「予告編が映画の理解をミスリードするーユダヤ人虐殺の糾弾を主題とした物語ではないー」6月0日 アイヒマンが処刑された日 ブログ「地政学への知性」さんの映画レビュー(感想・評価)
予告編が映画の理解をミスリードするーユダヤ人虐殺の糾弾を主題とした物語ではないー
「歴史を残す」という作業には様々な立場の人の思惑がついて回る
この映画のオフィシャル・サイトでは、アドルフ・アイヒマンというナチス親衛隊の主要メンバーの処刑を裁判から焼却処分されるまでの6ヶ月間の真相を描いている旨が表現されている。確かに映画が対象としている時間はそうだ。だがこの映画で表現されているものは様々な立場でその事実に関わった人がその「歴史」をどう扱おうとしたのか、ということがテーマだ。それが、刑務所、鉄工場、学校、ポーランドという現場なのだろう。それぞれの現場で看守、記者、工場長、労働者、先生、ホロコーストの生存者、ユダヤ人協会などなど、異なる立場で異なる歴史観を持つ人たちの姿勢を映し出す。
刑務所:国家による厳格な法の執行を記録する場
アイヒマンを執拗に追跡しイスラエルに連行したことは、ナチスの行為に対する憎悪を忘れないユダヤ人国家としての顔だ。それでもその憎悪を噛み殺し、アイヒマンを人道的に扱って法の従って裁いたのは法治国家としての顔だ。刑務所で主人公になっている看守が、厳正に法を執行しながらも沸き起こる恨み・憎しみを必死に堪える姿を体現する。ベートーヴェンの名曲がナチスの悪夢を思い起こさせる亡霊のように扱う描写に使われているところが印象的だ。
ポーランド:ユダヤ人として残虐行為を歴史を記録する場
ホロコーストの現場となった収容所は、残虐行為を忘れまいとするユダヤ人の大事業の場となろうとしていた。その中で、そこに自分の居場所を見出しその歴史の生き証人として「語り部」となって生きる選択をする男性とその生き方もまた残酷なものとして疑問を抱く女性が描写されている。ユダヤ人が受けた残虐行為の非人道性は語り尽くせないというメッセージがある一方で、それが個人の人生を支配してはならないという姿勢を示す女性の姿は今のイスラエルの姿に疑問を投げかけるものではないだろうか。
学校:ホロコースト後に生まれた子供たちの記憶への記録する場
アイヒマンの死刑宣告という歴史的瞬間を子供達の記憶に刻もうとする教師が残虐な歴史をユダヤ人の子孫に植え付けようとするユダヤ人国家としてのイスラエルの姿が描かれている。それに対する子供たちの関心は当然様々だ。主人公の子供はダヴィデ(古代イスラエル王国の英雄の名前)、弟の名前はイスラエル、ユダヤ人社会で必死に生きようとするアラブ人の姿の体現だ。ダヴィデは勉強よりも生きるために稼ぐことに必死でホロコーストに対する関心が薄い。それは子供だからというよりもアラブ人だからということのほうが強調されてしまう。
鉄工所:イスラエルの歴史をユダヤ人だけの歴史として記録しようとする場
この映画のメインの場でアラブ人少年の成長が微笑ましく感じさせてくれる映画の中で唯一明るい場面であるが、この場はイスラエルの歴史はユダヤ人だけによる歴史だとしたい国民の感情を表現している場でもある。2度の中東戦争後という時期もあってアラブ人に対する風当たりは強いことは想像に固くないが、アイヒマンの遺体の焼却にアラブ人の少年が関わっていたことはユダヤ人として許容できない事実だということが伝わってくる。
ウィキ:イスラエルの歴史の中にアラブ人の記録を刻もうとする場
アイヒマンの遺体の焼却から数十年が経ち、ダヴィデの弟イスラエルは国家に命を捧げた。大人になって国家の大きな事業に自分の記録がないことに気づいてダヴィデは行動する。自分の生きた証として記録の修正を試みるも叶わない。ここで少年で何が起こっていたのかを理解できなかったダヴィデは当時の大人たちの思惑を思い知らされるのである。
現在のイスラエル政府への批判なのか
ユダヤ人入植地を増やし、パレスチナ人を苦境に追い詰め続けるのが現在のイスラエル政府だが、それに対する国際社会の態度はどこか生ぬるい。今のイスラエルの行っている行為にはパレスチナ人の人権や生存権を脅かす非人道的なものが少なくない。この映画にはそのイスラエル人にも様々な人がいて、ユダヤ人だけではない、ユダヤ人の中にも異なる考えが持つ人がいることを訴えたいのではないか。アイヒマンの処刑という場で表現したナチスに対するユダヤ人の憎悪と同じ感情がユダヤ人自身に現在向けられていることをこの映画を見て感じてもらいたいと願うのは筆者だけではないだろう。