エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命のレビュー・感想・評価
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実話というのが恐ろしい。幼い子供へ「洗礼」するというのは
エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命
神戸市内にある映画館シネ・リーブル神戸にて鑑賞 2024年5月1日(水)
パンフレット入手
この作品にはクラシック音楽が使用されてました。残念ながらパンフレットには記載がありませんので解説しておきます。(全2曲)で他にもありましたが、分かりませんでした。
1.ラフマニノフ作曲 交響詩「死の島」作品29
セルゲイ・ラフマニノフ(1873-1943)はロシア(帝政ロシア時代)の作曲家
スイスの画家「ベックリン」の同名の絵画から着想をして作曲。
小さな船に櫃が一体積まれていて、埋葬する先の「死の島」へとゆっくりと漕いでいる。
波の音、時に荒波に揉まれて転覆しそうななるが、間一髪で逃れると、静寂の海に戻って、船は進んでいる。(私の解釈)
2.アリフレート・シュニトケ Agony Suite (Arr. F. Strobel) I. Einleitung
Agony組曲 フランク・ストローベル編曲 1.序曲
アリフレート・シュニトケ(1934-1998)ドイツ・ユダヤ系現代音楽作曲家
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ここから本編
「エドガルド・モルターラ誘拐事件(1858年)」の映画化
実話(ドキュメンタリー映画)
原題は{Rapito」
1858年、イタリア北部ボローニャのユダヤ人街で、教皇から派遣された兵士たちがモルターラ家に押し入る。枢機卿の命令で、7歳になる息子エドガルド(エネア・サラ)を連れ去りに来たのだ。
エドガルドは生後間もない頃、何者かによって秘密裏に洗礼を授けていた。教皇の命は絶対であり、洗礼者はカトリック教育を受けなければならない。24時間の猶予を与えられたが、状況の好転は見込めない。
エドガルドの父モモロ(ファウスト・ルッソ・アレシ)や母マリアンナ(バルバラ・ロンキ)、親族による歎願空しく、エドガルドは必死の叫び声に喉を枯らしたまま連れ去られてしまう。
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一体だれがエドガルドに洗礼を授けたのか?エドガルドは1851生まれ。当時の使用人はキリスト教徒のアンナ・モリージだった。彼女は盗癖によりモルターラ家を解雇されていた。
一方、連れ去られたエドガルドはローマに向かう船の中にいた。同乗した老女に「キリスト教の王」のこと教皇の存在を教えられる。教皇は首を長くしてエドガルドの到着を待っているという。
モモロは息子らと共に、アンナ・モリージを尋ねるが彼女は彼らの到着をみるや脱兎の勢いで逃げ出そうとする。方言でまくし立て証言を拒否し、十字架を携えた神父らと共に民家に逃げ込んだ彼女からは「エドガルドに洗礼を受けた」という言葉を引き出すことは叶わなかった。
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6月28日の夜。ローマに到着したエドガルドは、院長の出迎えを受け、寝室を案内される。就寝用のベッドでシュマ(ユダヤ教の祈り)を唱える彼に、エリアという同世代の男児が「君はユダヤ人?」と声をかける。「いつ帰れるかな?」と問うエドガルドに「言うことを聞けば早く帰れるよ。賢い者が勝ちだからね」と意味深な言葉を放つエリア。
一方モモロらは、イタリアのみならず近隣国のユダヤ人組織の協力を仰ぐべく、文書の作成に取り掛かっていた。「これが何の役に立つの」とこぼすマリアンナ。エドガルド奪還には強硬手段が必要だと主張するが、今のところ手立てはない。
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教会によるエドガルド・モルターラ誘拐の報は、ユダヤ人コミュニティからの伝播で世界中に広がっていった。非人道的な振る舞い、歴とした犯罪であると追及する自由主義系のメディアや、遺憾の意を表明する、時の皇帝ナポレオン3世を擁すフランスなどの近隣諸国、教皇の存在を嘲笑うような演劇を上映したアメリカ。10年前は救世主と崇め祀られたビウス9世(パオロ・ピエロボン)は弱体化する権威そのものの象徴になりかけていた。
現実を伝える枢機卿に対し、ビウス9世は激昂し「私の答えは”拒否するだけだ”」「信仰の原則により子供を返すことはできない」と言い放つ。
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ある夜、少年エドガルドの夢の中にイエスが現れる。十字架にかけられた姿、両手両足に打ち付けられた杭を外すと、イエスは自由の身になって歩き出そうとしている。
