月のレビュー・感想・評価
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ある施設の事件という事でなく
ある事件をきっかけに作られたもののようですが、今の社会の本質を突いていると感じます。
ただ、事件の関係をそこまで深く知った上での発言ではないです。
まず思ったのは‥宮沢りえさんって、こんなに疲弊したおばちゃんになれるんだ😳
メイクなのか、ご本人の演技なのか分かりませんが、本当にびっくりしました。
私が感じた事というレベルでしかありませんが、宮沢りえ演じるようこ夫婦とさとくんを対比(?)しながらストーリーが進んでいく感じです。
以降は、私感です。賛否あると思いますが、書きます。
昔は、ちん◯、びっ◯、つん◯…それは今は差別用語として使うことはない言葉ですが、ある意味このような言葉を使っていた時は、障害者をインクルーシブしていた気がします。
それが、障害者になり、障がい者になりまた障碍者に、表記の上では良く(?)なってきたと認識しています。
それと同時に、障がい者が普通の世間から隔離されてきました。
隠蔽というか、無かったことにしたい人の思いがあったのでしょうか。
施設の隠蔽体質はそれはそれと置いておいて、私たちは社会に効率的に貢献できない人たちを、見なかったことにして、置いてきぼりにしてたと思います。
できる人できない人、いろんな人がごちゃ混ぜで生きられる社会だったらいいなと思います。
また、本当に障害も高齢者もそこの現場で働く人たちはとても高度な技術を求められながら、低い賃金で働いている事実を、そのままにしてはならないと思います。
この国は、どこに向かっていきたいのか分かりませんが、小さなチカラでも良き方向に向かっていけたらいいなあと思います。
最後に、映画に自身のありのままを曝け出して出演された障害をお持ちの方々に敬意を表します。
まとまりませんが。
向き合うということ
いつもの映画館①で
好きな監督の最新作なので楽しみにしていた
主演宮沢りえだし磯村勇斗も出ているしこれは観るしかない
全編に一貫する暗いトーンこれで2時間半はさすがに辛かった
退屈したとかそういう意味では全然なくてむしろ全集中して疲れた
本来この監督の作品にみられる
そこはかとないユーモアは抑え目だったという意味
オダギリジョーが殴るシーンで
次の画面でキズだらけになっていたところは唯一笑えた
あと宮沢りえとオダギリが最後の方で向き合うシーンで貰い泣き
向き合うということもこの映画のテーマなのだろう
エンドロールで原作モノだったと改めて知る
辺見庸の小説は前に読んだことがあって
やはり暗くそれ以来何となく遠ざけていた
外形上のストーリーはやまゆり園の事件に似ているので
実際の犯罪者もこのような境遇で
実は深い考えを持っていた人物だと誤解する恐れはある
オラはそうは思わない もっと短絡的な犯罪だったととらえている
映画では入院するまでで話を終えて
あとは観客の想像に任せても良かったような
入院のときに車いすに乗せられているところの意味がよく分からなかった
施設の中の描写のおどろおどろしさはやりすぎ
いまどきはもっと明るいだろう
最近武田鉄矢の朝のラジオでこの事件のことに触れていて
犯人が問う障害者に生きる意味があるかといった言葉に巻き込まれてはいけない
という論に共感する 犯罪者の思う壺論と似ているのだがちと違う
なぜヒトを殺してはいけないのかという問いも同じ類いだと
そんな質問に付き合う必要はないと
ちなみに清水義範はエッセイの中でちゃんと答えていて
それを許すと社会が壊れるからと明言していた
磯村勇斗を始めこの映画に関わった役者とかスタッフのタフさには敬意を抱く
この人たちみたいに長いものに巻かれず自分の足でしっかり立つ人物になりたい
終わったら22時
