ボーはおそれているのレビュー・感想・評価
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誰も殺していないボーの罪悪感は殺人より大きく愛より小さい
ボーは罪悪感により自分を一番許せないにも関わらずそれを認めることができず、また罪悪感が生まれた背景を深く考えたり客観視することができずまたその勇気が持てないため精神を病んでいると解釈しました。
思春期に誰しも一度は思いませんか?母(あるいは母なるもの)が憎くて今ここで首絞めたらどうなるかな、など。ボーは母の首を絞める妄想をしたことがあるのかもしれません、女の子とキスする妄想も。一人暮らしをする妄想や、他の家族の息子になることや、女の子と悪いことしたり、別の家庭をもつことも想像したこと、少しの体験もあるのかも。
そして母が大好きすぎるあまり、母からの愛をきちんと返そうとするあまり、それら全てはボーにとっては大きな罪悪感となって肥大してしまいます。さらに罪悪感の理由に気付いていないながらも、自分が罰を受けることだけは受け入れているため、シーンの終わりは全て、理不尽で謎な出来事として時に残虐に降りかかります。
(例えば、他人の家で目覚めた、まるで違う家の子になったみたい!けど、お母さんが悲しむだろうな、ごめんなさい。そんなことを楽しんでしまって。この気持ちは、考えは罪だった、僕が罰を受けるに違いない→けど誰が罰を下す?お母さんはそんなことするわけない→捏造された罪としての青ペンキ→殺人鬼に罰を受けるみたいな流れ)
歪んだ親子愛、という評も多いですが、ボーは母のことが大好きで、逆に母も、表現は束縛過多で不器用ながらもボーを愛しており、ボーの方は定型発達ではなかったため互いにバッドトリップになってしまい、その不幸が生んだ愛のホラーになっています。愛が生んだ美しく華麗な物語は多いですが、愛が生んだ妄想ホラーを描き切った作品はそれに比べると少なく、作り切る挑戦もまた素晴らしいと思います。
どんな考えや妄想も本来はギルティではなく、母の愛を裏切ろうとも自分を愛しても良いと、ボーにどこかで力強く言ってあげたくなるのですが、言う隙がないし作中の誰も言わないので可哀想なボーにせめて寄り添う長い時間になります。愛が作った複雑なホラー世界を長時間観客に浴びせる暴力でさえ、罪にはならないというメッセージで、私は残念ながら途中休み休み配信でみましたが上記をふまえるとぜひ映画館鑑賞で暴力されたかった作品でした。
毒親に支配された子の心象風景……みんなどん底になあれ
アリ・アスターとホアキンのタッグで3時間、と聞いただけで、面白さとしんどさのどちらが上回るか早くも不安になる。今回、私の苦手なグロはかなり控えめだったため割と耐えられた。ただし、ラストの救いのなさは容赦がない。
本作は端的に言えば、毒親持ちの息子・ボーの心象スケッチ、である。どこまでが作中で現実に起こったことかはわからないが、彼の妄想が少なからず紛れ込んでいることは間違いない。荒唐無稽かつシュールな展開でありながら、毒親に支配された心のありように関しての解像度は高い。
序盤、セラピストにかかっているボーが住む街のあまりの治安の悪さに笑ってしまう。実際にあんなとこ住んでたら健常者でも精神を病むでしょ。これはあくまで神経症のボーから見た外の世界ということなのだろうか。薬を服用する描写が、現実との境界線を余計に曖昧にする。終盤で、このエリアは母親が作った更生地区であることが示唆されるが、それでもあの極端な状況は解釈の余地がありそうだ。
置き引きや生活騒音のトラブルなど、出来事の一部のパーツは単体で見れば現実感のあるもので、その不安を生々しく想像できるだけに、余計にうわあ嫌だなあという気分になる。
