ボーはおそれているのレビュー・感想・評価
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ボーじゃなくてボウ??
関係無いけれどヨルゴス・ランティモスの『哀れなるものたち』で微妙に楽しめなかった感じが晴れやかに清々しく解消された気分で『アンダー・ザ・シルバーレイク』がぶっ飛んだ面白さだった自分の高いテンションを思い出す感覚を再び味わえた喜び、ほんの一瞬だけフィンチャーの『ゲーム』だったりデイヴィッド・リンチが滅茶苦茶な『インランド・エンパイア』の雰囲気が、ジョン・ウォーターズの『マルチプル・マニアックス』で登場した陳腐な巨大ロブスターに驚愕して失笑したあの気持ちをもう一度、そんなち○このバケモノに呆れ返り力が抜けてしまう、トロマ並みのクオリティに拍手喝采する勢い!?
前作をクソ真面目に撮った感全開のアリ・アスターが今回は真剣にふざけマクって突き抜けてしまった印象で次作に多大なる悪影響を及ぼしてしまう不安要素として本作が存在している気がしてならない、演劇で絵本の世界観を奔走するボウの場面は必要にしてもアレ無かったら二時間ちょいで済んだんじゃ?ソコがまた監督としての真面目なアリ・アスターなんだろうなぁ??
住んでいる周りほんの少しがイカれたカオスな状態で街はシッチャカメッチャカに収拾が付かない異常な光景が過剰にも破裂寸前、どこに行ってもそんな展開のオンパレードで女性の腹上死?にびっくり仰天して呆気に取られる始末!?
鑑賞後も意味が解らず頭の中は???状態でパンク寸前、ソレなりに外野の情報を纏めて自分なりに理解してみたが。。。
*ボウの住む世界は何から何まで母親の権力で支配された環境でありそんな母親に監視され逃れられない掌で踊らされていた息子の図。
ユダヤ文学・旧約聖書・ヨブ記といった小難しいようなものが重要である物語、理不尽で不幸な目に遭い続けるボウの気弱で優しい態度は変わらないが。
・ユダヤ教は喪に服すとき風呂に入らない
・キリスト教による食事前の祈りはタブー
・偶像崇拝している家には泊まれないetc.....。
ボウが間違いを犯さないように母親の指令で風呂場の天井に張り付いて監視する男、クリスチャン一家に救われるもの母親による罠が張り巡らされている、そんな一家と食事のお祈りをしてK-POPのポスターが貼られた娘の部屋で眠ってしまうボウ、偶像崇拝禁止のユダヤ教でありながら実家には聖母像が、マリア様はユダヤ人で母親がマリア様でありマリア様から産まれるのがイエス・キリスト、つまりはボウであり両手を釘で刺され脇腹を槍で突かれたキリストのようにボウも滅多刺し、ユダヤにとってキリストは裏切り者、ユダヤになるにはユダヤ人である事、ユダヤ教徒の女性から産まれなければならない教えが、母親の妨害で好きな女性とは一緒になれないボウの幸せは一瞬で砕け散り、ユダヤ的考えから?男性は種子でしかない象徴としてのち○こモンスターに哀愁が漂う、笑っちゃうけれど!?
色々な形でユダヤ教の教えに反していないかボウを見護る母親の計画が恐ろしい程の暴挙に、尽く全てに反旗を翻すボウの行動は天然から狙っての意思が?断罪されてしまう結末にボウの願いが叶ったかのような???
どちらかと言うと
どこまでが現実で どこからが妄想かわからない物語
私は全部が誇張もされていない現実なんじゃないかなと感じました
私の両親は健在なんですが、途中死んだらどうしようと怖くなり 終盤の展開は救いでした
主人公は病んでヨタってますが、常に社会性を持ち合わせていて善良で。少なくとも、自分のことしか考えてないのに自分より他人を優先しています。見習わなければ...
