ボーはおそれているのレビュー・感想・評価
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ブニュエル的プロットとデ・パルマ的悪趣味が炸裂する「地獄めぐりでマザコン・セラピー」映画!
まあ、たしかにこんなの見せられても、
ちょっと途方に暮れるよね(笑)。
扱いに困るというか。
何が何だか意味がわからないとはいわないが(むしろ何がやりたいかはわかりやすい映画だと思う)理屈の通った筋らしい筋はまるでないからなあ……。
でも個人的には、あちこちで大笑いさせてもらったし、何が起きるかわからないので、ずっとわくわくしながら退屈もせず、寝落ちもしないで最後まで楽しむことができた(嘘。ちょっとだけ森のコミューンのシーンは長すぎて一瞬気が遠くなったw)。
ここでは、アリ・アスターが「何をやりたかったか」の話をする前に、
まずはこの映画が「何に比較的似ているか」の話をしたい。
なお、公開三日目なのにもう調布ではパンフが売り切れていて(!)、すべて今から書くことは己が脳内での勝手な決めつけであり、いろいろウソを並べ立てているかもしれないのでそこはお許しください。きっとみんな観ても訳わかんないから、せめてパンフで情報を補完したかったんだろうなあ(笑)。僕も欲しかったよ……。
一見して、僕がこの映画が何に似ていると思ったかというと、実はルイス・ブニュエルにとてもよく似ていると思ったのでした。
ルイス・ブニュエルといえばまさに「不条理映画の王様」みたいな巨匠監督だけど、
「●●をやりたいのに、どうしても●●ができない」
これこそは、ルイス・ブニュエルが得意とした黄金プロットだ。
部屋から出たいのにどうしても出られない『皆殺しの天使』。
峠を越したいのにどうしても越すことができない『昇天峠』。
料理を食べたいのにどうしても食べられない『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』。
『ボーはおそれている』は、明らかにこの路線を引き継いでいる。
“実家に帰省したいのに、どうしても帰省できない”不条理映画。
ルイス・ブニュエルとの類似点は他にもある。
女性に対する若干気持ち悪いフェティシズムの発露と、毒のあるセクシャルなシーンの挿入。ブニュエルといえばなんといっても脚フェチだが、本作ではマザコンを拗らせた男の赤毛への執着が描かれ、騎乗位プレイが繰り返される。
街に一歩出たら危険がいっぱいという感覚に関しても、非常にブニュエルに近しいものがあると思う。ブニュエル映画では『アンダルシアの犬』の頃から、道を歩いているだけでいきなり車に撥ね飛ばされるわ、路上にふつうに死体が転がってるわの剣吞な描写が続いていたが、後年の映画になると、何かと街角でテロリストが銃を撃ったり爆弾を爆発させるシーンが唐突に挿入されるようになる。ボーが住んでいるアパートの不条理なクレーマーと、一歩出た街角の悪夢的なデンジャラスさは、まさにブニュエル譲りの世界観だといえる。
じゃあ本作の不条理劇としてのテイストが、誰の作品にいちばん近いかというと、僕は初期~中期のブライアン・デ・パルマにとてもよく似ていると感じたのだった。
もちろん、デイヴィッド・リンチっぽい部分も出てくるし、前述したブニュエルやら、ホドロフスキーやら、オーソン・ウェルズの『審判』やら、さまざまな既存の「不条理劇」からテイストを受け継いでいるのはたしかだろう。
しかし、この全般的に「人を食ったような」「あまり笑えない悪ノリの勝った」「ひたすら品のない露悪的なネタを連発する」テイストってのは、やはり僕にはデ・パルマのクセの強いホラー・サスペンスにいちばん似ている気がしてならない。
とくに『ボディ・ダブル』とか『レイジング・ケイン』とか。
だいたい、頭のおかしい支配的な毒親と心を壊された子供の内的闘争が全体の大テーマってのは、そのまんま『キャリー』だもんね。明らかにパイパー・ローリーとパティ・ルポーンの演技プランにはある種の共通点があるし、どちらもイニシャルが「P.L.」なのだって、もしかしたら意味があるのかもしれない(多分ないけどw)。
多重オチや夢オチがどんどん肥大して収拾のつかないことになっていく悪趣味なつくりや、唐突に下卑たセックスシーンが入って来る下世話感、突然豹変するように狂気を噴出させる女性の怖さの描写、決め所でかかるメロウで通俗的なダサい曲など、端々にデ・パルマっぽい「バッド・テイスト」が漂っている。
これにアリ・アスターが大好きなホラー映画のエッセンス(『エルム街の悪夢』の風呂シーンとか、チャールズ・ブロンソンの『殺人鬼』に出てくる全裸殺人犯とか、『ミザリー』における献身的な介護とか、『ハロウィン』の背後への殺人鬼映り込みとか、ダリオ・アルジェントの三原色とか、初期ピーター・ジャクソンのテイストとか……)を加えたうえで、さらにアートアニメや劇中劇の要素までぶち込んで、ラストではルキノ・ヴィスコンティの『ルートヴィヒ』に目配せなんかもしつつ、この雑駁なシネフィル的不条理映画は成立している。
では、こういった諸々の「クセもの不条理映画」の成果を徹底的に注ぎ込んでまで、アリ・アスターがやりたかったことというのは一体何なのか?
