映画レビュー
もしかして、ベルイマン的映画か?
前作でレイプ被害に遭い、犯人たちを殺害したジェニファー・ヒルズ(カミール・キートン)は、その顛末をドキュメンタリー小説として発表し、名声を博していた。
事件から20数年。
事件後に産まれた娘・クリスティ(ジェイミー・バーナデット)はトップモデルとして雑誌の表紙などを賑わしていた。
ある日、事件近郊の街での講演会後、ジェニファーとクリスティは久々の再会を果たしたが、その直後、女性一人を含む3人の暴漢に拉致されてしまう。
主犯格の女性は、かつてジェニファーを襲った犯人のひとり、スティルマンの妻ジャッキー(マリア・オルセン)で、そのほか2人の男たちもジェニファーを襲った犯人たちの関係者だった。
かれらはジェニファーへの復讐を誓っており、クリスティは巻き添えを食った形だった・・・
といったところからはじまる物語で、冒頭、今回の主犯格ジャッキーが、ジェニファーが出演しているラジオ番組を聴いているところからはじまるのだが、その番組は宗教がらみの番組で、MCの牧師がジェニファーにインタビューするという形式。
この時点で気づくべきなのだけれど、本作では、キリスト教的救いと赦しに対する懐疑のようなものが通底しており、いわゆる娯楽作の枠組みを逸脱している。
娯楽作品からの逸脱は、その尺からも窺い知ることができ、「レイプ・リベンジもの」という枠組みの映画にしては、148分の尺は長すぎる。
これは随所に盛り込まれたキリスト教への言及のみならず、犯人たちが交わす長々とした会話によるところが大きい。
会話に盛り込まれているのは「田舎vs.都会」、それぞれの住民が相手に抱いている悪感情で、それが娯楽作としての映画を超えてにじみ出てきている。
その悪感情は、言い換えれば「怒り」で、登場人物たちが台詞を交わす度に、観ている方としては不快感・嫌悪感が増してくる。
そういう意味で、脚本・監督のメイル・ザルチは、観客を喜ばせよう楽しませようとはしていない。
また、キリスト教的救いと赦しに対する懐疑は、前半の見せ場、ジェニファーの死のシーンに端的であるが、復讐者たちの拉致から一旦は逃げ延びたジェニファーが辿り着くのは広々とした墓地のある教会で、正面扉の前で助けの声をあげるジェニファーに対して、中の牧師はパイプオルガンを弾いていて気づかない、となっている。
このエピソードの演出はショッキングで、引きと寄りのショットのつなぎが素晴らしい。
また、ジェニファー殺害直後、クリスティがやって来、母親を見つけた後、少し目を離した隙にジェニファーの死体が消えているというシークエンスも、ワンカットだけ磨き抜かれた玄関床にクリスティが映るというショットを挟み込み、物語の流れだけではそのようなショットは不要なのにも関わらず、映像的な異化効果をあげている。
この異化効果を狙った短いショットの挿入は前作ではほとんど見られなかったのだが、この異化効果演出は、終盤登場する復讐に復讐を重ね、復讐がどこまでづづくかわからないという2時間ドラマなどでやると鼻で笑われそうな展開を、反対に効果的に見せる役割を果たしている。
前作は異様な演出の「レイプ・リベンジもの」という娯楽作品だが、本作は娯楽作品に見せかけた別モノと言うことが出来る。
称賛しすぎな気もするが、「デイヴィッド・リンチ meets ベルイマン」のような。
ウェス・クレイヴンはベルイマンの『処女の泉』を『鮮血の美学』という「レイプ・リベンジもの」の娯楽作に変換したが、『鮮血の美学』を『発情アニマル』に変型させたメイル・ザルチは、続編の本作で『鮮血の美学』が失ったベルイマン的要素を再び内包した、とも言えないか。
いずれにせよ、観終わって、ベルイマン映画同様、どっと疲れる類の映画であることは確かだと思う。