「『悪は存在しない』は自分の中で存在し続けていく」悪は存在しない 近大さんの映画レビュー(感想・評価)
『悪は存在しない』は自分の中で存在し続けていく
濱口竜介はつくづくアートの監督だ。
その評価を決定的にした『ドライブ・マイ・カー』も難解と言われたが、まだ物語性や巧みな構成や最後はポジティブなメッセージも感じられた。
しかし、本作はどうだ。難題を突き出し、問い、明確な答えは描かない。見た人に委ね、見た人それぞれの解釈。
自分の解釈が当たっているのか、見当外れなのかすら分からない。
それも含め、試されているのだろう。いや、信じられているのだろう。
見た人一人一人が何かを見つけてくれる。絶賛でも酷評でも。
はっきりと意見は分かれる。ダメな人にはとことん合わず、好きな人はその深淵に誘われていく。開幕、森林木々の中に奥深く入り込んで行くかのように。
私も入りは迷ったが、気付いたら引き込まれていた。
長野県山奥の集落・水挽町。
豊かな自然と澄んだ雪解け水が自慢のこの高原地方は今、東京からのアクセスも良く、観光客も増えている。
この地で娘・花と暮らす巧は、自然と調和した慎ましい生活を送っていた。
序盤はこの父娘や住人たちの日々の営み。
薪割り、水汲み…。巧は寡黙ながら実直に日々の仕事をする。
花は元気に森の中を駆ける。
住人たちの交流。長年暮らす年長者の知恵、教え。
質素ながらも穏やかな町と暮らし…が今、大きな局面を向かえている。
巧の家の近くで、キャンプとホテルを備えた“グランピング”のオープン計画が上がる。
計画した企業による住民説明会が開かれる。
企業側は利便性と町の更なる活性化に繋がると自信満々に話すが、コロナの煽りで経営難に陥った芸能事務所が補助金と別企業からの提案で楽観的に推し進めた計画。
自然水が汚染される事、ホテルの管理体制やキャンプの火の問題など住民から不満疑問が続出。ずさん過ぎる計画に怒りの声も。
担当の高橋と黛は田舎人を簡単に言いくるめる事が出来るとタカを括っていたが、鋭い視点や意見、地元愛に完全にKO。
水は上から下へ。上でやった事は必ず下に影響する。…この区長の言葉は響いた。
社長や推進してきた企業を招いて改めて説明会を開く事に。高橋と黛はそう会社に伝えるが、社長も企業も条件は受け入れず、変わらず楽観的意見。
地元住民たちはバカじゃない。いい加減な計画、口だけの上役、それに振り回される自分たち。その愚かさに気付く。
最初はヤな連中と思った高橋と黛だが、彼らにも徐々に感情移入。再び水挽町へ向かう車内での会話が平社員の苦労が感じられ、何か気に入った。
二人は再び水挽町へ。会社の(バカみたいな)名案故。
町の便利屋のような仕事をしている巧にホテルの管理人を。どうせ暇だろう。←こんな言い方をする会社側にイラッと。
善は急げ。あまり気乗りしない二人。
巧の元を訪れ、薪割り中。薪割りをしてみる高橋。
管理人の話を伝えるが、暇ではないと鈍い反応。
巧にはもう一つ、気に掛けている事が。グランピングが建つ辺りはちょうど鹿の通り道。
鹿は滅多に人を襲わない。グランピングが出来、人も増えたらそこを通らなくなるだろう。
なら、鹿は何処に行く…?
花が行方不明に。住民総出で探す。
巧は思い当たる所を。高橋と黛も協力。
黛が怪我。巧の家で休ませ、巧と高橋で。
開けた平野。そこに、花が…。目の前に、鹿が…。
巧は驚きの行動を。そのままこれまた驚きの終幕になる…。
どう解釈したらいいか分からないラスト。
突然巧が高橋を羽交締めにして殺す。負傷した花を抱き抱えて森の何処へ。
巧は死に場所を求めていたのか…?
どんなに反対してもグランピングは建つ。そうなったら自分には居場所は無い。
鹿は何処に行く…? これは、自分なのだ。
そして私たちなのだ。我々は何処へ行く…?
居場所を無くした動物たち、破壊された自然。その悲しみ、怒り、憎しみは必ず人間に降り掛かる。
上の方の汚れが必ず下の方へ流れるように。自然の摂理。
巧=自然の高橋=人間への突然襲った災い。
災いの後は静寂が訪れる。無に帰すように…。
タイトルの“悪は存在しない”。
確かに本作には“悪”は存在しない。巧の行動も、住民たちの反発も、高橋や黛の言動も、会社側だって悪意は無い。
悪は存在しないが、愚かでもの哀しいだけなのだ。
…なんて解釈してみたが、全く自信ナシ。見当違いも甚だしいだろう。
3日ほど前に見たのだが、なかなか考えまとまらず。
やっと何とかまとまったのだが、そもそもこんな解釈でいいのか…?
今もふとした時に思い出す。多分これからも、印象残るラストと考えさせられる作品として、自分の中で存在し続けるだろう。
恐るべし、濱口竜介!