「パンドラの箱に残されたかすかな希望。ディスコミュニケーションの果てに。」月 レントさんの映画レビュー(感想・評価)
パンドラの箱に残されたかすかな希望。ディスコミュニケーションの果てに。
当時社会に衝撃を与えた障害者施設無差別殺傷事件。その被害者の数もさることながら、なんの抵抗もできない人々を次々と殺害したその様に戦慄を覚えたと同時にこの事件が社会になげかけた影響もはかり知れないものだった。
ある意味この事件は現代社会において起きるべくして起きたとしか思えなかった。もちろん犯人は幼い頃から問題行動を起こすような人間で事件直前には反グレ集団のメンバーでもあった。そんな人間が起こした事件だから我々一般人には関係ないと思いたくなるだろう。しかし彼が語った動機を聞いた時、はたして自分と無関係だと言える人間がどれだけいたであろうか。
障害者は無益な存在、いるだけで社会の足手まとい、いない方がいい。そう考えていた人間も少なくないのではないか。現に事件後、彼の動機に賛同する人間も多かった。ましてや生産性などと国会議員でさえもが堂々と言うのが今の社会だ。
障害者を社会から隔絶した場所に一か所に集めて押し込め知らないふりをしている自分たちは犯人とは違うとはたして言えるのだろうか。
いわゆる優生思想、かつてナチスドイツのホロコーストのもととなった思想であり、日本でもハンセン病患者に対して隔離政策がなされた。いまの社会でこの思想が完全になくなったといえるのだろうか。いまもこの思想が人々の心の底にうごめいていて何かの拍子に表に出てくるのではないか。特に社会が貧しくなり、人々の間で思いやりがなくなってきている今のような時代では。
今の時代は不寛容な時代だと言われる。経済が長年停滞してみなが漠然たる不安を抱え、他者を思いやる余裕もないのだと。マスク警察、自粛警察と何か災害など起きれば他者をたたきまくる。他者を許容する余裕がない。中世の時代、魔女狩りが行われたのもこんな社会だったという。
社会的弱者をたたくのも同様、LGBTや外国人などのマイノリティーに対する差別は実にあからさまだ。もちろん障害者も同じく。だが、一歩違えば自分も同じくマイノリティーになる可能性は誰にでもある。障害などは後発的にも生じるものだし、ましてやみなが高齢者に必ずなる。自分がマイノリティーの側になるのだ。結局、不寛容な社会というのは自分の首を自分で絞める社会なのだ。
出産前検査で異常が分かれば九割がた堕胎をしてしまうのが現実だと劇中で述べられる。障害者だから産まないという考えと障害者だから殺してもいいという考え、この両者の考えは地続きとも思えてならない。
もちろん劇中の夫婦は、再び同じ苦労には耐えられないと堕胎するかを悩むのであり優生思想的な考えは持っていない。むしろ彼らにそのように悩ませる社会にこそ問題があるのではないか。もしいまの社会が障害者であっても幸せに生きられるような社会だったら彼らは悩んだだろうか。あらゆるケアが受けられ健常者と同じように地域社会で暮らせるような社会だったなら彼らは産むことに躊躇しなかったのではないだろうか。障害者にとって暮らしやすい社会はすべての人にとって暮らしやすい社会だ。
ちなみに障害者の「障害」とは障害者の持つ障害ではなく、社会が持つ障害をいうのだという。車いすで生活する人にとって段差は障害であり、その段差がない社会は障害がない社会といえ、障害者も障害者とは呼ばれなくなるのでないだろうか。今の社会、人の心にもこの段差がないといえるのだろうか。
いま世界では障害者施設を閉鎖し、障害者がそれぞれの地域で暮らせるような取り組みが行われつつある。カナダやイタリアではそれが特に進んでいる。日本もこの取り組みに積極的ではあるがまだまだ課題は山積している。
この事件は我々の社会に蠢く醜い部分をさらけ出した。まさにパンドラの箱を開けてしまったように。開けられた箱からはあらゆる不幸や災厄が外に飛び出して、箱の底には希望だけが残るのだという。この不幸な事件をきっかけにしてこういった世界での取り組みに賛同し、障害者であっても地域社会で暮らして行ける社会を作ってゆく、誰もが暮らしやすい社会に変わってゆく。そういう希望がまだ残ってるのだと信じたい。