少しずつ、少年エドガルドはイエスの心を受け入れるようになるが、しかし両親から授けられたユダヤ教の教えはどうなってしまうのだろう。こっそりと就寝前の寝台の中でユダヤ教のお祈りを唱えていたが、やがて身も心もキリスト教にすっかり帰依してしまうのであった。
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エドガルドは成長し大人になったある日
エドガルドの両親と面会した時、エドガルドは「僕の人生は僕が決める」と言い、両親は落胆してしまうのだった。
母マリアンナが危篤となった時に、瀕死に近い母へ洗礼を施そうとするが、それを拒み「どこまでもユダヤ教徒として信仰をまっとうしたい」と愛する息子、エドガルドへ伝えるのだった。
監督 マルコ・ベロッキオ
音楽 ファビオ・マッシモ・カポグロッソ
感想
実話というのが恐ろしい。幼い子供へ「洗礼」するというのが理解できないが
エルガルドが幸せならばと思います。
「数奇な運命」、で済ませていいのかな。
時代背景が絶妙。教会法という前近代的な聖なるゆえに(かつ)アウトローな法に対して、関係者は単に泣き寝入りしていたわけではなかった。言論の自由大国アメリカのメディアにも取り上げさせ世論に訴えた。
結局は、一人の人の心をコントロールしてしまうことの罪深さ、容易にコントロールは解けない(=自己否定につながってしまう?)の本性、無責任かつ罪の意識のない愚民、沈黙する神(信じるとしたら)、、、
何を馬鹿な思えるのは対岸のことだからか。現代にも蔓延る意味のないタブーは一体どれくらいあるのだろうかと考えさせられた。
映像は圧倒的に美しく、光と影効果が終始一貫。どの子どもも可愛くて切なかった。
一番の被害者であるはずの本人が、 全くそのことに気づいておらず、 ...
一番の被害者であるはずの本人が、
全くそのことに気づいておらず、
今の生活に満足してしまっている
そのせいで、
お母さんにあんなこと言うなんて、、、
洗脳ってこわい、信仰心ってこわい
当時はこんな事件がたくさん起きたのだろうけど、
本当に許せない
この作品を作ってくれたことで、
この事を知ることが出来て良かった
宗教感が強くないから理解するのみ…。
こういう時代があったのかと知識にはなるが宗教感がないとなかなか話にはのめり込めないのではないかなー。宗教の自由とかない対立と権力のなかで運命を変えられた少年が哀しすぎる。権力もつと流れは一緒か…。
他の人のレビュー高評価は、納得できるんだけれど
これはもう私の偏見だろう。キリスト教とユダヤ教の対立が根底にある。日本人の私からみれば、イエス・キリストを聖人として崇めているのに、何でいがみ合うのかわからない。
信奉するのが、宗教や思想(共産主義・マルクス主義等)でもこの映画と同じことが起きても不思議でもないのに、なぜ宗教、この場合はカトリック教会を悪者にするのだろう。実話に基づいた物語だが、観客受けするために脚色が過ぎるのではないかと疑問を抱いた。
母親の臨終の際に、息子が密かに洗礼を授けようとするところなど。
それと、音楽を付け過ぎで、その雰囲気から話のすじが読めてしまう。やはり、過去の巨匠には及ばないなと感じた。まぁ、私の感じ方がおかしいのかもしれない。映画料金分は元が取れるので、見て損はない。
信仰は普遍的な情愛すら無視する矛盾
タイトル変えました。19世紀に起きたカトリック教会によるユダヤ人少年の誘拐事件を描く社会派ドラマの力作です。こんなに映画に没入するのは久しぶりで、見終わって、あまりの理不尽さに、どこにこの怒りをぶつけていいのかわかりませんでした。教会法とやらに基づいて6歳の子供を幸せな家庭から引き裂く教会、子別れの悲哀に直面しても信念の揺るがない異端審問官、裕福な雇い主を二度までも陥れる移民の女、そして神への信仰と自分の権力への崇拝と取り違える教皇と、彼らの信仰の名の下に行われる非人道的な行為に愕然とします。これまでにも、教会批判の映画は見たことがあるけど、本作は別格です。自分達の宗教の正当性を守るために、平穏に暮らしていた罪もない一家を引き裂くことは、もはや信仰ではなく、理不尽な蛮行以外のなにものでもありません。その結果、心の平安ではなく教義を守ることを信仰とする人間が再生産される幕切れには暗澹たる気持ちです。監督のマルコ・ベロッキオの作品は初めて観たけど、80代とは思えない気合いの入った演出で、レンブラントの絵画を思わせるような重厚な映像とあいまって、息が詰まるような緊迫感が途切れることはありませんでした。役者では、タイトルロールの少年時代を演じたエネア・サラ君はめっちゃかわいくて、昔のオスメント君みたいです。青年時代のレオナルド・マルテーゼもイケメンで人気が出そう。
宗教という存在
洗礼を授けられていた為にユダヤ教の家庭から離れ、
カトリック教徒として新たな生活に順応しなければならず、徐々に洗脳されていく姿には言葉を失いました。
忠実心から家族を改宗させようとしてしまう姿にも…。
原題である「Rapito」の意味がとても強い言葉なので物語の全てを表していると思いました。
教皇の強大な権力と支配力は現代の宗教においても通じるものがあります。映像化に感謝。
少年エドガルドの表情の演技が凄い!
