「日本人のDNAには何か引っかかる物を感じる。ゴジラ-1.0山崎貴監督の「アンサーの映画を日本人として作らなくては」に共感!」オッペンハイマー 菊千代さんの映画レビュー(感想・評価)
日本人のDNAには何か引っかかる物を感じる。ゴジラ-1.0山崎貴監督の「アンサーの映画を日本人として作らなくては」に共感!
一つの映像作品としての完成度はとても高いが・・・。ノーラン監督がこの作品で描きたかった事は、広島・長崎に落とされた”原爆”の父「オッペンハイマー」だったのだろうか?
ロードショー公開中の今はおしなべて高評価かもしれないが、これから先、歴史が本当の評価を下すだろう。
複数の時間軸の中、多くの登場人物が絡むので正直初見で全てのテキスト、セリフは理解出来ていない。しかし決して難解な作品という訳では無く、ノーランワールドを十分に堪能出来る作品である。
まずこの作品を観て、“オッペンハイマー”という人物・作品に対して抱く思いは、恐らく日本人とアメリカ人では違うであろうと思う。
と共に日本人として観ておくべき作品であると思う。
この作品で広島・長崎の原爆投下はターニングポイント的な扱いであった(少なくとも広島・長崎がどんな惨状であったかは1mmも触れられてない、ただ原爆が落とされ、多くの人が死んだという報告のみだ)。そうだからかはわからないが、原爆が投下され本国に伝えられたシーンの後、比較的高齢なご夫婦が退席されていた。私は先の戦争を知らない世代だがそのご夫婦の気持ちがいかばかりか、想像に難く無い。
北米配給のユニバーサルも「原爆開発をめぐる科学者同士の裏切りや当局が狙うスパイ追及といったサスペンス映画」と宣伝している様に原爆を使った側と使われた側でこの作品に向き合う前提条件が全く違うという事を忘れてはならない。アカデミー賞を受賞し、興行収入も素晴らしく、ノーラン監督が撮影したから手放しで賞賛できるかと言えば、答えはNOだ。
ただ、ノーラン監督が描きたかった映画「オッペンハイマー」とは?
この作品に答えがあるとも思えない。
同監督の『テネット』では、一度発明したことを戻すことができるのか、という問いかけを行っている、また核の脅威と、それが解き放たれたときの影響について描いていた。
”核”・”オッペンハイマー”・”広島・長崎”・”被曝”ノーラン監督の中にこれらのキーワードが揃ってないはずがない。しかし、この作品の中で唯一語られていないキーワードがある。
それは”被曝”だ
日本人の中には”被曝”という言葉の意味がDNAの中に染みこんでいると思っている。それは、戦争を体験し広島や長崎で被爆していない国民一人一人の中にも、強く忸怩たる思いが根付いているはずだ。しかし、日本人以外の人々の中にどれほど”被爆”という言葉の意味がわかっているのだろうか?
ノーラン監督へのインタビューの中で<10代の息子にこの作品について初めて話したとき「若者は核兵器に関心がないし、脅威だと思っていない。気候変動の方がもっと大きな懸念だと思う」と言われ、それがとても衝撃的だった>と語っている。それは、決して若いものだけが抱いている原爆や核へのイメージというわけではない。実際アメリカをはじめ多くの人々は”核”は必要悪と肯定的に考えてる人は少なくない、実際オッペンハイマー北米公開時、バービーときのこ雲をかけ合わせる類の画像が一般ユーザーらによっていくつも作成されて日本では波紋を呼んでいたが、そんなイメージを安易に描いてしまうという「現実」が日本人には理解できていないというだけだ。そんな、日本人からは理解できない現実がある中で”被爆”の惨状を伝えたとしても本質的な事を伝える事は難しい。
この作品で”被爆”の惨状についての描写は無い。
ただ、この作品が公開されるにあたり、初めて知ったことがあった。
それは、トリニティ計画でプルトニウム型原爆の実験が行われたトリニティ・サイトの事だ。
トリニティ計画のあと10日間に放射性物資は全米46州やカナダ、メキシコにも拡散、被爆者がいたという、米国民にとっても、史上初の被爆者が広島の収容所にいた米兵捕虜ではなく、本土の米国人だったという「事実」を殆どの米国民は知らないそうだ。
ある意味日本人である私にも衝撃でもあった、唯一の被爆国”日本”、しかし被爆者が日本人だけで無い事は知っていたが北米における被爆者の事は全くと言っていいほど知らなかったからだ。
