劇場公開日 2024年2月16日

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「「ボーはおそれている」は悪夢のような映画だった」ボーはおそれている 稲浦悠馬 いなうらゆうまさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0「ボーはおそれている」は悪夢のような映画だった

2024年3月5日
iPhoneアプリから投稿

良い意味で悪夢みたいな映画だった。3時間の長丁場。

相当に人は選ぶ作品だと思うが、自分は良かった。

# 夢が現実か

世の中には、夢が現実か分からない映画というのは他にもある。

大抵の場合、まずは現実が舞台だと思わせておいて、途中から「これは夢ではないか?」と思わせる演出が段々と散りばめられ、後半に何が夢で現実かの区分けが明らかにされる。

この映画は逆だ。まず最初にまるで夢かのような出来事が繰り広げられ、それが「夢ではなく現実であること」のサインが突きつけられるのだ。

観客はずっと「何が夢で現実なのか」「どんな秘密が隠されているのか」「真実は何なのか」と揺り動かされることになる。

# カフカ

まるでカフカの小説の「変身」や「城」のように何をどこまで進んでも真実が分からず、永遠に彷徨い続ける。

# スラム街

ボーはスラム街に住んでいる。

その街でボーは走りながら自宅のドアを開く。何故ならそうしないと、わずかな瞬間に一緒に住居に侵入しようとするジャンキーがいるのだ。何故彼の自宅が狙われているのかは不明だ。

# スラム街の無関心

街の治安は荒れ果てており、人が人を襲って血まみれにしてきても誰も助けもしない。無関心が行き着くところまで行ってしまっている。

ボーが家を出た隙に、街の住人たちはボーの家にその大勢が押し寄せる。そしてボーの家をパーティー会場にしてボーは家から閉め出されるのだ。

こうやって文章に書くと浮世離れしている気がするが、映画を観ながらだと何が現実なのかが分からなくなる。

# 妄想と現実

「恐らく現実の一部分がボーの妄想なのではないか」と思わせはするものの、その区分けは巧妙に隠されていて分からない。

たとえば一夜明けて悪い夢から醒めるかと思いきや、そこにはパーティーの後の散らかされた部屋がそのまま残っており「それが現実だったこと」のサインが示されるのだ。

かと思えば風呂の天井には何故か太った弟が張り付いており、耐えきれずに落ちてきたりする。

精神疾病でせん妄という症状は本当に現実感があり、現実と幻覚の区別が付かないらしいが、この映画でもリアルとアンリアルを見分ける材料は巧妙に観客から隠されているのだ。

# セラピスト

ボーはスラム街に住んでいるにもかかわらず、セラピストにかかっている。どこからそのお金が出てくるのだろう。

海外映画ではセラピストを揶揄するような作品が多い。この映画でもいかにも信用ならなさそうなセラピストが出てきてボーにカウンセリングをする。

主に母と子の関係についてだ。

母の死母が死に、ボーは葬儀に参列しようと旅をすることになる。

# 様々な謎

なぜボーはスラム街に住んでいるのか?

なぜスラム街の住人たちはボーの家に押しかけようとするのか?

なぜボーは録画されていたのか?

なぜ録画内容に未来が映り込んでいたのか?

ボー保護した夫婦の目的は何なのか?

ボーの父親は誰だったのか?

# 真実は?

遂に真実が明かされるかと思いきや、明かされない。真実の次に妄想、夢、現実、そしてまた真実、いやこれは違う…。

マイナーな劇団の芸術みたいに自分は実際に見たことはないが「マイナーな劇団が素人には難解すぎる劇を演じる」というようなシーンがたまに他の映画に出てくる。

その難解さを素人臭いままにせずに、究極まで突き詰めるとこんな映画になるのだなと思った。

# ポップコーン男

今日の映画館では近くの男が規則正しくポップコーンを食べていた。

カップの中をゴソゴソ…ゴソゴソ…パクッ…クシャク…。これを映画の最初から最後まで繰り返すのだ。なんと律儀な。

ポップコーンは音が出にくいからこそ映画館のスナックとして選ばれていると思うのだが、食べ方によってはやはり音が出る。

稲浦悠馬 いなうらゆうま