言い換えれば、この映画はどんなジャンルの映画なのか?
答えは比較的簡単だ。
これは、いわゆる「地獄めぐり」の映画なのだ。
そんなジャンルあるのかって?
ジャンルとしては、たしかにないかもしれない。
でも「地獄めぐり」は、欧米の小説・映画において様々な形で何度も採用されてきた、西欧文化の核心を成す重要な「型」である。それは間違いない。
その源流は、ダンテの『神曲』煉獄篇、および地獄篇だ。
さまざまな「悪」を見て回ることで「魂の浄化」へと至るというこの構図(キリスト教の「贖罪」の思想と深く関連する)は、たとえば『時計じかけのオレンジ』や『キラー・インサイド・ミー』では、前半で悪行の限りを尽くした主人公が、後半で因果応報の拷問を受けることで自らの「悪」と向き合うという形で援用されている。悪夢の連鎖がそのまま「地獄めぐり」として機能している映画としては『ブレインストーム』や『ジェイコブス・ラダー』があるし、もっと古い映画だと『ベン・ハー』などもそうだ。
近年の地獄めぐり映画で出色だったのが、チェコ映画の『異端の鳥』。フィル・ティペットの『マッドゴッド』も、絵に描いたような「地獄めぐり」映画だった。
「地獄めぐり」映画は、ひどいことが起こり続けた挙句に、主人公が追い詰められて死に至るような映画ではない。
本人にとって経験したくないような事象、直視したくないような内容。
そういった「ひどいこと」の連鎖によって、主人公の「業」が「浄化」され、オブセッションから解き放たれるような、「再生」と「復活」の要素が含まれてこその「地獄めぐり」である。
その意味では、『ボーはおそれている』はまさに、「地獄をめぐることで」自己と向き合い、その根幹で自らを縛り上げているマザー・コンプレックスと正対し、そこからの解放・浄化に至るという道筋を持っており、まさに「地獄めぐり」映画と呼ぶにふさわしい。
たしかに、あんなことになって話は唐突に終わってしまうわけだが(笑)、少なくとも彼は悪夢的体験を経て、長年苦しめられてきた毒母による呪縛の正体を解き明かし、実際に反撃を加えるところまで「成長」することには成功しているのだ。
『ボーはおそれている』。
いったい何をおそれているのか?
