月のレビュー・感想・評価
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月。照らし出されるもの。
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まだ鑑賞されていない方にとって参考となる有益なレビューが書けるかどうか確信もないまま。
ただ、ここまで書いてこなかった人間がこの映画については書かないままではどうにも消化しきれない思いが残ったのだなということが伝わるだけ、このレビューにも意味が生まれるのではと思い投稿させていただきます。
背景にあるだろうモチーフ、想起される事件があっての作品だろうことは知った上で選んだ映画ではありましたが、態度としては、見せていただいているものをなるべくそのまま鑑賞することに最後まで努めたつもりです。
◇
ある人にとっては「考えないこと」「向き合わないこと」にしておかなければ、日々を前向きに歩けないようなことって、確かにあって。
でもまたある人にとってはその「考えようとさえしていない」「向き合おうとさえしていない」態度がどうにも合点がいかなくて。
その双方が時に自分のなかに同時に存在しながら、距離を取ることも許されず、衝突を起こすこと。
これも、確かにあって。
なぜ月を照らさなければいけないのかを、太陽は考えるのか。
太陽に照らされることで初めて照らすことができる月は、なぜ自力でそれをしようとしないのか考えるのか。
あるのかを問われる「心」は、そもそも、あるなしで表現できる対象なのか。
耳が聞こえずに言葉を話せない人間がするハグに込められた心はなにか。
言葉を話す人間が言い放つ、心ない言動にのせられた言葉に、心はあるのか。
この映画を通して事件を想像したり向き合うという表現は、当事者としての経験や実際を知ろうとしてこなかった私には(適切な言葉に至りませんが)あまりに傲慢な気がしています。
まずは映画が示したこと、制作に関わられた俳優の皆さんが表現してくれたことに向き合って、これからの私の日々にどんな変化が生まれてくるのか、内省を大切に生きていこうと思います。
私が、しっかり照らし出される作品であることは間違いないのではと感じました。
多くの方に鑑賞してもらいたい作品だと私は思いましたので⭐️5つ、つけさせていただきました。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
生きてても意味ないなんて大きなお世話 人を殺す権利は誰にもない
原作は2016年の夏に相模原市の知的障碍者施設で起こった大量殺人をモチーフにした辺見庸の小説で、それを石井裕也が映画にしたというのだから観るしかなかった。障碍者と老人の違いはあるが、3月に公開された「ロストケア」とテーマ的には近く、19人を刺殺した「さとくん」を見ながらずっと松山ケンイチを想起していた。要するに「安楽死」の問題なのだが、誰もが「なんで生きているのか」なんて分からないのに、ましてや他人様のことをとやかく言うなんて余計なお世話である。磯村勇斗は嫌いな役者ではないし、今回もどう演じてくれるのか楽しみにしていたが、まあちょっと相当残念だった。彼の力量不足なのかキャラクター設定が定まっていないというか彼自身が「さとくん」をつかみきれていないのであろう、唯一見ごたえのあった宮沢りえとの対決にしても、松山ケンイチと長澤まさみのバトルに遠く及ばない。ボクシングジムで鍛えたり刺青を入れたり金髪に染めたり気持ちは分かるのだがどれも小手先の演出にしか見えず、聾の彼女を抱いて「今日殺してくるよ」と告げるシーンはすごく美味しい場面なのに、ただフラットに演っているだけで真実味が無いのだ。ラスト近くの回転寿司屋でカタカタという音と寿司の皿が流れていくアップが続く場面がなぜか心に残って、やっぱり石井裕也はへんな監督だと最後に確認した。
見て見ぬふりをすること
あの事件を題材に石井裕也監督が映画化すると聞いて、本当にできるの?公開できるの?と危惧していたが、ミニシアターながらほぼ満員のお客さんの中で観ることができ、そのことだけで素直に良かった。
実際の障害者も出演しているようだし、ナチスや優生思想という言葉もはっきり使われていて、現在の日本映画ではタブーというか、忌避されてきた部分を真っ当に取り上げている。その点は、放送禁止用語が飛び交う「福田村事件」と同じ。
多分、石井裕也監督でなければ、観なかっただろう。この題材をゴリゴリの社会派作品に仕上げられたら、あまりに観るのが辛い。辺見庸の原作を換骨奪胎したようだが、石井監督ならではの軽みと希望が加えられている。ただ、これだけの題材を扱うにしては軽すぎる、という批判はあるだろう。そもそも現実の事件からまだ7年という生々しい時期に映画化するのはどうなのか、という思いが拭えないところはある。