映画とは違うが半月が西の空に見えてキレイだった
明日は休暇だ 日帰り入浴とビールで健康を謳歌するのだ
しんどい
2016年、実際に起きた事件をモチーフにした本作は、
戦後最大の被害者数を出した殺人事件として、
また、その被害者が施設に入所していた障がい者の方々だったという事でも衝撃的な事件でした。
冒頭から不安を掻き立てるような映像。
暗くジメっとした湿度を感じさせられ、
食物連鎖、弱肉強食を印象付けられます🐍
漂う空気が常にしんどい。
宮沢りえ・オダギリジョー(夫婦)の関係性に
歪さを感じ(最終的には好転するが)
二階堂ふみの不気味さが秀逸でめちゃくちゃ怖い(褒めてる)
磯村勇斗、よくこの役を受けたなぁと感心し、
教師を目指していた好青年が「闇(病み)堕ち」する姿は、
フィクションとして捉えて見る「さとくん」には
少し同情も覚えてしまいます。
この事件を風化させないための作品ではなく、
根強い差別、慢性的な人出不足、いじめ、
人間関係、薬物など、近年の日本の闇深さを
掘り下げまくっていました。
洋子(宮沢りえ)と陽子(二階堂ふみ)の背景は
本当に必要だったか?と疑問に思うところが多々あります。
あえて震災や宗教について触れたのだと思いますが、
あらゆる情報が盛りだくさんな割には、
物語全体への繋がりには欠けていたように感じるし「不要」と思うところも散見されます…。
この手の作品は、もう少しシンプルに描いてもいいんじゃないのかなぁと個人的には思いました。
月。照らし出されるもの。
こちらのサービスで初めてレビュー機能を使います。
まだ鑑賞されていない方にとって参考となる有益なレビューが書けるかどうか確信もないまま。
ただ、ここまで書いてこなかった人間がこの映画については書かないままではどうにも消化しきれない思いが残ったのだなということが伝わるだけ、このレビューにも意味が生まれるのではと思い投稿させていただきます。
背景にあるだろうモチーフ、想起される事件があっての作品だろうことは知った上で選んだ映画ではありましたが、態度としては、見せていただいているものをなるべくそのまま鑑賞することに最後まで努めたつもりです。
◇
ある人にとっては「考えないこと」「向き合わないこと」にしておかなければ、日々を前向きに歩けないようなことって、確かにあって。
でもまたある人にとってはその「考えようとさえしていない」「向き合おうとさえしていない」態度がどうにも合点がいかなくて。
その双方が時に自分のなかに同時に存在しながら、距離を取ることも許されず、衝突を起こすこと。
これも、確かにあって。
なぜ月を照らさなければいけないのかを、太陽は考えるのか。
太陽に照らされることで初めて照らすことができる月は、なぜ自力でそれをしようとしないのか考えるのか。
あるのかを問われる「心」は、そもそも、あるなしで表現できる対象なのか。
耳が聞こえずに言葉を話せない人間がするハグに込められた心はなにか。
言葉を話す人間が言い放つ、心ない言動にのせられた言葉に、心はあるのか。
この映画を通して事件を想像したり向き合うという表現は、当事者としての経験や実際を知ろうとしてこなかった私には(適切な言葉に至りませんが)あまりに傲慢な気がしています。
まずは映画が示したこと、制作に関わられた俳優の皆さんが表現してくれたことに向き合って、これからの私の日々にどんな変化が生まれてくるのか、内省を大切に生きていこうと思います。
私が、しっかり照らし出される作品であることは間違いないのではと感じました。
多くの方に鑑賞してもらいたい作品だと私は思いましたので⭐️5つ、つけさせていただきました。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
生きてても意味ないなんて大きなお世話 人を殺す権利は誰にもない