この作品が公開されるにあたり、賛否両論色々な意見が別れている。広島にある中国新聞の記事では<「広島と長崎やトリニティ・サイトを見せないのは、米国の観客に「加害者」としての罪悪感を持たせない意図でもあったろう>と論評しているが、被爆の実相を描かなかった事で、日本人としてあまり馴染みが無かった米国民が最初の被爆者であったという事実が浮き彫りになったと考えると、この作品が制作されたことにより多くの事を知る機会を得た事は意味がある。
この作品からよくわかった事は、オッペンハイマーが、原爆という「パンドラの箱」がどれほどの影響を人類に与えるかわかっていた事、そしてその事がわかっていながら科学者としての探求(欲求)に抗えなかった事。そして、実際に使用された後被爆の実相から目を背けた事。
この作品はオッペンハイマーの人生を中心に描いているので原爆が投下された事から目を背けた通りに描かれているのかもしれないが、ノーラン監督も核の脅威を描きたいと思っていたのなら、実相を描く必要はあったのでは無いかと思う。少なくとも米国民にも被爆者が居たという事実。そこさえも描かない事は共感ができない。
NHKのインタビューで「原爆の被害がなぜ描かれていないのか?」との質問にノーラン監督は「映画をどう観て欲しいか明言したく無い」と回答を拒否している。
また、映画チャンネルの荻野洋一氏の記事に興味深い内容があったので引用させていただく
<『ヒロシマ、モナムール(公開当時の邦題:二十四時間の情事)』(1959)という、アラン・レネ監督が戦後の広島でロケーションした著名な映画があるけれども、その映画の中で、原爆についての映画に出演するために広島に滞在中の女優(エマニュエル・リヴァ)が「広島で、私はすべてを見たわ」と言うと、彼女とつかのまの恋に落ちている広島在住の男(岡田英次)が「広島で、君は何も見なかった」と応答するあまりにも有名なセリフがある(脚本はマルグリット・デュラス)。
『オッペンハイマー』の恣意的な画面連鎖を眺めながら、筆者はオッペンハイマー本人と空想上の会話を交わした。
オッペンハイマー氏「ロス・アラモスで私はすべてを見た」
筆者「いいえ、ロス・アラモスであなたは何も見ませんでした」
彼がしたことの重大さに比べれば、戦後の冷戦下で彼が赤狩りで追及を受け、スパイの烙印を押されるかどうかなど、私たち日本観客の知ったことではないし、付き合う義務もない。
赤狩りで活動停止に追い込まれたあげくに39歳で命を落としたスター俳優ジョン・ガーフィールドの短い生涯を描いたよと言われたならば、私たちは固唾を飲んでブラックリストに載った彼の悲劇的な行末を見つめることだろう。原爆の罪深さと、赤狩りで失脚する学者の内面の苦悩とが、等量の重要性をもって描かれるという操作に、筆者は言いようのない冷酷さを見ている。>
日本人としての一つの回答だ。
劇中オッペンハイマーがヒンドゥー教の経典を引用し「我は死なり、世界の破壊者なり」だったかそんな言葉を語る、死神とは果たしてオッペンハイマーなのだろうか?
いや違う、本当の死神は人類そのものでオッペンハイマーはただパンドラの箱を開けただけにすぎないのかもしれない。今までは、核を作った人間、使った人間、使う事を決めた人間を悪だと思っていたが。この作品を観てからは人類そのものに大きな責任があり、自分も決して無関係では無いのだと改めて深く考えさせられるに至った。
ノーラン監督が描きたかったもの、その答えは監督の中にも無かったのかもしれない。
ただ少なくとも、この映画を体験する事で多くの人々に”原爆”・”核”というものに関心が集まった意義は大きい。
そして。
現代新たな「パンドラの箱」になるのでは無いかと危惧するものがある、それはAIだ。昔「アイロボット」という作品を観たが、AIは核をも上回る脅威となりうると思っている。なぜなら、人類の頭脳がAIの頭脳に勝る処理能力があるとは思えない事、そしてAIには致命的な”感情”というものが無い事からだ。
最後になるが、この作品公開の年にゴジラ-1.0が公開された事、たまたまではあるが何か因縁めいたものを感じる。そして、山崎貴監督がオッペンハイマーを観て「アンサーの映画を日本人として作らなくては」という一言に物凄い共感するものを感じてしまった。
是非!アンサー作品を作って頂きたい!