俳優陣は、出演すること自体に悩んだだろうが、宮沢りえをはじめ、みな力は入っていた。磯村勇斗は、近頃の問題作の常連という感じ。特に良かったのが、オダギリジョー。ちょっと情けなく、危うい感じの役をやらせたら比類がない。
この作品の大きなテーマである「見て見ぬふりをすること」については、自分の考えがまとまらない。そのことを「嘘」だと言い切るのは違うと思うし、「だから自分が何とかする」というのは独りよがりになってしまうのでは、としか言えない。
人間の尊厳の意味を問う傑作
試写会で観た「愛にイナズマ」に続き石井裕也監督の作品が続く。対極にある2本だがともに傑作。
一昨年に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件。入所者19人が殺害され、職員を含む27人が負傷した。
今作はこの事件をモチーフにした辺見庸さんの小説を映画化したもの。
介護に苦しむ人々を救わんとする映画「ロストケア」と類似のテーマ。
呼吸をしていれば、心臓が動いていれば人間として守られなくてはならない、それこそが人権であるという現在の考え方。
そのことによる歪みは余りにも大きい。
人間としての尊厳を守るためにも、新たな加害者を産まないためにも、システムを確立することが望まれる。
救いは宮沢りえさんとオダギリジョーさんの夫婦だった。
ラスト、りえさんの言葉に嗚咽をもらした。
「俺、生きててよかった」と心の中で叫んだ。
苦しまずに逝ったなら良いのですが
高畑さんが演じていた様な親御さんは実際に居たんでしょう、それを思うと悲しくなります。 大きな事件でしたが、その事件の大きさに対して世間や被害者様の声が少なかったようにも思えた事件です。 厄介払いされた方も居たのでしょう、ただただ苦しまずに逝ってたなら良いと事件当時から思っていました。
あくまでもこの何の知識も無く、この映画を観た前提として書かせてもら...
ほぼ実話
事件から7年後の今
この映画のモチーフは言うまでもなく、相模原障害者施設殺傷事件だ。
モチーフではなく現実といってもよい。
社会を震撼させた事件から早7年もの月日が経った。そして悲しいことに戦後最大であった事件での死者数も数年後には更新されることとなり、2023年現在の映画公開に至る。
7年後の今、私は社会がより悪い方向へ進んでいると感じる。劇中でも言われていたが、大きな出来事があっても人々はみなそれを忘れる。
もしくは窓を塞ぎ、森の奥に閉じ込めるのかもしれない。
2023年は、発達障害ブームや親ガチャ論争・強者弱者のマウント合戦が繰り広げられる一方、”自分らしさ”という他人との差異をいかに強調できるかということが重要だと囁かれ続けている。
劇中でも示唆されていたが、生産性のある/なしはどこで区別されるのか?今や優生思想という言葉さえも見たくないものに蓋をしているとすら感じる。
一つの希望であると同時に苦い現実は、目の前の人生を誠実に生きるしかないということ。
我々一人ひとりの人生、そして連綿と受けつがれる人類史の先に答えがあると私は信じている。
月が欠けてる
障害者施設で働いています。
私は障害者施設で働いている者です。映画を観た感想は、だいぶ角を取って作られたな。と言う印象です。
映像が暗い、事務所が暗いとか色々な書き込みを目にしました。確かに働いている職場の事務所は日当たりが良くて明るいです。そこじゃなくて、あの暗くて、不穏な雰囲気は職員の心の中を表しているんだな。と私は思いました。
幸いにして、私が勤めている職場には虐待はありませんが、強度行動障害や重い自閉症や知的に遅れがある方は時として大暴れします。噛みます。服をブリブリに破られた職員もいます。唾をかけられて、殴られたり、猛ダッシュで体当たりをされたり。自制が効かないので全力で向かってきます。それに職員が何名も取られて他の利用者さんに手が回らないとかザラにあります。映画の様に、虐待に走る、おかしな支援になる事は案外容易に起きてしまう空間ではあります。いかにそうならない思考を持つかが大変なんです。
ちょっとしたドアの閉まる音に反応して暴れることすらあります。出演された障害者さんはきっと撮影と言う慣れない人、空間で不穏な中の撮影だったと思います。変化を嫌い、新しいを苦手とされるのでよく撮影できたな。と感心すら覚えます。