原作は2016年の夏に相模原市の知的障碍者施設で起こった大量殺人をモチーフにした辺見庸の小説で、それを石井裕也が映画にしたというのだから観るしかなかった。障碍者と老人の違いはあるが、3月に公開された「ロストケア」とテーマ的には近く、19人を刺殺した「さとくん」を見ながらずっと松山ケンイチを想起していた。要するに「安楽死」の問題なのだが、誰もが「なんで生きているのか」なんて分からないのに、ましてや他人様のことをとやかく言うなんて余計なお世話である。磯村勇斗は嫌いな役者ではないし、今回もどう演じてくれるのか楽しみにしていたが、まあちょっと相当残念だった。彼の力量不足なのかキャラクター設定が定まっていないというか彼自身が「さとくん」をつかみきれていないのであろう、唯一見ごたえのあった宮沢りえとの対決にしても、松山ケンイチと長澤まさみのバトルに遠く及ばない。ボクシングジムで鍛えたり刺青を入れたり金髪に染めたり気持ちは分かるのだがどれも小手先の演出にしか見えず、聾の彼女を抱いて「今日殺してくるよ」と告げるシーンはすごく美味しい場面なのに、ただフラットに演っているだけで真実味が無いのだ。ラスト近くの回転寿司屋でカタカタという音と寿司の皿が流れていくアップが続く場面がなぜか心に残って、やっぱり石井裕也はへんな監督だと最後に確認した。
厳しい現実と向き合うことの過酷さ。
この映画は相模原障がい者施設での事件を題材にしており、犯人である”さとくん”の主張(優生思想)は誰しもが少なからず心のどこかに持っているような気がした。しかし、その主張はいくら綺麗事と言われようとやっぱり認めるわけにはいかないということをこの映画からは強く感じた。
”さとくん”も初めからそのような思想を持っていた訳ではなく、なぜそのような思想を持つに至ったのかということが細かく描かれていた。労働内容の過酷さは勿論、労働に見合わない低い賃金の問題、同僚からのイジメなどそういった様々に絡み合う厳しい現実から逃れるために事件を起こしたという背景がある気がした。どういった背景があるにせよ、犯行自体は身勝手極まりなく、到底理解できるものではない。厳しい現実を生きる人にとって現実と向き合うというのは残酷なほどに過酷なのもまた事実である。誰しも厳しい現実と対峙せざるを得ないときが来ると思うが、そういった時にどういう態度を選ぶのかという普遍的なテーマを扱っている映画だと思った。障がい者施設で働かれている方々には尊敬の念を強く持った。また、この世に生きる全ての人にどうか幸あれ。
みずからの内に潜む優性思想とどう向き合うか
相模原殺傷事件から7年、植松聖の死刑が確定して3年半が経過し、議論が尽くされずに事件が風化しつつあるなかでの本作品の公開の意義はとても大きい。
当然ながら、本作品は事実をもとにつくられたフィクションであり、辺見庸の原作からも石井監督によって大幅に手が加えられている。これは石井監督によるひとつの問題提起だ。
映画を通して、石井監督が伝えたかったこと、考えて欲しいことを、観客が丁寧に掬い取っていくことが強く求められる。要求に対するストレスや、彼の問題提起の手法に反発する意見が多いことも理解できる。
事件当時からパンデミックを経て、日本の社会環境はますます閉塞感や息苦しさが感じられるものになってしまった。自分が社会的弱者になりかねないなか、誰もまわりの弱者に手を貸す余裕はなく、いっぽうで政府や社会からも更なる「自助」が強く求められている。
作中の洋子と昌平は、自分たちが生産性を求め続ける社会システムからこぼれ落ちることを恐れている。そして、あらたに授かった命の存在をめぐっての「迷い」を、さとくんに見透かされ、大きく動揺する。
さとくんも、洋子も、昌平も、私たちの内面を暴き出す「鏡」だ。
