関心領域のレビュー・感想・評価
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耳をすませよ!見えていない所こそ見よ!
冒頭からのスクリーンを覆う無地の画面に度肝を抜かれる。 演劇で言うところの暗転だ。 映画では暗転する必要も無い。 演劇では限られた舞台で大勢の戦士や殺された人を出すことはできないから、見せずにナレーションやセリフで描くことが多い。 できないからそういう演出で物語性を高め感動を導く。 しかし、映画ではどれだけたくさんの数の兵士でも殺される人でも、エキストラを使えば直接的に描くことはいくらでも出来る。 あえてそれをしない。 そしてこの映画ではセリフは全く重要では無い。むしろセリフ以外のガヤ音の中アウシュヴィッツの収容所の状況が微かに表現されていく。 ぼーっと観ていたら聞き逃す音にこそ自分の関心領域以外の世界がありそこを感じ取り想像することが大事なのだ。 故にセリフ以外の音をちゃんと聴けよ!と注意喚起の異音が所々で鳴る。観客にさあ、耳を研ぎ澄ませよと言わんばかりに。 無映像の色だけのシーンもそうだ。 その背景で残虐なことや悲しいことが起きていることをさあ!想像せよ!とばかりに色分けも不気味さを増す。 舞台装置を転換するための暗転とは訳が違う。観客の頭の中に「想像」のスイッチを入れるための時間だ。 さて、現代の平和ボケ日本にいる私の関心領域はどこにあるのか。 ほぼ妻と似たような大人の女性としての幸せに関心がある。子どものことや美しいドレスや花や家やまつ毛が確かに大事。 だけど、夫には夫の、娘には娘の、ベビーにはベビーの、使用人には使用人の関心領域がある。 他人の関心領域にも想像を膨らませよ! 他国の関心領域に想像を膨らませよ!物事は一面では描けない。 最近観た戦争の映画三本。 ゴジラ-1.0は極めて日本的キャラクターのゴジラを使った、ファンタジーの中の日本目線の戦時中の人間ドラマ。 オッペンハイマーは科学者目線でもあるが広島長崎の描写はセリフ二言だけでおおむねアメリカ目線。 無名は日本と国民党と共産党の二重スパイの話で中国目線で長期にわたる戦争を描いた。 これらは1本の映画につき、ひとつの国からの目線。 戦争ではなくとも複数の視点でひとつのものごとを描いているのは芥川龍之介の「藪の中」であり黒澤明の「羅城門」で、それぞれの言い分や目線をひとつの物語の中で描き、真実は藪の中だ。何が正義は読んだ者、観た者に委ねて終わる。 それも素晴らしかったが、そこまでだった。 でも関心領域はそれとはまた違う視点で五感で感じろと投げかけてくる。 今、自分の関心領域の外にあることにもっと耳を傾け、見えないところこそ想像せよと。 赤ちゃんは物心着いておらず泣き叫ぶ事で自分を表現する。関心領域はほぼ生理現象だ。 女は美しいものや家や生活がいちばん大切だ。 男は戦争に加担したり子どもにヘンゼルとグレーテルの物語を読んであげたり妻が単身赴任先に着いてこなかったものだから女を連れ込んだり。 娘はまだまだ女にはなっていない。物語の世界の中で生きている。女になる前、大人になる前の彼女にしか見えない少女世界がある。 幸せな暮らしを共有している家族でもこれだけ見ているものが違うと見せつけてくれる。 今この瞬間にも紛争は起きている。 後から振り返ったら第三次世界大戦は既に始まっていたなんてこともありうる。 見えていないこと聞こえていないことにも関心領域を広げたいと思わせてくれた。 アウシュヴィッツを何もリアルに見せずに嘔吐と無数の靴や清掃のシーンだけで全てを語ってくれた。 監督の視点に感服。 エンドロールも侮ることなかれ。異音にどんどんかぶさっていく人々の声。それがまさに「世界」だ! 答えはひとつではない。