またしてもドッシリずっしりボリュームたっぷりのスタミナ丼を平らげた気分……。しかし曲と映像は共に重厚で美しく、B級グルメの代表格のすた丼とは似ても似つかない雰囲気。
宗教が焦点となると一つ一つの行動の“善悪”が個人の価値観のみで判断出来なくなるところが難しい。1番初めに出てくるムチムチボディちゃんも自分の信仰に従ってお水ちょちょっと振りかけただけなわけだし。でもエドガルドの家族の立場ではその信仰心を理由に振りかざされても怒りしかないだろうし。複雑……。エドガルドひとりの心境の変化を見ても複雑な変化をするし。パパの時には堪えられたけど、ママが来たら号泣してしまったあの甘えん坊は何処…。磔に釘刺されたキリスト像の肢体から釘をこっそり抜いてあげてたあの心優しい少年は?
『宗教』が信仰の対象だけでなく洗脳的と宗教に馴染みのない人から思われてしまいがちな理由がよくわかる映画。コレが実話だというのがまた奇なり。
宗教画的な荘厳なタッチで描かれる本作品は画だけでなく音も素晴らしい✨✨目と耳と、そんな楽しみ方をしてもよいかと。
もう少しちゃんと世界史の中でもイタリア史、とりわけ宗教史と美術史を勉強しておけばもっともっと理解が深まったのかもなー、と後悔。
作中では『俗世』を体現化していたピウス9世だけど、故Jニー氏のような見るに堪えない性描写がなくて良かった。在任期間が31年の最長記録ローマ教皇ともなるときっと裏ではやりたい放題だろうに😂(←個人の感想です)
壮大なストックホルム症候群
スピルバーグが映画化しようとしたという事なのでかなり有名な話だと思うのだが全く知らなかった。
教会や神父の立ち合いもない遊びの様な洗礼のされ方でも認められるという事に驚くが、洗礼された事もちゃんと中央に知らされている事にも驚いた。
信仰さえなければ寝食や教育もたタダだし、家族とも自由に会えるのである意味ラッキーな訳だか、いかんせん異教の敬虔な信者なので事は重大。
幸せになる為の信仰だと思うが、しばしば手段が目的となり争いやトラブルを起こしがちなのでいつも怖さを感じる。
親子が似てればもう少し同情できたかも。
教皇は人間味があって良かったw
ラストで今際の際の母親に改宗させようとする姿にはさすがにゾッとした。
子供泥棒
イタリア共産党の党員もしくはシンパだった映画監督は非常に多い。ヴィスコンティ、パゾリーニ、アントニオーニにロッセリーニ、現役のナンニ・モレッティなんかも確か共産党出身の映画監督である。そして、そのイタリア共産党とは敵対関係にあったバチカンによる誘拐事件を扱った本作の監督マルコ・ベロッキオもまた、イタリア共産党出身の映画監督てあることをまず頭にいれておかなければならない。
19世紀中頃、フランス2月革命の影響を受けたイタリアでも自由主義運動が勃興し、保守反動的なローマ・カトリック教会と対立する。裕福なユダヤ人家庭から6歳の男の子エドガルド・モルターラを拉致誘拐、子供を解放する条件として一家のキリスト教改宗を迫った実際の事件を映画化している。歴代最長在位期間(31年間)を誇る時のローマ教皇ピウス9世の頭には、(洗礼云々はもちろん口実で)弱体化著しかった教会の権威回復が目的としてあったのだろう。要するにみせしめである。