臆病なことは罪なのでしょうか?劇中 彼が心配する不安な予測を嘲笑うかのように、常に予測不能な災難が降りかかります。不条理と言えばそれまでなのですが、よく考えたら世の中なんてそんなもん。罰でもなんでもないはずです
自分を責めることと 後悔と反省は別なもので。映画を通して主人公がとった行動の一つ一つは誰も責められないものでした
そう考えると。誰しも もし人生を何回やり直せたとしても同じ選択や同じ決断を何度もして、結局今と同じ自分になる。それが結局ベストだったと気がつくんじゃないかとこの映画を観て思いました
おばけやしき
他人の夢
眠っている他人の脳ミソをぐちゃぐちゃに搔きまわしながら潜り込んで、
その脳ミソが見ている夢の中を当て所なく彷徨っているような感覚でした。
出口がなく、他の入り口も見えず、
混沌の中を流され続ける。
それはラストシーンまで続きます。
その感覚は、遠い昔に桂枝雀主演の「ドグラ・マグラ」を観た時とそっくりです。
すっかり忘れていたのに、鑑賞後鮮明に思い出しました。
我が人生の中で、「ドグラ・マグラ」と「ボーはおそれている」は、
双頭のトンデモ映画になりました。
これが商業映画として成立しているのは本当に驚きです。
ホアキン・フェニックスの演技がなければ、星ゼロでした。
そう言えば、子供の頃にこんな夢を見ました。
学校から帰ったら家の中に誰もいなくて、
その後天井裏を覗いたら、
天井裏に母親の抜け殻がビッシリ隙間なく列んでいた。
びっくりして天井裏から降りたら、
母親が立って無表情でこちらを見ていた。。。
もしかしたら、今はこの映画を受け入れられなくても、
そのうち受け入れることになるのかもしれませんね。
これは傑作だった。
不思議な展開と取り返しのつかない結末
「ボーはおそれている」は悪夢のような映画だった
良い意味で悪夢みたいな映画だった。3時間の長丁場。
相当に人は選ぶ作品だと思うが、自分は良かった。
# 夢が現実か
世の中には、夢が現実か分からない映画というのは他にもある。
大抵の場合、まずは現実が舞台だと思わせておいて、途中から「これは夢ではないか?」と思わせる演出が段々と散りばめられ、後半に何が夢で現実かの区分けが明らかにされる。
この映画は逆だ。まず最初にまるで夢かのような出来事が繰り広げられ、それが「夢ではなく現実であること」のサインが突きつけられるのだ。
観客はずっと「何が夢で現実なのか」「どんな秘密が隠されているのか」「真実は何なのか」と揺り動かされることになる。
# カフカ
まるでカフカの小説の「変身」や「城」のように何をどこまで進んでも真実が分からず、永遠に彷徨い続ける。
# スラム街
ボーはスラム街に住んでいる。
その街でボーは走りながら自宅のドアを開く。何故ならそうしないと、わずかな瞬間に一緒に住居に侵入しようとするジャンキーがいるのだ。何故彼の自宅が狙われているのかは不明だ。
# スラム街の無関心
街の治安は荒れ果てており、人が人を襲って血まみれにしてきても誰も助けもしない。無関心が行き着くところまで行ってしまっている。
ボーが家を出た隙に、街の住人たちはボーの家にその大勢が押し寄せる。そしてボーの家をパーティー会場にしてボーは家から閉め出されるのだ。
こうやって文章に書くと浮世離れしている気がするが、映画を観ながらだと何が現実なのかが分からなくなる。
# 妄想と現実
「恐らく現実の一部分がボーの妄想なのではないか」と思わせはするものの、その区分けは巧妙に隠されていて分からない。
たとえば一夜明けて悪い夢から醒めるかと思いきや、そこにはパーティーの後の散らかされた部屋がそのまま残っており「それが現実だったこと」のサインが示されるのだ。
かと思えば風呂の天井には何故か太った弟が張り付いており、耐えきれずに落ちてきたりする。
精神疾病でせん妄という症状は本当に現実感があり、現実と幻覚の区別が付かないらしいが、この映画でもリアルとアンリアルを見分ける材料は巧妙に観客から隠されているのだ。
# セラピスト
ボーはスラム街に住んでいるにもかかわらず、セラピストにかかっている。どこからそのお金が出てくるのだろう。
海外映画ではセラピストを揶揄するような作品が多い。この映画でもいかにも信用ならなさそうなセラピストが出てきてボーにカウンセリングをする。
主に母と子の関係についてだ。
母の死母が死に、ボーは葬儀に参列しようと旅をすることになる。
# 様々な謎
なぜボーはスラム街に住んでいるのか?
なぜスラム街の住人たちはボーの家に押しかけようとするのか?
なぜボーは録画されていたのか?
なぜ録画内容に未来が映り込んでいたのか?
ボー保護した夫婦の目的は何なのか?
ボーの父親は誰だったのか?