私たちは、人間社会のなかに潜む「優性思想」に知らず知らずのうちに影響を受けており、そしてパーソナルな問題に直面したときに自分自身の内なる「優性思想」がたちあらわれてくる。
私たちの多くは、二項対立線上の端々にいるよりも、そのグラデーションのなかで生きている。対立する議論の渦中にいることを避け、深い森のなかに隠された存在に目をつぶり、そこに在るものが存在していないように振る舞う私たち。
洋子がさとくんと議論するなかで、対面する相手が途中から内面に潜むもうひとりの洋子になっていくシーンは印象的だ。どんなに消し去ろうとしても、自分の内に潜む「悪意」を消し去ることはできないのか。
そんな虚無的な結論に陥ってしまいそうななかで、私たちは人間という危険で危うい存在を、どう救うことができるのか、簡単に出せない問いに真摯に向き合うことを求めてくる作品だ。
見て見ぬふりをすること
あの事件を題材に石井裕也監督が映画化すると聞いて、本当にできるの?公開できるの?と危惧していたが、ミニシアターながらほぼ満員のお客さんの中で観ることができ、そのことだけで素直に良かった。
実際の障害者も出演しているようだし、ナチスや優生思想という言葉もはっきり使われていて、現在の日本映画ではタブーというか、忌避されてきた部分を真っ当に取り上げている。その点は、放送禁止用語が飛び交う「福田村事件」と同じ。
多分、石井裕也監督でなければ、観なかっただろう。この題材をゴリゴリの社会派作品に仕上げられたら、あまりに観るのが辛い。辺見庸の原作を換骨奪胎したようだが、石井監督ならではの軽みと希望が加えられている。ただ、これだけの題材を扱うにしては軽すぎる、という批判はあるだろう。そもそも現実の事件からまだ7年という生々しい時期に映画化するのはどうなのか、という思いが拭えないところはある。
俳優陣は、出演すること自体に悩んだだろうが、宮沢りえをはじめ、みな力は入っていた。磯村勇斗は、近頃の問題作の常連という感じ。特に良かったのが、オダギリジョー。ちょっと情けなく、危うい感じの役をやらせたら比類がない。
この作品の大きなテーマである「見て見ぬふりをすること」については、自分の考えがまとまらない。そのことを「嘘」だと言い切るのは違うと思うし、「だから自分が何とかする」というのは独りよがりになってしまうのでは、としか言えない。
人間の尊厳の意味を問う傑作
試写会で観た「愛にイナズマ」に続き石井裕也監督の作品が続く。対極にある2本だがともに傑作。
一昨年に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件。入所者19人が殺害され、職員を含む27人が負傷した。
今作はこの事件をモチーフにした辺見庸さんの小説を映画化したもの。
介護に苦しむ人々を救わんとする映画「ロストケア」と類似のテーマ。
呼吸をしていれば、心臓が動いていれば人間として守られなくてはならない、それこそが人権であるという現在の考え方。
そのことによる歪みは余りにも大きい。
人間としての尊厳を守るためにも、新たな加害者を産まないためにも、システムを確立することが望まれる。
救いは宮沢りえさんとオダギリジョーさんの夫婦だった。
ラスト、りえさんの言葉に嗚咽をもらした。
「俺、生きててよかった」と心の中で叫んだ。
苦しまずに逝ったなら良いのですが
高畑さんが演じていた様な親御さんは実際に居たんでしょう、それを思うと悲しくなります。 大きな事件でしたが、その事件の大きさに対して世間や被害者様の声が少なかったようにも思えた事件です。 厄介払いされた方も居たのでしょう、ただただ苦しまずに逝ってたなら良いと事件当時から思っていました。
🎵 月は流れて、東へ西へ 天狗舞よりも月桂冠「つき」
石井裕也監督らしい鬱映画である。
独特の世界感の表現に成功したかも。