なんだかんだで車に轢かれたボーが担ぎ込まれたのは、彼を轢いた外科医の家。結論から言うとこの外科医家族は束縛的なボーの母親と通じているという設定で、バイタルの測定器と称してボーにGPSを装着し、病院や警察には連絡しない。夫婦は表面的には明るく親切で理想的な家族だが、彼らの息子が戦死した悲しみにとらわれており、向精神薬を常用し、娘には構わない。隣人は戦争のトラウマで精神に異常をきたしており、監視を察知して逃げ出したボーを追ってくる。
逃げ込んだ森の中で劇団と出会い、劇中劇のシークエンス。「オオカミの家」を手がけたレオン&コシーニャ監督が描き出す風景は、素朴なタッチの中に不気味さを内包していて、アリ・アスターの世界観によく合っている。その風景の中で、ボーはかりそめの堅実な人生を体験するが、自分には息子はいないはず、と気づいて現実に戻る(きつい)。追ってきた精神異常の帰還兵が劇団員たちを射殺。
何とかたどりついた実家でエレインと再会、セックスするも彼女は腹上死(さすがに妄想かな)、壁の写真から自分の出会ってきた人間たちが母の会社の社員であることがわかり(これも陰謀論的な妄想かも)、生きて現れた母親にボーは掴みかかって首を締める。倒れた母の元を離れボートで漕ぎ出してみたら……はい、トゥルーマン・ショーでした。
いやはや、どこからどこまでが現実かはたまたボーの妄想なのかわからないが、少なくとも言えるのは、ボーの目に母親は、中年になってもなお彼の人生全てを支配し得る存在に見えているということだ。毒親によるトラウマの根深さよ。
回想シーンで、バスタブに入ったボーの視界に少年が映る。彼は屋根裏部屋に閉じ込められる。ボーは一人息子のはずである。閉じ込められたのは、いわばボーの分身、彼の魂の伸びやかな部分であるようにも見えた。
終盤、昔腹上死したはずの父親と称して屋根裏にハリボテのような男根が登場するが、あれは母親のミサンドリー(男性嫌悪)の生んだ亡霊のようなものではないだろうか。そもそも、一族の男性が代々腹上死というのも、母がボーに性行為への恐怖を植え付けて男性としての成長を妨げ、いつまでも子供として支配するための嘘かもしれない。父親とは実際は憎しみあって別れたのでは? でなければ、パパは男根ですはないだろう。
ラストシーンの個人的な解釈だが、あれは「毒親の精神的支配を受けた子供は、物理的な束縛を逃れた後も毒親の価値観の呪縛を受け続ける」ということを表しているのではないだろうか。スタジアムはボーの心の中であり、幼い頃から彼を支配してきた母親が原告として内在している。スタジアムの観客は、ボーの受難の傍観者でしかない世間か、あるいは母親の会社の社員たちかもしれない。脳内にこのような状況が形成されると、もはや物理的に母親の元を離れても無駄である。
ボー自身のおこないについて、母親の考えに沿って批判する検察官と、ボーの自我の側に立って抗弁する弁護士が争い続ける。どちらもボーの心が作り出した声だが、最後に弁護士は強制排除され、自分の心の中にさえ味方のいなくなったボーの自我は崩壊する(ボートの転覆)。
支配的な親に抑圧された子供の心の最悪な結末。
さまざまな解釈を呼ぶ要素は多いが、どう考察しても結果としてどんよりした気分になる。とりあえず、アスター監督の「みんな、どん底気分になればいいな」という狙いは実現できているのではないだろうか。
もしかしたら、毒親からの自立に成功した人は、アスター監督に共感を示されたような気がして、過去の苦しみが昇華されたようなある種の癒しを得られるかもしれない。現在進行形で毒親に支配されている人は……ラストがラストだけに、見ない方がいいかも。
不安症にとっては居心地のいいファンタジー。
個人的には冒頭のパートがコメディとしてべらぼうに面白く、そこから先は3、40分ごとにスタイルを変えていくこともあって、振り落とされないように、ほどよく刺激的かつときおり退屈を感じながら最後までたどり着いた。明らかに、観客を戸惑わせ、右に左に振り回すのが目的の映画だと思うので、まんまといい観客をやりました!とアリ・アスター監督に報告したい気分。
