枯れ葉のレビュー・感想・評価
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映画愛溢れる映画‼️
随所随所のラジオから
またカラオケバーから
流れる音楽が 心情を彩り
心に染みる素敵な作品です!
ゆっくりした時間を、味わいながら観れました!
自分の忙しさの中で、見落としている何かの大切さ に気づかせてくれました‼️
懐かしい恋愛物語なのですが‥
時代設定が現在らしい?のですが
いい意味で古くさくてレトロな雰囲気が魅力的です。
ストーリーはよくあるものですが、
あまりにもアナログ的な状況設定や
表情の変化があまり多くない役者さんの演技とか‥
良い意味で違和感があって逆に新鮮です。
気持ちが暖まるとても良い作品でした。
渋い色調の中に
色彩がとてもカラフルで綺麗なのと
メロディーが繰り返し頭の中から離れなくなる
不思議な音楽です。
とても個性的な印象の作品。
上映時間が短いのもいいです。
良い作品に出会えて嬉しいです。
やたらと喫煙と飲酒のシーンが多いです。
しかもめちゃくちゃうまそうなんです。
なので、断酒とか禁酒、禁煙されている方
我慢されている方には向きません。
アキ日和
台詞もアクションも尺も少ない、相変わらずミニマルな文体のアキ・カウリスマキの映画だ。
(“アキ・カウリスマキ”は以下“アキさん”と略。“ミカ・カウリスマキ”を“ミカさん”にすると、叶姉妹みたいだ。)
ラジオからロシアのウクライナ侵攻が伝えられるから現代の話なのだろうが、「竹田の子守唄」や「マンボ・イタリアーノ」が流れたりする不思議な世界。ロシアと1,300kmにわたり国境を接し、何度か占領された歴史も持つフィンランドにとっては、現在の切迫感は日本とは桁違いなのだろう。
映画館にはロベール・ブレッソンの「ラルジャン」やジャン=ピエール・メルヴィルの「仁義」のポスターが貼られていて、こちらも名画座だからなのかもしれないが、単なるアキさんの好みという気がしないでもない(寡黙な作風が共通する)。
主役の女性は、かつてならカティ・オウティネンが演じていた役どころだろう。マッティ・ペロンパー似の人物もいたので、もしやと思ったが、彼は既に1995年に亡くなっていた。合掌。
主役の二人が初めて会った時のまなざしのラリーが奥ゆかしい。アルコール中毒の心情にはあまり寄り添えなかった。フィンランドは世界幸福度ランキングで1位になっているけど、アキさんの作品ではあまり幸せそうな人は登場しない。
私が見た回はほぼ満員だった。上映回が少ないせいもあるだろうけど、アキさんの映画で映画館が満員になるなんて!とびっくりした。
p.s.アキさんの映画では「真夜中の虹」が一番好き。
大きな世界の小さな世界
《枯れ葉》
ラジオから流れてくるのはウクライナの戦況。あいまいな"大きな世界"の裏にはっきりと流れている"小さな世界"。ふとした出会い、風のいたずら、山程の吸い殻、新しい食器を揃える、そんな"小さな喜びやときめき"は誰にも止めることは出来ない。。
数字
ロシアがウクライナを侵攻して、死傷者がメディアによって数字で表現されても、人の一生は数字でなんか表現できない。失業した女、アル中の男。私の周りには人の数だけ物語がある。そして、そんな市井の人々の生活を壊す権利は誰にもない。そんな当たり前な静かな怒りを感じました。
独特な素朴と独特なユーモアと独特な間
とにかく余計なものを削ぎ落としたラブストーリー。今時、こんなにシンプルな映画があるなんて。
アキ・カウリスマキ監督作品が見せる素朴の表現と独特のユーモア、そして間。それはもうカウリスマキ節とでも表現するしかないのでしょう。多くを語らない登場人物たちに「なんでこんなに台詞がないの?」と思いますし、その台詞回しは半世紀以上前の映画作品のようです。
ただよくよく考えれば、我々の普段の生活で他の映画のようにベラベラ話す方が珍しいのだとも気付かされ、この作品のような会話こそ、人々の日常を捉えたカウリスマキ監督目線の際たるものと言える気がしてくるから不思議です。
シンプルゆえに美しいようでもあり、一方では物足りなさも感じてしまう、決して「古き良き」を描いているわけではないのですが、それを感じずにはいられない、そんな作品。
悲恋のままで良かったのでは?
