「反出生主義?」ボーはおそれている SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
反出生主義?
個人的にはすごく好みの映画でドはまりしたけど、たぶん万人向けではない。現実か夢かあいまいな世界が3時間も続く。こんな長い時間、幻想の世界に浸れるなんて最高だ…、と僕は思ったが、これが拷問のような時間に感じる人もいるだろう。
「ミッドサマー」では新しい恐怖の開拓に成功したけど、この映画も従来のホラーとは一線を画す、新しい恐怖を描いている。それは、普通の日常がとてつもなく怖い、という恐怖だ。
主人公のボーは、異常な怖がりで、うがい薬を飲み込んだだけでも、それが原因でがんになるかを心配するほど。実際に恐怖性障害、不安障害、強迫性障害といった神経症は存在する。あとの展開を考えると、ボーは統合失調症ももっている可能性がある。
神経症を患っている人の恐怖感や見えている世界がどのようなものか、当該者でなければどうしても理解できないものだと思うが、この映画はもしかしたらそれを体感させようとしているのかもしれない。
この映画は、さんざんな目にあうボーを笑い、超現実的な展開を理屈抜きに感性で楽しむのが正しい鑑賞法なのだと思うが、展開がひどく思わせぶりなので、どうしてもいろいろと意味を解釈したくなってしまう。
<世界観>
この映画の世界は現実なのか、夢なのか。わざと曖昧にし、意図的に混乱させようとしている。たとえば、寝るシーンや気絶するシーンがたびたび挿入されることで、観客は無意識に合理的に辻褄をあわせようとしてしまう。しかし、おそらく「現実か夢か」を考えることに意味は無い。どちらかはっきりしない、混乱した状況こそが、ボーの感じている不安の一部なのだから。
しかし、この映画の世界がひどく「夢」的であることは確かだ。
(1)夢によく出てくるシチュエーション(家の中に見知らぬ他人が侵入する、全裸で街に出る、敵味方が反転する、追いかけられる、など)がある。これは原初的な不安が表現されたものともいえる。
(2)水、森、ジプシー(的な人々)、演劇、凪の海、洞窟など、深層心理学的(特にユング的)な象徴に満ちている。
(3)主観・客観の逆転、辻褄が合わないことが起きても主人公が疑問に思わない、時系列の混乱と同時性(監視カメラに未来のイメージが映る)がある、という夢の特徴がある。
<ストーリー>
起承転結に分けると、「起」では、肉体的な安全が脅かされる恐怖が描かれる。危険に満ちている不潔で不愉快な外界と、かろうじて守っている自分のテリトリー。そのテリトリーを侵害されむちゃくちゃにされる恐怖。
「承」では、人間関係(社会性)の恐怖が描かれる。自分が本来居てはいけない場所に居て、他人に激しい悪感情をもたれている、といういたたまれなさや、明示されない人間関係の中に放り込まれる寄る辺なさの恐怖。
「転」では、一転変わって、はじめてボーは信頼できそうな人たちのコミュニティの一員となり、恐怖から解放される。演劇の世界の中で精神的癒しを受け、成長を促される。
「結」では、ボーが最も愛し、かつ最も恐怖している存在である、母親との対決が描かれる。
<テーマ>
母親からの歪んだ利己的な愛により、精神的な「去勢」をされてしまった主人公の悪夢のような精神世界、だろうか。
母親は愛に飢え、子供からの愛を要求する。そこには相互の愛の交換は無く、一方的な愛の搾取があるのみ。母親にとって子供は愛の飢えを満たすための道具でしかない。無条件の愛を知らない子供は、母親の意に反してしまうことを極端に恐れ、自分の意志を封印する。自分の意志をあらわすことを恐れ、What do you mean? や Why? を繰り返す。
ボーは、無条件の愛を知らないが故に、他人を信頼することができない。ボーに親切にする人や、セラピストを信頼していない。
この「毒母親」のテーマの裏には、「父性の欠如」「男性性の否定」という現代の普遍的なテーマがあるように思う。母親の家の屋根裏には、「やせほそり監禁された自分の半身(男性としての自分)」と「醜い怪物のような男性器(父親)」が隠されていた。これは、現代において(この映画では母親にとって)、「父性」や「男性性」が忌むべきものとみなされていることを意味しているのではないか。