もちろん、母親だ。
彼の神経症も、対人不安も、挙動不審も、元をたどれば母親との関係性に起因している。
もともと「帰りたくても帰れない」のは母親に極度のプレッシャーを感じていて、内心は「帰りたくない」からだ。
そんなボーも、幼少時の自らの記憶と対峙することで、母親への執着と性的な抑圧の淵源にたどり着き、それを言語化し、母親との関係を相対化することができた。
ラストシーンは、洞窟という「女陰」の象徴たる場所の奥へと至って(いわゆる「子宮回帰願望」というやつで、冒頭の「産み落とされる」シーンと実は呼応している)裁判の形で生前の因果が端的に表現されるわけだが(日本でいうところの閻魔様のお裁きの場)、そこで彼は今までの「偽りのセラピストによる偽セラピー」ではなく、「本当のセラピー」を経て「自分を知る」ことになるのだ。
あまりこの映画を理屈で語っても仕方がないと思うけれど、普通に考えれば、最初に部屋に戻ってきたシーンで本当はもう蜘蛛に刺されていて、あとの展開は「すべて」そこから死に至るまでに見た悪夢だと考えた方が辻褄はあうだろう。
だって、あんな危険すぎる街角とか、あるわけないんだし(笑)。
少なくとも、天井にへばりついてるオッサンから涙がぽたぽた落ちてくるシーンで、すでに「夢」の領域に入っていないとどう考えてもおかしいわけで、結局は「ほとんどのシーンは実際には起きていない脳内妄想」だと考えるべきか。正直、あまり理屈やつながりは重視しないで、のんびり刹那的に愉しんで観ればいい映画だと思う。
あとはとにかく「悪夢の鉄則」である、「起きてほしくないこと」が起き続けるという唯一のルールに従って物語は展開していく。
●●しようと思ったら●●できない。
隣人に脅迫的ないちゃもんを受ける。電話がつながらない。出かけようとしたら鍵をパクられる。薬を飲もうとしたら水が出ない。水を買おうとしたらお金が少したりない。部屋に戻ろうとしたら戻れない。朝になってやっと戻ったら死体が待ち受けている……。
人生、うまくいかない嫌なことばかりだ(笑)。
ボーの身に起き続ける「嫌なこと」の芸術的な連鎖は、まさに「悪夢のロジック」としては完璧である。あと、話が行き詰まって来ると、死ぬような衝撃的なシーンで暗転していったんリセットしたあと、なんとなく適当に「次の別の悪夢が始まる」というのも、いかにも悪夢らしい。
こういった「悪夢」の法則にのっとってとりとめもなく紡がれ続ける物語を、いったいどういう形で閉じるつもりだろうと思って観ていたら、きわめてミステリ的な仕掛け(身●●●殺●とか『トゥルーマン・ショー』的なオチとか)が用意されていたのにはちょっと驚いたが、これとて「夢のなかで観ているときは超クールに思えたミステリ的などんでん返しだけど、目が醒めてから冷静になって考えてみたら、あんまりたいしたことなかった」ネタっぽい感じがあって、個人的には笑えた。
なんにせよ、「地獄めぐり」を経てマザー・コンプレックスをセラピーする物語としては、あらゆる出来事が「自分探し」と「母性の探求」につながっており、意外に「ロジカル」な映画なのでは、とも思う。
これを観て面白いと思わない人がいるのもよーくわかるが、個人的にはこの手のバッド・テイストも不条理展開も基本、大好物なんで、星四つとかつけてみました。
その他、ふと思ったことなど。
●冒頭、赤ちゃんの視界がぼやけているのは、実際にそうらしい(視覚で得た情報を形として認識するのには経験と訓練が必要)と昔、大学の心理学の授業で教わったのを思い出した。
●アホっぽい通俗曲を終盤かけまくっていたのが印象的だが、ところどころでクラシックの楽曲をアレンジして使っていたのは面白かった。
冒頭流れる女声スキャットは、バッハのアリオーソとして知られるチェンバロ協奏曲第5番の第二楽章。続く尺八を用いた劇伴は武満の『ノヴェンバー・ステップス』を思わせる。最後の海に乗り出すシーンでかかる曲の冒頭のハープは、マーラーの交響曲5番のアダージェットと同じ音型でどきりとさせられる。
●ボーの寝ている部屋のガーリーな色調が宣伝写真として用いられ、『バービー』みたいなノリの映画なのかと思って観に行ったら、まるでそんな映画じゃなかった(カラフルなのはあのシーンだけ)。非常に悪意のある引っ掛けである(笑)。
●全編のなかで一番完成度が高いのは、冒頭の「出られない/戻れないアパート」と、中盤の「謎一家」のシーンだろうが、後者はシットコムのパロディなんだろうね。
●正直あのチンコ怪人は爆笑したけど、よくわかりませんでした(笑)。「誰」の男根恐怖なんだろう?
●『バッド・ルーテナント』に続いて、なぜか二作連続で中年男優の全裸を観てしまった。俺のガンはでかいぜ!
