劇場公開日 2023年10月13日

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「脚本上で、原作のきーちゃんから洋子に主役をチェンジしたことは、余りうまくいっていません。物語は介護の闇と並ぶ形で洋子の葛藤がクローズアップされていくのでした。」月 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)

3.0脚本上で、原作のきーちゃんから洋子に主役をチェンジしたことは、余りうまくいっていません。物語は介護の闇と並ぶ形で洋子の葛藤がクローズアップされていくのでした。

2023年10月25日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

怖い

 長年の辺見庸ファンという石井裕也監督は、2016年の相模原障害者施設殺傷事件を描いた辺見庸の小説「月」の文庫本刊行時に、その文庫版あとがきを書き添えました。
 一方「月」の映画化を模索していた故・河村光庸プロデューサーがその文章を読んで、石井監督に話を持ちかけたのです。
 但し、オファーされたからといって軽く流せるような題材ではありません。石井監督も「覚悟を決めた」と取り組んだのがこの作品です。
 それなりの覚悟を持って撮ったんことでしょう。その思いは感じられる映画ですが、軽快に物語を進める石井監督らしくない、直球勝負の作品でした。
 もとより事件の映画化に物議はつきもの。その描き方に反発する向きも当然あることです。しかし本作が投げかける問いは根源的で、これは映画「ロストケア」同様に、見る側にも覚悟を問われる作品といえるでしょう。

■ストーリー
 深い森の奥にある重度障害者施設 「三日月園」に職を得た元小説家の堂島洋子(宮沢りえ)は、人形アニメを制作する夫の昌平(オダギリショー)とふたりで暮らしていました。おかずを分け合う姿だけで、陽だまりのように温かな関係性が伝わりますが、子どもの不在は夫婦に深い影を落としていたのです。
 職場では、小説家志望で同僚の陽子(二階堂ふみ)や絵の好きな青年・さとくん(磯村勇斗)らと働きながら施設の現実を知っていくのです。
 洋子は働き始めて早々、他の職員による入所者への心ない扱いや暴力を目の当たりにすします。洋子はそれを施設の園長に訴えますが、まったく聞き入れてもらえず、園内の虐待を見ぬふりをするばかりです。洋子は、自分ではどうすることもできずに無力感を募らせるのです。
 職務に熱心だったさとくんは、そのことについて、洋子以上に憤っていたのです。さとくんは正義感や使命感を徐々に増幅させていき、次第に″ムダなものないらない”という思想を育んでいくのです。そして、ついに狂気の行動に走ることになるのです。
彼らのために紙芝居を作って披露したりしている。

■解説
 肢体不自由で口もきけない入所者「きーちゃん」の独白として構成されていた小説を反転し、映画はきーちゃんと同じ生年月日の洋子を主役としました。虚空を見つめ、沈黙の世界で命を繋ぐ寝たきりの入居者きーちゃんは、特に気になる存在です。
 洋子は東日本大震災を題材とした小説で受賞したのですが、その後書けなくなっていました。障害を持った子どもを幼くして亡くし、新たに妊娠が分かっても産むかどうか葛藤するのです。
 夢を持って介護職に飛び込んだ主人公が、現実の悲惨な失態に打ちひしがれる展開は、いかにも石井流です。他にも、小説家志望の陽子は才能のなさを自覚して洋子に嫉妬し、「きれいごとだけ書いている」と毒のある批判を投げつけるのです。また洋子の夫昌平(オダギリショー)はひたすら楽天的だが、人形アニメ作家としては芽が出ません。さとくんにはろう者の恋人がいます。登場人物のそれぞれに厳しい現実と直面せざるを得ない失望感が描かれていきました。

 けれども本作は、施設での虐待の実態やさとくんの犯行も描写して事件を再現はしますが、その異様さを訴えるだけではありません。石井監督は「さとくんをいかに普通の青年にするか」を演じる磯村勇斗に求めました。だからさとくんの狂気は全く前面に出ていません。普通の好青年に見えてしまうくらいなのです。↓

 ただし1ヵ所、そんなさとくんがすごい顔をするシーンがあります。私たちの社会が施設の奥に封印したもの。その究極を目にした瞬間の時のことです。そこから、さとくんは変わっていったのです。きっと私たち観客もそのシーンを目撃すれば、さとくんと同じ顔になっていることでしょう。このシーンを見れば、さとくんをシンプルに憎悪することなどもはやできません!善と悪の二分法的発想を木っ端みじんにする極めて危険な作品だと思います。  ↓
 なので事件を「異常事態」「特殊事例」と片付けようとする常識、良識を問うているのです。「不都合なことは全部隠蔽」「なかったことにしたいんですよね」「無傷で手ぶらで、善の側に立とうとするのはずるい」……。セリフの一つ一つは、観客に向かって突き刺ささります。↓
 高みの見物を決め込んでいた私たちは、欺まんと葛藤の渦に引きずり込まれるのです。見たいものだけを見て、触れたいものだけに触れる現代社会への警鐘とアンチテーゼが充満している作品でした。↓