同僚は、殴られて骨折した者もいます。変な話、職員が下に見られたら、とことんかかってくる利用者もいます。障害者とは言え、殴られたり蹴られたり世間からすれば暴行と値することでも私達は我慢し、暴れず安心して生活できる空間づくりができる様な対応を常に考えていますが、実際心はボロボロで。。相手が誰であろうと殴られたら腹が立ちますが、みんな、あの時こうしたから良く無かったね。これから気をつけよう。そんな無理のある切り替えで日々頑張っています。
確かに預けっぱなしの親御さんもいます。とてつもない常識はずれのクレーマーもいます。
私は親でもあるので、深読み先読みして障害者の親だったら。。と美化しながら障害者の親御さんを考える事もあります。美化しないと、心が優しくなれない部分もあります。
すごく太った利用者さんの親御さんが(暴れたときに好きな食べ物を大量に食べさせると静かになるからと大量に食べさせていた。)痩せてほしいから散歩してほしいとニーズがありましたが、道路で急に暴れる事もあるので、公園でで散歩していたら「大人が公園で走っていて怖い」と通報された事もありました。本当に毎日疲れます。少しこの現場から離れたいとも思います。激務を超えています。
外でマスターベーションする方もいます。
それでも、誰にも命の線引きはできないと思います。殺すなんて言語道断です。
映画を観てもやっぱり答えはわかりません。
この子が大切なのよ。と言う親御さんもいます。そう言う優しい思いに耳を傾けて、優しい心を維持してもいます。
綺麗事抜きで、自分の子が障害があったとして、治療したら治る。くらい医療が進歩したとしたら、大金をはたいてでも治療する。が今ある思いではあります。
でも、本当に笑顔は可愛いですよ。心がないって事はないです。訴えだったり、苛立ちだったりで暴れるんですよね。見えない話せない。でも、指の動きだったりで訴えている事もあります。受け手がどう相手を見ようとするかで大きく変わってくると思います。
この映画の中の事はほんの一握りにも満たない出来事に過ぎませんが、世に知って頂いて考えてもらえるきっかけになったと思います。
心から感謝申し上げます。
観たいと思った映画にはいつも磯村勇斗がいる
もっと早く観たかったが、上映劇場が少ない。
やはり内容がセンシティブだからですかね。
さとくんの
「生産性の無い人間」という台詞にずっと胸が痛かったです。
私は健常者ですが、仕事だけでなくすべての「生産性」が弱いからです。
退職した会社の上司から「あげてる給料分の仕事をしていない」とはっきり言われたこともあります。
障碍者の方だけでなく、五体満足に生きていても私のような生きにくさを感じてる者も、この中に含まれているのでは?と考えてしまって辛かったです。
オダギリジョーは、そんな人の代表的な役なんでしょうか。甲斐性なしですが優しい人の役です。
なので、そんな彼が手塩をかけて作った作品が受賞したというのは深淵のような劇中の唯一の光でした。
私の知人の娘さんが施設へ入っているのですが、
やはり自分以外はご両親が面会に来ることは本当に少ないとの事です。なので、高畑淳子さん役のお母さんの話はリアルでした。
そして私自身も
二度の出産を経験、
検査の時は、「万が一、引っかかってしまったらどうしよう」と考えたものです。
とてもとても耳が痛い作品でした。
想像通り、娯楽とは程遠い話でした。
賛否両論あると思います。
それでも
事件を風化させない作品であること
と
役者の皆さんが素晴らしかったこと
だけは間違いないと思ってます。
熱演した磯村勇斗さんに頭が下がります。
観たいと思った作品はいつも磯村勇斗さんが出演することが多く
ヤクザと家族、PLAN75、渇水、ビリーバーズなどなど、
社会派をついつい好き好んで観てしまう私には
敢えて難しい役どころを選ぶ彼は
今後も目が離せない俳優さんです。
上映劇場が増えますように。。。
社会福祉や社会保障は「無知のベール」で
少し前に、意図せずやまゆり園(本作品のモチーフとなった)の付近を通り、起こった事件について思いを馳せました。
そういうタイミングで映画が公開されたので、見たくないことが描かれていたとしても観に行かねばという気持ちで観ました。
自閉症者施設で利用者の生活支援・介助の仕事経験があり、親戚に知的障がい者施設で過ごしている者がいる身としては、施設内の様子の描かれ方は、最も汚い瞬間、最も危険な瞬間を寄せ集めていると考えればリアリティのあるものでした。しかし、そういう状況は、ほとんどの場合において一瞬とかごく一時期であるので、リアリティがないとも言えます。
物語は、優生思想に取りつかれた元職員が、意思表示ができない障がい者を大量に殺戮するという話です。
先天的か後天的かに関わらず、障がいを持つと、生活していくために支援や介助が必要になることがあります。そういった不確実性は、一定確率で生ずるものであり、それ以上でもそれ以下でもないものです。