最後まで結ばれない二人であって欲しかった。
私は始めてアキ・カウリスマキ監督の映画を見ました。私は数十年前からミニシアター系の映画も鑑賞していて何時かは、同監督の映画を見てみたいと思っていました。
同作品を鑑賞される方はビム・ベンダース監督さんの作品と比較しつつ鑑賞される方もいらっしゃるのではないでしょうか?
あまのじゃくの私からすると当作品の中で主人公、ヒロインの人生の厳しさ不条理さを見せつけられる中で最後ハッピーに終わると今までが何だったのかと思いました。
最後は結ばれないか別々のパートナーと結ばれる方が作品の重さに繋がるような気がしました。
当週に上映されていたビム・ベンダース監督の「PERFECTDAYS」の方が何も足さない何もひかない抑揚のない作品で印象に残った。
ユーモアが理解できなかった
これは観ているこちらの問題だが、監督のユーモアを理解する能力が欠けていたため静かに没入することができず、これはユーモアを理解すべきシーンなのだろうかなどとつまらないことを合間、合間に考えて集中が途切れるような状態になった。
穏やかで単調な作品だけに雑念に振り回されるとキツイ
もっと自然体で鑑賞できるようであれば良かったのに残念
ヘルシンキの普通の人々の暮らしぶりはしっかり感じ取れた
終始グイッと控えめなトーンでした。
鋳型でできたブタより劣る生き物
そんな量産型な男たち(フィンランドも日本も同じですね)を、厳しくもWカップでフィンランドが決勝に進んでブラジルと戦うことになるファンタジーの世界で救ってみせる、素晴らしい映画でした。
いい年したおじさんおばさんがもじもじしながら距離を縮めて、良くなろうと決意する瞬間、生活を淡々と送る強い意志、よく考えるとどうして映画になるのか?と思うようなことがしっかりと映画になっていて、とても幸せな時間でした。
アキ・カウリスマキ作品の中で携帯電話が出てくるのは新鮮?で、まぁささいな小道具にしか過ぎず、待つ時間の切なさ、会う瞬間の愛おしさが何よりも代え難いものだと改めて描かれていました。
ロシアとウクライナの戦争は隣国フィンランドでは日本にいる我々とは比較してないくらい切実なものであろうし、その中で生活をする、自暴自棄にならないでいこう、と強い意志も感じました。
素晴らしい。
極私的“小津派”四方山話
本作は個人的にはお気に入りの作品ですが、感想は特別に書きたいことも無いのでパスしようと思ったのですが、軽く映画の四方山話でもしておきます。
時代は1980年代後期から90年代にかけて、日本では(大都市圏において)ミニシアターがブームとなり、今までと違う配給形態でそれまでは映画専門家しか知らない様な、様々な国や映画作家の作品が一般の映画ファンにも見られるようになりました。
それにより世界の映画の様々な情報も入るようになり、逆に日本映画を海外の映画作家達がどのように捉えているのかの情報も入って来て、ヨーロッパやアジアの人々や映画作家がどんな日本映画を見ているのかなども情報も入ってきました。
そこでクローズアップされたのが、日本の巨匠と呼ばれている監督の中でも特に小津監督の信奉者が多いという事がありました。なので、逆に当時の日本人(特に若い映画ファン)に小津監督が再評価され、ちょっとした小津映画ブームにもなり、そういう私もそれまでに数本の小津作品しか見ていませんでしたが、あらためて見直した記憶が蘇ります。
アキ・カウリスマキ監督もそれで有名でしたが、多くの信奉者と言われる映画作家全てが小津作品の様な映画なのか?というとそれはまた全く別次元の話で、それぞれの思う小津的スタイルの影響を受けてはいるものの、独自のスタイルの確立こそにその真髄があると捉えていた様な気はしました。
特にカウリスマキ監督作品は独特で(この人の映画スタイルは唯一無二であり)、多くの日本人もこのスタイルは初体験だったと思います。私が最初に見た彼の作品は『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』だったと思いますが、最初は良さは分かりませんでしたね(苦笑)