■感想~やはり石井裕也監督には向いていないジャンルの作品だ↓
 脚本上で、原作のきーちゃんから洋子に主役をチェンジしたことは、余りうまくいっていません。↓
 原作は、きーちゃんの一人語りで進められるのですが、全く話すことができないきーちゃんを、映画の主人公にするのは問題なことは理解できます。それで作品のストーリーテラーとして、洋子という原作にはないキャラクターを登場させたわけです。けれども洋子の本作における存在をなんとか理由づけようとしたため、洋子の抱える葛藤の部分のウェイトが高くなってしまい、後半は事件を通じた介護の闇に迫る本題と洋子の葛藤が並列して描かれてしまうことになったのです。
 本当は、このテーマであれば大量殺人を犯すことになるさとくんを軸に進めるべきところだとは思います。しかしさとくんは、余りに自らの正義感に浸り過ぎていて、人を殺すことに全く迷いもためらいも、葛藤も見せないのです。それをまんまに描いたら、『13日の金曜日』のようなシリアルキラーの作品になってしまったことでしょう。
 とすれば、事件の背後の闇に迫るためにも、映画「ロストケア」同様にさとくんの弁護人を登場させて、弁護人の視点から事件を描いていく展開もあり得たのではないでしょうか。
 ところで、洋子の葛藤は新たに妊娠した子どもを生むかどうかです。それは、再び障害を持つ子が生まれるのではないかとの恐れであり、中絶するかどうかの葛藤です。石井監督は洋子の抱える葛藤と洋子を知的障害者施設の職員にして重度障害者介護の現実を体験させることでリンクさせようとしたのではないかと思います。
 結局その思惑は実らず、物語はどんどん洋子の葛藤の落ち着く先へと進んでいくのです。本来社会的な問題として議論すべき問題描くはずだったのに、洋子と昌平の夫婦間の問題や洋子の再び障害を持つ子が生まれるのではないかとの恐れであり、中絶するかどうかの葛藤いう、いたって個人の判断や価値観に落とし込んでいく展開にはあれれ?と思いました。
 洋子の葛藤が、本来ならば施設やさとくんと私たちの橋渡しとなり、介護の現実に距離を置いてきたわたしたちを、いや応なく直面させることになったことでしょう。そこがうまくつながらないのは、やはり石井監督の脚本の限界なのでしょう。
 結論を言うなら、石井監督が脚本を担当するべきではなかったし、監督も前田哲監督だったら、もっと心に響くヒューマンドラマになっていたと思います。

■最後にひと言
 森羅万象には仏性が宿ります。きーちゃんのような限りない植物人間に近い重度の障害者にも、健常者と同じ仏性が宿り、帰天するときは五体満足な姿で天国に還るのです。
 介護の闇の背景にあるのは、月間手取り17万円しか貰えない低賃金と仏性が宿る人間がただの物に見えてしまう唯物論的な見方でしょう。けれども奇声を発し続ける障害者にも、全く無反応な寝たきりの重度障害者にも、完全無垢な仏性が宿っています。
 もちろん、そういう環境に飛び込んで介護の仕事に向き合った場合、どんなに信仰心の篤いひとでも、毎日尋常ではない環境で仕事をしていたら、さとくんのように気持がおかしくなりがちになってしまうことは否めません。
 だからこそ、そういう悲惨な現場に飲み込まれず、障害者の方々の仏性を礼拝し、穏やかな介護現場を作り出すような小説や映画の出現に期待したいです。
 最近では、アルツハイマー患者の希望を描いた映画『オレンジランプ』や2007年のフランス映画で、脳梗塞で倒れ、身体の自由を奪われてしまったELLEの元編集長ジャン=ドミニク・ボビーの奇跡の自伝ベストセラーを映画化した感動ドラマである映画『潜水服は蝶の夢を見る』という秀作も存在しています。
 障害者の魂と一体となり得たとき、どんな奇跡が起こりえるのか。そんなお話しに触れてみたいものです。

流山の小地蔵
流山の小地蔵さんのコメント
2023年10月28日

回転寿司の玉子のエピソードについては、よく分かりませんでした。

流山の小地蔵
カールⅢ世さんのコメント
2023年10月26日

拝読いたしました。共感しました。ひとつ相談なんですが、回転寿司の玉子のエピソードの象徴する意味はなんだと思われますか?すみません、気になって仕方ないので。

カールⅢ世