だからこそ、現実世界で自分が置かれている状況を一旦置いておいて、自分が生活していくために支援や介助を持つ立場(種類や程度があるのでいろいろな立場で)であったらどういうことが必要なのか、そしてその必要なことを可能な限り(必要なことを全て満たせるかどうかは社会の進化具合や経済力に左右されることもあります)満たすためには社会がどのように設計されているべきなのか、そういう立場(無知のベールで包まれた状態)で考える必要があると思うのです。
しかし、この映画で殺戮者となった元職員のように、現実世界で自分が置かれている状況を出発点にして考える思考様式は、最も濃いケースではこのような事件を起こすことにつながるし、薄いケースでは、映画で言われていた、見たくないものは見ないし、あっては都合が悪いものは隠蔽する社会づくりにつながっているのだと思います。
なお、思考様式の違いに関わらず、現実的な防犯対策は、防犯カメラによる録音録画、施設の出入り口での身元確認の充実化や、警備スタッフや警察の介入をスムーズにする連携訓練により、仮に何か起きたとしてもすぐにバレるぞ、逮捕されるぞという抑止力に頼って施設運営するしかありません。これは障がい者施設に関わらず、人が集まる場所共通のものです。
本作品の映画鑑賞は、このように改めて自分の考え方を記録するきっかけになりました。
辺見庸原作と言えるのだろうか
公開すぐの週末に鑑賞したものの、辺見庸がこんなドラマチックでケレン味がある作品を書くのか?と気になって原作小説を読んでみたところ、映画とはまったく異なるものだった。原作は、映画にも出てくる寝たきりで身動ぎしないきーちゃんのほぼ一人称視点で空想的にさとくんの行動を捉え続ける話であり、映画化にあたってほとんどのものが客観的に語り直され付け加えられている。
さとくんを除いた主要キャラの堂島洋子や昌平、陽子はもちろんのこと、小説家設定や東日本大震災、脳に障害を負って死んだ第一子、出生前診断などなどすべて映画オリジナルである。それらは原作できーちゃんの語りに出てくるごく一部のエピソードやイメージや言葉から発想されたものだとはわかるが、小説は、津久井やまゆり園事件を下敷きに、凄まじい文章力で重度障害者の実際を赤裸々に描写しつつ、さとくん=植松聖の考え方や社会の在り方を、反語的に痛烈に批判したものだ。
映画の感想ではなくなってしまった。映画本作はとにかくヘビーではあるけど、最悪の汚れ役を演じた磯村勇斗やずっと不安げに眉間に皺を寄せる宮沢りえはじめ、オダジョー、二階堂ふみとキャストは熱演していた。ベタなところもあるにせよ演出もがんばっていたし、これまで2本しか観たことがない石井裕也監督作としては一番印象に残る作品だった。ただ、障害者施設の描き方はかなり偏っているし、リアルな大量殺人の場面まで入れる必要があったのか?とは思う。
そして、やはり映画にするにあたっての脚本に盛り込まれた上述のさまざまな人物や設定やエピソードが、重度障害者施設で起きた実際の凶悪事件・犯人と対置されたことで、事件とその背景が一般化され、鑑賞者の中には犯人の思考・行動にも理があると考えた人が少なからずいることに危惧を覚えた。本作を観て考えさせられたとか、世の中きれいごとばかりではないとかの感想を見ると、もう絶望的…。
当たり前だが人間は矛盾を抱えているし、なんでも筋が通ってすっきりするのが正しいわけではないけれど、本作を観て考えさせられて実行すべきは、エッセンシャルワーカーの待遇を大幅に向上させ重度障害者のケアを充実させること以外にないと思うのだが(ちなみに福祉に回す金がないとか言うなら、米国から何発かミサイルを買うのをやめりゃいいだけだ)。
小説の文庫版に寄せられたあとがきで辺見庸の大ファンだという石井監督は、当然、現代日本での社会的弱者の在り方を批判すべく映画化で一石を投じたかったのだろう。ただ正直、売れっ子で多忙な監督が掘り下げるには手にあまる題材だったように思う。
われらの中にある優生思想と向かい合って
映画の中に「出生前診断」について、産科医と洋子、そして洋子夫婦の会話がある 高齢出産となって「リスク」が高まるからとして勧められる「出生前診断」 それは生まれる前からダウン症などの障がいを持って生まれてくる可能性についての「命の選別」として、「定着」しつつある現実がある 検査結果によっては中絶を多くの人が考えている現実の中で、障がいを持つ人や認知症を患う高齢者に対する、虐待がニュースなどで伝えられている 暴力や汚物を浴びながらの身体介助、少人数の体制の中で「効率」を求められる介護の現場において、まじめにすれば擦り減っていく、他のスタッフから孤立してしまう現場では、真剣に向き合うことをあきらめ、放棄してしまう職員が増えていき、国の定めた人員基準を満たしさえすれば、中身が問われない介護が一部の現場では行われている