分らないままに、何本か続けて見て行くうちに表現スタイルに慣れてくる。次に癖になり、次に面白くなって来る(良さが分かって来る)というなんか段階がある様なのです。
勿論、元々内包しているモノにそれなりの魅力がある監督に限られているのですが、それこそが“スタイルの確立”する重要な意味が隠されているのかも知れないと、この頃の多くの映画作家の作品を見た結果、そういう法則を感じてしまいました。そういう意味に於いて小津監督は唯一無二であり頂点だった様に思えます。
あと、カウリスマキに特に小津を感じてしまうののは、タイトルと物語ですかね。まあ、どちらも何本かは違いますが、小津作品にしてもカウリスマキ作品にしても、私はタイトルだけを聞いても直ぐにどの作品でどんな物語だったのか思い出せないのですが、見返すとシミジミと良い作品だと感じてしまっているのです。
例えば黒澤作品でタイトルと内容が一致しない作品なんてありませんからね。その辺り不思議なんですよね。どの作品も同じようなものだと感じながらも、見る度にどの作品にも感動してしまうという、小津信奉者の作品についてはその傾向を強く感じられます。本作『枯れ葉』もまさしくその通りの作品でしたねぇ。
しかし、黒澤派の様に思われがちのスコセッシなどにもその傾向が強く、ひょっとしたら実は小津派だったのかも知れません(笑)
引退を撤回してくれて、うれしい。
この映画では、中年に差し掛かった魅力的な女性アンサ(アルマ・ポウスティ)と、アルコール依存症の金属工ホラッパ(ユッシ・バタネン)が出会い、これ以上ないほど不器用に仲を深めようとする。かなり古風な二人は、60-70年代から、ファッション、小物(タバコ)、家の室内(ポータブルラジオ(真空管)や固定電話)、工場の内景(工具など)、風俗(カラオケ(日本の初期のそれにそっくり)、ジュークボックス)、古い電車やバス停までを伴って、PC・携帯(あのノキアの小型の)からスマホに変遷している現代に(時空を超えて)移行し、我々の課題でもあるロシアのウクライナ侵攻に直面する。ちょうど、アキ・カウリスマキ監督の「ル・アーヴルの靴みがき(2011年製作)」と同じ。
二つの時代を繋げているのは、映画と音楽。映画としては、2019年のゾンビ映画「デッド・ドント・ダイ」を二人で古い映画館で見る。でも映画館の外には、軽蔑(63)や、デヴィット・リーンの「逢びき」のポスターが貼ってあり、観客は、ヌーヴェル・ヴァーグに言及する。音楽としては、地元フィンランドのややノスタルジックなデュオ(マウステテュトット)、表題のフランスの「枯れ葉」、ロシアのチャイコフスキー「交響曲第6番・悲愴」、オーストリア・シューベルトの「セレナーデ」、日本の「竹田の子守唄」(「赤い鳥」が歌った関西フォークの原点の一つ)など。いずれも背景にピッタリはまって、間然とするところがなかった。おそらくカウリスマキは、映画や音楽の背景にある感性(感情)は、二つの時代に共通していて、しかも国際的にも普遍的と言いたいのだろう。
もう一つ気になったこと、ホラッパは、いくらアルコール(ウオッカのストレート)を飲んでも、顔色一つ変えない(日本人との違い)。彼らは、アルコールの代謝活性が高い。では、何故、依存症になるのか。彼は、アルコールが体内にないと元気が出ず、仕事に打ち込んだり、人に会ったりもできない。ただアルコールに強いので、すぐ代謝してしまい、長く身体に残らない。だから、ウオッカをいつも持ち歩いているだけでなく、いろんなところにおいて、仕事を始める前も、仕事中も、いつも飲む。では、彼の身体は結局どうなるのだろう。高いアルコール濃度に晒され続けると、臓器の障害がおきて、やがて腫瘍をつくる。アンサの兄や父のように。しかも、それと前後して、アルコールによる脳の障害が起きる。これが本当のアル中。ヨーロッパの街頭には、たくさんいる。
アンサの部屋での二人の食事は、質素だけれど、本当に好ましかった。ホラッパは、隣人にジャケットをもらって着込み、花束を買って訪ねる。アンサは、食事の材料と共に、一人分のお皿と、カトラリーも買った。食事では、スパークリング・ワインを食前酒に、アスパラガスの前菜と肉料理。彼は、アルコールが足りず、当然のように隠し持っていたボトルに口を付ける。それを見たアンサは兄と父のことを告げて、ホラッパを拒絶し、買ったばかりのお皿もお払い箱に。ホラッパが依存症を克服するためには、アンサによる強い拒絶が必要だったのだ。