反出生主義?
個人的にはすごく好みの映画でドはまりしたけど、たぶん万人向けではない。現実か夢かあいまいな世界が3時間も続く。こんな長い時間、幻想の世界に浸れるなんて最高だ…、と僕は思ったが、これが拷問のような時間に感じる人もいるだろう。
「ミッドサマー」では新しい恐怖の開拓に成功したけど、この映画も従来のホラーとは一線を画す、新しい恐怖を描いている。それは、普通の日常がとてつもなく怖い、という恐怖だ。
主人公のボーは、異常な怖がりで、うがい薬を飲み込んだだけでも、それが原因でがんになるかを心配するほど。実際に恐怖性障害、不安障害、強迫性障害といった神経症は存在する。あとの展開を考えると、ボーは統合失調症ももっている可能性がある。
神経症を患っている人の恐怖感や見えている世界がどのようなものか、当該者でなければどうしても理解できないものだと思うが、この映画はもしかしたらそれを体感させようとしているのかもしれない。
この映画は、さんざんな目にあうボーを笑い、超現実的な展開を理屈抜きに感性で楽しむのが正しい鑑賞法なのだと思うが、展開がひどく思わせぶりなので、どうしてもいろいろと意味を解釈したくなってしまう。
<世界観>
この映画の世界は現実なのか、夢なのか。わざと曖昧にし、意図的に混乱させようとしている。たとえば、寝るシーンや気絶するシーンがたびたび挿入されることで、観客は無意識に合理的に辻褄をあわせようとしてしまう。しかし、おそらく「現実か夢か」を考えることに意味は無い。どちらかはっきりしない、混乱した状況こそが、ボーの感じている不安の一部なのだから。
しかし、この映画の世界がひどく「夢」的であることは確かだ。
(1)夢によく出てくるシチュエーション(家の中に見知らぬ他人が侵入する、全裸で街に出る、敵味方が反転する、追いかけられる、など)がある。これは原初的な不安が表現されたものともいえる。
(2)水、森、ジプシー(的な人々)、演劇、凪の海、洞窟など、深層心理学的(特にユング的)な象徴に満ちている。
(3)主観・客観の逆転、辻褄が合わないことが起きても主人公が疑問に思わない、時系列の混乱と同時性(監視カメラに未来のイメージが映る)がある、という夢の特徴がある。
<ストーリー>
起承転結に分けると、「起」では、肉体的な安全が脅かされる恐怖が描かれる。危険に満ちている不潔で不愉快な外界と、かろうじて守っている自分のテリトリー。そのテリトリーを侵害されむちゃくちゃにされる恐怖。
「承」では、人間関係(社会性)の恐怖が描かれる。自分が本来居てはいけない場所に居て、他人に激しい悪感情をもたれている、といういたたまれなさや、明示されない人間関係の中に放り込まれる寄る辺なさの恐怖。
「転」では、一転変わって、はじめてボーは信頼できそうな人たちのコミュニティの一員となり、恐怖から解放される。演劇の世界の中で精神的癒しを受け、成長を促される。
「結」では、ボーが最も愛し、かつ最も恐怖している存在である、母親との対決が描かれる。
<テーマ>
母親からの歪んだ利己的な愛により、精神的な「去勢」をされてしまった主人公の悪夢のような精神世界、だろうか。
母親は愛に飢え、子供からの愛を要求する。そこには相互の愛の交換は無く、一方的な愛の搾取があるのみ。母親にとって子供は愛の飢えを満たすための道具でしかない。無条件の愛を知らない子供は、母親の意に反してしまうことを極端に恐れ、自分の意志を封印する。自分の意志をあらわすことを恐れ、What do you mean? や Why? を繰り返す。
ボーは、無条件の愛を知らないが故に、他人を信頼することができない。ボーに親切にする人や、セラピストを信頼していない。
この「毒母親」のテーマの裏には、「父性の欠如」「男性性の否定」という現代の普遍的なテーマがあるように思う。母親の家の屋根裏には、「やせほそり監禁された自分の半身(男性としての自分)」と「醜い怪物のような男性器(父親)」が隠されていた。これは、現代において(この映画では母親にとって)、「父性」や「男性性」が忌むべきものとみなされていることを意味しているのではないか。
「承」のボーが滞在していた家で、「兄が戦死している」というのは、過去の時代においては、「父性」や「男性性」の価値が認められていたことの象徴ではないか。
ボーが「兄」の代わりにはなりえないのに、「兄」の代わりをさせられそうになるいこごちの悪さは、男が必要とされない社会で、男であることの申し訳なさを表現しているように思う。
「男性性」が否定されているから、恋愛対象に自分の思いを伝えることができないし、男性である自分自身を肯定的に見ることができない。
そういえば、精子バンクを利用する人の中には、「結婚はしたくないけど子供は欲しい」という女性が相当数いる、という話だ。
また、この映画で「反出生主義」を連想した。反出生主義というのは、人間は生まれてこない方が良い、という考え方のことで、近年この考え方がじわじわ広がっているという。
映画の冒頭、ボーの視点で「苦しみに満ちた世界」に生まれてこなければならない恐怖が描かれる。彼が世界を肯定的に見ることができないのは、そもそも生まれた瞬間からだ。
<ラストの解釈>
終盤では、この映画はどういう決着になるのか、ということを気にしながら観ていた。果たしてハッピーエンドになりうるのか?