84歳を迎えたイタリア人巨匠が、スピルバーグでさえ映画化を諦めたと伝えられる史実を、なぜ今頃になって映画化しようと思いたったのであろうか。現在ガザへの大規模侵攻により世界中から大バッシングを受けているイスラエルと何かしら関係があるのだろうか。尊敬する兄貴をエンデベ空港でアラブ人に殺された私怨を決して忘れないネタニエフを、今更擁護(あるいは批判)しようとでもいうのだろうか。いつのまにかゴリアテと化してしまったダビデに本気で同情する者などほとんどいないにも関わらず。
私は本作を見ながらデ・シーカの『自転車泥棒』をふと思い出したのである。“盗られたら盗りかえす”資本主義の愚かさを皮肉った映画として知られている名作だ。本作の場合、盗まれたのは“自転車”ならぬ“6歳の男の子”なのだが、ユダヤ人家族とローマ教会の間で争奪戦を繰り広げる様子がとてもよく似ているのである。子供は親のものなのかはたまた神のものなのかという、資本主義が認めている私有財産制度に(今更ながら)疑問を投げかけた作品だったのではないだろうか。
誘拐事件を例に自由主義者たちからやり玉にあげられる度に、無原罪のおん宿り儀式などをとり行って体面を保とうとするピウス9世が、しごく滑稽に描かれている。そんな教皇勢力にすでに洗脳されてしまっている“生身の人間(エドガルド)”を取り戻そうと躍起になるモルターラ一家。そもそも私有財産を認める資本主義自体に欠陥があるのか、それとも意志のある人間を“もの”のように奪い合いすることが間違っているのか。世界中に無批判的に受け入れられているこの自由主義の“教義”を、そろそろ疑いはじめていい頃なのかもしれない。
やるせない...
数奇な話が実話だもんな…
教皇が憎たらしくて…
心の中で、気持ち悪っ!て何度つぶやいたことか…
これは、もう拉致監禁洗脳だよ…
6歳だよ…
やっぱり、長い年月を掛けて、
本人はそれが日常になっちゃったら仕方ないよな…
やるせなさしかないや。
このような宗教がテーマの作品は、
いくつか観る機会があり学びにはなりますが、
毎回、あまり理解や共感ができないです…。
作品としては、
子役やお父さんお母さん、宗教関係者たちの演技や、
映像や装飾、音楽など
とても興味深く観ることができました。
ユダヤの子
あまりにも理不尽、非道、何の権限があってというか、当時のカトリック教会はすごい権限があったんだな。
信者の方たちには悪いが、あいつらならオーメン・
ザ・ファーストでやったこと実際にやるだろうなと思ってしまう。
これでまた教会離れが進むだろう。
描かれている事件には憤りを禁じ得ない、エドガルド本人や両親、兄弟の気持ちを思うとつらくてやりきれない。
映画は、映像・音楽・俳優、みな素晴らしい。
特にエドガルドを演じた少年と青年、母親役の凛とした美しい顔と眼力(めぢから)。
十字架に磔けられたイエスが、エドガルドに手足に打ち付けられた杭を抜いてもらい、自由になって歩き去る姿が幸せそうに見えた。
ユダヤの子イエスも、ある意味(キリスト教に拉致されて)キリスト教のシンボルとされていたということか。
こんな教皇は川に捨ててしまえ!