カウリスマキは、ノスタルジーに浸っているわけではなく、過去から現在を見ている。シベリウスの「フィンランディア」の国が、ロシアの侵攻を許せるはずもない。しかし、過去から現在を見ることは、彼が貧しい労働者階級の出身だからできたのだろう。きっと、現在から未来も見えるのだと思うから、次の映画も作って欲しい。その根底には、昔も今も共通し、国をも超えた感性の流れがある。私たちはホラッパと違ってアルコールに弱く、従って手ひどい拒絶に会うこともないが、この映画から学ぶこともまた多かった。
独特のまどろっこしい恋愛ストーリー
アキ・カウリスマキ監督作を初めて鑑賞しました。
アンサもホラッパもすごく不器用でまどろっこしいのだけれど、
それがいい!と率直に思いました。
この独特な世界観というか空気感というか、これがカウリスマキ監督のなせるわざなのだろうと。
初デートでゾンビ映画を選ぶホラッパ、それを面白いと言ってくれるアンサ、ステキです。
大事な女性の電話番号をなくすホラッパ、お互いデートした映画館の前で姿を探すところが、実によいです。
ところどころ、ロシアとウクライナの戦争のラジオが流れます。
そしてカレンダーを見ると2024年。少し未來の話だったんですね。それでも戦争は続いているけれども、
そんな最中でも、ささやかな幸せ、ラブストーリーがここにあり、とても救われる気持ちになりました。
それから、フィンランドでサッカーが国民にすごく根付いたスポーツであることも微笑ましいですし、
独特のちょっとした笑いをところどころで入れてくるあたりも、ツボでした。
犬の名前がチャップリンかぁ。アンサは本当に映画好きな女性なのかもしれませんね。
ホッとできる作品。私は好きです。
またしても
斬新なポートレイトショットやこれでもかというハードな人物ライティング。そして配色センス抜群の衣装とセット。暗い内容なのになぜか少し明るい気分で鑑賞できてしまうアキカウリスマキ作品。
今回も堪能しました。
劇中に出てくるバンドのマウステテュトット(Maustetytöt)は、ヘルシンキ在住の姉妹デュオ。この楽曲も最高だぁ。
オフビート&ノスタルジック! 小津とブレッソンに捧げる、つましくささやかな恋愛映画。
そういや、僕が学生時代、アキ・カウリスマキといえば「オフビート」映画の代名詞みたいな言われようをしてたんだっけ。
今あらためて、パンフを開けてみると、気づく範囲ではどこにも「オフビート」の単語が見当たらない。
カウリスマキ作品の評価が変わったのか。
「オフビート」の語を使う際の「語感」が、時代にしたがって変化したのか。
それとも評価語としての「オフビート」自体が、もはや流行らなくなったのか。
なんとも面白いものだ。
僕の感覚からすれば、カウリスマキというのは若いころから、そう大きく芸風が変わったわけでもない。
だから、相も変わらず一番ピンとくる彼の映画を形容する言葉は、
そう、「オフビート」だ。
― ― ―
今回20年ぶりくらいにカウリスマキの新作を観て、思っていた以上に小津の影響が強いことを痛感した。彼の映画に漂う「オフビート」な感じの淵源も、7割方そこに由来するのではないだろうか(小津を観ても1ミクロンも「オフビート」とは思わないんだけど)。
左右に割り振られた二人が、交互に会話を交わす。
ぶっきらぼうな言い回しだが、まるでリアルではない。
リアルではないが、かといって演劇調でもない。
あえて棒読みで、機械的に吐き捨てるような口調。
つくりこんだネタ感の強い台詞が、一定のテンポで積み重ねられる。
ああ、この感覚は、まさに小津じゃないか。
「なにげない日常」を「映画」として「聖化」してしまう、
儀式的に繰り返される「下手なセリフ」の絶妙の異化効果。
カウリスマキのオフビートのベースには、「小津ビート」がある。
改めてそれを思い知らされた。
逆に、偏執的な独自のカメラワークで世界観を練り込んでゆく小津と違って、
カウリスマキの撮り方は、自然だし、無理がないし、クセがない。