# 真実は?
遂に真実が明かされるかと思いきや、明かされない。真実の次に妄想、夢、現実、そしてまた真実、いやこれは違う…。
マイナーな劇団の芸術みたいに自分は実際に見たことはないが「マイナーな劇団が素人には難解すぎる劇を演じる」というようなシーンがたまに他の映画に出てくる。
その難解さを素人臭いままにせずに、究極まで突き詰めるとこんな映画になるのだなと思った。
# ポップコーン男
今日の映画館では近くの男が規則正しくポップコーンを食べていた。
カップの中をゴソゴソ…ゴソゴソ…パクッ…クシャク…。これを映画の最初から最後まで繰り返すのだ。なんと律儀な。
ポップコーンは音が出にくいからこそ映画館のスナックとして選ばれていると思うのだが、食べ方によってはやはり音が出る。
長い
ホアキン・フェニックスが主演ということとこの作品のタイトルのこの二点だけに惹かれて映画館へ
どんな映画なのだろうとワクワクしながら観ておりました
えっ?? ??ん?…… ?んーん??……
何だこれ
見始めて1時間ほどでやっと何とか分かってきました
「常識に囚われていてはダメだ、映画の世界は何でもアリなのだから、裸のランチだってそうだったじゃないか」
などと説得力のない言い訳を自分に言いながら見続けていたら新たな問題が発生
な、長い、かなり長い
ボウの恐怖の妄想なのか何なのか分からないものをいつ終わるかも分からないまま見続けるこの刑はなんなのだ
これはかなり重い刑罰ではないたまろうか
しかし意外と見てしまう、訳も意味も分からないけど見てしまうのだ
この手の作品は知っていたらまず見な、絶対スルーなのだが見入ってしまってる
でももう二度とは見ないぞ、しかし今はとにかく気になる
ボウはどうなってしまうのだ
それにしても私はいったい何の映画を見ているのだろうか
やっぱり……
ボートでいくら逃げてもママの掌
毎日新聞の映画評が好意的でキネマ旬報の星取り評が良かったので騙されて観てしまった。いくら前作の「ミッドサマー」がヒットしたからといってこの手の監督にやりたい放題やらせてはいけないとつくづく思う。極度の被害妄想マザコン中年男は逃げても逃げてもお釈迦様(ママ)の掌のうちでありましたということなのだろうか3時間この出鱈目な世界に付き合っているのは映画的楽しさをとっくに通り越して辛いですもう勘弁してください(特に第3幕の森の中の演劇パート)。監督のアリ・アスターいわく「みんながどん底気分になればいい、居心地の悪い思いをしてほしいと思って作った」とは何たることだろう!オーマイガー!でもそんなこと言われれば恐いもの見たさの心理が働いてしまうのだからそれこそ人間の心理は恐ろしい。映画は確かにルールもお手本もなく自由っちゃ自由、しかしプロデューサーはもうちょっと興業のことを考えてもいいんではないか?「せめて2時間半にしろよ」とか。それにしてもエンディングで隠されていた「父親」の真実の姿があらわになるシーンの衝撃ったらありゃしない。エンドロール(そもそもロールしない!)に音楽が一切なくラストカットを延々引っ張って現場ノイズだけで押しまくった画期的幕切れは昨今のエンディング音楽偏重へのアンチテーゼでちょっと感心した。
最悪な妄想旅
母親が亡くなったことを知り、家に帰ろうとするが夢か現実かもわからない様々なトラブルに巻き込まれ、なかなか辿り着けない最悪の旅を描く。
極度な不安症で精神科にかかるボー(ホアキン・フェニックス)は最悪な日々を送っていたが、母親が住む実家に飛行機で帰ろうとするが、トラブルに巻き込まれ出発できないでいると、母親が急死したと聞かされ、慌てて帰ろうと家を飛び出す。
帰ろうにも帰れない奇妙奇天烈な旅路を4章仕立ての3時間の長尺で描く映画。
1章で登場する危険地域にある自宅の世界観があまりにも現実離れし作られた世界なのでこれは不安症の妄想世界で、現実と妄想を行き来する展開なのかと予測したが、
そのまま、夢かうつつかわからないまま物語はどんどん深みにはまっていくのだ。
2章、3章と世界観が一変するので飽きることはない。
ただ、何を言いたいのか考察し始めると難解すぎて、3時間は疲れてしまうだろう。
ここは考えるのを放棄し、イマジネーションの炸裂する映像世界をただ堪能するのが正解かもしれない。
とんでもない、最悪な旅を体現するホアキン・フェニックスの演技がなければこの映画は成立しなかったのではないか。
母親と息子の関係、血のつながり、献身的に育てた事の見返りは求められるのかとか、家族のつながりがテーマなのかとも思う。
何が真実で何が虚構なのか?とか考えるな!笑
3時間という長さにビクついてちょっと敬遠してたけど、これならもっと早く観ておけば良かったよ。あの「ミッドサマー」の監督だよ?「理解」なんてことは期待しちゃあ、いけない。
序盤は新感覚のホラー映画として観ることもできる。後半はまあ「家族愛」的なテイストも混ぜるけど、基本こちらの知りたいことを語ってはくれない。ラストボートに乗ったボーを囲んでの告発も、もっともらしく聞こえるけど、意味不明。エレインとの絡みも行きなりの展開で意味不明。
どれが真実で、どれが妄想なのか?すべてが真実なのか、それともすべてが妄想なのか?