母親に対する愛情と憎しみの葛藤を、「母親殺し」をすることで超克し、平穏な精神状態を象徴するような凪の海に船出し、産道を象徴するような洞窟をくぐり、ときたところで、「これはハッピーエンドに向かっているのでは?」と感じた。
しかし舟のエンジンの不調が不穏な兆候を示す。エンジンは心理学的にはリビドーか? なぜうまくいかなかったのか? 素人考えだが、本来のエディプスコンプレックスは、母親を手に入れるために父親に憎しみを抱く、というものだが、それとは異なる過程を経たためか?
最後、何もかもうまくいきそうになりながら、急にアンハッピーエンドにして突き落とすところは、「未来世紀ブラジル」みたいだ。
もし、洞窟が産道、弾劾裁判みたいのが行われた球状の空間が子宮なのだとしたら、そこで死んだボーは、「生まれる前に還った」ということになる。
これは、「生まれたくなかった」というボーの願いの物語ということになり、冒頭につながる。
<劇中劇の意味>
「転」の森の中での劇中劇は、かなりの長尺だった。この映画の評価を低く考える人は、たぶんこのパートの長さを挙げるだろうな、と思うほどに長かった。
でもそれだけに、ここに最も重要なメッセージがこめられているようにも思う。
劇中劇は、「夢の中の夢」とも考えられ、深層心理の奥の方、ユングのいう「集合無意識」を表しているのではないか。
集合無意識は個人的体験に由来するものではないので、ボーの個人的体験に影響されず、ここには彼が生まれてから経験した恐怖のイメージが入り込めない。
とても神話的な物語である。自分を支配する鎖を自らの手で断ち切ること(2回も!)、何十年にも渡る愛する家族の捜索、スープと演劇の二者択一で演劇を選ぶことで家族と再会できたこと。劇中劇の中にさらに劇があり、無限の入れ子構造になっているのも幻惑的で良い。
印象的だったのは、この劇中劇では、ボーは困難に苛まれても、意思と工夫によって成長していき、自分自身の人生を歩めていたこと。現実のボーが優柔不断で受け身にしか行動できないことと対照的である。
この劇中劇で、ボーは仮想的な一生を体験し、なんらかの精神的成長を遂げたはずである。母親のために買ったマリア像は、おそらく母親への執着を象徴しているのだと思うが、これを手放すことさえしている。
映画全体の中で、劇中劇のパートは物語としては省いても何ら問題ない。では何のためにこれがあるのか? それは、「観客とこの映画の関係」を示唆するためではないか。
とりとめもなく続く悪夢をずっと観させられている感じ
アリは恐れている、ファンに飽きられてしまうのを!
2月なのに異常に気温が高く、何処もが暖冬。
半袖でウロツク外国人旅行者も出るくらい街中は暖かいよ。
そんな中、毎作異常熱を発した作品をだす アリ・アスター監督の最新作「ボーはおそれている」を観に行った。
本編179分の時間無駄使い作品、ココに見参です!