クセはないけど、十分に個性的。
でも、そこで殊更の自己主張はしない。
(しいていえば、セザンヌかミレーの絵のように向き合ってディナーを食べる二人とか、直立不動で歌う女性デュオと、それを棒立ちで聴く観衆あたりに小津っぽさはあるかもしれないが、むしろその作為的だが静的なやり口はブレッソンに近いかも。映画館のシーンなどは『たぶん悪魔が』なんかを想起させるし。)
パンフレットに、アキ・カウリスマキの言葉が巻頭言として引用されている。
僕の感覚でいうと『枯れ葉』の本編以上に胸にささる面白い言い回しだったのだが、そこで彼はこんなことを言っている。
「この映画では、我が家の神様、ブレッソン、小津、チャップリンへ、私のいささか小さな帽子を脱いでささやかな敬意を捧げてみました。しかしそれが無残にも失敗したのは全てが私の責任です」
ブレッソン、小津、チャップリン。
ああ、なるほど。
この三つをうまい具合に混ぜ合わせると、
即物性と、儀式性と、笑いとペーソスが組み合わさって、
いわゆる「オフビート」なテイストが醸成されるんだな。
なんだかとても、得心がいった。
考えてみると、新年早々観たのがヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』。
次に観たのがアキ・カウリスマキの『枯れ葉』。
立て続けに海外の名だたる小津フォロワーの新作を観たというのは、なんだか不思議な縁を感じる。
なんといっても、昨年の12月12日に小津安二郎監督は生誕120年を迎えた。
今年は記念行事も目白押しだ。
それを寿ぐかのように、ヴェンダースとカウリスマキが、「自分なりの小津」をベースに映画をつくって、それらがまさに小津生誕のメモリアルイヤーに日本で封切られている。
かたや日本が舞台。キャストも日本人で、扱われているテーマ自体が日本人の美徳だ。
かたや最初に流れてくる音楽が、まさかの「竹田の子守唄」ときた(すげえなおい)。
粋な洋画を観ながら、小津の偉大さをかみしめる。
いやあ、最高にイカす追善供養じゃないですか。
― ― ―
僕はもともと一滴も酒を飲まないので、アルコール依存に関してはよくわからない。
タバコも昔は一日50本喫っていたが、30代で入院したときに2週間喫わなくてもまったく禁断症状がでなかったので、会社の机で喫えなくなったのを機にすぱっと辞めてしまった。
それ以来、喫いたいと思ったことは一度もない。
(逆に言うと、喫おうと思えばいつでも喫煙者に戻れるし、タバコの香りは大好きだ。)
なので、正直、主人公ホラッパの抱えている問題には、ほとんど共感するところがない。
ヒロインのアンサ(アンザと僕には聞こえたが、パンフに準拠しておく)のほうも、まあスーパーマーケットのルールを破ってバレたんだからクビはしょうがないね、という感じ。少なくとも店の上司は「感じが悪い」だけで別段「理不尽」ではないし、僕は必ずしも虐げられている側に共感しない性質なので(無条件にプロレタリアートに肩入れするスタンスには与しない)、ヒロインへの共感も薄い。
そもそも、僕は「一目惚れ」という現象に甚だ懐疑的で、そんなカラオケバーで出会っただけで恋に落ちられてもなあ、という印象が先に立ってしまった。
ただ、そういう設定上の「遠さ」以上に、
一部の「演出」が妙に古くさく感じられて、
それが観ているあいだずっと気になっていた。
たとえば、電話番号がポケットから落ちて風に吹かれて飛んでくとか。
ふたりの恋心がもりあがると、チャイコフスキーの「悲愴」が流れるとか。
歓びいさんでかけつけようとしたら、トラムに轢かれるとか。
突然、「ベタすぎて引く」ようなことを、しれっとかましてくる。
なんだろう、この違和感? そう思っていた。
で、映画を観終わってパンフを読むと、映画評論家の川口敦子さんが批評記事を書いていた。曰く、「が、名指しされた3人以上にこの最新作に響いているのはメロドラマ、とりわけ先の評伝でもその分野で『ブレッソンに挑み続けていた』と称えているダグラス・サークのそれではなかったか」。
なーるほど、さすがはプロの視点、まったく気が付かなかった。
ダグラス・サークか!!
