「シカに取り憑かれたヒゲ男」悪は存在しない カブカブさんの映画レビュー(感想・評価)
シカに取り憑かれたヒゲ男
結論からいうと1980~90年代であったら、まあまあな映画という感じでした。ホン・サンス監督作品のほぼ全てよりはマシってくらい。
衝撃のラスト!といいますが単純に明確な結末から逃げているように思えました。根底にキリスト教が屹立するブレッソン映画のようにはいかないのは、織り込み済みなのだとは思いますが。石橋英子の持ち出し企画と知ったうえで元も子もない話をしますと、あのラストシーンに情緒的なBGMは不要。あれは本当に非常にダサいです。
まず、今やアニメ・漫画の分野で例えば前時代的なメロドラマであったとしても自分たちなりの倫理観を問い詰めつつ覚悟を持って明確な結論を示す時代にあっては、この映画に関して言えばトータルの力量が足りてないように見えました(観察者目線のカメラワーク、映像処理、アングル・レイアウトも監督本人が狙っているだろう以上に実に古典的)。
申し訳ございませんが、時代遅れのスノビズムを感じずにはいられませんでした。
また、「地方山間部」「シングルファザー」「芸能事務所による政府からの補助金目当てのグランピング建設計画」という舞台・題材の比較的安易に感じるセレクトが、あくまで明日の食事に困らないような都市生活者≒ブルジョア目線であり、町長のいう「水は上から下へ」論は、よもや自己言及ならば悪趣味です。悪趣味といえば、父親が娘の帰宅時間を二度も忘れてるのは、あれは意図的でしょう。銃声と前後して思い出すのも意図的。娘をあえて危険な状態に晒している。「悪」も存在しないかもしれませんが同時に親子の「愛」も存在しない、他人と意思疎通も難しいが何故かポーズだけは上手い、まあまあサイコパスな(シカに取り憑かれた?)父親の話といったところでしょう。
普通の物語にはしたくないし、あわよくば映画史に名を残したいという鼻息と姿勢は垣間見せつつ、説明セリフを極力排すが作劇をスムーズに進めるべく、意図的に登場人物はステロタイプ化されているというアンバランスさは、あの懐かしき平成初期にあまたあった自主制作映画を思わせます。
あえてテーマを単純に読み解くならば、「社会道徳」<「個人倫理」<「自然の摂理」ということなのでしょうか。
便利な背景と小道具、雰囲気作りに成り下がっている森の樹木だって生きている。今度は、シカが樹木にヤられる続編でもあるのかな?って、ほら、くだらないでしょう?
しかし、「作劇」としては面白くなる可能性が多々あっただけに非常に残念でした。監督は「作劇」ではなく「芸術」をとったのでしょう。この「芸術」がどういうわけか世界的に認められたわけですから、次回作は思いっきりお金を使って「芸術」が出来るであろう幸運は大変喜ばしいことだとは思います。
この映画に「悪」は存在しないかもしれないが、送り手の「悪趣味」と受け手の「嫌悪感」は確実に存在しました。
最後に大きなお世話だとは思いますが、作品タイトルをストレートに「グランピング建設予定地殺人(未遂)事件」とか「シカに取り憑かれたヒゲ男」とかにすれば、見方も変わるし分かりやすいし宣伝もしやすいしで、良いことづくめだったのでは?