アウトドア好きの父にスキーやキャンプに連れ出され、山の形、木や鳥や雪上の足跡の種類を解説されたことまで思い出しました。父は都内暮らしのサラリーマンでしたが。鹿の水場の美しさはその中でも特に際立っていて、写真作品にしてコレクションしたいようでした。
過去に見た作品と違うのは、役者さんたちのお芝居の朴訥とした印象と、音楽の扱い方とに、共通の意図的な突き放し方があった点です。例えば生の演劇では絶対に見られないような、カットアウトしたような、時にぶっきらぼうとも言えるような切り口が、意図的に何かを伝えたり、場面を変える役割を持つ台詞や音楽が置かれて、映画が進んでいき、これは映画だなと思います。自然の弱肉強食の世界で、生きることを優先し愛想や辻褄合わせに振り向けるエネルギーは無い状況の暗喩にも見えました。
そして日常の風景が突然ばっさり切り落とされて非日常の様相になり、ラストに向かうのですが、余韻にまだ空想を止められないでいます。
色んな可能性があるけど、息が残っていたとして、日没までに誰にも見つからなかったら助からない可能性が高い季節の出来事。その意味で、走れメロスのような緊迫感がありました。
残念ながら、私はダメでした、、、
どうもこの監督とは相性があまりよろしくないのかな。テンポというか、ゆだね方というか、リアリティと寓話の線の引き方というか、、、とにかく「寝ても覚めても」を見て以来、鑑賞中に「あー、私は俗っぽいおばさんになっちゃったわけから、監督からファンにならなくても結構ですよ、と言われているような疎外感」に襲われる。
今時のあるある社会派ドラマの断片を見せながら、結果とはいえ、子どもを連日一人で林の中歩かせる? それに対して他の保護者があまりにも無関心すぎない?ってあたりでもうだめ。
ラストに至っては「ここで放り出すんんだー」と、喧嘩売られた気分です。
映像と音楽作品に無理にストーリーつけなくても「白鹿」や「いいちこ」のCMみたいなのが出来ただろうにと思う。
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