おむつ外しを懸命にやって、結果要介護度が低くなり収入が減ってしまう高齢者施設よりも、何もしないで放置して寝たきりを作っていく施設の方が、要介護度が高くなり収入が増える 要介護高齢者・知的障がい者だけではなく、時折虐待が報じられる精神病院においても同様のことがある 効率を求めれば施設は大規模となり、法律順守の名のもとにマニュアル化された介護となり、必要でない事(普段のコミュニケーションとか本作の紙芝居のようなレクレーションとか)は省ていくことになるのだろう 結果社会にとっての生産性が尺度となっていく時代が進んでいくことに、何も私たちはできない 出生前検査の結果によっては中絶を考える人が多い現実なのだから
高齢出産の女性が増えていく中で、私たちが見ようとしなかった現実と対峙すること
親になろうとする人たちが向き合わなくてはならない問題であります
個人的な話しですが、この映画ロケ地は和歌山県北部です 病院・専門学校・大学などを使っているのですが、洋子が買物をするシーンに登場するスーパーは、私が子どもの時から通っていたところ(スーパー松源 西浜店)であり、懐かしさでいっぱいになりました
(10月19日 京都シネマにて鑑賞)
優生思想の垂れ流し
初めに言っておきたいのは、この映画は、植松聖をモデルにした人物の歪んだ思想をセリフで延々と垂れ流す一方、それに対抗する言葉を見出しえないまま終わるという点で、殺人犯への共感を呼び起こしたり、差別思想を広めたりしかねない作品になってしまっているということです。
ハンセン病差別を扱いながら理不尽な差別にむしろ乗っかってしまった「砂の器」と同じ誤りを犯しているのではないでしょうか。
また、作中の殺人犯の言う「必要のない人」を、才能がなく夢が叶わないので生きている意味を見出せないでいる人と同列であるかのように描いていますが、両者はまったく違う次元の話ではないですか?
演技陣はよかったので二つ星にしますが、いまも優生思想は確実に存在して、それと知らずに染まっている人がたくさんいます。
たとえば、裁判が続々と起きている旧優生保護法による不妊手術を「子どもを育てることのできない人のためのやむを得ない処置」だと強弁する形で、思い切り優生思想を擁護している人がごまんといます。
その現状を踏まえてなお、これが「本当の現実を見ようとした作品」と言えるのかどうか。私はそうは思えませんでした。
障害者支援施設で働いてます。
全編にわたってこんなにも台詞の一言一言が胸に刺さる映画があっただろうか。
封切前から期待していた映画、だが賛否両論の嵐。
難しいテーマ、題材だけに予想していたが個人的には映画の役割りって娯楽でもあったりするけど社会の問題を皆に考えさせるきっかけにすることも担ってると思っている。
あの凄惨な事件を題材としてると言うが、この映画がなかったとしてあの事件を覚えてる国民がどれだけいるだろうか?
人は誰しも大なり小なり問題を抱え悩みながらも幸せに暮らしてる事が大半でしょう、けれど宮沢りえ夫婦や高畑淳子が演じたものにとっては、そんな大半の平凡に暮らす人の影に隠れてつらい思いを抱えて生きている。
そんな一面には目を背けて、出来れば関わらずに生きて行きたいと思うのが普通の社会において、少しでも考えて欲しいというところだろうか。
たまたまモチーフが障害者を隔離する施設において行われてること、そこから殺人事件に至る事ではあったが、他にもこのような見て見ぬ振りや表沙汰にはされていない、否、あえて出さない事がいくらでもあって、一般的普通に暮らす人達、また既得権益のために都合好く悪事を揉み消す権力者や企業など、我々が知らないところ、知ろうとしないところで行われてるということがあるんだと警鐘を鳴らしたのだろうか。
そんな難しく取り上げようとしない問題を取り上げて作品にしたスタッフには敬意を評したい、また演者の台詞のひとつひとつが本当に重い、観るものに問いかけているかの如く一言たりとも聴き逃してはいけないとさえ思う素晴らしい脚本でした。
それを演じた役者さん達すべてが本当に素晴らしく、俳優さん達がこの重く難しいテーマの映画に真摯に取り組んたのがわかります。
磯村勇斗と宮沢りえの掛け合いのシーン、二階堂ふみの酔いに任せて話すシーンなどすべてが我々にも語り掛けてるようであった。
高畑淳子演じる障害者を子に持つ当事者がこの映画を観てどう感じるのか気になるところです。
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