企画倒れか
企画コンセプトは面白いが、戦況が悪くなってからもあの生活のままでは違和感があるので、ほんの一時を切り取った演出にすれば成立したのかも。 後半は「ヒトラーのための虐殺会議」みたいな内容で、夫婦のやり取りも邪魔にしか感じなかった。「希望の灯り」「落下の解剖学」のザンドラ・ヒューラーが見られてまあ満足。
私の関心領域って…
ほぼ予備知識なしで映画館へ。 アイヒマンの名が登場しましたね。何気に映画マニアの琴線に触れます。 妙にストーリーの流れが悪いと云うか、飛び飛び状態の映像になっているのは、やはり、この映画のタイトルが原因ですね。誰の関心領域を映像化しているかは、各自の判断に任せられているようです。良く言えば、御見物の想像力を掻き立てる。悪く言えば、不親切。どう思うかは、貴方しだいですけど。 ここで、事前にお断りしますが、私は、ある特定の思想を否定するつもりはありません。ただ、私の最近の関心領域から、コメントします。この映画、誰が、何のつもりで創ったのか分かりかねますが、かつて、世界一、非道い扱いをされたユダヤの民。今後、同じ轍を踏まない為には、あらゆる犠牲を厭わない。無関心な世界を敵に廻しても、全て排除する。モーセの教えのみが、選ばれし民の証なのだから。それ以外に関心はない。…と、考えているヒトのバックボーンになっているような…。 繰り返しますが、過去の出来事を否定するつもりはありません。ただ、過去の出来事が、傷つけ合うだけの未来を導くならば、それは、ちょっと…。 傷負い人が傷を癒すには、他者を傷つけるしか方法はないの?。だとすれば、新たに傷を負ったヒトは、どうすればいい?。 この映画に、罪があるわけではありませんが、今の私の関心領域から見える世界は、以上となります。 「アンネの追憶」 アンネの日記を映像化するには、憚れる描写があるので完全にはできないとのことですが、アンネの関心領域は、本作でご確認下さい。余力のある方は 「縞模様のパジャマの少年」 「サウルの息子」 「ハンナ・アーレント」 「パラダイス・ナウ」 「オマールの壁」 をどうぞ。皆様の、領域展開の手助けになると思われます。 追記 やはり、私の関心領域は、映画の外みたい。先日、ネット記事を拾い読み。ユダヤの迫害と言えばナチスドイツと思いきや、それ以前から、キリスト教圏では、多かれ少なかれ、迫害があったらしい。イスラエル建国に、欧米が強く関与したのは、言葉選ばずに言えば、厄介払いの側面が、見え隠れするとのこと。 キリスト教圏の関心領域。ユダヤの関心領域。数千年にわたり、その地に暮らすパレスチナの関心領域。その全てが、1つの地域に集約された結果が、絶望的なテロと殺戮でしかないとすれば、私達の関心は、何処に向かえばいいの?。 希望のともしびが、憎しみの業火に呑み込まれる様を、見ているしかないのかな。
無関心の恐ろしさ
「こんなんマトモやない!」 劇場の明かりが灯った後に思うた感想です。それほどまでに、今まで観てきた映画とは違う斬新な衝撃を受けました。 ストーリーの舞台は、第二次世界大戦中のアウシュヴィッツ強制収容所。そこの所長は、あろうことか収容所の真横になかなか豪華な家を構え生活している。所長の妻は言う、「望む以上の生活を手に入れた」と。子供たち共々と仲睦まじい生活を送る家族。しかしある日所長に対し、“転属”が言い渡される。今までの功績による栄転なのだが、理想以上の生活をこの家で得た妻は強く反対する・・・てな感じです。 ・・・すでにおかしいと思うんです。アウシュヴィッツの隣にある家での生活が理想以上のものであり、しかもそこで暮らすだれしもが“当たり前”と感じて日常を送っているなんて。隣では大虐殺が行われてる施設があるというのに。 