2018年ヘレディタリー/継承
2019年ミッドサマー
2023年ボーはおそれている
どれも観て来たけども、今回も想定してた通りヤッちまッてたね。
今作は家族の愛がテーマとか言ってたけども その通りの作品でした。
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あらすじ(※一応あるようだ)
精神科クリニックに通う中年男(ボゥー)の話。彼はとても心配性でその日常は大変な様だ。住まいは荒んだ街中にあるオートロック式マンション。何故か浮浪者(変人・狂人)に追いかけられ隠れおびえて暮らしてる。ある日、
実家に帰る電話を母にしていたが 2度目に連絡入れた時から向こうの様子が変。どうやら、直前まで電話で話していた母が突然亡くなった模様。彼は慌て急いで帰ろうとしたが部屋の鍵を盗まれ、挙句に浮浪者たちに部屋は荒らされ・・・とにかく実家に戻り母の葬儀に立ち会おうと、それだけを目指す目的の流れです。この道中が奇想天外、摩訶不思議で~そして支離滅裂。分けわからんこの上ない事に~です。
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まぁ、こうなるだろうとはほぼ思ってました。よってガッカリ感は感じません。
だろうな・・・的な思いが強いです。
そろそろ 皆さん気が付いてるだろうし、ファンも今作で彼の醸し出す味付けに飽きて来るでしょうね。
主演のボゥー:ホアキン・フェニックス氏は 我慢し良く演じたと思います。
流石です、大御所俳優なのによく局部を晒したなと思います。
今作で一番の場面は、ボゥの自分部屋のバスル-ム天井に男が必死に張り付いてて、毒蜘蛛が顔に付いたことで落下し、風呂入ってたボゥーと 抱き合いながら格闘するところでしょうか。
慌ててボゥは全裸で外の道路へ飛び出し、ポリスに撃たれそうになるわ、全裸の変人爺に狙われるわ、挙句にトラックに引かれるわ・・・。
ここのシーンは腹抱えて声出して笑いましたわ。(*´ω`*)
そもそも 真面目で心配性な彼が 色々な事に巻き込まれながらも とにかく家へ戻りたい。その一心で有った思いは良く理解できました。
そこは凄く良いんですが、とにかく周りの奴等、出てくる場所、繋がりがとっても変で、精神科に通う彼の頭の中が悪夢の状態なんだろうと察しは付きます。しかしそれでも 現実の繋がり現象がオカシク・・・終盤迎え駄作判定にせざるを得ない状況に成ってしまってます。そこが残念極まりないかな。
大体、2時間エンドで1回目、2時間半エンドで2回目、そして3時間エンドで3回目のエンディング風な構成展開を持ってきてます。しかし 終わりそうに見せておいてまだ続きを遣るという しつこさ。
監督なりに考えたのでしょうけども。最終展開流れと最後はダメっすね。
地獄のエンマ様の裁きってやつでしょうか?? アレは。
この作品みて素直に思った事は
”君たちはどう生きるか” の実写版にはアスター監督が相応しいと
ちょっと感じましたねww
時間がアリ余ってる方は
どうぞ劇場へ!