深い森の奥の社会から隠ぺいされた障がい者養護施設を舞台に、ひとりよがりの優越感(相手を見下す心理や態度)や優生思想について、メビウスの輪の上を歩くが如く出口のない迷路から逃げ出せない感覚にハマる。
クセの強い俳優(二階堂ふみ、モロ師岡)の洋子に対する辛辣なセリフや馬鹿みたいにワンパターンのマウントを取ってくるマンションの管理人などはとても不愉快。
心臓病の子供を手術中のトラブルから3年間の植物状態の末に失った夫婦。妻のことを師匠と呼ぶ気弱な夫と処女作後まったく書けなくなった小説家の妻。今後妊娠しても生むかどうか、出生前診断するかどうかの答えも出せない。父親から虐待されながら育ちながらも実家を出ないひねくれ女。ネガティブなことを言わせたら右に出るものはいない。軽度の知的障害があり、その素直さゆえに物事に執着しがちな若い介護職員のさとくん。
これらの少ない登場人物に閉鎖的な舞台設定。
一番恐ろしいのは劣等感の裏がえしの根拠に乏しい優越感。
それに優性思想がかぶってくると鬼に金棒。
施設の所長は現実を見なさいと言って職員を丸め込もうとする。
さとくん(磯村勇斗)は陽子(二階堂ふみ)の毒にまずやられてしまったような気がする。
不快な匂いと音は視覚以上に感情に訴えてくることを滔々と話したり、はなさかじいさんの悪い爺さんの話などがループして、おかしくなってゆく。
自分とコミユニケーションを取れない心のないものは人間ではないと決めつける。
一方、ろう者の彼女は障がい者でも手話でコミュニケーションとれるからと
都合のいい線引きをする。
そんなさとくんはわざとろう者を恋人にした気がする。
さとくんが歌う井上陽水の「東へ西へ」。
このころの陽水のアルバムの曲は憂鬱な歌詞で溢れている。
🎵 がんばれ みんな がんばれ 月は流れて 東へ西へ
オダキリジョーが三人に負けじ?と、すごく真面目な演技。
よかった。短編映画で賞もらえて。
でも、天狗になるときっと離婚することになる予感。
回転ずしの玉子のエピソードも石井裕也の独特の世界感。
誰も取らないのでぐるぐる廻っている玉子は最終的には廃棄されるのか?
あなたが今取ったのは~ 金の皿ですか? 銀の皿ですか?
私はつつましく謙虚に暮らしております。
600円の金の皿はがまんして、100円の皿。
天狗舞よりも月桂冠「つき」
あくまでもこの何の知識も無く、この映画を観た前提として書かせてもら...
ほぼ実話
残酷な現実と人の傲慢さ
凄まじい内容の映画だった。
これは見たくない現実に蓋をする現代社会に対する挑戦的な作品だ。
この映画を観た誰しもが考えさせられる。
自分は見たくない現実に目を背けてなどいないと本心から言えるかどうかを。
綺麗事では残酷な現実を変えることは出来ない。
受け取り手によっては障がい者を殺すことを決めた男性職員に同調する者もいるだろう。
彼の言葉を真っ向から否定する洋子の意見がまさに綺麗事にしか過ぎないのだから。
なのでこれは非常に危うい作品であるとも思った。
書けなくなった元有名作家の洋子は障がい者施設で働き始める。
物語が始まってすぐに洋子と夫の昌平の心の中に何らかのわだかまりがあることに気づかされる。
彼らは一人息子を難病によって失っていたのだ。
息子は口をきくことも立ち上がることも出来ずにこの世を去った。
洋子は自分と同じく小説家を目指し、ネタ集めのために働く陽子や、絵が得意な心優しいさとくんと共に障がい者たちと向き合っていく。
陽子にはこの仕事を軽んじているわけではないと話す洋子だが、昌平の前では思わず自分にはこの仕事ぐらいしか出来るものがないのだと本音をもらしてしまう。
本来なら社会貢献度のとても高い仕事であるはずなのに、やはり社会としては直視したくない現実なのだろう。
給料も安ければ感謝されることも少ない。
これは介護士などに限ったことではなく、世間は直視したくない現実と向き合う仕事を冷遇しがちだ。