しかし、それをこの家族が(所長は“仕事”なので別だが)その現場を見ることはない。だって収容所の周りをそこそこ高い塀が囲っている。だから見ることはない、が、 音は届いてくる。 ブォーンという不気味な、怒号や悲鳴が混じっているのか、ただの風なのか、しかしよくわからない音・・・。それだけは届き、観ながら塀の中では何が起こっているのか嫌でも気になり、想像してしまう。 ここが自分の中では斬新な衝撃ポイント。本作は音、それも“環境音”に工夫を凝らすことで、見えているモノ(=塀の外)と見えていないモノ(=塀の中)を併せて不協和な感じを作り出していると思うのです。ゆえに本作は不気味なんです。 不気味さはそれだけではない。意外と所長の顔がよくわかるシーンが少ない。ロングショットで何を考えているかわからないような、それとも感情をなくしたのかと感じてしまう。所長の妻は喜怒哀楽をきっちり表すが、所々で真面目な顔でマトモな内容やない会話を素でやっている。そして子供たちは、隣で何が起きているが、程度の差こそあれ薄々気づいているような。しかし結局全員が、「何かが起こっている」ことを感じ取りながら、それに対し興味を感じていない。 無関心ほど恐ろしいことはない。 無関心は、いつしか人を人と思わなくなってしまう。だってどうでもいいんやから。見捨てることに躊躇いなんてものはない。そして見捨てられたモノは消滅を待つだけ。これを人間に当てはめて行われたとしたら、恐ろしくないでしょうか。要は「いじめを気にしない」ようなものか。どんなけ酷い事が起きてようともどうでもいいんやから。無関心は必ず悪い方へ加勢する。本作はそれに対する警鐘を鳴らしていると思うんです。 無関心は最悪の事態を招くと・・・。 “音”と“無関心”で穏やか且つ強力な“不気味”さを醸し出している本作。自分は今まで戦争やホロコーストを題材にした作品を多く見ているが、本作のような雰囲気を持った作品を知らない。
知ってもいるし、聞こえてもいるのに
目に見える暴力は全く描かれないのだが、だからこそ壁の向こうで起きていることに想像力が向いていく。 知っていながら、聞こえていながら関心を持とうとしないことの暴力は、実はこの家族も蝕んでいるのだけれど、「関心」から最も遠い妻はそれにすら気づいていない。 幸せな家族の団欒も青春の思い出も全てこの場所で起きているということが本当にグロテスク。 そして世界は実はそういうものなのだ。
★2024年劇場鑑賞48★
いつも前情報ゼロで映画に行く自分だが今回ばかりは失敗した。 なんとなくの怖さはわかるけど「なんのこっちゃ」で見てしまった、、。 あとから色々見てゾゾゾっと震えた。 これはもう一回映画館で見ないといけない映画だ。
企画の段階で勝利確定。
少々の知識が有るとさらに楽しめるのはこの手の映画の常。この当時のナチスのユダヤ人殲滅作戦の様子は最近作だと「ヒトラーのための虐殺会議」という映画がわかりやすいかなと。 本作は悪名高きアウシュビッツに隣接する収容所長ルドルフ ヘス(総統代理とは別人)のオシャレ家とステキ家族を描く事によって塀の向こうで起きている大量殺人を全く描かずに音で想像させる仕掛けです。実際のアウシュビッツの隣で撮影され、家の中に沢山の固定カメラを仕掛け客観的切り取りと、編集によるテンポ感を両立させています。オープニングタイトル出てすぐの長い暗転、ゆっくり鳥の声と家族の声が聞こえて来る部分は「本作は耳を使って観るように」というインストラクション導入ですね。 話の中盤まではあまり前に出て来ない収容所内の音だけど時々怒鳴り声や銃声は聞こえる。言葉わかるともっと怖かったろうなぁ。母さんも帰ってしまうような場所だもの。 あと所長家族が何気にユダヤ人から没収した物を、自然におもちゃ、私物化してるシーンがおそろい。