「効果なき“やってる感”で衰え沈んでいく国」国葬の日 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
効果なき“やってる感”で衰え沈んでいく国
故・大島渚監督の次男であり、日本の政治家や選挙を題材にしたドキュメンタリー映画「なぜ君は総理大臣になれないのか」「香川1区」で知られる大島新監督。資料によると、「国葬の日の3日前の9月24日、突然『全国10か所で撮影する。9月27日の1日を撮影した映像だけで映画を作る』というアイディアが浮かんだ」という。東京・下関・京都・福島・沖縄・札幌・奈良・広島・静岡・長崎の10都市で、それぞれの撮影班が地元の人々にカメラとマイクを向け、安倍晋三元首相の国葬についての思いなどを聞こうとする。
プロが撮った映像は当然ながら鮮明だ。だが、映画としてのピントがずっとぼやけているようなもどかしさ。その理由は徐々に見えてくる。「国葬の日」は、安倍元首相の人物像や政治家としての功罪、奈良で起きた銃撃事件、事件の背景にあった旧統一教会問題、国葬が決定された経緯といったトピックを説明したり論評したりすることはない。取材に応じて話をするのは、一部を除いて一般人で、私たち観客と何ら変わらない。自分に置き換えて考えてほしいのだが、街中を歩いていたり公園で過ごしていたりする時に突然、見知らぬ撮影班から「ドキュメンタリー映画を撮影しているので、安倍元首相の国葬について何か話してほしい」と頼まれ、準備もなしに自分の意見を理路整然と簡潔に語れる人がどれほどいるだろう。仕事柄人前でよく話す機会がある人なら別だろうが、急にカメラを向けられそう尋ねられても、思うことの半分も言語化できない人が(私も含め)大半ではないか。果たして、本作の中で取材に応じた人たちも、賛成や反対は口にするものの、特段ユニークな理由を語るわけでもなく、テレビや新聞で見聞きしたような意見の受け売りに聞こえる部分も少なくない。
一部を除いて、と書いたが、沖縄と東京では事情が少々異なる。沖縄の辺野古では、新基地建設に抵抗する座り込みをしつつ「国葬反対!」と訴える人々を取材している。東京では、やはり国葬反対の集会を取材しているほか、この日渋谷で開催された「REVOLUTION+1」(安倍元首相を銃撃した山上徹也被告をモデルにした劇映画)のトークショー付き上映会を取材し、足立正生監督のコメントも収めている。安倍元首相や国葬について、専門家や活動家の意見が聞けるのはこれらのごくごく短い尺だけ。
沖縄の米軍基地の問題も、東電福島原発事故の問題も、安倍元首相ひとりに限らない長年の自民党政権と深く関係する難題だ。しかし「国葬の日」は、そういった背景をナレーションや文字情報等で補足することもない。それらを基礎知識、一般常識として分かっている層だけが観てくれたらいい、というスタンスなのか。いま関心のない層にこそ興味を持ってもらい、将来の投票などの行動につなげて、社会を変えなければならないはずなのに。
沖縄のカフェの店主が、「国葬に反対!っていっている人たちも、一週間くらいしたら、今までの生活に戻っていくと思う。その繰り返し」と語った言葉が痛烈だ。安倍元首相は「“やってる感”だけの政治家」とも揶揄されたが、反対運動もまた、効果がない(決定を覆すことはできない)ことを知りながら“やってる感”のためにする行動なのか。
店主の言葉は、「国葬の日」そのものにも投げかけられたように聞こえる。安倍元首相の国葬をめぐる国民の分断、あるいは分断にさえ至らない無関心を記録することに徹した本作は、そんなこの国を憂いている振りだけにも見える。問題を認識していながら、本気でこの国を変えるつもりはないのではないか。自民党政権を支持する人も支持しない人も、効果のない“やってる感”でやり過ごし、さまざまな難題を先送りにしたまま国もろとも衰え沈んでいくのだとしたら、後世から見てあの国葬は日本という国の生前葬だったと言われるかもしれない。
今月は「福田村事件」と「熊は、いない」という、権力と個人という観点で観客に深く考えさせる力作が公開されたこともあり、相対的に厳しいレビューになった。とはいえ、大島新監督は今の日本で政治を題材に商業映画を実現できるブランドとクリエイターパワーを備えた貴重な存在なのは間違いない。次回は、やはり日本の政治を題材にしたドキュメンタリー(「パンケーキを毒見する」「妖怪の孫」)で奮闘する製作会社スターサンズあたりと組んで、じっくり企画を練り、確かなインパクトをもたらす力作をぜひお願いしたい。