「たとえ大事なことがわからなくても」月 タニポさんの映画レビュー(感想・評価)
たとえ大事なことがわからなくても
「みんなちがって、みんないい」と言う。
金子みすずの、詩の一節だ。
ぼくはひとつの疑問として、その〝ちがった〟中に、
本当の〝まちがい〟や、
かえって本当の〝ただしさ〟があった時、
人は「それ」を、見分け、守ることが出来るだけの
決意と、それに伴う判断、
を持ち合わせているのだろうか、
という個人的な、疑問を思ってしまう。
「月」に出てくる、事件を犯した〈さとくん〉は、
「みんなちがって、みんないい」という考えよりも、
その手前か、ましてや奥か、
自分の〝ただしさ〟を他人の命に当てはめた
とぼくは思う。
それは劇中のオダギリジョーの役が指摘するする通り、
矛盾を持っていると感じる。
〝まちがい〟であると、一個人としてぼくも思う。
〈さとくん〉は言う。「わからないから」と。
わからない人は、そうしていいと述べる。
だが、ぼくは思う。
世の中には、たとえ大事なことがわからなくても、
代わりに〝わかっている〟人を見つけること、
その者を頼りにすることで、
世界を理解する人がいる、
と、ぼくは思う。
ぼくはあるワークショップに参加した時の
ある親子の方を思い出す。
障害をもっているお子さんは、
たとえそのご本人が作業を出来なくても、
代わりに作業をしているお母さんが楽しそうにしているのを見て、
とても喜んでいた。
それを思うと、人は決して、
自分ひとりで何もかも理解する必要は無いんじゃないかと思う。
だから、「わからない」からといって、人の命を勝手に決めたりするのは、〝まちがい〟であると、ぼくは思う。
社会の中で、
〝まちがい〟も、
その〈さとくん〉における〝ただしさ〟も、
「みんなちがって、みんないい」という、『負』の観点からのある種の多様的考えによって、
逆に防ぐことも、できなかったのではなかろうか。
「個性」というのは、いつしか、ただ人の特徴や長所を指摘するだけでなく、
人の短所や、かなり間違ったことでさえも、
「個性」として指し示すようになってしまったのではなかろうか。
そうした意味でも、「月」の中に出てくる職員たちは、
「個性的」と言わざる得ない。
ぼくはそうした役柄をあえて登場させたのか、観ていて分からなかった。
また一観客として、何故このように暗く、施設内を映すのか、とても疑問をもって観た。
ぼくは今作を、作り手の文芸的作品として捉えた。
そうした意味で、事実性がどこまで事件の本質を捉えているかは不明であると感じる。
こうした映画の見方も、ぼくの「個性」として捉えられるのだろう。
言葉や気持ちにおける普遍性よりも、有名度や評価的観点からの、個性における普及性の方が、社会により影響を及ぼす可能性を思うと、気持ちも暗くなる。
こうした投げかけの中でも、せめても「記憶」し、生きて行かなければならない。
ラストの、事件に対する思いか、現実への気持ちか、
決意を確かめる二人が印象的だった。
その思いには、事件を忘れないこと、その中には未来に生きようとしていた人々、生きていた人々の思いも含まれているのは確かだ。
ぼくはそう思う。