カナダとか川に流した灰とか、服とか貴金属、銀歯とか、、パンフに説明あっただろうか?売り切れて買えなかった。(後日入手、カナダの説明はなかった。ユダヤ人から没収した物集積所、豊かな国=カナダ) 難癖つけるとするとネガポジ反転した夜の使用人のシーン、赤外線カメラで撮ったようなあのエフェクトは必要だったのかな?(これについてはパンフで監督の意図がインタビューされてた。納得はしたがやはり要らん気がする) でもエンディングのあのぶっ飛ばし方は好きだなぁ。 奥様役のザンドラヒュラーは「落下の法則」もあり、当たり年であった。マーベルやDC、ディズニーからも声かかるだろうww。ティルダ様のようにエンタメとアートを行き来出来る俳優になると楽しいなぁ。
「関心」を持たせない、と言う圧力
自由を奪われ、強制的に収容所に連れて来られた罪なきユダヤ人のことを「荷」と語る。就学以上の子供達は生まれながらにして壁の向こうでの出来事を知るのだろう。乳飲み子が泣き続けるのはお腹が空いている訳じゃない、この圧を感じていたのだろう。 ふと、「縞模様のパジャマの少年」と言う作品を思い出した。「関心」を持ったことによって、思いもよらない歯車に乗ってしまうストーリーだ。 自分はアウシュヴィッツ収容所の跡地へ2回行ったことがあるが、衝撃的過ぎて涙が止まらなかった。真実から目を逸らしてはいけない、耳を塞いではいけない。
見ているうちに激しい嫌悪感に襲われる、醜悪な傑作
人間の負の側面、悲惨な歴史が、他人事のように平静に淡々と描かれ、見ているうちに激しい嫌悪感や吐き気に襲われる、醜悪な秀作…傑作でした。 現代社会では有り得ないのだろうと思いつつ、未だ世界の何処かで同じような事が繰り返されているのではと考えると悲しくなります。 アウシュヴィッツ収容所、いつか訪れてみたいなぁ。
私たちの関心領域
アウシュビッツに隣接するお屋敷で幸せに暮らす所長家族。 塀の向こうからは、はうめき声、悲鳴、発砲音が聞こえてくる。煙突から昇り立つ煙を背景に、別世界のように花が咲き誇る美しい庭のプールで遊ぶ子どもたち。なかなかシュールな光景だが、本人たちはまるで聞こえてない・見えてないかのようにステキな暮らしが続いていく。 映画館では、聴覚と視覚から否応でも入ってくる虐殺の証拠が鮮明に身に迫り、寒気がする。 塀をひとつ隔てた先では人を人とも思わない大虐殺が行われているのに、女たちも略奪した毛皮を我が物のように真顔で試着し、歯磨き粉から出てきたダイヤについて、ゲームの戦利品のように笑いながら雑談のネタにする。 ホロコーストの加害者は男だけでなく、女も積極的に片棒を担いでいた有り様が描かれる。 彼らにとって、ユダヤ人はどこか汚らわしい物であった様子もさりげなく描かれていた。 私は特に妻が恐ろしかった。家族のこと、見える範囲で起こる出来事については、現代の私たちと同じように悩み、感情を動かす。夫の転勤の際には、言うに事欠いて、ここに住み続けたいと主張するのだ。塀の向こうではジェノサイドが行われているというのに。 最後に時を超えて、過去のホロコーストが展示されている現代が映し出される。 展開が唐突にも感じたが、現代と切り離された過去ではなく、地続きの物語であることを突きつけられた気がした。強烈なメッセージを感じた。私たちも見ないように・聞こえないようにしていることがあるのではないか、と。 他人事にせず、関心領域に入れて考える。沈黙して何もしないことは、そのものが自らが選択したアクションであることを忘れずに生きていきたい。
淡々とした恐ろしさ