同じパンフにある、本国で掲載された雑誌記事の転載を読むと、
「『枯れ葉』のインスピレーションは、デヴィッド・リーン監督の『逢びき』、ひいてはビリー・ワイルダー監督の『失われた週末』に触発されていて、これらはいずれも1945年の作品だ」とあって、カウリスマキと「ノスタルジー」の関係について深掘りしている。
こちらも、なるほどと膝を打つ内容。『逢びき』か、たしかに!!
要するに、ひとしきりアクションものばかり撮って来たアキ・カウリスマキは、彼にとっては新機軸になる「小さくてつましい恋愛映画」を撮るにあたって、あえて40~50年代のハリウッド製メロドラマを意識的に引用し、それを換骨奪胎しているわけだ。
だからこそ、二人の恋の始まりは妙に「突然」だし、恋心が高まると比較的「唐突」に「悲愴」の第一楽章第二主題がベッタベタに鳴り響くのだ。で、当然のように主人公は撥ねられて病院送りになると(笑)。
カウリスマキのなかで、恋愛映画とは「そういうものだから」。
つくづく、さくっと撮っているように見えて、実はいろいろと作為的だし、敬愛する過去作品に関する知識を総動員して創る、シネフィル的アプローチを決して手放さない人だ。
― ― ―
シネフィル的といえば、ふたりが初めてデートするシーンは、まさにオフビートで面白かった。
なぜ最初のデート・ムーヴィーが、よりによってジム・ジャームッシュのゾンビ映画なのか(笑)。『デッド・ドント・ダイ』は、一目見れば分かるとおり、ロメロの一連のゾンビ映画のパロディ映画であり、ジム・ジャームッシュは昔からのアキ・カウリスマキの盟友だ。
で、映画鑑賞後、オッサンたちがブレッソンの『田舎司祭』を彷彿とさせるとか、ゴダールの『はなればなれに』だろうとか、猛烈な知ったかのマウント合戦をかましている。
偶然、どちらも最近のリヴァイヴァルで僕も観ているが、ゾンビ映画を語る流れで出てくるようなタイトルでは断じてない(笑)。
昔から、カウリスマキにはこういう「自虐的」なところがある。
どこか微笑ましくて、無性に愛したくなるような、自虐。
それは間違いなくアキ・カウリスマキの本質の一部だ。
それと、デート・ムーヴィーとして『デッド・ドント・ダイ』を選ぶセンス自体はたしかにオフビートといっていいものだが、この映画の「ゾンビ襲来」という主題と、ラジオから流れるウクライナ侵攻のニュースが合わさることで、理不尽な暴力や衆愚化、全体主義の恐怖にさらされている現代の恋人たち、というシリアスなテーマもまた浮かび上がってくる。
そして、そのシリアスなテーマを敢えて「笑い」を交えて描こうとする精神においても、ジム・ジャームッシュとアキ・カウリスマキの間には、なにか通じるものがあるのかもしれない。
以下、観ていて感じたよしなしごとを箇条書きで。
●正直、序盤は主人公二人には共感しかねるし、なんの交流もないまま恋愛が始まるしで、あんまりピンとこないまま映画を観進めていたのだが、途中でヒロインのアンサが職場に迷い込んだ犬を飼い始めてからは、がぜん見やすくなったし、画面に躍動感が出て来たし、各シーンに退屈しなくなった。犬ってのは最高のにぎやかし要員だねえ。まあ、それは実生活でもそうだけど。
●古風な恋愛映画を現代風に改築して呈示しつつ、全編を通じてウクライナ侵攻のラジオを流し、現代の愚かな戦争を照射してみせる。ネタとしては十分理解できるし、監督の言によれば、まさにウクライナ侵攻があったからこそこの映画は生まれたのであって必然性も十分あるのだが、個人的には仕掛けがあざとすぎるというか、愚直なド直球の演出すぎて、Too much な感じがした。