エドガルドの叫びが頭から離れない。
ユダヤ教vsキリスト教と洗礼は洗脳の始まり
宗教に全く詳しくない私でも、なんとなく理解できた❗
ユダヤ人夫婦(家族は全てユダヤ教)の間に生まれた何番目かの子供に、お手伝い❔(キリスト教徒)の手ぐせの悪い女性が、人の赤ちゃんだというのにも関わらずキリスト教の洗礼をしてしまったことで、話が始まる(ユダヤ教→キリスト教に改宗)
これを知ったキリスト教のトップは、こともあろうか七歳にも満たないその子を誘拐(この時期はキリスト教が法律も定めていたようだが… 刑法224条だったかな?7年以内)し、キリスト教に洗脳させていくという…
何度か迷いはあるものの、最終的には…宗教二世問題もあるなかで、興味深い内容でした ま、日本の天皇も昔は神だったのだし、そのおかげて第二次世界大戦にどれくらいの日本人が命を落としたことか… テムズ川ならぬ淀川にでも沈めたい気がするのは…
ユダヤ教から派生したのがキリスト教とイスラム教というのも勉強になった
子供がキリストの釘を抜くシーンは見所です❕
何が正しいのか判らなくなった
保護する者の了承を得ることなく受けた洗礼によって、自分を中心とする世界がガラリと変わってしまった彼。未就学の頃から隔離された生活を送っていれば、成人になる頃には、すっかり「洗脳」されたようだった。何を信じるか、どう解釈するか、宗教の教義を理解するのは難しい。
ラストのシーン。
臨終間近の母親に洗礼をしようと聖水を見せた時の、母親の眼光が一番怖かった。
さすがの巨匠(マエストロ)
本作公開週、GW狭間の平日サービスデイのヒューマントラストシネマ有楽町の午前回の客入りはまあまあで、全体的に年齢層高めです。
イタリアの巨匠マルコ・ベロッキオ作品と言うことですが、私は同監督の旧作を1作品しか観ていなかったため、予習として前日に追加で2作品を配信で鑑賞。結果として、そのうちの1作『シチリアーノ 裏切りの美学』は本作とフォーマットが似ていたため、いい予習になったと思います。
そもそも、1860年頃のイタリア(統一運動の終盤であり、大きな転換期)であったり、その当時における宗教の影響力など殆ど知識なく観ている私には非常に難しい題材。特に状況の理解が必要な前半は集中力が要りますが、中盤以降の展開はドラマチックで目が離せず楽しめます。というのも、本作、史実をもとに作られたとありますが、その背景としての当時イタリアにおける「地政学的事情」と「宗教(法)」を除けば、現代的にも置き換えられる普遍性があり全く特殊性や古さを感じません。さらに、そのドラマを惹きたてるファビオ・マッシモ・カポグロッソの劇伴がまた効果的で素晴らしい。世界観も含めて演劇でも楽しめると思える脚本と演出になっています。
正直に言えば、観る前はここまで楽しめるとは思っていませんでした。巨匠(マエストロ)、大変失礼いたしました。もっと勉強いたします。
カトリックの権威とは?
あのスティーブン・スピルバーグも映像化を試みようと資料を独占していたにも関わらず映像化は難しいと断念させたという難題をベロッキオ監督が実現させてしまったのが今作品である。
時は1858年(日本は安政5年=江戸時代)のイタリア・ボローニャ。ユダヤ人のエドガルドが7歳にも満たないときに、生まれたときに秘密裏にカトリックの洗礼を受けていたために、熱心なユダヤ教徒だった両親から引き離される形で連れ去られてしまう。
時はイタリア統一運動が盛んに行われる中でカトリックの権威でもあるバチカンの神威が次第に薄れゆく中で、意地としてでもバチカンの権力を見せつけたかったのでは?という内容。
結局モルターラ家に帰ることは許されず、洗脳されたエドガルドはカトリック司祭となり布教活動に生涯を捧げて終わりのエンドロール。
バチカンの闇は根深いとは云うが、当該作品もバチカンが権力を維持したいが為にお金を払ってまで洗礼を受けたことを理由に両親から引き離すのはあまりにも理不尽である。青年期を迎えたエドガルドが教皇ピウス9世に対して突き倒したのは今までの事に対する抵抗を示したかったのか、ピウス9世が他界して遺体を運ぶ際に反乱が起きたときでも川に突き落とせばと再び抵抗する姿勢を見せながらのカトリックという地獄から抜け出せなかった。
良い子にしていればという、あのセリフがあるのとないのとでは顛末は違っていたかもしれない。
2023年。マルコ・ベロッキオ監督。19世紀後半、カトリックの教皇...
2023年。マルコ・ベロッキオ監督。19世紀後半、カトリックの教皇が世俗権力(教皇領)をもっていたイタリアで、ユダヤ人の子どもがカトリックの洗礼を受けていたという訴えがあり、教会権力が少年を家族から引き離して連れ去ってしまう。教皇の元でカトリックの教育を受けて次第に厳格なクリスチャンになっていく少年と、少年を取り戻そうとするユダヤ人家族。やがて教皇の権力は縮小し、イタリアは世俗的に統一されていくのだが、、、という話。
政治方面(教皇、王国、共和派の三すくみの対立から国家統一へ)にはほとんど触れず、カトリック教会とユダヤ人家族の対立に焦点をしぼっている。その分、わかりやすいところもあれば、わかりにくいところもある。カトリックの「無謬性」に現代的な政治感覚でメスを入れているのだが、かたやユダヤ人の母親の頑なさもすごい。譲れない原則は人を不幸にするのだ。
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