「『オッペンハイマー』でわかった僕がノーラン監督を苦手な理由」オッペンハイマー 宇部道路さんの映画レビュー(感想・評価)
『オッペンハイマー』でわかった僕がノーラン監督を苦手な理由
ようやく観れました!アカデミー賞総なめの話題作、クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』。観たい観たいと、観なきゃ観なきゃと思い続けて、数ヶ月。期待値の高まりが激しすぎたせいかもしれないけれど、結果的には「やっぱり僕はノーラン監督が苦手だな…」と思ってしまった。
米国をはじめ全世界での公開から遅れること半年以上。唯一の被爆国である日本で、「原爆の父」とも呼ばれるオッペンハイマーの伝記映画が公開されること、あるいは公開されないことが大きな議論を巻き起こし、公開以前から話題を呼んでいたこの『オッペンハイマー』。蓋を開けてみれば日本国内でも興行収入は10億円を超え、3週連続で洋画1位を獲得するなどのヒット作となった。
上半期が終了した今日この頃、SNSで見かける「上半期ベスト」なるリストに『オッペンハイマー』が並べられることも少なくなく、そのヒットの背景には興行的な意味合い以外のものもあるのだろうと推察できる。
しかし、だ。
僕はこの作品の良さがまったくわからなかった…。
それは被爆国に住む人間として「広島」「長崎」の扱われ方に違和感や憤りを抱くといったようなものではなくて、シンプルに映画としての面白さ、映画としての表現といった視点で言っても、脆弱な作品に思われてならなかった。
この作品の基本構成としては、「核分裂」と章立てられたオッペンハイマー(キリアン・マーフィー)への尋問(公聴会)のシーンと、「核融合」と章立てられた原子力委員長ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)への公聴会のシーンから成り立っている。
そのうえで、「核分裂」で描かれるオッペンハイマーの回想(供述)として戦前〜戦中の原爆開発の物語がカラーで描かれ、「核融合」で描かれるストローズの回想(供述)として戦後の水爆開発や原子力委員会の活動などがモノクロで描かれる。
ここで最初の疑問が頭にもたげるのだけれど、なぜこのような複雑な構造になったのだろう。
もっともらしい説明としては、時系列でオッペンハイマーの人生を描いていても、それはただの伝記であって(ノーランの目指す)エンタメではないという考え方だ。それはたしかに理解できる。オッペンハイマーという男の物語に、「公聴会」というカタチで舞台装置からして疑惑や疑念を投げかけることで、「原爆の父」という神話的な英雄(プロメテウス)を疑うという姿勢は悪くはないと思う。
※時系列で描いた伝記映画にも傑作は多いのだけれど。
ただそれにしても、本作では時系列がごちゃ混ぜにされすぎていはいないだろうか。それになぜ、より過去の話である「核分裂」がカラーで、新しい「核融合」がモノクロなのかもわからない。こちらもオッペンハイマーの目線か否かとか、もっともらしい説明ができなくはないけれど、そうまでして押し通したい演出なのかは甚だ疑問だ。
例えばではあるが、「オッペンハイマーの解説」「時系列や登場人物の整理」などの記事が多く掲載され人気を呼んでいるのも、この映画が必要以上に複雑であることの証拠ではないか。
そこで僕の頭に浮かぶのが、ノーラン監督らしい「インテリ主義」だ。ノーラン作品の多くが——その際たるものは「TENET」だけど——複雑な構造を読み解いていくことを要求し、その謎解き的な快楽にこそ映画の魅力を見出そうとしているような気がしてならない。
ノーラン監督作品の多くは「構造がわかった」「謎が解けた」というレベルの読後感しか与えないというのが個人的な印象で、だから僕はどうしてもノーランが好きになれない。ノーラン好きの友人たちに総スカンをくらうのだけれど、僕が唯一好きな作品は「ダンケルク」。なぜなら、あの作品には“心”が描かれているような気がするからだ。
そしてこの作品を観たあとに僕が感じたことも、「で、結局なにを伝えたかったんだっけ?」という感想だった。ノーランなりに、オッペンハイマーの苦悩やらストローズの独善やらを描こうとしているのかもしれないけれど、上述の複雑な構成ゆえに心情に寄り添っている余白がそこにない。「悩んでいます」「怒っています」という感情が貼り付けられた映像と演技が構成されていくだけ。少なくとも僕はそんなふうにこの作品を観てしまった。
当然SFやファンタジーに、精緻で奥深い感情表現など必要ではないという考え方もあると思うけれど、本作は「原爆の父」であるオッペンハイマーの物語。それこそ感情や反省を抜きにして「エンタメ」として昇華させてしまうことに、多少なりとも躊躇いは感じて欲しい。
そしてその軽薄さを上塗りするように、演出もまたチープだ。やたらうるさい爆発音や足音で無理やり盛り上げようとする、あるいは緊迫感を出そうとする、力業な音の世界。(前作まではもっと重厚で苦しいちゃんとした音世界だったと思うんですが…)
オッペンハイマーにフラッシュバックする原爆投下のイメージは、「とりあえず明るくしておけばいいだろう」という程度に白々しく光り続ける画面と、あまりにちゃちなケロイドの肌(しかも繰り返されるのはたった1人の女性)、リアルとは程遠い黒焦げになった遺体など、さすがにお粗末ではないかと感じてしまう。あの痛みのないチープなフラッシュバックで、オッペンハイマーが”ちゃんと悩まされている”とは到底思えない。
長々と文句を書いてきてしまったけれど、当然あくまでも僕個人の意見で、『オッペンハイマー』が大好きな人もいるだろうし、ノーラン監督に心酔する人もいるに違いない。それを理解できるほどには屹立していた作品だ。
この映画で僕がいいなと思ったところが1つある。
観賞していると、否が応でも「トリニティ作戦」の成功である種のカタルシスを感じ、映像のなかで歓喜する登場人物たちの胸中がわかるような瞬間がある。でも同時に、その成功が「広島」「長崎」に災禍をもたらし、オッペンハイマーの言葉を借りるなら「世界を滅ぼす」ということを私たちは知っている。
その矛盾した感情、ドラマとして感じさせられるカタルシスと、それを抑制しなければいけないと痛感する現実の理性とがせめぎ合う独特の映画体験がここにはあった。
素晴らしいレビューありがとうございます。この作品に対する違和感がスッキリ言語化されました。
わざとわかりにくくこねくり回して、伏線回収ドヤ!みたいな軽薄さでした。
この作品通しての印象は、淡々と、抑えて抑えて描いてるなぁという物で、ノーラン監督はオッペンハイマーという人物とその時代に興味が有ったから、だけだった様に感じました。