収容所に隣接した司令官の邸宅。エリートである夫と、望みの棲家を手に入れた妻と、子どもたち。家族の生活を淡々と描く映像の背景には隔てる壁と煙突が映り込み、不快で異様な音が付きまとう。 断片的な匂わせはあるが説明はなく、具体的な絵は出てこない。家族の会話にもほとんど出てこないが、夫の司令官だけでなく、妻も何が起きているかは分かっているように見える。妻の関心は理想の家と自分の幸せと子供達のみ。普通の家族描写ならありがちなそれが、壁の向こうの出来事を知っている私たちには歪で醜悪に映る。 こういう描き方があるんだな…という作品でした。
まさしく映画館で見るべき映画
正直ストーリーはどうでも良いのよ。 パパが転勤しようがママがヒステリックだろうが…ほんでそれだけだと正直つまんなかったです。 でも誰でも知ってるあの収容所の隣で、BGMが…人の声で構成されてて…たまに不穏な発破音が…という緊張感が集中力を支えてくれてあっという間の2時間でした。 お家で他のこと出来ちゃう、聞き逃しちゃう声や音がある、ような状況で見たところでつまらなかった一点のみの感想になるだろうなと思います。 怖いし良くできてるが、視聴者は全員アウシュビッツのことを熟知してるだろうという前提で作られていますね。 日本だろうが何処だろうが義務教育レベルの歴史的出来事ではありますが、教科書だけの知識の方はアンネ・フランクの伝記だけでも読んでから視聴した方が良い。 なるほどね…今500に…体の"荷"が焼かれているわけね…ってなれて緊張感が増しますよ(泣)
人の意識が生み出した「無関心領域」
言葉もない。 恐ろしいホラー映画。 冒頭から異様。 なにもない画面のみを延々見せられたと思ったら次は「赤」など単色だけの静止画面をまた延々見せられる。切れ間なく流れるBGMのような重低音が不穏で神経を逆なでする。家族のピクニックや夫婦の寝室での会話など、なんでもないようなひとつのシーンが意味ありげに延々と続く。 最初から作為的にホラー要素で満ち満ちて、不穏で不安で不安定な気分に浸りながら映画をみることになる。 塀を隔てた向こう側での阿鼻叫喚は、当然、隣接する楽園のような所長一家の公邸にもダダ漏れ 一家の日常を捉えた同じ画面には、塀の向こうの常にオレンジの炎が上がり排煙を吐く収容所の煙突がもれなく映り込む 収容所から来る「臭い」だって相当なものがあるはず 客観的には、ぎょっとする異様な場所だ。 まともな人なら長居はできないだろう それなのに、所長であるヘスの家族はそこで何を気にするでもなく、何人ものポーランド人使用人に傅かれて優雅で楽しげに暮らしている。 ヘスの妻など、自分が作り上げた夢の庭園が自慢でしかたないし、裕福で強い立場の自身が誇らしい。呼び寄せた母がノイローゼになって逃げ帰っても、感じるのは自分が作った自慢のおうちを母に拒絶されたことに対する怒りで、使用人に八つ当たりさえする。逃げ出して当然のこの家の異様さにまったく思いがいかない。 ありえない鈍感さ。無関心にもほどがある。 私にはそれが、ある部分を意識的に意識から排除したような不自然な鈍感さ、無関心、に見える。 私の実家は、田んぼに囲まれた住宅地で夏になると蛙の声がものすごい。 帰省するとバスを降りた途端にカエルの大合唱に迎えられて実家を感じるが、歩いて家につく頃にはすっかり「聞こえなくなる」。ダンナが泊まりに来て「ものすごい蛙の声で眠れないかも」と言うので、そうだった、と思うと途端に聞こえてくる。ヒトの聴覚は聞きたくないものは聞こえなくなるようだ。なので、ある程度所長一家の「鈍感さ」はわからなくもないが、感覚は聴覚だけではない。視覚も、嗅覚もあるし、人には想像力があるはず ヘス一家の小さい女の子だけは子どもの勘からか、塀の向こうで行われていることに薄々気づいているよう。度々悪夢に怯え、煙突の炎と煙が、父が枕元で読んでくれるヘンゼルとグレーテルの結末の、「魔女はかまどで生きたまま焼かれた」に繋がっているよう。 