「衝撃の問題作」月 ありのさんの映画レビュー(感想・評価)
衝撃の問題作
原作は未読であるが、映画化するにあたりかなり脚色されているそうである。後で調べて分かったが、原作の主人公は本作にも登場する障がい者の”きーちゃん”ということである。映画は視点を変えて洋子というオリジナルのキャラクターを主人公にしている。ストーリーを語らせるにあたって、言葉を話せない”きーちゃん”では限界があるということで改変したのだろう。
洋子は、生まれつき障害を持った我が子を失ったトラウマから小説を書くことが出来なくなった主婦である。これを宮沢りえが熱演している。彼女の葛藤は画面からひしひしと伝わってきて、まずはこの存在感が素晴らしかった。これは本作オリジナルの美点だろう。
同じ施設で働く小説家志望の陽子や画家を夢見る”さとくん”との関係、常に優しく包み込んでくれるがどこか頼りない夫昌平との関係。こうした周囲との微妙な距離感を言葉を使わず繊細に表現しきった所は見事である。
また、それとは対照的に後半の”さとくん”との対峙では切実なる感情を爆発させ、この熱演にも見応えを感じた。本作は正に彼女のためにあるような作品となっている。
テーマも実に興味深く読み解くことができた。
実際に障がい者施設で起こった事件を題材にしているということで身構えてのぞんだが、確かにセンセーショナルな意欲作になっていると思う。ただ、それ以上に、ドラマの根本ではもっと普遍的な問題を問うているような気がした。
建前を重んじて事実を隠そうとする社会。真実を知りつつも見てみぬふりをする世間の風潮。そういったものに対する問題提起が感じられる。
例えば、酒に酔った陽子は、自分の才能の無さを棚に上げて、洋子が書いた東日本大震災を題材にした小説を「真実が描かれてない、綺麗ごとだけだ」と嫉妬混じりに糾弾していた。
陽子の両親は不倫を知っているが何事もないように円満な家庭を取り繕っていた。
昌平は洋子に気を使って我が子の死に一切触れず、そのせいでどこかギクシャクした関係になってしまっていた。
施設の所長は職員による暴行を知りつつも見てみぬふりをしていた。
そして、洋子自身も小説家として、母親として自分自身に嘘をついていた。更に、施設の問題を行政に告発出来ず、小説という形で表現しようとした。実際に行政がこの問題にどこまで対処できたかは疑問であるが、少なくとも彼女はそうするべきだったように思う。ところが、小説家としてのエゴが勝り、”綺麗ごとだけではない”作品を書くことで彼女は自分を優先させてしまったのである。結果、事件を止めることが出来なかった。
このように、ここに登場する人々は目の前の現実を見ようとせず、あるいは知っていてもその現実から逃げているだけなのである。
結局、この物語で最後まで現実に目を向け、自分自身に嘘をつかなかったのは”さとくん”だけだった…というのが実に皮肉的である。
もちろん彼の思考や行動には決して賛同することはできない。しかし、彼の言い分には、否定しがたい真理もあるように思う。
生産性のない障がい者は不要だ。意思疎通ができない者に生きる意味があるのか。障がい者施設で働く者は日々の激務から自らも精神を病んでこうした思考に陥ってしまうのは何となく理解できる。
そして、このような排除思考は、我々が暮らす一般社会でも、すでにまかり通っているのではないだろうか。自助努力が出来ない人間は切り捨てても良いといった社会の風潮、合理性を重んじて負け組が容赦なく見殺しにされてしまう競争社会。そうした思考が普通に蔓延しているような気がする。
劇中で洋子は”さとくん”のこの排除思考に論理的に反論することが出来なかった。それは彼女自身にもそうした思いが心のどこかにあったからであろう(実際に彼女は出産に迷っていた)。
もし自分があの場面の洋子の立場だったら”さとくん”をどう説得できただろう…と考えてしまった。彼の誤った思考を改心させるだけの言葉を自分も持ち合わせていない。
監督、脚本は「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」、「ぼくたちの家族」、「舟を編む」等の石井裕也。
施設のロケーションやデザインにホラー映画のような不穏さが漂い、少し作り過ぎという気がしてしまった。おそらく日常の中の非日常性を演出したかったのだろうが、ここまでくるとリアリティがかえって薄まり違和感を覚えてしまう。
また、突然ズーミングするカメラワークや斜め構図のアングル、スプリットスクリーンで分割される画面が、鑑賞のノイズになってしまった。
重苦しいテーマだけに、全体的にもっとシックな演出に徹した方が良かったのではないだろうか。奇をてらい過ぎという印象を持ってしまった。