ただ、大好きな映画かと自問するとそこまででもないのだが、アリ・アスター作品では一番しっくりと身近に感じられる作品でもあった。というのも、不安症のあり方に非常に親近感が湧く描写が続き、とにかく最悪のことを想像し、実際に起きることを想定して覚悟することが人生を無事に生き抜く方法だと思っている者として、この映画の心配性は他人事ではなく、でも1/1000くらいの確率でしか起きないはずの最悪の事態が、ここではほぼ100%の確率で発声するのだから、むしろカタルシスを感じて気持ちいい。
この映画は「イヤな想像はすべて映画の中に置いていけ!」というアリ・アスターなりの親切なのかもしれない。たぶん違うと思うけど、そういう効能は確かにある。
尽きることのない悪夢的イマジネーションの連鎖に心酔
生きることは悩ましくおそろしい。どうやって生まれたのか、いかに毎日を生きるか、家族の問題にどう向き合うか。そんなことを考えだすともう頭がおかしくなりそうだ。過去のアスター作品からやや趣向を変え(でもやっぱり”家族”が関係するのだが)、本作はホアキン扮する中年男が抱える”おそれ”をじっくり我々に突きつける。ある意味、カフカ的でもあるし、フロイト的、ギリシア悲劇的とも言いうるだろう。序盤のアパート生活のカオスな日常描写には勢いがあり、声を上げて笑ってしまうシュールさに溢れ、目が離せなくなる。そこからいざ帰郷というモチーフが起動するも、案の定、不条理の鎖が足に絡まりボーはなかなか帰れない。この一連の物語をどう解釈すべきか。私は途中から意味に囚われすぎるのをやめた。水辺の小舟に揺られ、アスター流の”おそれ”巡礼を体験するかのように、悪夢的ながら美しさに満ちたイマジネーションの連鎖を心から楽しんだ。
ずっと浸っていたい、妙に笑える悪夢のような旅
アリ・アスター監督作品については、長編第1作「ヘレディタリー 継承」の独創的な世界観とホラー描写に震撼し驚喜したが、カルト教団の閉鎖的コミュニティーを訪れた若者たちを描く2作目「ミッドサマー」はストーリーの独創性という点でやや期待外れだった。そんな経緯もありこの3作目は期待と懐疑が相半ばする気持ちで臨んだが、結論から言えば「ヘレディタリー」を超える一番のお気に入りになった。 不安症の主人公ボー(Beauの発音は「ボウ」と表記するのが正確で、字幕もそうなっているのになぜタイトルと不一致なのだろう?)に次から次へと災難が降りかかり、母親の葬儀に出るための旅もトラブル続きでなかなか目的地にたどりつけないのだが、展開が予想外すぎて笑えてしまう(特にバスタブと屋根裏の両シーンで爆笑した)。「ミッドサマー」にもユーモア要素はあったが、本作は格段にいい。ホアキン・フェニックスによる不安と困惑と恐怖と苦痛の演技が絶品で、アスター監督の演出との相乗効果もあり、地獄めぐりでありながらドタバタ喜劇のようにずっと楽しめる、飽きることのない2時間59分。監督の次回作「Eddington」にもホアキンの出演が決まっているようで、今から楽しみでならない。
恐れていた事が起こった。
訳分からなくて置いてかれたまま3時間はキツいなぁと 恐れていたら、 まさにそれが起こった。 アリ・アスター監督との相性がどうも悪い。 不安症が行きすぎてファンタジーの中の虚言の中で 生きてるだけの話かと思ってたら、 現実とファンタジーの間を生きて自分を必死に守ってる 男の話と解釈して良いのだろうか? 訳分からないのだけど、 誰にだって不安はあるし、 その場から動けなくなる感じは分かるし、 母親への強烈過ぎるこれはなんと言うのだろう 愛情、尊敬だけではない物凄く大きな存在と 自分がやりたい事は母親への裏切りになるのではないか? と言う感情は小さい頃にはあった気がする。 ほとんどの人はそこを母親なんて大した事ねぇやとか、 その時の欲が勝ったりして忘れて行くのだけど、 ボーみたいにそれが決まり事のようになって 自分を縛ってしまったら こうなっても仕方ないのかなと同情しました。 子どもがいるので、ある程度自分で決めさせなければと 思いました。 いつまでも甘えさせたらダメだなど。