●カラオケバーのシーンは最高。ここでも「意図的な日本的文物の引用」が、小津リスペクトがらみで敢行されている。微妙に変わった形で日本のカラオケバーのカルチャーが北欧では定着してるんだな(笑)。どこか「のど自慢」ぽいっていうか。
ちなみに僕は20代のころから、カラオケではフランク・シナトラとアンディ・ウイリアムズあたりを絶唱するタイプで、猛烈に学生仲間からは浮いていたのだが、こういうカラオケバーなら大歓迎だ。すげえ楽しそう。
●カラオケバーで主役の二人を完全に食っていた同僚のフオタリも最高。
外見からゲイだと信じ込んで観ていたら、なんと「強い熟女」マニアだったか……。
ちょっと指揮者のアレクサンダー・リープライヒのような風貌に、若干アスペっぽい怪しげな挙動と距離感のおかしさ。出番自体はそうたくさんないのに、強烈な印象を残すキャラクターだ。
ちなみに彼はカラオケで「バスバリトンだ」と自慢していて、たしかに声自体は良かったのだが、音程はまあまあひどかったように思う(もちろんわざとそう演出されている)。
そのあとシューベルトの『セレナーデ』を歌ったオヤジは、ふつうに上手い上にドイツ語原詞で歌っていて、こっちはまあまあ感じが悪かったように思う(笑)。
●とにかく印象的なのが、ファッションの随所に導入された赤、赤、赤。
最初はさすがはフィンランド、貧乏人でも赤着るんだなあ、お洒落なもんだと素直に思っていたが、考えてみるとこれ、「小津レッド」なんだな。『彼岸花』みたいな。
●個人的に、貧困層の労働者たちの苦難をリアルに描いたような映画にはたいして興味がないので、しょうじき初期の『労働三部作』に関しても、僕は良き観客だったとはいいがたかった。その点、今回の『枯れ葉』は、つくりものめいた恋愛ドラマが主軸になっていて、さらに深刻でシリアスな社会認識の割に、不思議と軽みと前向きな楽観性があることもあって、意外なくらい楽しく観ることができた。
「観たかったカウリスマキ」を観させてくれる
独特の色彩とノスタルジックな画面、印象的な歌と音楽、仏頂面の登場人物たちと最小限の台詞回しと、何から何までカウリスマキ印で、久しぶりに彼の新作を観られたということだけで幸せを感じてしまった。
ラジオからは、常にロシアによるウクライナ侵攻のニュースが流れ、どこか不穏な空気が漂っている。主人公の男女にしても、何度も職を失い、経済的にも、社会的にも、決して恵まれているとは言い難い。
そんな状況下で、運命のいたずらに翻弄され、すれ違いを繰り返す主人公たちの姿が、どこかトボけていて微笑ましいのも、カウリスマキらしくて嬉しくなる。
今回は、映画館が重要な舞台になっていて、カウリスマキの「映画愛」の一端が垣間見られるのも楽しい。
ラストで、「枯れ葉」のBGMが流れる中、枯れ葉の上を歩き去っていく2人と1匹の姿からは、ほのかな幸せと、そこはかとない希望が感じられ、「観たかったカウリスマキ」を観させてくれたという点において、満足のいく一作だった。
映画愛に心躍らせて
映画愛と驚きと感動の渦中へ!『TOVE/トーベ』でムーミンの作者として魅了したアルマ・ポウスティと、『アンノウン・ソルジャー 英雄なき戦場』での熱演が記憶に新しいユッシ・ヴァタネンが、カウリスマキの最新作で恋人役を熱演!名前も知らないまま恋に落ち、運命のいたずらを乗り越えようとする二人のストーリーは、まさに心躍るロマンスの極み。
アルマは現代女性の強さと脆さを、ユッシは憎めないダメ男の魅力を見事に表現。ウクライナの現実を織り交ぜたこの作品は、喜劇と悲劇が織りなす現代ラブストーリーの傑作。
