夢みる校長先生のレビュー・感想・評価
全11件を表示
こんな学校だったら愉しくってしょうがないよね!
オオタヴィンさんは自分の作品を「ポエタリー・ドキュメンタリー」呼びます。ドキュメンタリ映画なんだけどちょっと詩的な語り口だからとのこと。うん、確かに!と思ったりもする。
「いただきます1 みそをつくるこどもたち」「いただきます2 ここは、発酵の楽園」「夢みる小学校」に続いての本作品。オオタさんの作品に登場するこどもたちはとにかく元気で目がキラッキラと輝いているし、関わる大人たちはいつも精一杯に子どもたちと向き合っています。
本作品の校長先生たちの本気度が凄いです。生徒たちがこれから何が有っても生き抜いていける力をつけるために必要なものは何か?何が子供たちにとってベストなのか?生徒たちが自主的に考え行動できるように教師たちは生徒を信頼し伴走しています。
校長は大統領のようなものであらゆる権限を持っているので、どんなにでも今あるものを変えて行くことは出来ると力強く話されています。そうなんだ、校則も制服も宿題も通知表も・・絶対に必要なものでは無いと聞いて驚きました。
年々学校に行くことを拒否している子どもたちが増えている。これこそ多くの学校が教師が病んでいる証拠なのでは?先生たちも心を病んで休職している数も増えていますよね。映画に出てきた生徒たちの中から、このすばらしい教育を受け継いだ教育者になって現場に返ってきてくれたらと思いました。すぐには変わらないだろけれど少しだけ明るい気持ちにもなります。
このような取り組みをしている学校は全国の学校数からすれば、極々わずかでゼロに等しいとは思うけれど、無いわけではない。少しずつで良いので拡がって行ってくれることを願います。そして教育関係者の皆さんには一人でも多くの方に観ていただきたい作品です。
「心は形を求め、形は心を進める」の意味の逆転
校長室を無くしたという校長先生の背後に映り込んだ「心は形を求め、形は心を進める」という張り紙。映り込んだのは一瞬だったが、長い間教育現場で、子ども達に型を教え込み、徹底させる指導の免罪符のように使われてきたこの言葉が、子どもファーストのために無くなった校長室の中に貼られていると、まるで正反対の意味を伝えてくることに気づき、感動を覚えた。
チャイムがないことも、宿題がないことも、それ自体に意味があるわけではない。チャイムがなくたって、旧態依然とした指導が続けられていたら、「時計を見ながら、自ら気づいて教師の期待通りに行動する」という真逆の力こそ身についても、「自分の“好き”や“楽しい"や“なぜ”を、時を忘れてとことん追求する」という力は身につかない。教師が自分のさせたいことを、子ども自らが行うように巧みに仕向けた結果の子どものそれは、自主性であっても主体性ではない。それでは知らず知らずのうちに、子ども達を戦争に送り込む手助けをしていたという戦前の教育のようになりかねない。
大切なのは、教師が徹底して子ども達を信じ、子ども達が主体的に学べるためにはどうするのか考えて、より学べるようにしていくこと。同時に、子ども達が見せる追求の姿の中に、学びを見いだし、価値づけられる力量を教師自身がつけていくこと。そのためには、教師自らが問いを持って学び続けること。
映画に登場した先生方に共通していたのは、その点だったと思う。
どうしても自分の過去の体験がベースになり、そこから中々抜け出せないのが人間の性。価値観を変えるきっかけとして、校長のみならず、学校に関わる全ての人に勧めたい。
こんな校長イイな〜とおねだりするんじゃなく
夢みる校長先生
公立の小学校・中学校でなんとも個性的な学校づくりができるのは驚き。
先ず冒頭に登場する長野県伊那市伊那小学校は60年前から時間割・成績表のない総合学習をずっと続けている。
山羊の世話をしながら、そこに学習課題を融合させる工夫もお見事❗️ 個々それぞれ自分のやりたいことをするのだが、自然や生き物…それを見守る教師で、自己中心的ではなく思いやりを育む。
自然の中で野放しではない、けっして違う。
自主性マジックで誤魔化してない。
こども達の生き生きした顔になんでだろうか涙が出て😢くる。何かを浄化する涙か?