寧ろよくこんな映画でオーケーが出たなぁ。
学の無い自分にはわかりませーん。 いったい何を観させられているんだろう、が3時間続く困った映画。 もはやワンシーン、ワンシーンがひたすらに意味不明。 否定派の中でも前半は好評のようだが、個人的にはそれすら退屈だった。 「ミッドサマー」は傑作だったがこれはついていけない。 それにしても本作と言い「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」といい、ホアキン・フェニックスは裁判劇に縁がある。
ここまでくると笑えてくる😅
面白い邦題だなと思いつつ鑑賞。 冴えないオジサンが紆余曲折ありながら母親の葬儀に参加するために移動する道中が大半の映画。見る前にその情報がわかっていたのでなんだそれは?って感じで見てみたら、とんでもない道中を過ごすことになる主人公に哀れみを覚えました笑。 映画だから、なんでもありはありなんだけど、すごいすごい!え?はい?なにぃ?のオンパレード。終盤で◯◯コの怪獣?みたいなのが出てきた時には違う意味で笑えた😅 母親の毒親を突き抜けた感にもここまでくると笑うしかないなってのが正直なところ。どんなことでも突き抜けてしまうとすごいって思えてしまう。 いろんな意味で面白い映画でした。B級感ハンパない!
人々を混乱の中に叩き落とす怪作なんだろうな…
これ時計仕掛けのオレンジで目を閉じないようにまぶた固定されながら無理やり見せられ続けた拷問タイプの映画なのでは………という感想を持ってしまった…。混乱極まった…。 完全に序盤で置いて行かれてしまったので、本当にすごく悲しい…。3時間長かった…。 「芸術的価値の高いものは自分には理解できないから」という理由でアクションや恋愛の映画しか見ない人は世の中にけっこういる。 私はそういう人たちに対して「『高尚で理解できない』という言い訳で思考を放棄するのはどうなんだろうか」などと偉そうなことを思っていたが、この映画を見た結果完全に彼らと同じ感想を抱いてしまい「芸術、理解できないかも…」と思考放棄に走ってしまった。数時間前までの驕り高ぶった考えの自分が恥ずかしい。 他の方のレビューがとても参考になるので、よく勉強して深みのある人間になりたいという気持ちを持ちました。 でも監督としては多くの人をこの映画で混乱させて、そのままそれをニヤニヤ見てたいのかもしれないので、私の感想もこの混乱も一種狙い通りなのかもしれない。
理解者不在の精神病患者の悪夢
主人公のボーは精神病である。まずそれは間違いないように見える。
それ以上に救いがないのは、その原因ともなったであろう母親の存在が大きすぎることだろう。
本作は3時間の長尺でもって、精神的に自立出来ない主人公の苦しみや不安や葛藤が描かれているわけだが、見せ方として妄想と現実が区別出来ない。
恐ろしい映像作品だ。
父親はおろか母親からすらも愛されない人生がここまで辛いのか。
そしてそのまま誰からも理解されない生涯がどれほど行き辛いのか。
自分を形成出来ず、通せず、流されるだけの生き方がどれほど罪深いのか。
そんな考えを巡らされてしまう。
自分は統合失調症の寛解中なのだが、現実と妄想の区別がつかなくなるシーンの数々には共感させられてしまった。
本作の主人公と違って救われているのは、適切な隔離と治療とを受けることが出来たことだろう。
本作では現実のような救いはない。
出会う人の誰もが薄ら優しく、拒絶され、断罪してくる。
理解者は不在である。母親ですらも。