3時間は長くない
マスコミの映画評ではそれほどでもなかったけど、ホラーを見たかったので、あまり期待せずに見たら予想外にパンクな感じで面白かった。現実なのか夢なのかよくわからないような光景が多いが、それが面白い。それぞれの細部がよくできているので、ストーリーを忘れてそれぞれの場面がすごく面白かった。
映像だけではなく、音楽や効果音もとてもよかった。目をそむけるような衝撃的な場面があるわけでもないが、怖がらせる演出の中にユーモアや余裕がある。遊園地のジェットコースターみたいな感じで、安心して怖がれる感じで、楽しい。
だけど、成功した実業家の息子がなぜスラム街に住んでいるのか?勘当されたわけではなく、母親と普通に電話しているので、そこが気になった。優柔不断の性格なので、母親から快く思われていないのはわかるが、普通のところに住めばいいのに、よりによって無法地帯に住んでいる理由がよくわからなかった。でも、理由は多分、単純で、「その方が面白いから」。実際、その無法地帯は秩序が崩壊してしまった近未来の都市みたいで、すごく面白かった。森の中で暮らす劇団も世界核戦争で生き残った人たちのような感じで、近未来SFみたいで面白かった。
サスペンス+ホラー+SF+ファンタジー+お笑いと言ってしまえば身も蓋もないが、細部に凝っているので、何度も見たくなる映画だと思う。チープな感じを意図的に出しているところもあるが、それは演出なので、面白い。私としては屋根裏の父親のシーンが最高だった。なぜ、屋根裏にいるのか?理由は簡単で、「その方が面白いから」。よくこんなシーン考えるなあと感心した。
嫌な気分にさせてくれてありがとう
私はいったい何を観させられてるのか・・・・
途中で寝た
この映画、彼氏・彼女や親御さんと見に行った場合は猛烈に気まずいから要注意だよ。
私はというと、冒頭1時間で飽きてしまい、中盤は少し寝た。(ちなみにレビューで「寝ました」という感想は最高に面白くない映画にしか使わない表現です。)
さすがに上映時間が三時間は長すぎるんだよ。実験的な妄想映画なら、それならそれでもっと内容をまとめて観やすくしないと。もしこれが一時間くらいの短編だったらもうちょっと高評価だったかな?
途中ポップコーン食べることしか楽しみがなくなって困った。
あー、でも最後の水上での裁判は少し面白かったかな。あれはラスト、沈んでいったあとにボーが生まれたときの音声っぽいのが流れてたから、また生まれて話がループしてるってこと?
いや、もう知らん。考えるのがめんどくさい。あのお父さん一体何なの?本当に意味わからん。あとお父さんと戦ってたやつも誰?怖っ。
監督はペンキでも飲んでいてください。
本当は星0個だけど、裁判シーンと音楽がうるさいっていう隣人からの苦情のお手紙がちょっと笑えたのと、TOHOシネマズのバターしょうゆポップコーンが美味しかったので星1.5個追加しとくね。
なんだこれ
『ガープの世界』かと思ったら、
『俺の空』みたいでもあったし、
最後なんか『555 パラダイス・ロスト』みたいだった。
ホアキン・フェニックスの演技はさすが。
不安を誘う絵作りや間もよい。
だが映画通を気取って褒め上げることもできなくないけど、
絢爛すぎてというかケレン味がありすぎて
整合性をあえて無視して男の主観の悪夢に終始したため
とっちらかっている感のほうが強く、ノリ切れない。
なぜ路上の全員があの部屋を目指すのか。
MW社の差し金?
タトゥーの男の死因はなんだ? 蜘蛛?
天井の男は何をしていた?
外科医夫妻のテストってなんだ?
親父だったのがチンコになっているのはなんなんだ?
ぜんぶ妄想や悪夢なんだといわれれば
ああそうですかと答えるだけだし、
劇中でつぶさに語るようなものではなく、
シチュエーションのインパクトや異常性を楽しむもんなんだ
と言われればそうなんだけど。
そういう「解れよ」的なシークエンスを
知ったような顔して褒めそやす気にもなれず、
観るほどに没入感とは真逆のほうへ向かうばかり。
楽しんではいたんですよ。
179分とかいうアホみたいな長さも退屈はしなかったし。
でも受け入れられないところが多すぎた。
思えば『ヘレデタリー』もダメだった。
『ミッドサマー』は楽しんだけど。
もしかしたら監督と相性が悪いのかもしれない。
パンフを読んで2度目を観たら変わるかな…。
悪夢を観た
途中までは最高
理解を超えた展開で、演劇パートまではすごく面白く観てました。この後どうなるんだろう?!と。
演劇パートはボーの別の生き方、選択肢だったと思いますが、もう訳が分からず何故だかつまらなくなって、時間だけが長く感じました。ロジャー、グレース、トニはモナに雇われていたと思いますが、トニはどういう立場だったのか?なんでペンキを飲んだのか?それすらも妄想?
そもそもあの薬は手下のカウンセラーはなんで処方した?