「承」のボーが滞在していた家で、「兄が戦死している」というのは、過去の時代においては、「父性」や「男性性」の価値が認められていたことの象徴ではないか。
ボーが「兄」の代わりにはなりえないのに、「兄」の代わりをさせられそうになるいこごちの悪さは、男が必要とされない社会で、男であることの申し訳なさを表現しているように思う。
「男性性」が否定されているから、恋愛対象に自分の思いを伝えることができないし、男性である自分自身を肯定的に見ることができない。
そういえば、精子バンクを利用する人の中には、「結婚はしたくないけど子供は欲しい」という女性が相当数いる、という話だ。
また、この映画で「反出生主義」を連想した。反出生主義というのは、人間は生まれてこない方が良い、という考え方のことで、近年この考え方がじわじわ広がっているという。
映画の冒頭、ボーの視点で「苦しみに満ちた世界」に生まれてこなければならない恐怖が描かれる。彼が世界を肯定的に見ることができないのは、そもそも生まれた瞬間からだ。
<ラストの解釈>
終盤では、この映画はどういう決着になるのか、ということを気にしながら観ていた。果たしてハッピーエンドになりうるのか?
母親に対する愛情と憎しみの葛藤を、「母親殺し」をすることで超克し、平穏な精神状態を象徴するような凪の海に船出し、産道を象徴するような洞窟をくぐり、ときたところで、「これはハッピーエンドに向かっているのでは?」と感じた。
しかし舟のエンジンの不調が不穏な兆候を示す。エンジンは心理学的にはリビドーか? なぜうまくいかなかったのか? 素人考えだが、本来のエディプスコンプレックスは、母親を手に入れるために父親に憎しみを抱く、というものだが、それとは異なる過程を経たためか?
最後、何もかもうまくいきそうになりながら、急にアンハッピーエンドにして突き落とすところは、「未来世紀ブラジル」みたいだ。
もし、洞窟が産道、弾劾裁判みたいのが行われた球状の空間が子宮なのだとしたら、そこで死んだボーは、「生まれる前に還った」ということになる。
これは、「生まれたくなかった」というボーの願いの物語ということになり、冒頭につながる。
<劇中劇の意味>
「転」の森の中での劇中劇は、かなりの長尺だった。この映画の評価を低く考える人は、たぶんこのパートの長さを挙げるだろうな、と思うほどに長かった。
でもそれだけに、ここに最も重要なメッセージがこめられているようにも思う。
劇中劇は、「夢の中の夢」とも考えられ、深層心理の奥の方、ユングのいう「集合無意識」を表しているのではないか。
集合無意識は個人的体験に由来するものではないので、ボーの個人的体験に影響されず、ここには彼が生まれてから経験した恐怖のイメージが入り込めない。
とても神話的な物語である。自分を支配する鎖を自らの手で断ち切ること(2回も!)、何十年にも渡る愛する家族の捜索、スープと演劇の二者択一で演劇を選ぶことで家族と再会できたこと。劇中劇の中にさらに劇があり、無限の入れ子構造になっているのも幻惑的で良い。
印象的だったのは、この劇中劇では、ボーは困難に苛まれても、意思と工夫によって成長していき、自分自身の人生を歩めていたこと。現実のボーが優柔不断で受け身にしか行動できないことと対照的である。
この劇中劇で、ボーは仮想的な一生を体験し、なんらかの精神的成長を遂げたはずである。母親のために買ったマリア像は、おそらく母親への執着を象徴しているのだと思うが、これを手放すことさえしている。
映画全体の中で、劇中劇のパートは物語としては省いても何ら問題ない。では何のためにこれがあるのか? それは、「観客とこの映画の関係」を示唆するためではないか。
共感ありがとうございます!
素晴らしい解説に脱帽でございます。大学の心理学の授業を思い起こしました。それよりかなり的確で突っ込んだ内容であることは言うまでもありません!