「エンディングの暗転したスクリーン。その向こうに私たちが見出すもの・・・」オッペンハイマー みなとのジジイさんの映画レビュー(感想・評価)
エンディングの暗転したスクリーン。その向こうに私たちが見出すもの・・・
この映画は、カラーで描かれるパートとモノクロで描かれるパートで構成されます。
どちらのパートも、オッペンハイマーにかけられた国家の安全保障政策(水爆開発)や国家機密に対する彼の思想・行動の危険性という嫌疑を審理する、その「裁き」のプロセスを描いています。
Fission「核分裂」(→原爆を象徴する言葉)というタイトルがついたカラーパートは、嫌疑をかけられたオッペンハイマー自身の申し立てを、彼の言葉によれば「彼の今までの人生全体を時系列的に」述べることで審理委員たち、そして私たち映画の観客に伝えようとするのですが、ノーラン監督は、そこにオッペンハイマーの心象風景、彼が幻視した核の脅威のイメージも含めながら映像化しています。それは確かにこの映画を見る私たちには訴えるものがあるのですが、一方、オッペンハイマーが申し開きする審理委員たちに彼の心の中のイメージまでは決して伝わらず、審理の場での彼の孤立感がますます深まっていく様子が描かれます。
一方のモノクロパートにはFusion「核融合」(→水爆を象徴)というタイトルがついて、嫌疑をかけた側、その中心人物ストローズという男の証言をメインに構成したもの。しかもこのモノクロパート、オッペンハイマーを裁いたいわゆる「オッペンハイマー事件」の数年後、彼に嫌疑をかけたストローズ自身のホワイトハウス高官就任の是非を問う聴聞会での、ストローズの証言、国家への危険人物と見なされたオッペンハイマーとストローズの関りについての彼の証言、という形で構成されています。
オッペンハイマーが裁かれるプロセスと、その数年後に彼を裁きにかけたストローズも審理にかけられるプロセスを、交互に構成しながら二人それぞれが迎える審判に向けてストーリーは展開するのですが、映画では冒頭近く、このストローズという人物の動機、彼とオッペンハイマーとの間の確執のきっかけが、二人の出会いのシーンにさりげなく描かれます。(原作にはないノーラン監督オリジナルの脚色ですが、ちょっと向田邦子を思わせるピリピリした味わいがありました。)
プリンストン高等研究所の所長に推挙されたオッペンハイマーと、彼を推挙したストローズの出会いのシーン。commuteという言葉を「通勤の便」という実務的な意味で使うストローズと、そこに「重荷の軽減」或いは「重い刑からの減刑」という意味をかけているオッペンハイマーの気持ちのずれ。ストローズの前職shoe salesmanをlowly「卑しい」と形容してしまう名門出のオッペンハイマーとjust「まっとうな」とみなすたたき上げのストローズとの間の微かな緊張感。そして、オッペンハイマーとアインシュタインという知の巨人二人の会話を遠くから遠望するストローズ。彼はその会話の中身を知りえないまま、それを自分への中傷と思い込み・・・
出会いの時の気持ちのずれ、思い込み、小さな反感・・・それを疑念や憎悪、そして復讐心へと募らせていくストローズ。
そんなストローズに仕組まれた裁判は、オッペンハイマーの人格と業績を卑しめるための意趣返しに変質し、ただの茶番のような様相を帯びてくる。
過去の交友関係をほじくり返し、その不倫現場を再現し、ささいな虚言をあげへつらう、そんな展開が延々と続くカラー、モノクロそれぞれの裁判シーン。そこには真実が暴かれる高揚感・スリルのようなものは感じられず、むしろ何とも言えないやるせない感じ、彼らは何を裁いているのだろうという思いが募ってきます。
本質的にそこで審理されるべきは、「人類はいかにして核に向き合うべきか」という、今や人類全体の生存に関わる課題、水爆は必要なのか否か、という問題であるはずだった。オッペンハイマーはその課題を敵も味方もないオープンな場で議論することの必要性を唱え、機密という殻で真の脅威を秘匿することの危険性を訴えただけ。それが、いつしかその主張は敵国へのスパイ容疑、国家の安全保障への裏切りにすり替えられ、過去の思想傾向や、不倫、ささいな虚言に結び付けられながら彼の人格、個人的な欠陥の裁きに矮小化されてしまう・・・
この茶番のような裁き、審判の結果が、今なお世界に覆いかぶさる「核の影」なのか、という暗然とした思いに囚われるけど、それこそがノーラン監督が意図したことでしょう。