そしてこの障がい者施設は世間からまるで隠されているように存在するため、中では信じられないような暴力行為が行われている。
障がい者をケアせずに閉じ込め、憂さ晴らしのために暴力を振るう。
もちろんここに描かれているものが障がい者施設の現実のすべてであるとは思わないが、これが見たくないものから目を背ける社会が作り出した残酷な現実の一端であるのは確かなのだろう。
最初は障がい者たちの手助けをするために働き始めたはずのさとくんが、やがてこの残酷な現実に触れて心が歪んでいくのも無理はないと思ってしまった。
いつしか彼は、障がい者は社会に対して生きる意味も価値もないのだと思い込むようになってしまう。
そして彼は社会に貢献するために彼らを殺害することを計画する。
そんな彼を止めるための言葉を洋子は持たない。
ただ認めるわけにはいかないと抗うことしか出来ない。
確かにさとくんの意見は一見正当性があるように感じられる。
しかしどうして彼に意志疎通の取れない障がい者には心がないと言い切れるのだろうか。
そして何故彼が生きる意味や価値がないとジャッジ出来るのだろうか。
個人的には人に対してだけでなく、自分に対しても生きる意味があるかどうかを考えるのは傲慢であると思っている。
陽子がこの施設の障がい者が幸せかどうかを洋子に尋ねる場面があるが、なぜ人の幸せを他人が判断できるのか。
この世界に役割のない人間はいない。
そして自分が望んだものでなくても、人はその役割を担って生きていかなければならない。
この世界はとても理不尽で残酷だ。
この世に生きている限り、どんな人でも苦しみから逃れることは出来ない。
どんな人にも闇はあるが、逆にいえば光も絶対に存在する。
この映画は苦しみの中の光と闇を絶妙に描き出している。
これは洋子と昌平の再生の物語でもあり、彼らの未来には一筋の光があった。
しかし、さとくんによって多くの障がい者たちは光を奪われてしまう。
何故彼を止めることが出来なかったのか。
どうして適切な言葉で彼を諭すことが出来なかったのか。
さとくんの心の闇も理解出来るだけに、最悪な結末にただただ虚しさだけが残った。
しかしこれはモデルになった事件があるように、現実にあり得ることなのだ。
もっと人が自分の傲慢さを捨て、そしてもっと他人に寄り添う気持ちを持てれば、社会は変わっていくのだろうか。
観終わった後もずっしりと余韻の残る映画だった。
事件から7年後の今
この映画のモチーフは言うまでもなく、相模原障害者施設殺傷事件だ。
モチーフではなく現実といってもよい。
社会を震撼させた事件から早7年もの月日が経った。そして悲しいことに戦後最大であった事件での死者数も数年後には更新されることとなり、2023年現在の映画公開に至る。
7年後の今、私は社会がより悪い方向へ進んでいると感じる。劇中でも言われていたが、大きな出来事があっても人々はみなそれを忘れる。
もしくは窓を塞ぎ、森の奥に閉じ込めるのかもしれない。
2023年は、発達障害ブームや親ガチャ論争・強者弱者のマウント合戦が繰り広げられる一方、”自分らしさ”という他人との差異をいかに強調できるかということが重要だと囁かれ続けている。
劇中でも示唆されていたが、生産性のある/なしはどこで区別されるのか?今や優生思想という言葉さえも見たくないものに蓋をしているとすら感じる。
一つの希望であると同時に苦い現実は、目の前の人生を誠実に生きるしかないということ。
我々一人ひとりの人生、そして連綿と受けつがれる人類史の先に答えがあると私は信じている。
月が欠けてる
かなりモヤモヤ
フィクションと言ったとしても、明らかに元となった事件があって、それも関係者の方々がご存命な訳で、もうちょっと配慮した出来にして欲しかった。
施設なら責任者が必ずいて、ある時は新米?三人で宿直してて、事件の時は一人だったり。大きな音がしたから見に行ったのに、音の原因も調べない。扉に窓あるから、鍵開ける前に窓から照らして確認するよね。