ホラーの大事な要素としての「説明できない、説明しないことで発生する恐怖」をちゃんと含んでいる本作は、個人的には刺さったな。
あ、あと音楽無しのエンドロール、いいね。いつの間にか観客?もいなくなってるし。置いてかれるってのは楽しいね!今年ベストの候補かな
ただ、ホアキンフェニックスである必要あったのかな?もちろん彼だからこその演技なんだろうけど、アカデミー賞受賞のネームバリューはこの作品には要らなかったかも。
3時間、長くなかった!
アリ・アスター監督が考える死の世界観では?
色んな考察が出来るので、ボーはおそれているをどう解釈したら良いのだろうかと思いながら映画を鑑賞した際にエンドロールで見た光景をみてひょっとしたらアリ・アスター監督が描きたかったのは現代の世界ではなく、彼の世の世界では?と気付いた。
最初のシーン、精神科に通院しているホアキン・フェニックス演じるボーは薬を貰い家に帰ろうとしているときからそもそもおかしい。
インスタ映え目的?ダイビングして旅立たれた方の亡骸が通報されることもなく道に置き去り、ボーは見た目からしてかなりヤンチャな方々に狙われてしまい、挙げ句の果てにはアパートの玄関先に置いていたキャリーケースを盗まれてしまい、母の家への帰省を頓挫しなければいけなくなった上に、薬を飲むために水無しで服用してはいけないものを水無しで飲んでしまったためにボーは慌ててスーパーへ向かい未購入の水を飲み買おうとするが小銭が足りず通報するぞと云われ慌ててボーはスーパーの外へと出てマンションへと戻るのだが、おかしいのはこれだけではない。
ボーが、アパートに帰れなくなった際にヤンチャな方々により勝手に不法侵入された末にやっと戻ってこれたと思ったら、ヤンチャな方が玄関先で昇天されている、更にお風呂に入ろうとした際に天井にスパイダーマンばりのおじさんが這いつくばって助けてくれと云いだすと、おじさんは力尽きボーが入る風呂へ落ちるのだが、そこでボーとおじさんが揉み合いの末にボーは全裸で逃げ出した末路がトラックに撥ねられてしまう。
これだけ書いてしまうと、何がなんやらさっぱり分からなくなるので、此処から先は私が考えたボーはおそれているの内容について考察したい。
前述したが、劇中で描かれているのはボーが彼の世の世界に行ってからの旅路ではないかと勘づいた理由について説明したい。
ラストのボーがボートに乗りながら四方をブースで囲まれるとそこは裁判所のようで、証言席に立つ母親がボーに対して愛情をこれでもかとばかりに尽くしておきながら親不孝な子供に育ったから罰をという内容だったと思うが、実は母親が訴えていた内容こそが生前のボーであり、ボーは母親が社長でお金に困らなかったために自律することはせずずーっと親の脛をかじってばかりの生活では?
クレジットカードが使えないというのは母親名義だったからというのもあるだろうが、実は使おうとしていたボーも死んでいたから使えなかったという見方もできる。ボーは母親無しでは生活出来ないと悲観した末に何かしらの方法で亡くなったのだとしたら、劇中に描かれていた世界というのはボーに対して善良な行いが出来るかどうかを旅を通し試された末にボーにはそのような姿勢が微塵にも感じられないために裁判の結果、地獄に堕ちたのではないか。
つまり、ボーがおそれているのは怪死した母親の元へ帰るのをおそれているのではなく、死んだことに対し待ち受ける試練に対しおそれているという見方も出来るわけで、だからこその最初のシーンのハチャメチャ感も、何事も都合良く行き過ぎでは?というストーリー展開も、ボーの人間性を試す上においての課題を与える立場だったと考えると納得。
いずれにせよ、普通に見て理解が出来る映画ではないために説明するのが凄く長文になってしまった。見て頂けたら同じ気持ちになるはずだ。
ハマらなかった
新たなバディの誕生か。
世の中の半分の人しか怖くない
あの恐怖映画の巨匠としてかっこたる地位を確立したアリ・アスター監督の新作だからおそるおそる観に行った。ところが、全編お母さんが息子に「あなたはあたしの愛をわかってない」という映画でした。私は息子だったから怖かったけど息子じゃなかったひとには全然伝わらないんじゃないかとおもった。
弱さは罪か?正義なのか?
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