遍在する父のような母/爆誕失敗の巻
『ボーちゃん、心理的爆誕に失敗』の巻である。/快楽と主体性を持つことは罪である、というか自分の存在自体が破壊的で誰かを傷つけるものである、という“思い込み”に端を発する神経症的不安が次々に映像化される様は面白かった。お父さんが肉棒なのはユングの夢っぽいが、片や地下で台座に載せられ、片や屋根裏に幽閉されているというのが父親イメージの違いとして面白い。殺す前に父を失ったボーがエディプスになりきれない所以である。/最後の水の揺らめきを見てると、そこからヌラヌラした何かが生まれ出るような気もして、「今度こそ頑張れ!」と声をかけたくなる。“思い込み”の源は自分にはなく、自分の人生を歩むためには、ボーの能動性・主体性は一旦は徹底的に破壊されねばならないのである。
罪
ボーが罪を受け、溺れ死にそうなのに、帰り出す観客たち。 人間の本性、利己的で自己中心、 他人なんてどうなったっていいって事の表現のような気がしてならない。 結局、ボー自身も利己的な罪で罰せられている。 途中まで訳のわからん、映画だと思っていたが、ラストは色々考えさせられる作品。
なんなのだろうか
これはなんなのだろうか。夢?大金持ちのお母さんの道楽?ドッキリ?長い長い作品だが、飽きずに観れた。が、また観たいとは思わない。これはなんだ?
不思議な作品だった。
❇️『私もおそれました❗️』 ★彡どっぷり疲労感😮💨
ボーはおそれている ❇️『私もおそれました❗️』 ★彡悪夢なの?現実なの?世界観がエゲツない。解釈は己で考えろ‼️ 🇺🇸 劣悪環境の街に住む、強迫観念でなどに悩みカウンセリングを受けているマザコン感あるおじさん(ホワキンさん)が主人公。 徐々に何かに恐れるボーさんは不思議世界に移転していく! 難解3時間コメディーホラーの世界へようこそ🙇🏻♂️ ◉61B点。 ★彡物凄い難解で3時間映画。 四部構成で揺さぶられ、退屈はしませんでしたが物凄い疲労感でした。 🟢ここが凄い所‼️ 1️⃣主人公の主観で人には見えない何かに追い込まれる様か面白い。 2️⃣こちらがこんな物語なんだなぁ〜など思うと全く違うストーリーやテイストでこちらの思考を狂わしていく全く読めない。わかりそうで分からない。 3️⃣世界観が4部構成で変わり飽きさせない! ★彡それでもわからない事が多くて長く感じた。 🥺🤔🫣🫨😧🥱🤕👩🦰🧔🏼♂️👨🏼⚖️👗🚤🏟️🏕️🕋💻🔦🚬🛏️🔑🆘🆒
母親の支配と継承
「キャラクターがなにもできず、どのボタンも機能しないビデオゲームのような映画を撮りたかった」アリ・アスター監督はこう語っている。 本作は、まさに観客を戸惑わせ、右に左に振り回す映画だ。 不安症の主人公ボーに次から次へと災難が降りかかり、母親の葬儀に出るための旅もトラブル続きでなかなか目的地にたどりつけないという展開が予想外過ぎて笑えてしまう。 ボーは少年時代から、一挙手一投足に至るまで、母親の強い影響下にあり、彼女が投げかけた言葉や考え方に支配されている。そのため、ボーは、積極的に何かに取り組み、自分の意志で困難を打開するといった能力に欠けている。 未観だが、1作目の「ヘディタリー/継承」は、アリ・アスター自身が「自分の家族にある不幸が起こり、その経験を踏まえて映画の構想を練りはじめた」と語っているだけあって、かなりヘビーな家族崩壊映画として作られていて、2作目の「ミッドサマー」は、一家心中というトラウマを抱えた主人公が、見知らぬ土地の人々に新しい家族を見出すまでの物語だそうだ。どちらもホラー映画として分類されているが、本作はホラーなのか、コメディなのか、理解しづらい。 この3作に共通しているテーマは、家族の中にある母の支配と継承であるという。 本作の物語が、ボーの混乱した精神世界だとすれば、母親から高圧的に人格を矯正された彼が、人生で経験するすべて、世界そのものが母親の影響下にあるという妄想の中にあったとしてもおかしくはないだろう。ボーが生きている限り、母親の人格もまた彼の中で生き続けていて、それはボーの自立心や選択を罰し続ける。 気が弱かったり、自信がなくなったり、自己肯定感を持てない性格になってしまう原因に、成長過程での親との関係に問題があることがあるということが明らかになっている。だからこそ子育てでは、暴力を振るわないことはもちろん、子供の人格を否定するような言動をしないように気をつけなければならない。