二階堂さんが小説家って意味あった?。犯人の彼女が聾唖というのもとってつけたような感じで、本当に聞こえないよね、みたいに確認してたけど、仕事してるくらいだし、二階堂と飲んだ時の感じから、唇の動きは読めるでしょ。いろいろ、無神経な映画だと、思いました。
障害者施設で働いています。
私は障害者施設で働いている者です。映画を観た感想は、だいぶ角を取って作られたな。と言う印象です。
映像が暗い、事務所が暗いとか色々な書き込みを目にしました。確かに働いている職場の事務所は日当たりが良くて明るいです。そこじゃなくて、あの暗くて、不穏な雰囲気は職員の心の中を表しているんだな。と私は思いました。
幸いにして、私が勤めている職場には虐待はありませんが、強度行動障害や重い自閉症や知的に遅れがある方は時として大暴れします。噛みます。服をブリブリに破られた職員もいます。唾をかけられて、殴られたり、猛ダッシュで体当たりをされたり。自制が効かないので全力で向かってきます。それに職員が何名も取られて他の利用者さんに手が回らないとかザラにあります。映画の様に、虐待に走る、おかしな支援になる事は案外容易に起きてしまう空間ではあります。いかにそうならない思考を持つかが大変なんです。
ちょっとしたドアの閉まる音に反応して暴れることすらあります。出演された障害者さんはきっと撮影と言う慣れない人、空間で不穏な中の撮影だったと思います。変化を嫌い、新しいを苦手とされるのでよく撮影できたな。と感心すら覚えます。
同僚は、殴られて骨折した者もいます。変な話、職員が下に見られたら、とことんかかってくる利用者もいます。障害者とは言え、殴られたり蹴られたり世間からすれば暴行と値することでも私達は我慢し、暴れず安心して生活できる空間づくりができる様な対応を常に考えていますが、実際心はボロボロで。。相手が誰であろうと殴られたら腹が立ちますが、みんな、あの時こうしたから良く無かったね。これから気をつけよう。そんな無理のある切り替えで日々頑張っています。
確かに預けっぱなしの親御さんもいます。とてつもない常識はずれのクレーマーもいます。
私は親でもあるので、深読み先読みして障害者の親だったら。。と美化しながら障害者の親御さんを考える事もあります。美化しないと、心が優しくなれない部分もあります。
すごく太った利用者さんの親御さんが(暴れたときに好きな食べ物を大量に食べさせると静かになるからと大量に食べさせていた。)痩せてほしいから散歩してほしいとニーズがありましたが、道路で急に暴れる事もあるので、公園でで散歩していたら「大人が公園で走っていて怖い」と通報された事もありました。本当に毎日疲れます。少しこの現場から離れたいとも思います。激務を超えています。
外でマスターベーションする方もいます。
それでも、誰にも命の線引きはできないと思います。殺すなんて言語道断です。
映画を観てもやっぱり答えはわかりません。
この子が大切なのよ。と言う親御さんもいます。そう言う優しい思いに耳を傾けて、優しい心を維持してもいます。
綺麗事抜きで、自分の子が障害があったとして、治療したら治る。くらい医療が進歩したとしたら、大金をはたいてでも治療する。が今ある思いではあります。
でも、本当に笑顔は可愛いですよ。心がないって事はないです。訴えだったり、苛立ちだったりで暴れるんですよね。見えない話せない。でも、指の動きだったりで訴えている事もあります。受け手がどう相手を見ようとするかで大きく変わってくると思います。
この映画の中の事はほんの一握りにも満たない出来事に過ぎませんが、世に知って頂いて考えてもらえるきっかけになったと思います。
心から感謝申し上げます。
全283件中、181~200件目を表示