「母と娘の物語。」ノー・ホーム・ムーヴィー comeyさんの映画レビュー(感想・評価)
母と娘の物語。
20代でフェミニスト映画の傑作を手がけて世界的名声を手にしたアケルマンが、最晩年に遺作として自らカメラを向けた、老いた母親の姿。
扱いの難しかったはずの娘に、母親は「あなたはいつもすばらしいアイデアを思いつくわね」「あなたの仕事が本当に楽しみ」と、つねに愛情に満ちた言葉をかける。母と娘は深い紐帯を築いていて、出張先からスカイプで母親と話すとき、アケルマンが画面に映った母親の姿へ、手持ちのカメラで最大限のズームをかけるシーンなんか、見ていて思わず泣きそうになる。手の届かない母親に、それでも手を伸ばそうとする娘。
しかし母親の老いが深まってくると、この幸せな関係がしだいに崩れ落ちてゆく。母は娘にぶつぶつと不満をもらすようになる。それと呼応するように、幸せな光にあふれていたアケルマンのカメラは、だんだんと真っ暗闇のトンネルや、逆光で白く飛んで輪郭を失った街並みといった、「なにも見えない」ショットが増えてくる。
母親がアウシュヴィッツからの生還者だという決定的な証言が終盤に出てくるが、これも娘のアケルマンはフランス語ではなく、覚え立ての片言のスペイン語で家政婦へぼつぼつと語るのみだ。老母の言葉も急速に不明瞭に、聞き取りづらくなっていく。だからこの映画が想定しているフランス語の観客にとっては、だんだんと言葉も破片のようになってくる。
画面も不鮮明、言葉も意味のかけらになるということは、「映画」というものを成り立たせている「視覚と聴覚」が、ともにばらばらに崩れてゆくということだ。アケルマンは、最晩年に、この境地に到達した。
ソニーのハンディカムをアケルマンが振るショットだけで成り立っている映画だけど、サウンドデザインは、20代のとき作品同様に周到で清新。映画とはこんなふうにしても作ることができるのだという驚きは、まだ学校を卒業する前の若い観客にこそ体験してほしい。