怯えている娘に父親はなんでこんなホラーな絵本を読んであげるのか。 「悪者がかまどで焼かれる」と教育的に刷り込んでいるのでは、と思った。 たくさんの「悪者」が、毎日塀の向こうの炎と煙の見える煙突の「かまど」で焼かれている、(良い子のお前は心配しなくて良い)悪者だから懲らしめられて当然なんだよ、と。 そう考えたらゾッとした。 「ヒトラーのための虐殺会議」で思い知ったが、ナチスにとってユダヤ人は人ではない。例えるなら「害虫」または「害獣」。利用できれば利用し、最終的に殲滅を目指すのは正義にほかならない。元はヒトラーの意向を忖度したことのようだが、それが一糸乱れぬナチス・ドイツの徹底した全体主義により「宗教の教義化」し、信じ込んで疑いを挟む余地のないものになっていたことに戦慄する。 ヘスの妻は夫を厚遇する(=妻自身の地位も)ナチス・ドイツに寄り、良き信奉者でいるべく身も心も教義に忠実に振る舞おうとしているようだ。 その結果、おそらく無意識に「ユダヤ人が自分たちと変わらないニンゲンである」事実を頭から締め出して、しょせん害虫のことだから、と不自然な無関心ができてしまったように見える。 映画として視覚、聴覚に訴える演出で雰囲気を煽るが、 ニンゲンが自らの意識の操作でここまで人間性をなくせること、そしてそうさせたのはおそらく集団の狂気であること、が最大のホラーだった。 追記: ホラー演出はあるものの、基本的にはアウシュビッツ収容所の塀を隔てた隣に住む所長一家の日常を淡々と描くだけ、音も背景も客観的に聞こえる通り見える通り、まんまをフラットに見聞きさせるだけ。説明や解説もなく観客には不親切極まりない作り。 それが逆に異様さを際立たせ、観客は諸々想像で補って自分の頭で考えざるを得なくなり、放棄するか考え込むかのどちらかになるでしょう。 私は多分、製作者の術中にはまったと思います。 世にもおぞましいものを観ましたが、観たことに後悔してません。
斬新な手法でアウシュビッツでの地獄を浮き彫りに
冒頭のクレジットから異様なインパクトだ。暗闇と叫びにも似たサウンド。アウシュビッツ強制収容所の隣で暮らすナチス一家。美しい邸宅だが昼夜関係なくすごい「音」が聞こえてくる。悲鳴、怒声、重機の音、銃声。塀のなかは映し出されないが私たちはそこでの地獄を知っている。だからこの「音」から中の出来事が想像できてしまう。平然と暮らす一家とこの「音」の対比がすさまじい。それがずっと続く。そのうち自分も塀の中の地獄を無視しているかのような錯覚になる。示唆的な演出が秀逸。人間性の崩壊。あらためてナチスによる暴挙が浮き彫りにされる。緊張しっぱなしのニ時間。この恐怖のサウンドは映画館でないと伝わらない。忘れることができない圧倒的な映画だった。
彼はルドルフ・ヘースでありヘスではない
ナチスの優生思想そのままのアウシュビッツで暮らすエリート将校とその妻と子供達との平和で豊かな暮らしのすぐ隣で日常的に繰り広げられる虐殺。 ヨーロッパの人たちは、そもそもが血塗られてるから自分たち以外の国は奪って犯して殺す。奴らに根こそぎ葬られた民族なんて沢山ありすぎて数えきれないし、原始時代そのままのアイデンティティで近世から現代まで来ちゃってるから表向き文明的に見えても中身は野蛮人で遺伝子レベルの差別主義者。そんなイギリスとアメリカが中心となって謀略と戦争で支えてきたこの仕組みは今現在も続いてるし平和になる気配すらないのも頷けるよね。 強制収容所で亡くなったとされる600万人(!)