突然のセクシーシーン有。
3時間か…長いな? と思い休みの日に勇気を出してアマプラでみました。 ホラーか?と思うホラー。 コメディか?サスペンスか? グロとかはあんまりない。 何なら後半ヒーローものの怪獣みたいなのも出る。 多分、後からじわじわ系なのかもしれない。 この人の妄想なのか、現実なのか。 もうどこからどこまで? でも好き。 やばい世界をのぞく映画。 ああああ…わああああああ!? みたいな展開が何回もあるので飽きずに最後まで見れました。 突然のセクシーシーンがあるので家族の前で見ない方がいいと思います… 私は家族の横で見てしまいましたので慌てて音量0にするという荒業を。 精神病の人が見ている世界はもしかしたらこれなのかもしれない。 親にトラウマがある人は注意。 ちょっと見るのに勇気がいるシーンが多いかも。 ラストも何とも言えない気持ちになる。
「何を見せられているんだ」感
この映画は悪い映画ではないのですが、いかんせん長いです。3時間あります。 例えば同じ監督の前作「ヘレディタリー/継承」や「ミッドサマー」は長くても『この映画はホラーなんだな』『このあと主人公に怖いことが起きるんだな』と分かり映画の最後まで待つことができます。 しかし本作「ボーはおそれている」はホラーテイストではありますが、監督はコメディとうたっており、笑っていいのか怖がっていいのか戸惑います。それが本作の最大の魅力でもありますが、3時間という映画の長さでずっと観客の感情を宙吊りにします。 この映画は同じアリ・アスター監督が2011年にとった「ボー(Beau)」という短編映画が元になって作られているのですが、そちらは6分の短い作品です。短いのに本作「ボーはおそれている」より面白いです。監督の言いたいことが6分でしっかり伝わるからです。 本作「ボーはおそれている」も悪い映画ではないのですが、どうせなら母親と子供(主人公)の物語に焦点を絞ったほうが良かったと思います。 ラスト付近で語られる「実は父親がXXX」は完全に蛇足でした。あれのせいで母親と子供の物語の焦点はぼやけ結局何の映画だったのか分からなくなっています。
観ていて気味が悪くて、嫌な気持ちになるけど そこがいいのです 観出...
観ていて気味が悪くて、嫌な気持ちになるけど
そこがいいのです
観出すとやめられない魅力があります
ホラーというよりもダークファンタジー的な印象でした
癖強い作品なので、嫌いな方もいるかもしれませんが
自分は好きです
面白かったです
主人公のボーのオドオド感がどことなく自分も似ていて
幸か不幸か感情移入できてしまいました
自分としては少なからず学びもありました
A24さんの作品は変わっているけど興味深い作品が
多い印象です
ミッドサマーも気味悪くてよかったですが
これは更に好きかもです
アリ・アスター監督の次回作を楽しみに待ちたいです
VODで鑑賞しました
何を経験したらこんな映画が撮れるのか
アリ・アスターが家族に対して恐怖感を持っているとは聞いていたがここまでの作品をどうやって作ったのかが気になる。展開が読めなすぎて頭がおかしくなりそうだったが不思議と入り込めるのが監督の技量なのか、、 それぞれのシーンの絵も非常に印象的だった。 長いのが少し難点。
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