そして、そのような裁判が行われた時代の国民の姿、感情を直接的に描かずに、ストーリーは密室の裁判劇、或いは砂漠の研究所での秘密の開発ドラマとして進められる、そこにもノーラン監督のある種の意図が感じられました。
直接的ではないけれど、じわじわと不気味に浮かび上がってくる感じ・・・
日本への原爆投下を研究所メンバーたちが無邪気に喜ぶシーン。そしてトルーマン大統領の登場シーン。
G・オールドマンがチョイ役ながら印象的に演じるトルーマン大統領。歴史においては、彼こそ影の主人公・ラスボスのように思います。
「私の手は血塗られている」とつぶやくオッペンハイマーに「広島の人々に呪われるべきは、原爆投下を決めた私だ。君が背負うことではない」と諭したトルーマンの言葉には、何億という国民の命(それはあくまで自国の民だけど)を背負う政治家としての矜持、重みが伺えます。(トルーマンはこの会見後、「彼の手は私の半分も血塗られていないよ」と言い捨てたとか) 核の時代の真の脅威を理解しない凡庸な大統領が原爆投下を決定し、朝鮮戦争の戦火を開き、民主党大統領でありながら「赤狩り」を黙認し・・・それでも国民は1948年の大統領選で彼を再選するのです。そして、今なお多くのアメリカ国民が原爆投下は戦争早期終結のため必要だったと信じるに至った、その端となったのもトルーマンの言葉。
ロスアラモスの集会所で、足を踏み鳴らしながらオッペンハイマーを英雄として迎えようと集まる研究所職員たちの姿に、或いはトルーマンという大統領を支持した国民の声なき声に、民衆は歴史の被害者だけではない、時に加害者となりうることを描こうとするノーラン監督の意図を感じました。ふと、映画キャバレーのtomorrow belongs to meのシーンを見たときの印象もよみがえる・・・。(このロスアラモスの職員たちが踏み鳴らす足音は、世界の破滅への足音としてオッペンハイマーが幻聴する足音として劇中何度も現れます。)
この映画は、オッペンハイマーという人物やオッペンハイマー事件について既に多くを知っている人には、不満の残る部分があると思います。広島・長崎の惨状描写や、それへのオッペンハイマーの悔恨感情の描き方が甘いという指摘は確かにあるかもしれない。ただ、彼の悔恨は、広島・長崎へのそれ以上に、それが切り開いた核に支配された未来、それがもたらすかもしれない世界の壊滅への恐れであり悔恨であった。同時代、もう一人の「パンドラの箱」を開けた科学者・ウェルナー・フォン・ブラウン(彼は後にアポロ計画のリーダーとしての栄光を手に入れる・・・)の手になるV2ロケット、それはやがてICBMとして無数に空に向けて放たれる・・・彼が見たそんな未来への悔恨が原爆後の彼を突き動かしていたことに重点を置いたノーラン監督の意図は十分に理解できました。むしろ私自身は、オッペンハイマーの行動の支えとなったニールス・ボーアの思想、「the Open World」(開かれた世界)という言葉に集約されるボーアの哲学をもう少し掘り下げてほしかった。映画では一度も使われなかったこのOpen Worldという言葉に、個人的には核の問題だけではなく、今の世の中の様々な断絶、分断へ対峙する時に最も求められる姿勢を表しているように思うだけに、そこだけは少し不満が残ったかな・・・。
それでも私は、オッペンハイマーという人物、安易な感情移入を拒む複雑で矛盾に満ちた人物がたどった運命をあえて今この時代に描くこの映画の意義はとても重いと思います。何年か前、スミソニアン博物館での原爆展に異を唱えた人々、原爆投下は戦争の早期終結に有効だったと信じる人々、或いはオッペンハイマーという人物なんて知らなかったという人たちが、改めて今世界にかぶさる「核の影」、「世界終末時計」90秒前という世界、様々な国の元首が他国との交渉の手札に核兵器をちらつかせる、そんな世界の今に目を向けること・・・茶番の裁判で審理されることのなかった「人類はいかにして核に向き合うべきか」という課題に、何らかの思い・感情・或いは明確な意思を抱くそのきっかけとなること・・・それを私たちに促す力を、ノーラン監督のシナリオと映像は、そしてキリアン・マーフィーをはじめとする俳優の演技は十分持っていると思いました。
この映画のエンディングのシーン、茶番の裁判劇にストローズを駆り立てるきっかけとなったオッペンハイマーとアインシュタインの会話の秘密が明かされます。その後、世界終末を幻視したオッペンハイマーが耐えかねるように目を閉じる・・・
そして画面は暗転。真っ暗になったスクリーンは、その先にあなたは何を見出すのかというノーラン監督の問いかけだと思うのです・・・