成績表廃止・宿題廃止や自主性を大事にする学校・校長がテンポ良く紹介される。
差し込まれる元文部科学省事務次官の前川喜平氏の言葉にホントにこんな人が文科省にいたということに妖精を見たような気持ち、じゃあなんでこれほど、魅力のない学校が多いのかと気の遠くなる思い。
尾木ママこと尾木直樹氏も出演だが、校長は男性ばかり裁量をふるうのに女性はガラスの壁があるのだろうか?
校長の裁量で主体的に存在できた学校でのこどもの姿があるが、ここに行き着くまでには地域との話し合い、そして改革するために手を抜かない校長と教師があったのだろう。
こども騙しではないエンパワメント。実はここに鍵がある…と思う。
後半に差し込まれた戦時中の映像、言葉の裏にあるものを考えなさいと、サラッと言う世田谷区立桜ヶ丘中学校校長。大人の責任を持つ姿勢に感心。生命力の映画でした。
ナレーション、キョンキョンの声が優しくて映画に柔らかい色彩
刈谷日劇ありがとう。
#夢みる校長先生
#刈谷日劇
#オオタヴィン監督
#小泉今日子
校長先生の取り組みは好感するが?
小学校、中学校公立の校長先生の学校を変えるための努力を熱心に取り組んでいる姿に
好感を持った。子どもたちもイキイキしていて楽しそう。いいドキュメントを観た。
ただ、今年僕たちの哲学教室を観てしまうと若干の物足りなさも感じる。パンフレットなしもマイナス。
校則ゼロの中学校に一番驚いた
60年前から通知表や時間割のない総合学習を続けている長野県伊那市立伊那小学校、
2020年度の通知表を廃止した神奈川県茅ヶ崎市立香川小学校、
校則をゼロにした東京都世田谷区立桜丘中学校、
宿題を廃止した東京都武蔵野市立境南小学校、
コロナ禍の2020年、21年にマスクを科学的根拠がないと強制せず、修学旅行を含む学校行事を全て行った日光市立足尾中学校、
校長室を無くした児童に横浜市立日枝小学校、
など6校の校長が登場し、夢を語り、それに対し、元文部科学省事務次官の前川喜平、教育評論家の尾木直樹らも交えてインタビューをおこなったドキュメンタリー。
通知表廃止は聞いたことが有ったが、60年も前から続けている小学校がある事に驚いた。校則ゼロの中学校など、生徒がすごく生き生きしている様子もすごく印象的だった。
校長ってその気になれば学校内のルールはほとんど決めることが可能なんだということも今回知れた。
小泉今日子のナレーションも良かった。
本作は公開されてる劇場が多くないようだが、小中学校に通う子供、これから小学校へ入る子供、を持つ親にはぜひ観て欲しい作品だと思う。
こんな先生がここにいるよ!
あ〜よかった!
こんなキラキラした目をした先生がまだ、いるんだ。
現場の先生が変われる学校が、まだあるんだ。
しょっぱなから涙出てきた。
日々、◯◯みたいな教師しかおらん。
生徒を札束として見てないんちゃうか?
みたいな管理職しかいない現場にいるもんで。
現場の先生が疲弊するのは校長のせい。あ、違うか。
校長が機嫌良ければ、うまくいくだわ。
ホントそう。「校長試験に、機嫌よくできますか?」マジ、それな。
校長の圧、強すぎて現場がピリついてるし。
この学校で、怒声なんてないんだろな。もう、小学生相手にガラスが響くほどの怒声、聞きたない(泣)
公立でこれだけのことができるのに、私立はどうなん?
学校説明会では、「自由な学校。自己決定。世界を変えられる生徒を輩出」みたいなこと言ってるけどね。
全教員に見てほしい。
大人が夢を実現する姿を見せてナンボじゃないか。
長のつく人が、腹を括れなくて、何が教育だ。
そんな過激な言葉を言わずとも、笑顔で優しく寛容に、大事なことを教えてくれる素敵な映画でした。
夢をもって教師になった若い先生方、ここにお手本がいたよ。
捨てたもんじゃない。
さて、自分は何をしたらいいかな?