は単なる数字ではなく、ひとつひとつの大切な命なのにそれをイメージさせるのは機関車の音と叫び声と煙突から上がり続ける煙だけだし、挙げ句の果てに会議では悪びれる様子もなくこれから人数が増えるから気張って行けやお前ら的なセリフもあるしで、さすが人を人と思わない人達のやることは見てて意味分かんないから本当に恐ろしい。実際東京大空襲だって原爆だって沖縄戦だって全てジェノサイドだし仕掛けられた側としては欧米人の自分たち以外の幸せは我々の不幸だから全部奪うし所詮犬以下だから無関心のままで居られるし自分たちのことにしか関心がないんですよ精神には甚だ呆れちゃうわよね。主人公が犬を可愛がるシーンを時々挟んで来るのはそういう意図なんだろうな。 とは言え観てるあなたもこの映画観てて眠くなるでしょ、人々がわかり合って平和な世界を作ることに対する興味の持続って本当に大変なんだぜ、平和大事!ナチスひどい!戦争反対!ってその時だけ思っても持続していくのは大変なんだぜって言われてる気がして思考が止まってしまった。 果たして人間は本当に平等で平和な世界など作ることができるのだろうか?って考える人を増やすための映画であり、アウシュビッツはテーマでしかないのだろうって思った。 ところでユダヤ人ってユダヤ教信者ってだけで明確な民族的な特徴ってないんだよね…外見じゃなく信仰で分けられる感じも日本人にはさっぱりわかんないよね。 ちなみにデデデも同じテーマなのは興味深い。
映画「アシスタント」と比較すべき
「ホロコースト映画」は毎年何本も公開される。 (今のところ、本作とアンソニー・ホプキンス主演の「ONE LIFE」だ) だが本作は単なるホロコースト映画ではなく「現代」を描いた作品でもある。 昨年「アシスタント」を見た。 Hワインスタイン事件をモチーフに、エンタメ業界におけるセクハラ、それに慣れていくことを描いた作品。 本作を見て、その「アシスタント」に似てる、と思った。 どちらもホロコースト、セクハラという「直接の描写」はない。 (映画は「省略の芸術」と言われるが、観客に「想像」させることができれば、描く必要はない) どちらも「日常」になっていくことの「恐怖」を描いている。 本作の描写、つまり、壁1枚隔てた向こう側から、叫び声、銃声が聞こえる中で、子育てや、庭いじりといった「日常」が描かれる。 これは「特異な状況だから起きたこと」と言い切れるだろうか? 学校や職場で、イジメ、パワハラ、セクハラを見て見ぬふりをしたことは、誰しも一度くらいあるのでは? (極端であるが)それは本作の所長夫婦とどう違うのか? 映画「アシスタント」と見比べることで、本作「関心領域」が特殊事例でなく、「現代」を描いた作品であることがより理解できると思う。
関心領域…
改めてこの題名にゾッとする。 鑑賞前に感想を読んでいって良かった。 映画チックなドラマ展開を変に期待せず鑑賞することにより、この映画の恐怖感を思う存分味わえた。 塀で隔てこちら(所長の家)側はメルヘンな夢の国、あちら側は強制収容所という名の地獄。 遠くに聞こえる轟音、カラッと晴れた青空に似つかわしくない戦闘機。 絶えず聞こえる断末魔、阿鼻叫喚、銃弾、鼻をつく臭い等々、関心がなくても感じないわけがない。 狂った世界はどちらなのか。 ドイツ人の妻にとって機関車で運ばれてくる荷物がどうなろうと知ったこっちゃないが、荷物の荷物には興味がある。 最初、りんごを埋める少女は何の象徴なのか?と思いきや、所長の家で働くお手伝いさん(=ユダヤ人?)の少女なのか?それとも単に近所の少女? 強制労働させられている収容所の人々が作業中にこっそり食べらるよう作業場にこっそり食べ物を置いている彼女にとっては人間の生死が最大な関心ごと。 ものすごい対比。 これ現実だったんですよねぇ…吐き気がする。
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