本作はとても挑発的な作品だった。あえて障害者の人を奇異なるものとして見せることで我々の偽善的な部分を剝ぎ取り、自分の本性をさらけ出させてそれと向き合わせようとする点が秀逸だった。自分は障害者をどう見てるのか自問自答させようと。
また宮沢りえ扮する洋子たち夫婦と犯人となるさとくんを対比して、ディスコミュニケーションの果てに起きる悲劇とそれに相反する一縷の希望を描いている点も興味深かった。
洋子たち夫婦はたとえ言葉を交わさなくとも手のひらを合わせることで互いを理解しあっていた。そして洋子は施設で意思疎通ができない寝たきりのきえとも触れ合いによってコミュニケーションを図ろうとする。
一方、さとくんは紙芝居などで入所者たちとコミュニケーションをとろうとするも挫折し、結果凶行に走ってしまう。しかし彼が入所者たちとコミュニケーションをとれないのは当然だった。洋子たちとの飲み会の席でも相手の気持ちも考えずに不快な話を続ける彼には相手の身になって相手の気持ちを考えるというコミュニケーションの基本が初めからできていなかった。とても独りよがりな人間だというのがわかる。
相手の気持ちを理解しようとしない人間が人とコミュニケーションなどできるはずはないのだ。昌平の勤め先のマンション管理業の先輩と同様に。このように一見言葉で普通にコミュニケーションが取れる健常者同士であってもディスコミュニケーションは常に起きている。
言葉が通じていても意思疎通ができない状態、ディスコミュニケーション。互いに譲り合うこともなく、相手の気持ちを理解しようとはせず自分の気持ちだけを押し通そうとする、結果交渉は決裂。あとは実力行使により自分たちの主張を無理矢理通そうとする。いまでも世界中で起きてる戦争はこんな感じではないか。
自分の気持ちが通じない、そんな相手は人間ではない。だから殺してもいいんだというさとくんの考えは、今なお戦争を続ける為政者たちの考え方と同じものだろう。
通じないのではなく、通じ合う努力が足りないと気付かないのだ。たとえ言葉が通じなくとも相手の身になって相手の気持ちを理解しようとする洋子の姿はこんな社会において一縷の希望と言えるだろう。
おはようございます。
深い考察のレビューありがとうございます。
誰がどこまで意図したのかは、わかりませんが、長期政権が自分たちのやりたいようにするために、従順な国民を作るために(自分の頭で物事を考える人たちは政府にとっては一番面倒くさく非効率な国民)心に余裕のない競争社会を生産効率のいい社会と言い換えて、国民総愚民化を進めている。
なんて近未来SFみたいなことを時々考えてしまいます。
仰る通り、さとくんの心変わりに部分は弱かったかなと思います。
それにしても、この題材を監督含め、磯村さんは良く引き受けたなとその心意気は大したものだと思いました。(社会への、眼をふさぎたくなる事実を思い出させるメッセージ性。)
韓国映画では(過去の)政権批判も含めて、良質な作品が出ますが邦画でも藤井監督や、石井監督の存在は稀少だと思っています。では。あ、もう寝ないとヤバい・・。
今晩は。いつもありがとうございます。
今作の元ネタになった事件は今でも覚えています。偶々出張中帰りに駅で買ったローカル紙の夕刊に犯人がパトロールカーに乗り込む際にフラッシュの関係もあるかと思いますが、満面の笑みを浮かべて居るまるで悪魔の様なシーンが大見出しで出ていて、”あの犯人像をそのまま映さ瀬れるとキツイなあ、”と思ったのですが石井裕也監督がそこは上手くアレンジメントしていると知ったので鑑賞しました。
石井監督は邦画を代表する監督ですが、物語を身体障碍者大量殺人事件に向かった犯人の心情と、壁にぶち当たった作家と、人間肯定の思想を持つ夫と犯人の同僚女性の関係性のバランスの構成が凄いなと思った映画でもありました。では。返信は不要ですよ。