もう、うんざりして教育現場やめちゃおうかなと思ってた矢先。
う〜ん、踏ん張るか。
すべての責任を取る行動が小さく社会を変える
総合学習時間が多く取られている学校(教科書がない)、校則がない学校、宿題がない学校、校長室がない学校、通知表がない学校、コロナで子どもたちの楽しみとなる行事を守った様々な校長先生を取材したドキュメンタリー。様々な取り組みをしているが、彼らに共通していることは子どもたちに向き合い、責任を取る覚悟で改革を行っています。なぜ教師になったのか、若い時の夢はいつか忘れてしまいます。なぜなら、社会がそうさせています。正しい法律を学ぶことは自分を守り、他人を守り幸せにすることができます。知識を正しく知るうえで、夢を実現するための柔軟な発想がとても大切です。子どもの笑顔やなぜという質問、発想力は私たち大人が学ぶべきところであり、子ども心を忘れてもなりません。
しかし、いいことを伝えている映画と思っていても、子どもたちの為に夢をみながら今日から行動する勇気はありますか?
行政法の観点からは問題が山積していて何らの問題提起もされていない…。
今年274本目(合計924本目/今月(2023年8月度)13本目)。
(参考)前期214本目(合計865本目/今月(2023年6月度まで))。
去年の「夢見る小学校」の続編というかスピンオフ作品で、これに合わせて大阪市内でもこちら前作を放映する動きもあります。
内容的に映画というよりドキュメンタリーというか取材映画に近く、「映画館で流すものなのか」というのも謎ですが、かといって美術館でやるような内容でもないですし、「映像作品」という観点でいえばどうしても映画館、それもコアなミニシアターということになるかと思います。
趣旨としては賛同できる点は多々あるものの、その背景にある「子供の学習権」や、もっというと、「子供の小学校の選択権が存在しない」という教育行政が現状存在することまで考えると、このような取り組みを否定はしないものの、「(観念的な)有利不利の格差」が生じることについての何らの指摘もないのが痛いです。
------------------------------------------------------
(減点1.0) 越境入学といった論点についての考察が雑か全くなく何を述べたいか法律系資格持ちに意味不明、ないし、激怒させる枠
6歳ころになると、教育委員会から「あなたのお子さんは何とか小学校に入ってください」というのが来ます。基本的に住所で機械的に決められます。それ以外の学校に通うことは通常できません(近い未来に引っ越しの予定がある、実際に入学したがいじめの事実が客観的に認められる等の個別事情は個別に判断されます)。そして、これは「行政」による、つまり、市立(いちりつ)による公教育のお話です。
そうであれば、いわゆる越境入学が禁止されている現状、一方で映画内での描写通り、小中の教育の最終決定権は(ある程度の制約は受けても=旭川学テ事件)校長にあるところ、「一般的な」市立の公立の小学校はおよそもってこんなことになっていないため、越境入学を認めない現状においては、有利不利が生じることについて何らの考察もない、つまり、「そういう運営をするのは自由だが、そのような学校に入れる子と入れない子がいることの格差の問題」について触れていないのは、どうなのか(換言すれば、そういった学校があるということを事前にしったうえで、事前に住民票を移して学校を「逆選択する」ということは、現在の行政による初等教育ではまるでもって想定されていない)というところです。
こういった点があるので、「校則が最低限」とか「自由な時間が多い」というのは当事者にとってはうれしいことでしょうが、一般的に学校への通学は住所によって機械的に割り振っている部分があり(この点は、こうした極端な偏りの排除も一つ論点にある)、そのような学校運営をするのは自由ですが、選択されなかった側にはたまったところではないところ、その取消し(指定のお知らせの取消し)を求める行政訴訟はまるでもって想定されていないところであり(なお、地裁から最高裁まで6年間たってしまうと卒業してしまうので、原告の「訴えの利益なし」で却下となるものと思われます。似たような判例はあります)、結局、「教育行政をおもちゃにするな」の一言に全部尽きてしまうところがあります。