そもそもチャンネル78で未来も決まってるらしいけど、冒頭の薬を飲むシーンで、ラストまでの流れが出てきているので、ボーは最後は飛び降りて自殺したのかな。
よくわからない系の映画ですが、割と好きなタイプの映画で、もう一回くらいは見ても良いかなと思いました。
【やっぱり癖凄、でもテーマは普遍的かも】
『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』のアリ・アスター監督&Hollywood指折りの性格俳優ホアキン・フェニックスときたら観ないわけにはいかない。ホアキン出演作はとりあえず逃さず鑑賞。
終始現実か妄想か?の境界線が漠然とした支離滅裂な早い展開に面食らう。アニメーションや舞台装置を演出に取り入れたり、ワサワサさせる画角映像に音響音楽と、アスター監督独自の世界観に加えて、冷静と狂気の狭間で混乱するホアキンの演技で長尺を感じなかった。
よくもまぁこんな脚本作ったものだと賛否両論あるだろう癖凄作品だが、アスター監督の過去作品同様に“家族との葛藤”がテーマ。主人公がどんなナンセンスエピソードに遭遇しても只管に受動的なのも家族、とりわけ母親のとの関係がそうさせるのだと妙な納得感アリ。
色々なフリにしっかりオチがあって、現代社会へのアンチテーゼも落とし込んで、呆気に取られるエンディングも含めこれら全てが如何にもアスター監督ぽい。
ポスターに油断していた。
ポスターを見てポップな映画を想像していたら、不安神経症の内なる世界の様な物語で、先々不安になる怖いものでした。
それでも、映像は綺麗でとても丁寧に作られています。
ホアキン・フェニックス見事過ぎて疲れました。
30分単位で分けて見れば消化できる映画ですが、179分通して見るとヘビーです。
「わからない」と拒否した方が安全で、食いついて見てしまうと気持ちが沈みます。
気持ち的には評価ー5.0ですが、作り手の情熱を感じる見応えのある映画なので、評価3.5としました。
日曜日13:25 観客3名、がんばれー。
封切り3日目で123レビュー、感心はあつめてるぞー。
成功体験てんこ盛りの「フォレストガンプ」見て、精神の安定を取り戻そうと思います。
最後の裁きの場合
これは結局のところ最後の妄想シーンで、ボー自体、自分が母親を殺めてしまったことの後悔があの妄想を呼び、自殺に至ったのだろう。でないと、いきなり池でボートを出して裁きの場に行こうとしたとは思えないし、そこが死者の集まった場所とするならば、あのカウンセラーの姿もあったからだ。あの場には、彼がこれまで母親との絡みで接してきた全ての人がいたと考えるのが妥当なんだろうな。
そしてボートが転覆してボーは水の中に。この映画の冒頭は、ボーが堕胎で外に出てくるところから始まるが、それがまた母親の胎内に戻っていくように確かに捉えることができる。その転覆といえば、ボートの転覆は、ボーがカウンセラーのところに行った帰り、屋台でさまざまなものを売っているが、その中で水槽の中でおもちゃのボートが転覆するが、確かにあのシーンは最終のシーンの暗示なんだろうな。
昨日、今日と立て続けに見てしまったが、もちろん上のような考察は面白いが、アリアスター監督の作品は、一回だけ見て、自分の胸の内で色々と考える方が本当はいいのかもしれないと感じてもいる。今年のベストに入る作品と言ってもいいように思う。
旅路の果ては安堵ではなかった、、、
ジョーカーからの、ナポレオンからの、ホアキン・フェニックスの変貌っぷりを見たい!で観に行った。体張ってました。すごい満身創痍っぷり。一番ちゃんとした服着てたのは森で出会った謎劇団からあてがわれた衣装だった。
隅々まで手抜きなしの、サービス精神溢れた、全然ホッとさせてくれない映画。全てが虚飾の美、もしくは圧倒的カオス二択二重の世界。
振り返ってみると既視感のあるようなエピソードや映像の切り貼りぽく見えないこともないんだけど。同じ夢が何度も出てきたり。なぜかゾワゾワする人たちにしか出会えないポーの人生、本当につらそうだった。でもお人柄がなんだかチャーミングで。そしてこれは夢なのかなんなのか、何かから覚めないうちに急なエンディング、なのでした。置いてきぼりはもはや快感、脱力。
大きな意味で上映中の「哀れなるものたち」とリンクした世界観感も感じた。
いずれにしてもハリウッドでも発達障害主人公モノは一つのジャンルになってると思う。
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