また観たくなること間違いなし!🎥💫 #カウリスマキ新作 #アルマポウスティ #ユッシヴァタネン #映画愛 #ラブストーリー #現代映画 #映画レビュー #再観必至 #映画の夜 #ロマンス映画 #映画好きと繋がりたい
幸せはそれぞれ
人物は無機質な感じだが、背景や小物といった周囲はカラフル。
小ネタでくすっと笑わせる。
初デートがゾンビ映画、しかも、ジム・ジャームッシュのあれで、映画館から出てきた訳知り顔の観客のおっさんふたりが、昔の映画を持ち出して格調高く例えちゃって、ゾンビなのに! 「あんなに大量のゾンビがいて警官が勝てるわけ無いじゃん」(うろ覚えですがこんな意味)というアンサの感想に笑った。
映画館のポスターが昔の映画ばかりで、ここは街の名画座だろうか。
テレビもなく、スマホもない。連絡先の交換は、電話番号を手書きのメモの受け渡し。
ファッションからも労働環境からもいつの時代なのか伺えず、唯一分かるのが、ラジオから流れるロシアのウクライナ侵攻のニュース、ゼレンスキー大統領という言葉で、ようやく現代と分かる。
アンサは粉塵が舞う中マスクもせずに働いており、ホラッパの方も似たようなもので労働環境は良くないどころか悪い。ホラッパはその上アル中。ふたりとも短期で転職を繰り返す。いわゆる底辺労働者だが、それでも働いて自力で生活している。友だちもいるしカフェやバーによったり映画を見に行ったりはできる。不満も鬱屈もあるが、そこそこの日常がある。
若くないふたりだが、人生を悟って諦めているわけではなく、人任せでもなく、できる範囲で幸せを探している。
無機質だから人々の内面がわからないけど、よく考えたら人はそんなもので、表情があってもなくても、実は内面はその人本人だけものもで、表したいものだけを外に出す自由が、本人にはあるはず。お互いが相手を分かりたい、分からせたい気持ちが均衡が取れたら結構相性がいいんだと思う。
アンサが引き取った犬が、カラーリングがアンサに似ていて、コーディネートしたみたい。
これもなんかおかしみがある。
チャップリンってなんでかな。ふたりとも昔の映画が好きそうです。
アル中はそう簡単に克服できないようだけど、ふたりの今は、おそらく幸せだと思う。
大して面白いところはないが、味があって好きです。
普段観客が少ない映画館が、席の8割方が埋まっていた。
ここで両隣に人がいるなんて、と面食らいました。
「竹田の子守唄」って、しみじみいい曲ですね。
日本語じゃなくても心にしみしみします。
"Mambo Italiano"
独りより二人の方が良い、ラジオからは仕切りに今起きている戦争のリアルが悲惨な現実でありながら日常を生きる他国民には非現実的にも、寡黙な印象から徐々にズレた男でもあるホラッパの"結婚しかけた"なんて呆気に取られてしまうようなセリフを吐き、電話番号を書いたメモは紛失するし、どんな状況で轢かれたのやら、おまけにアル中で宿無し、とにかくタチが悪過ぎながらも粗野な感じは全くしない、ウィンクをするアンサが全てを掌で転がしているような、そんな余裕が垣間見れて彼女は幸せになれるかも、と、ホッとする瞬間にも思えたり!?
異彩を放つ存在感と不穏ながらも可愛らしい姉妹デュオであるマウステテュトッドの演奏シーンが物語と逸脱しているようで見事にハマっている世界観が素晴らしい、カウリスマキの新作を観てジャームッシュの『デッド・ドント・ダイ』が映る不思議な感覚、久々に観たい気分になったり、独りより二人でいる方が良いそんなシンプルな恋愛映画、どんな形でもその方が良い、それぞれで良いのだけれど。。。
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