※ ただまた一方で、例えば「通常の」小学校で給食費として充てられているものに対して社会通念を超えて高いものが毎日出されている、「ニンテンドースイッチで遊びたい放題」など、「明らかに支離滅裂が過ぎる」場合、平等権も問題になるような気がして、この映画が述べる「校長の裁量権による遊びの時間の拡大、いわゆる成績表をあまり厳しく管理しない」といった「中間的な部分」と言わざるを得ない今回のこの話について、こうしたことまで踏み込んで訴訟を起こしても、あるいは起こされても、どうにもやりにくいです(給食費が豪華すぎるといったような、金銭的に価値が比較できるものと異なるため)。
※ つまり、こういう「緩い教育」を否定するのではないが、越境入学を認めない建前においては、「そういう緩い教育」を市立(いちりつ)で行うのなら、すべての学校において「そうしないと」平等性の観点でやや問題になりうる(ただ、この映画におけるこの「平等」が何をもって「平等」なのかは、上記の通り概念の観念がしにくい)という特殊な論点があり、「住所をうつしてでも通う」といった潜脱的手段まで認めるのかといった面倒な問題も入ってくるため、(教育行政)の観点では何をしたいのかわからないにつきます(そのような潜脱的手段が横行すると、戸籍行政や税務行政も混乱を招きます)。
※ なお、地域によって機械的に小学校の指定がされるのは、偏りを防ぐこと以外に、小中学校の教師の質に極端な差がでないようにする(機械的に割り振れば、どんな子も平均的に入ってくるため)という「教師の質を向上させる」という意味での運用でもあり、その観点からも、「じゃどうしろというのか」というのかが謎です(市立学校の教員が、特定の学校に配属されるとは限らないし、希望を出すこと程度はできても最終的には行政が決めること)。
---------------------------------------
(参考/私立小学(わたくしりつ)ならどうか)
私学の場合、私学の学校もあり、法の趣旨をちゃんとまもって、公立の小中高と変わらない教育をするなら、実質的にどちらを選んでも同じだし、私学は日本においては「教育行政による予算の限界からくる学校の設置の限界に対し、私学の運営者に法を満たす限り私学助成等が行われている」のは確かです(私学助成の合憲性の論点除く)。
その意味では、私学においてはいわゆる「ミッション系」「仏教系」といったように宗教系の学校があることは周知の事実で、この映画のように「教育に関して校長がゆるやかな感じで、法の満たす範囲でかなり緩やかに運営する」学校も実際にあります。ただ、それは少なくとも中学以降の話であり、小学入試でそのような選抜を大規模に行うことを教育行政は想定していないものと思われます(競争倍率が無茶苦茶になり教育現場が混乱したり、通常ありえない「小学浪人」(浪人生というより、過年度生というのに近い?)がおよそ想定されていないといった事情もあり、これも「私学がやっても困るかなぁ」案件です(ただ、法の満たす範囲でやる、と言われたら、行政側に私学の許認可の行政裁量の余地は少ない)。
※ 日本では、「教育を受けさせる義務」であり「教育を受ける義務」ではなく、学校に行かせず親が教授しても「教育を受けさせる義務を果たしたことにはならない」というのが最高裁判例ですが、この点での検挙例はまるで存在しない(換言すれば、検挙して無理やり小学校なり中学校なりにつれていくという、直接強制的なやり方は、人権侵害にあたる)のも事実だったりします(判例はあるがまるで機能していない)。
オレってイケてる!
こうしなきゃいけない。
これをやらなきゃいけない。
自分で選択する機会なく、義務教育を過ごしてきたから、そうじゃなかったんだ……って分かって、驚愕した。
そもそも義務教育って、義務教育だから学校行かなきゃ行けないんだ……って思ってたけど、そうじゃなくて、無料で学校行けて、教育を受けることができるんだよってことだって知ったのは、ホントつい最近のこと。
自分がやりたいこと、したいことを実現できる学校なんて最高!!
学校の先生!!みんな校長になって、自分らしさを活かせる学校作って!!……と思った。
舞台挨拶で、生の夢見る校長先生たちを前にして、ときめいた一日でした。
ちょっと見てみようかな、くらいだったのに、 (映画というより)ドキ...
ちょっと見てみようかな、くらいだったのに、
(映画というより)ドキュメントとして素晴らしい
愛がたくさん詰まった作品
そこかしこに信頼と優しさが溢れていて、
予想外に何度も涙してしまった
私の琴線に触れていたらしい
全11件を表示